街歩き・山歩き,城郭・史跡,鳥取

【鳥取県・東伯郡湯梨浜町 2025.3.1】鳥取県は東西に長細い地形ですが、ちょうど中央あたりの日本海寄りに東郷池があります。最寄りの駅はJR松崎駅、そこから内陸にむかって1時間余り歩くと羽衣石うえし山に着きます。その山腹には天女が舞い降りて羽衣をそこに掛け水浴びをしたとの伝説がのこる羽衣石はごろもいしがあります。羽衣石の伝説から羽衣石うえし山の名がのこり、その山上に築かれた城ゆえ羽衣石うえし城と呼ばれることになったのでしょう。 羽衣石城は南北朝時代の出雲の守護・塩治高貞の次男・南条貞宗が築城し、この貞宗がのちに伯耆一円の有力国人として名をのこす南条氏の始祖とされています。南条氏はこの羽衣石城を拠点にして主に東伯耆の支配をはかりますが、戦国時代になると山陰地方の各地がそうであったように尼子氏、大内氏、毛利氏、織田氏が入り乱れ、幾たびかの攻防の末に最期は南条氏が属する関ヶ原の戦いで西軍が敗れたために廃城、230年の歴史に幕を引きます。 羽衣石山にむかって 歩くのは公道ですが、車はほとんど走っていません 中央の盛り上がった山が羽衣石山 羽衣石山をのぼる 中腹まで車で上がれます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,鳥取

【鳥取市 2025.2.27】鳥取駅から北東に5kmほどのところに、いまでは駅周辺の中心街よりもむしろ開けた感のある湖山の街があります。家内の実家がこの湖山にあるのですが、家内が里帰りしている期間中に私も訪ねることにしました。じつはこの家にはほぼ人間と同等にくらす犬犬がいます。私が訪ねるおもな目的はこの犬犬の世話ということになります。 ケンタ・柴 ソウタ・豆柴 湖山池について 犬犬と湖山池を散歩する 家内の実家から300mほどのところに湖山池があります。周囲18kmの、池と呼ばれるものの中では日本でもっとも大きな湖沼です。この湖山池をあるいて一周するのも今回の目標のひとつでした。天気もよいので今日こそと考えていたのですが、犬犬の日頃の運動量からして散歩がてらに一周歩かせるのはとても無理だろうということで、残念ながら犬犬はいったん家にもどし、ひとりで歩くことにします。 湖山池公園オアシスパークをあるく 池中央右寄りに青島が見える いったん公道に出ます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・堺市~大阪狭山市 2025.1.20】行基上人は正真正銘のえらい人だと思います。14歳(15歳?)で出家し薬師寺(奈良市)で法相宗を学び名を行基とあらためます。そこまではフツーの出家者なのですが、やがて自分だけがどれだけ学ぼうがこれでは誰ひとり救えないと思いいたります。飛鳥時代当時の僧侶の役割とは、中国(隋または唐)から仏教を取り入れそれを学問としてまなび、知識として吸収し寺院を建立することでその教えを定着させることでした。そんな時代に行基は寺から俗世にでて民衆に辻説法をおこないます。僧侶が直接民衆に説法をおこなうのは禁じられていた時代です。まず寺院が騒ぎ立てますが行基人気は高まるばかり、その説法の場にはときに一千人もがあつまるほどになり、ついに寺院は朝廷に讒言ざんげんしてまで弾圧をつよめます。行基はといえば弾圧なんぞどこ吹く風、説法であつまった人々を指導し先ずは布施屋(貧しい人たちの救護施設であり宿泊施設)をつくり、さらに民衆のための土木事業にも着手し、橋をかけ用水路を掘り溜池をつくります。※井上薫氏の「行基事典」をもとに国土交通省が作成した図表には、行基がたずさわったインフラとして、池(溜池)15、溝(用水路)6、堀4、樋(水門)3、道1、橋6、船息(港)2、布施屋9とありました。 開口あぐち神社 赤鳥居 本殿 神仏習合の時代には寺と社が混在した<境内の案内図より抜粋> 開口あぐち神社は奈良と堺をむすぶ日本最古の官道(国道)である竹内街道の西端に位置し、堺の港を守るために建立されたと伝えられています。