城郭・史跡,島根

【島根県・浜田市 2024.7.31】浜田城の歴史はそれほど古くはありません。伊勢国松阪藩の吉田某が、大坂の陣のあと徳川氏主導の報奨をふくめた国替えにより5万余石で入封し、石見国浜田藩主となると同時に城づくりをはじめます。その後は、本多氏、松平氏など徳川将軍家と関係のふかい武将が入れ替わり藩主をつとめます。おそらく大幅な減封を強いられたことで徳川家に恨みをもつ毛利氏への山陰側の抑えの意味もあったのでしょう。江戸時代の毛利氏・長州藩は萩に居城をかまえており、その長州藩と隣接し萩を山側から見下ろす位置にある石見国津和野にはやはり徳川家と昵懇の亀井氏を藩主として配しているので納得できます。幕末になると長州藩は倒幕をかかげて武装蜂起しますが、案の定京都をめざす過程で浜田城を攻撃の第一目標にします。ここで激戦があり浜田城を死守する浜田藩兵の奮戦により長州軍は足止めを食い... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,島根

【島根県・大田市 2024.7.31】石見銀山は2007年に世界遺産に登録されています。その登録理由は、石見銀山世界遺産センターによると、①「16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響」②「銀生産の考古学的証拠が良好な状態で保存されている」③「銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたる鉱山活動の総体を留める」②と③については現地を見て歩けば確認できるはずですが、①については資料をさがしながら考えてみたいと思います。 ①でいう16世紀から17世紀初頭ですが、守護大名の山内氏と戦国大名の尼子氏が出雲を中心に中国地方の覇権を争っていたのが1530年~1550年代、毛利氏が石見銀山の奪取もふくめて尼子氏を制圧したのが1560年代、信長の家臣として秀吉が中国攻めをおこなっていたのが1580年前後、そして関白となり事実上の天下人になったのは1585年、関ヶ原の戦いが1600年で家康が江戸幕府をひらいたのが1603年。こうしてみてくると、①でいう時期はまさに風雲急を告げる戦国時代にぴったり合致します。この間石見銀山の支配者も、山内氏→尼子氏→毛利氏→豊臣氏→徳川氏と目まぐるしく入れ替わります。それだけ石見銀山に魅力すなわち価値があったわけで、石見銀山を占有すれば莫大な富がもたらされたということでしょう。いかに戦国の武将たちがこの石見銀山を喉から手が出るほど欲していたかを示す例、それも露骨な例をひとつあげておきます。家康は関ヶ原で勝利しますが、この勝利は徳川方が親豊臣方に1勝したというだけで大坂城には豊臣秀頼は健在です。それにもかかわらず家康は豊臣家の一家老の立場のまま朱印状をだして石見銀山への出入りを禁制します、しかも関ヶ原で勝利したわずか10日後のこと。そして1ヶ月後には人を遣ってこの石見銀山を毛利氏から接収してしまいます。 石見銀山をあるく 観光案内所駐車場にあるジオラマ 石見銀山を見て歩くには、観光案内所前でうけつけているワンコインガイド(ひとり500円均一)に参加することをおすすめします。個人でも回れますが、限られた時間内で得られる情報量がまったくちがいます。なおこのツアーでは、ジオラマの左平坦地から谷沿いに右端の山間部まであるき、そこで坑道に入ります。 車も走れる舗装道と並行する遊歩道を歩きます 寺院跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,島根

