【長野県・小諸市 2024.11.7】小諸城は以前からあった小城を武田信玄が奪い信濃地方進出の橋頭保とするため山本勘助に命じて縄張りをさせあらたに造り直したもの、と伝えられています。どうじに同じくらい多くの書籍やウェブサイトで山本勘助は小諸城の縄張りにまったく関わっていない、と書いています。両者ともに多数の意見があるので、真相はよくわかりません。わからないけれどわからんままに訪ねてみることにしました。 小諸城は穴の底にある 大手門... Read More | Share it now!
真田の郷を訪ねる、まずは砥石城
【長野県・上田市... Read More | Share it now!
武田の海津城は真田の松代城へと移りかわる
【長野市 2024.11.6】 武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。山本勘助についてはその実存さえ疑う意見もありますが、信玄が謙信との戦闘を有利に進めるためここに城を築いたことは事実で、もっともはげしい戦いとなる第四次川中島合戦では武田軍がいったんはこの城に入って戦端をひらく機会をうかがったと記録されています。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。しかし信濃の地というのは国衆とよばれる地元の小勢力が、武田氏や上杉氏ら戦国大名に従属しながらも自立して群雄割拠するところで、たいへん統治の難しい土地だったようです。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田昌幸の長男、信繁=幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 二ノ丸南門から入る 二ノ丸南門から本丸入口・太鼓門をのぞむ 現地の案内板から抜粋 二ノ丸南門からつづく土塁 堀越しに太鼓門をみる 堀に隔てられた本丸全体を西側から そして東側から見る 二ノ丸 二ノ丸 二ノ丸の外周をまもる巨大な土塁 土塁上から二ノ丸、本丸の石垣をみる その北側(土塁の外側) 徳川家康と、豊臣家の永続をねがう石田三成との間で風雲急をつげついに大合戦(関ケ原合戦)が始まろうとしたとき、真田家では父子3人のあいだで家族会議がもたれます。徳川につくか豊臣(石田)につくか。このときどちらが勝者になっても真田家が生き残れるよう父子でふたつに分かれたとされていますが、もうすこし事情があります。長男信之は家康から高く評価されており、家康自身が重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女としたうえで正室に娶らせていました。一方の次男信繁(幸村は後世につけられた名で、本人は名乗っていません)の正室は大谷吉継の娘・竹林院。これだけなら長男は徳川へ、次男は豊臣へと容易に察しがつきます。それではなぜ父昌幸は次男とともに豊臣に従ったのでしょうか。 本丸 太鼓門から本丸へ 本丸に入ってすぐ太鼓門を真横から見る 本丸をまもる石垣 天守台 天守台上より本丸を見下ろす 天守台より西側を見る後方の山が第四次川中島合戦のさい謙信が布陣した妻女山 ここからは個人的な想像です。真田昌幸はその武略の才だけでいえば信玄や謙信に劣らなかったと思います。しかし昌幸は天下どころか信濃を支配することすら望まず、出身地の村とその周辺の数郡を安定して占有することに専心します。自分には軍才はあっても自力で大大名になるほどの大器ではないと悟っていたのでしょうか。同時に並外れた軍才をもつゆえに、このたびの合戦では徳川が勝利することも見通していたかもしれません。兄の信之は文武に優れているだけでなく性格も実直で、いわゆる出来のよい優等生タイプです。きっと信之が(勝利するであろう)徳川についておけば、その家臣となって末永く真田家を残してくれると計算したことでしょう。都合のよいことに信之は徳川家と縁戚関係を結んでいるのですから、おまえだけは徳川につけと言われて嫌というはずがありません。 これで真田家の存続は保証されたようなものです。真田家の当主として生き残るために武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と主君をつぎつぎに変え、表裏比興(ひょうりひきょう)のものとそしられながら生き抜いてきました。いまこそ誰のためでもなく強いて言えば自分自身の冥途の土産がわりに、一世一代の大戦をやってやろうではないか、そのためには(勝利するであろう)徳川に一泡吹かせてやろうか、そんなことをおもい不敵な笑みを浮かべたに違いありません。 北不明門 北不明門を抜けて 本丸から出るとはじめに歩いた二ノ丸へ戻れます 徳川家康は関東から上方(関ヶ原)にむかうに際して従える10万の軍勢を二手にわけ、元豊臣方の武将たちはまとめて東海道を西進させ、徳川本隊は嫡男の秀忠の指揮のもと中山道を西へと行軍します。ところが中山道の途上では上田城にたてこもる真田昌幸・信繁父子が待ちかまえていました。秀忠と徳川本隊3万7千、たいする真田勢わずか3千。ところが昌幸の巧妙な戦略と信繁の果敢な挑発に翻弄され、徳川の大軍勢は事もあろうに関ヶ原合戦に遅参するという大失態をおかしてしまいます。 長国寺 松代城近くにある真田(信之)家菩提寺・長国寺 一方の信之ですが、冒頭でも書いたように関ヶ原合戦ののち加増転封されて松代城へ入城。その後は明治維新まで10代にわたって領主として存続し、さらに維新後も華族に叙せられ名門真田家として生きつづけます。 【料金】松代城城郭、長国寺境内のみは無料【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