かつては広大な敷地内に行基が建立した念仏寺が存在したそうです。いまは念仏寺は廃寺となり痕跡すらありませんが、いまも神社でありながら当時の愛称から「大寺さん」とも呼ばれていると説明板にありました。 堺をあるくと古墳にあたる 大きな交差点を越えて東南方向へ陸橋の錆び具合からも自治体の困窮ぶりが伺えます 仁徳天皇陵の脇をかすめ、 大仙公園から履中天皇陵をのぞみ、 文殊塚古墳のまえを通る 家願寺えばらじ 本堂... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・足柄上郡山北町 2025.1.10】二宮金次郎(のちの尊徳)はいまの小田原市栢山かやまの生まれです。金次郎の実家はそこそこの田畑を有し食べるには困らないレベルの農家でした。いまの栢山もそうですが、当時(江戸時代末)の栢山村も富士山東麓を源とする酒匂川さかわがわが村を北から南へ縦断するように流れており、金次郎の幼少時代に大規模な氾濫があり村の田畑はほぼ壊滅するほどの被害に見舞われます。むかし小学校に必ずと言っていいほど設置されていた、書を読みながら薪を背負ってあるく二宮金次郎の像は極貧時代のこのころのものと思われます。その金次郎は苦学と努力の末に今でいう農政家となり、地元の酒匂川の治水事業もふくめて国内の数々の村落を復興させます。 相模湾にそそぐ酒匂川の河口から上流へとさかのぼること20km、いまの足柄下郡山北町のやはり酒匂川沿いに河村城はあります。じつは二宮金次郎は今回のブログの内容とはまったく関係がありません。河村城の地理的位置を説明するうえで印象にのこるものはないかと地図を見ているうちにめずらしい酒匂川の名が目にとまり、そこから金次郎にたどり着いたという次第です。なお酒匂川さかわがわは氾濫のさいの暴れぶりから川が逆流するという意味でむかしは逆川さかがわともよばれていたそうです。 登城する 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・小田原市 2025.1.8】1589年(天正17年)11月、豊臣秀吉は北条氏宛の宣戦布告状をおくる。1590年(天正18年)2月、西国から下向する本隊16万、越後・信濃から南下する北国勢4万、瀬戸内・志摩から水軍2万がぞくぞくと出陣する。3月、豊臣秀吉は北条氏討伐の勅命をうけ、万全の態勢で小田原へ向かう。 小田原征伐の名のもとに北条氏を屈服させるべく秀吉が出陣した時点で、この戦の趨勢は決まっていたようなものです。襲来する22万の軍勢にたいして迎え撃つ北条軍は5万数千。その数の差だけではなくこの時点で秀吉は全国をほぼ平定し終えているため、征伐軍をかく乱するため蜂起する北条氏にとっては救いの神となるような勢力はどこにもいません。おまけに小田原征伐自体が勅命を受けたものとなっており、征伐軍は官軍であり正義のために悪を討つ聖戦に仕立てられています。 北条氏は小田原城のまわりに100もの支城を築き防備をかためますが、ぎゃくにこれが災いした感は否めません。守る軍勢はぜんぶで5万数千、主城(小田原城)に1、2万を割いたとすれば他の城には200人とかせいぜい500人程度しか回せません。200人で守る城に2万人の大軍が攻め寄せたとして、しかも相手は官軍です、あっさり降伏するものが続出したとしても不思議ではありません。秀吉は4月初めには早くも箱根山に本陣をしき、北条氏の菩提寺である早雲寺に本営をおきます。 早雲寺 箱根湯本の早雲寺の画像があるのでアップします いまは惣門、本堂、庫裡、鐘楼があるだけ どうやら秀吉は箱根山に布陣するとすぐに石垣山城の築城にかかったようです。縄張は黒田官兵衛によると現地の案内板に書いてありました。80日間で造り上げたと伝えられています。複数の記録があるそうなので80日間という日数は偽りではないはずです。