【島根県・仁多郡奥出雲町 2024.7.30】 出雲駅近くでレンタカーを借り、カーナビで「三沢城」を目的地に指定したところ距離にして40km、時間にして1時間30分と表示されました。出雲市街は東西とくに東にながく拡がっており、南へ走るとじきに田園風景にかわります。田園風景はやがて山間部にはいり、信号も渋滞もなく50分ほどで三沢城に到着しました。山並みは低山ばかりで秘境にきたという印象はありませんが、集落がたまにあるだけでいかにも山深くに入ってきたと実感しました。ちなみに一帯ではスマホのネットは繋がらず難儀しました。 三沢城 登城口にあった案内板より抜粋 鎌倉時代に当時の武家政権の総領である北条義時にたいして、朝廷側の後鳥羽天皇が勅命で軍を起こしたのが承久の乱です。この承久の乱ですが、朝廷側の敗北におわり後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます。いっぽうの北条氏はそれまで朝廷の領地であった主に西日本一帯に息のかかった武家を配し、力を拡大してゆきます。このときあらたに領地をあたえられ守護管理のために赴いたものを新補地頭とよび、それ以前からいた本補地頭と区別します。 登城口にあった縄張図より抜粋 信濃国の豪族である飯島為光は、承久の乱における戦功で新補地頭として奥出雲の地に赴きます。為光としてはとんでもないところへ行かされると悲嘆したかというとさにあらず、この地は当時から砂鉄が採取されており、いわゆるタタラ製鉄法で(当時としては)良質な鉄を生産し、領地経営の基盤を築きます。そして一帯をみわたせる鴨倉山(別名、要害山)に城を築きます。三沢城の名は、この地がむかしから三沢と呼ばれていたこと、また為光も当時の慣習にしたがって飯島から三沢と氏をあらためていたことによります。 登城 ここは当時から登城道だったようです 大手口とつたわる地には石垣がのこる 二ノ丸に達しました 登ってきた道を見下ろす 本丸下曲輪 堀切 主郭部 本丸 本丸から見わたす 本丸曲輪の側面はふかく削られている 本丸と鳥居丸をしきる堀切 鳥居丸 土塁跡 巨大な切岸... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・豊橋市、田原市 2024.7.26】青春18きっぷをつかって今回も遠方まで足を伸ばそうと欲張り、愛知県の豊橋まできました。天気予報を仔細に見ていると、東海地方では名古屋、浜松が突出して高温にみまわれる土地柄のようで、理由はわかりませんがその間にある豊橋はいくぶん日々の最高気温が低めのようです。とはいっても、やはり暑い、なによりも湿気がひどい、もちろん熱中症警戒アラートは発令されています。 JR豊橋駅から日傘をさして吉田城のある豊橋公園まで歩きました。 吉田城 豊川をはさんで吉田城鉄櫓をみる 復元された鉄櫓(くろがねやぐら) 石垣が残る雰囲気の良い場所 木立越しに鉄櫓を見上げる 本丸曲輪へ上がる 本丸をまもる石垣 部分的に立派な石垣が残る 本丸曲輪隅にたつ鉄櫓 鉄櫓上からの眺め... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・郡上市 2024.7.21】青春18きっぷが使える季節になったので、かねてよりリストアップしていた郡上八幡城を訪ねることにしました。大阪市内を7時10分に出発して岐阜駅まで3時間、距離にすれば3/4を消化しているのでここまでは順調と言えます。ここから高山線に乗り換えるのですが、東海道線にくらべて便数が極端に減るためしばし待ち時間があります。その時間に岐阜駅前広場に出て織田信長の黄金像をスマホで撮影していたのですが、ここで内陸にある岐阜がいかに暑いかを実感。さて岐阜駅から多治見行に乗って美濃太田駅に着きましたが、ここからは私鉄の長良川鉄道に乗り換えるため青春18きっぷは使えません。1380円でチケットを買い車両に乗り込みますが、暑すぎるのか冷房があまり効かない。ワンマン電車なので運転士自ら応急処置として途中の駅で車両にホースで水をかける作業をはじめたものの水の勢いが弱すぎて屋根まで届かずこれも断念。全身に汗を浮かせながら1時間15分後に郡上八幡駅着。ここから市街地までは2kmほど、ぜんぜん歩ける距離ですが、あまりにも暑いので20分後に出るコミュニティバス(乗車賃100円均一)に乗り、13時25分やっとのこと郡上八幡城のふもとにたどり着きました。 郡上八幡城 山内一豊と妻の像... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岡山