長野の山城でローテクな石垣に出合って感動する
【長野市、千曲市 2024.11.6】日本で最初に本格的な石垣を用いた城は、六角氏が近江の地につくらせた観音寺城といわれています。その築城時期は14~15世紀。ところが推定11~12世紀に技術の上ではずいぶん初歩的ではあるものの、単なる石積みではなく十分に石垣とよべる築造をなした山城が信濃で複数つくられており、しかもずいぶん良好な状態で残っていることをネットの情報で知りました。※ところが、さらに調べるうちにわかったことは、石垣は築城後数百年もたってから改築の際につくられようです。残念。 霞城 最初に訪ねるのは長野市松代町にのこる霞城、当時このあたりに勢力をもっていた大室氏の居城として造られたもののようです。 「永福寺」を目印に集落の奥まで入る ここに到るまでの道は幅狭でコンパクトカーでなければ入れません。また画像の右側は駐車スペースですが前日の雨でぬかるみひどい状態でした。 石塔のたつ道を登りはじめると、 すぐに岩が迫ってきます 山に岩が多いというより、山全体が岩という印象 堀切が残っていました 石垣 2段構えの石垣が見てきました 主郭部分全体を巻くように石垣がつづく ごぼう積みの石垣... Read More | Share it now!
1年ぶりに訪れた出石城から有子山城へのぼる
【兵庫県・豊岡市 2024.10.21】昨年夏に出石の街を訪れた際にはまず名産の出石蕎麦をたべて腹ごしらえし、出石城を見学しました。その出石城の裏手からさらに山道をのぼって背後にそびえる有子山の山上の城を見に行くつもりだったのですが、その日はたしか最高気温が37度に達する猛暑日で、急峻な坂道を目の前につぎの一歩が踏み出せず断念。それ以後忘れていたわけではありませんが、再訪はのびのびになっていました。 きっかけは些細な記事です。天空の城として全国にしられる竹田城を築いたのが山名家の全盛期をきずいた山名持豊(宗全)ですが、その持豊から5代あとの祐豊(すけとよ)は此隅山(このすみやま)城を本拠にしていたものの織田信長の下ではたらく秀吉に攻められ降伏、その後信長の許しをえてあらたに有子山城を築きます。その有子山ですが、落城した此隅山城が「子盗み」を連想させて縁起が悪いので、もとは別の名だった山を「有り子」山と名づけたのだとか。真偽のほどはわかりませんが、「そうだ、出石へ有子山城を見にいこう」と思い立つ発端にはなりました。 出石城から 出石城入口... Read More | Share it now!
天空の城・竹田城は雲海が見られなくても大満足
【兵庫県・朝来市 2024.10.21】鎌倉時代から清和源氏を先祖として歴史に名をつらねる山名氏は室町時代に全盛期をむかえます。山名兄弟で全国66ヶ国のうち山陰から丹後一帯の11か国を守護領国とし、そのため「六分の一殿」と呼ばれています。応仁の乱といえば足利義政や日野富子が主役の将軍家の後継争いが中心に取り上げられますが、そもそもの発端は細川勝元と山名宗全の幕府内における勢力争いが引き金になっています。その山名宗全、これは出家後の名で、諱(いみな)は足利4代将軍義持の一字を賜り、持豊。このひとが但馬の守護であったときに播磨の赤松氏にそなえて国境に築いたのが竹田城です。 竹田城といえば天空の城、雲海に浮かぶ城、あまりにもビジュアル面が有名であり、縁あってこのブログを見てくださっている方にとっても城の歴史はどうでもええわ、が本音かもしれませんのでさっそく見学に向かいましょう。 山上の竹田城 朝7時前 秋の竹田城といえば雲海があまりにも有名です。ネット等で調べたところ夜明けから8時ごろまでがチャンスとのことなので、7時前に着くよう早起きして来てみましたが、雲は左端のほうにわずかに見られるのみ。これは今年の秋の異常にたかい気温のため霧が発生しにくい、あるいは夜明けごろには見られてもすぐに気温が上がるため早々に消滅してしまうようです。今年のように高温がつづく秋には、見頃は11月も後半からと考えた方がよいのでしょうか。 古城山の山頂に竹田城の石垣がみえる日差で空が青くひろがる7時半頃から登城開始 表米神社から登ることにします 丸太階段道をえんえんと登る 以前(10年ぐらい前)に訪れたときにはJR竹田駅の裏から出発する道を登ったので、今回は500mほど南西にある表米神社から登る道をえらびました。結論からいうと、これはオススメできません。ふだん山登りに親しんでいない人にとっては、「修行に来たんとちゃうでぇ」と一声あげたくなることでしょう。 