ほぼ人力であることを考えると、信じがたいほどの早業です。 入城する 縄張図... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・小田原市 2025.1.8】「小田原評定」とネットで調べると、AIが「会議や相談が長引いて結論が出ないことを意味する慣用句」と教えてくれます。さらに類義語として「押し問答」「水掛け論」といった負のイメージの言葉が紹介されます。AIはしょせん人間が表示した情報を集積し分析するのですからAIの責任ではありませんが、この説明だか解釈だかは微妙に違うように感じます。(鎌倉時代の執権をになった北条氏とは区別して小田原北条あるいは後北条といわれる)北条氏5代は、宗瑞(早雲)にはじまり、およそ100年にわたり氏綱、氏康、氏政、氏直と正統な後継者である嫡男がお家騒動もなく順当に家督をついでゆきます。驚くべきは5代にわたって皆が非凡であること、しかも親(君主)が息子に幼少時から帝王学を説き、自分が君主として衰えの見えないうちから家督を譲って相談役に徹することを常としています。二代目氏綱の代から北条氏の主城となる小田原城では、定期的におもだった家臣があつまり内政を中心に重要事項を合議により決定していました。この会合に出席するものを評定衆といい、小田原城で行われたゆえにこれが小田原評定です。 北条早雲とは伊勢新九郎のこと 小田原駅前にたつ北条早雲像 小田原駅前にたつ像ですら北条早雲公と記していますが、本人が生前にそのように名乗った記録はありません。室町幕府の政所まんどころ執事をつとめる伊勢氏の出身で、本名は伊勢新九郎盛時が正しいのではないかとされています。戒名が早雲庵宗瑞そううんあんそうずい、この勇ましい馬上の姿はどう見ても出家者のそれではありません。まして北条の姓はというと、氏綱の時代にれっきとした大名になり、西国の政所執事の姓では締まりが悪いので鎌倉時代に関東で覇権をにぎっていた北条氏の姓にあやかったものと考えられます。 新九郎は姉が駿河守護の今川義忠に嫁いでいたことからその今川家の家督争いに介入し、みごとに調停したことから名を上げます。ふたたび争いが勃発したときにはあたえられた軍勢で反抗勢力を切り伏せ、その功で興国寺城をあたえられます。このころまでは新九郎も幕府の家臣として幕府のために働いていたようですが、しだいに野心を抑えがたくなったのでしょう、将軍家の家督争いが起こると騒動の渦中にみずから兵をひきいて伊豆平定をなしとげ、ついに伊豆一帯の統治者におさまります。ここから北条氏5代100年の歴史が始まります。 小田原城・早川口遺構 小田原市観光協会のサイトより抜粋 小田原城というと「総構え」。小田原征伐と称し北条氏を屈服させるため豊臣秀吉が22万の軍勢をひきいて東進してきます。そこで氏直は小田原評定をひらき、城だけでなく城下町もふくめた広大な土地を堀と土塁で囲うことで未曽有の防御を整えることを決めます。小田原市のサイトによると、堀の幅は16m、深さ10m、内側には堀を掘ることで溜まる大量の土で土塁が盛られ、その総延長は9kmにも及んだということです。 まずは案内図の左下に見られる早川口遺構に寄ってみます。 早川口... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【東京都・品川区 2025.1.9】 東京お台場というとフジテレビの社屋や大型ショッピングモールが湾岸沿いに立ちならぶ観光エリアですが、そもそも台場とは幕末に外国船の襲来から国土を守るためにつくられた砲台のことをいい、同時に砲台を擁する要塞のことを指します。江戸幕府がつくったもの、各藩が独自につくったものなど全国に多数の台場がつくられ今もなにかしらの遺構を残しているものは国の史跡として保存されています。 