【岡山県・備前市 2024.7.4】月に1回程度のペースで倉敷市に私用で出向くのですが、往路は午前の早い時間についておく必要があるため新幹線で向かいます。ところがたいていの場合は正午過ぎには要件は片づくため、そのまままっすぐ自宅のある大阪へ戻るのももったいないような気がして、大抵は普通電車を乗り継いでどこか城なり社寺なりに寄り道することにしています。ただ今日は梅雨の晴れ間でなんとも蒸し暑いので、あまり長時間歩き回ると熱中症の心配もあります。そこで地図で確認しながら調べたところ、JRの山陽本線で倉敷から大阪方面へと向かい岡山県の東の端、その先は兵庫県との県境というところに三石城があるのですが、詳しく見ると最寄りの三石駅からは目と鼻の先であることがわかりました。標高291mの山上にある山城ということですが、すぐに山道に入れるのであれば木陰になり土の地面であれば放射熱もなく、さすがに快適ではないものの苦行のようなことはないはずです。 結果を先に言うことになりますが、ぜひ行きたいと探したのではなくどちらかと言うと消極的な理由でえらんだ三石城でしたが、訪ねてみるとこれがなかなかの収穫でした。 登山道をのぼる 三石城がある城山 JR三石駅から登山口(登城口)までは徒歩5分。かつて城が存在した山は、その山そのものが有名でないかぎり大抵は城山と名づけられており、ここも例外ではありません。 いきなり山登りになります 木陰で地面は土ゆえそれほど暑くはない 息つぎ井戸の札があるが、井戸の痕跡なし 岩が多いというのも山城をつくりやすい条件です 岩だらけの道をのぼる 見張り台からはいまは樹木に覆われ視界きかず 山肌が岩だらけでまるで播磨(播州)の山を登っているようなと思っていたのですが、考えてみるとすぐ東の先の県境をこえると備前から播磨へつながるのですから、地質が似ているのも当然でした。 樹間からわずかに見下ろせた このあたりは山登りにきたかのようです 三石城は南北朝時代に地元の豪族である伊藤某が南朝方に加勢し築いたのが始まりのようです。その伊藤某はここ三石城を拠点に西から京へと攻め寄せる北朝勢をくい止めるのに一役買ったそうですが、ここから20㎞ほど東にある播磨の感状山城では北朝方に加勢した赤松氏が、敗れていったんは九州へ落ちのびる足利尊氏の軍勢を援けるため、その感状山城で東から追撃してくる南朝勢をくい止めた歴史があります。 室町時代になり赤松氏が備前の守護職につくと、浦上氏が守護代として三石城に入城。その後山名氏の台頭により赤松氏が備前の守護の地位を奪われますが、応仁の乱のどさくさの中でふたたび守護職に復帰、同時に浦上氏も守護代に復帰します。しかし赤松氏の勢力には陰りが見えはじめており、下剋上をもくろむ浦上氏が反乱の狼煙をあげます。赤松氏は三石城を攻めますが落とせず、ついには浦上氏が備前の守護職につくことになります。 三石城の当時のイメージ図(本丸に立てられていた案内板より抜粋) イラストでいうとその右側から登ってきました。これから三ノ丸→二ノ丸→本丸→鶯丸とあるき、そこから堀沿いにくだって本丸の真下に描かれた大手門へと向かうことにします。※そのあとですが、大手門から下へ降りる道はどこへ抜けるのか不明なため、坂をのぼって三ノ丸まで戻り来た道をひき返しました。 三ノ丸から二ノ丸へ 三の丸へと登ってゆくと突然石垣が 三ノ丸隅にあったであろう矢倉台跡の石垣 三ノ丸下の馬場跡 三ノ丸外縁の土塁跡、外(右)側は切岸で急こう配にしてある 一段高くなった二ノ丸へ 二ノ丸... Read More | Share it now!