竹田城 縄張図を見かけたので掲載します 縄張としての竹田城の特徴をいうと、中心に本丸があり、北と南に両翼のように曲輪がのびて端がともにひろい千畳曲輪になっていること。山麓の駅裏から登っても表米神社からでもいったんは同じところにたどり着きます。そこが料金所になっています。料金所からは登り専用道があり北千畳よこにたどりつきます。そして城跡を縦走するようにあるいて南千畳から下ると、料金所から50mほど離れた場所に下りてきます。そこから駅裏へ下るのも表米神社へ下りるのも可能です。 北曲輪群 城郭が見えてきました 城内へ 桝形虎口になった大手門 大手門をあがって振り返る 二ノ丸から三の丸方向をみる 天守台方向をみる 北二ノ丸、三の丸をみる 南曲輪と天守台をみる 南曲輪群 天守台 天守台から南曲輪群を見わたす 天守台と周辺 南二ノ丸から天守台と北曲輪群の石垣をみる このあたりの石垣の石はきれいに削られ、 このあたりの石は粗く、築かれた時代が早い 下城する 駅裏道は九十九折りで歩きやすい 気持ち良さげな東屋がありました 駅裏は城下町の風情をのこす 寺院越しに山上の城郭をのぞむ 【アクセス】JR竹田駅より登城口はすぐ、登城口から城まで徒歩30~40分【入城料】500円【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!
細川ガラシャが幽閉されていた三土野をたずねる
【京都府・宮津市 2024.10.20】まず細川家の説明から始めます。細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。ここには明らかに歪みがあります。義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。 一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。それから4年後、本能寺の変。もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。 宮津 宮津市内にたつガラシャの像 忠興は玉を心底愛していました。しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。 宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。 山上から天橋立をみる 天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。 忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。 三土野へ 本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。 棚田のひろがる山里 ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。とにかく車でたどり着くのさえ大変です。 なんとか三土野に着きました 大滝... Read More | Share it now!
関ケ原の合戦は仁義なきウチワモメだった?
【岐阜県・関ケ原町 2024.10.10】関ヶ原の合戦については、徳川家康率いる東軍と豊臣家を代表する石田三成率いる西軍が天下をわけて争ったというイメージがあるのですが、調べればしらべるほど違和感を覚えてしまいます。まずこの争いについては敵対する者同士が領土の取り合いをするといった戦国時代特有の戦ではなく、豊臣家の中での主導権をめぐる、いうなれば内輪揉めであると捉えた方がしっくりきます。 秀吉による豪奢な城づくりをはじめとした放逸な散財、あるいは意図の理解できない朝鮮出兵などの愚政に庶民だけでなく武人たちもほとほと嫌気がさしていました。それに取って代わろうとした家康。家康が天下をおさめた結果として生まれた江戸幕府が、大きな争乱もなく260余年にわたって太平な時代をつむいで行けたのは、ひとえに家康のビジョンが優れていたからでしょう。 関ヶ原の合戦を前にして、豊臣派であった多くの武将たちが家康に従うようになります。しかし家康がえがく将来の日本の姿に共感した、なんて者はひとりもいなかったのではないでしょうか。大半の武将はわが家(いえ)の存続のため豊臣方と徳川方とどちらが勝ちそうか天秤にかけた上でのこと。あるいは石田三成憎しの私怨で突っ走った者。ただ一人だけ家康の器量を認めたうえで、(豊臣政権を倒すかどうかは別にして)家康がトップに立って国政を取り仕切るべきと考えていた、と思われる武将がいます。それが石田三成に従い獅子奮迅の活躍をする大谷吉継であるのは皮肉すぎますが。 豊臣家の面々はどうなのかと見ると、北政所ねね(高台院)はどちらかというと三成よりも家康のほうに傾いていたようです。淀君と秀頼、一般には淀君が近江の生まれのため三成をはじめ近江衆と懇親であったと言われていますが、関ヶ原合戦の前後に淀君がいわゆる西軍のためになんらかの助成をしたかというとまったくその痕跡はありません。