城郭・史跡,埼玉,福岡

【埼玉県・行田市 2024.5.25】埼玉県の北部、行田市に忍城(おしじょう)はあります。和田竜氏の小説「のぼうの城」の舞台になった城でもありますが、この小説は主人公の城主がたいへん個性的(のぼうとは、でくのぼうの略)に描かれている点を除けば、どこかコミカルなストーリながらなかなか史実には忠実に描かれています。※野村萬斎さんが主役を演じた映画は見ていないのでこちらとは比較できません。 忍城は利根川と荒川にはさまれた一帯に、自然の池や沼を活かし、さらに川から水をひいてあらたに堀をつくり、徹底して水を利用して防御をかためた、成田氏が室町時代につくりあげた独創的な城でした。室町から戦国時代にかけていくども攻められますが、いちども落城せず。圧巻は戦国時代末期、豊臣秀吉が関東平定(北条征伐)のため10万とも20万ともいわれる大軍で関東平野へと押寄せてきます。そのとき忍城は北条氏の出城のような役をになっており、城主・成田氏親(小説では成田長親)は城兵500に近在の農民を助っ人として3千ほどの人数で籠城していました。武士の数わずかに500なら捨ておけばよいようなものですが、景気づけの意味もあったのか、秀吉の命により石田三成が2万の軍勢を与えられ早速落としてしまう算段になります。(これといった武功のない文官あがりの三成に手柄をたてさせるため秀吉が発案したとも考えられます)三成は忍城が堀や沼にかこまれた難攻な城であることから、水攻めを採用します。一説では総延長28kmにおよぶ堤をつくったといいますが、これはずいぶん数値が水攻めだけに水増しされているようです。しかし近辺の土地の高低差とふたつの河川の水を利用して忍城を水でかこんだのは事実で、その様子は城がまるで水面に浮いていうようで「浮き城」と記録されています。しかし忍城は落ちません。とうとう主たる北条氏の小田原城がさきに落ちてしまい、主を失ったがために開城してこの水による攻城戦はおわります。 忍城 現在の地図上に当時の忍城の縄張をかさねた案内図 忍城については、その城の独創性、攻め側の総大将が石田三成であったこと、「のぼうの城」の舞台になったことなどから、訪ねる日を楽しみにしていたのですが、実際に来てみるとほとんどなにも残っておらず、トホホな思いだけでした。強いて言えば、近くにある観光案内所が親切で荷物を無料で預かってくれたこと、このあとにさほど期待せず訪れた埼玉古墳群が想定外に良かったこと、行田市にデザインマンホールがたくさんあったこと、これらで救われました。 本丸跡にたつ御三階櫓(復元?模擬?)と水堀 水堀... Read More | Share it now!

城郭・史跡,群馬

【群馬県・高崎市 2024.5.24】群馬県高崎市とはいっても市街地からはずれた旧群馬郡箕郷町に、箕輪城址はあります。箕輪城ですが、関東管領・上杉氏の家臣であった長野業政(なりまさ)によりつくられた城のようです。業政は相模から勢力を拡大する北条氏が台頭し上杉氏の威勢が衰えてくると、西上野(こうずけ)の領主としての矜持を保つかのごとく孤軍となっても勢い盛んな北条氏に抵抗しつづけます。すると西からは武田信玄が迫ってきます。ところがあの信玄さえも攻めあぐね幾度も仕切り直しすることになります。それほど抵抗が続けられたのはなんといっても箕輪城の堅い守り、そして長野業政の武勇と武略のたまものだったのでしょう。それを(皮肉にも)証すかのように、業政が死ぬと城内ではその死を秘匿していたにもかかわらず武田軍は得意の諜報で事実をつかみ、周辺の調略もあわせてひたひたと侵攻し、ついには難攻不落といわれた箕輪城を落としてしまいます。この箕輪城、険峻な山上にあるわけでもなく、こんもり盛り上がった丘状にあるいわゆる平山城です。なぜそれほど難攻不落なのか、訪ねてみることにしました。 大堀切 駐車場にあった案内板から抜粋 搦手馬出をぬけて登城します 両側の土塁がくずれていますが、堀底を歩いています。 木俣曲輪あたり 大堀切にまもられた郭馬出... Read More | Share it now!

城郭・史跡,栃木

【栃木県・佐野市 2024.5.23】栃木県の南西部に佐野市があり、そこに唐沢山城はあります。室町~戦国時代の地理でいうと、太平洋側の相模と日本海側の越後の中間点あたりに位置します。この地理的条件が佐野の地、すなわち唐沢山城の運命を翻弄することになります。そしてその激震する時代をなんとか綱渡りのように乗り切ったのが、佐野家15代当主の佐野昌綱です。戦国時代初期のちに北条早雲とよばれる伊勢宗瑞が伊豆・相模を領有します。その息子である2代目氏綱、さらに孫にあたる3代目氏康ともに勢力拡大につとめ、ついには鎌倉から関東一帯を席巻してゆきます。当時の関東管領を世襲していたのは上杉氏ですが、とうてい北条氏の侵略を食い止めることはできず、そのころ越後において百戦百勝、軍神とさえ畏怖されていた長尾景虎に支援を求めます。現実には支援を求めるという以上に、景虎を上杉家の養子とし関東管領職を譲り渡し、ここに景虎は関東管領・上杉景虎(のちの上杉謙信)をなのり、その威名によって一説には坂東武者10万を糾合、南から浸食してくる北条氏を撃退します。この戦においては佐野昌綱はほかの坂東武者同様に上杉景虎に従っています。 唐沢山城・西城 くい違い虎口 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!