そうなると、西軍vs東軍とは豊臣方vs徳川方だったのかその構図さえ怪しくなってきます。 そもそも石田三成は、秀吉亡きあと秀頼をたてて豊臣政権を末永くつづけていこうと考えていたとして、どのような国づくりをするか明確なビジョンがあったのでしょうか。三成があれほど嫌われたのは本人の横柄な性格にくわえて、秀吉がおこなった悪政をそのまま取り仕切る代官であり、ほかの武将としては恩義のある秀吉には向けられない怒りの矛先を三成に集中させていたとも考えられます。 この関ヶ原へは今年の夏に訪れる予定だったのですが、あまりにも暑い日々がつづくため10月も半ば近くになってやっと腰をあげました。その間にもさらに下調べをすすめたため準備万端、いざ出発です。 ◆話の展開をわかりやすくするため、今回は歩いた順ではなく故意に並べ替えをしています。 毛利秀元、吉川広家 合戦がはじまる直前の陣形 赤で記された「東軍」のやや後方・桃配山に徳川家康が布陣しています。そのさらに後方の南宮山には黒で「傍観軍」と記された吉川広家をはじめ秀元率いる毛利家の本隊が控えています。 そもそも寝返ったのは吉川広家、そして毛利本隊を説得して山上にとどめ置き、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親は西軍に味方していましたが、毛利の大軍が居座るため動くに動けなかったようです。 桃配山の家康の陣跡 後方の山並みが南宮山、その手前麓に桃配山 南宮山の手前にひろがる平地一帯に東軍の軍勢が陣取っていました。その後方に家康が本陣をかまえること自体に不自然さはないのですが、そびえる南宮山には毛利の大軍がいます。吉川広家の寝返りは確実だったものの、家康としては毛利秀元がどう動くかは最後まで確信できずにいたと伝わっています。しかしこの陣形をみれば秀元の寝返りも確信していたと考えるべきです。家康としては吉川だけでなく毛利も100%内応しており、南宮山山上から自分に襲いかかってくることは200%ないと信じていたからこそあの場所に陣を敷いたのでしょう。 毛利氏が徳川方に寝返ったのは、一にも二にも御家存続のためです。ところが家康の剛腕のまえには抗うすべもなく、関ヶ原後毛利氏は120万石から30万石に減封されたうえ、本州の西の端の長門・周防へ押しやられます。関ヶ原合戦で一番の貧乏くじをひいたのは毛利氏かもしれません。◆毛利氏はこのときの恨みを二百数十年忘れず、幕末には長州藩みずから先頭に立って江戸幕府(徳川幕府)をたおすため決起するのですが、それはのちの話。 黒田長政 黒田長政が布陣した丸山 黒田長政は、秀吉に天下を取らせた男といわれた黒田官兵衛の息子で、まさにあの親にしてこの子あり、たくみな人心掌握により秀吉子飼いの武将たちを次々に徳川方に引きこみます。父親の官兵衛(このときは剃髪後で如水と号す)が秀吉と一心同体のごとくであったにもかかわらずなぜ家康にすり寄ったのか。そもそもが石田三成とは反目しており、さらに親は親とわりきっていざ情勢を俯瞰したところおのずと家康に傾いたということでしょう。関ヶ原合戦後は、豊前中津12.5万石から筑前52万石の大名に大抜擢されています。 ◆黒田長政はなかなか恨み深い性格だったようです。官兵衛が幼少時から育てた家臣の後藤基次(又兵衛)とそりが合わずついには又兵衛が出奔してしまいます。又兵衛は武勇名高く仕官先には事欠かなかったのですが、長政がこのもの召し抱えることならずと全国に布告したため(これを奉公構という)又兵衛はその後浪人生活をおくるしかなく、それがゆえに大坂の陣では招かれて豊臣方につくことになります。 細川忠興 細川忠興の陣跡... Read More | Share it now!
宇陀松山城は織田信雄と無関係ではないけれど
【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!
飯道山は古社に修験場、宮跡も見れて楽しみがいっぱい
【滋賀県・甲賀市 2024.9.23】今日は滋賀県の甲賀にある飯道山に登ります。飯道山は山として登ることそのものには飛びぬけて魅力があるわけでもないのですが、山頂付近はかつて修験者のための修験場であり、かつ甲賀忍者の修練の場でもあったところで、いまは飯道神社として古色蒼然とした社殿が残っています。また今回は水口側(貴生川駅)からアプローチしますが、下山した信楽側には紫香楽宮跡がのこり歴史を堪能できます。紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が造営した離宮で、発掘調査の結果いまは寺院らしきものの痕跡が広範囲にわたって見られます。 水口町を歩いて三大寺登山口へ 杣川越しに飯道山(左奥)をのぞむ ところではじめに言っておきますと、飯道山登山は山登り重視で考えるなら水口から信楽へ歩くのがお薦めですが、歴史見分を主とするのであれば逆ルートの方がフィットすると思います。 飯道山へ 登山口からしばらく整備された道を歩く この先あたりからやっと山道らしくなる 山道はずっと歩きやすい 左羅坂も注意して歩けば問題なし 杖の権現茶屋休憩所... Read More | Share it now!