当初の予定では、江戸湾(東京湾)を入口で守るべく無人島につくられた猿島要塞をたずねるつもりでしたが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【京都市 2024.12.31】幕末から明治維新への時代の推移とは、そもそも徳川幕府の力が衰え国政をになうことが覚束なくなってきたことから、幕府の老中・安藤信正がすすめた幕府と朝廷が融和して国政を行おうとする公武合体の動きに端を発します。これに対して薩摩藩の島津久光はおなじ公武合体でも朝廷と幕府に雄藩もくわわる新バージョンを提唱。ところが尊王思想にどっぷり浸かった勤皇派(とくに長州藩)にとっては朝廷・天皇と幕府・将軍を同格に据えるとはもってのほか。さらに当初は尊王とは攘夷の考え方が主流であったため幕府が外国に対して媚びへつらう(かのような)姿勢を目の当たりにして怒りが爆発。ついに長州藩を中心とした勤皇派が倒幕派となって暴走をはじめます。それに対して幕府と関係のつよい会津藩や桑名藩は佐幕派となって対抗、刃傷沙汰がついには市街戦へと拡大してゆきます。※ひとくちに攘夷といっても戦争をしてでも外国を追い払おうとする先鋭的もの、相手有利の一方的な条約は破棄するといった穏便なもの、その考え方はさまざまでした。※佐幕派には尊王思想はなかったのかというとそうではなく、勤皇派のように明確に打ち出していないだけで当時は多かれ少なかれ日本人はみな尊王思想が基本にありました。そんな中で、主義あるいは思想として幕府をまもろうとしたのか、攘夷だとか開国だとか少しでもアタマのなかにあったのか、なんとも疑問だらけの、そして得体のしれない存在として歴史にのこるのが新選組です。 <今回は歩いた順ではなく、話が分かりやすいよう画像を並べ替えています> 京都 JR京都駅前 大晦日であればさすがに京都市内も混雑はなかろうと考え、あえて今日出向きました。自宅から京都へ向かうときはおおむね京阪電車をつかいます。それゆえJR京都駅前を正面から見る機会はあまりないので比較ができませんが、少なくとも混雑の様子はありません。 壬生・島原 当時のものが今ものこる花街島原の大門 輪違屋... Read More | Share it now!

城郭・史跡,山梨

【山梨県・北杜市 2024.12.13】山梨県の北西部に北杜ほくと市はあります。ずいぶん辺鄙なところですが、家内の希望で市内にある平山郁夫シルクロード美術館を訪ねることになりました。ほかにも近所に訪ねるところはないかとWEBで確認していたところ、まず3,4kmほどの近さで、武田信玄の軍勢が信濃へより迅速に進行できるよう真っすぐに通した道(棒道)がありました。(これについては他のブログで書いています)さらに調べていると谷戸やと城なる城がヒットしてきました。歴史的には甲斐源氏(武田氏の祖先)がつくった中世の城ということでさして興味は惹かれなかったのですが、画像を見ると石垣、石積の類はまったく存在せず、土塁と空堀で曲輪群を同心円状にぐるぐると巻くようにまもる実にユニークな城郭構造が目に飛び込んできました。これはぜひ自分の目で見ておきたい、ということで早速出かけてみます。 谷戸城・外周をまわる 途中の駐車スペースに車を停めて城の外周を歩いてみます 一番上方が主郭相当部ではないでしょうか 現地にあった案内図より抜粋 図のちょうど真下あたりに駐車スペースがあり、そこから時計回りに現在地まで歩いてきました。歩くのが面倒ならば北杜市考古資料館前にもっときちんとした駐車場があります。 ここからさらに時計回りにまわって北帯曲輪(郭)あたりまで進み、そこから斜面をあがって四の曲輪(郭)へと向かってみます。 四の曲輪、帯曲輪、五の曲輪、 右側には内の曲輪を守るように土塁がつづく まわって歩くうちに結構な高さに上がっています 四の曲輪の外周にもられた土塁 四の曲輪から帯曲輪へ 帯曲輪... Read More | Share it now!

山登り,城郭・史跡,山梨

【山梨県・大月市 2024.12.12】小山田信茂は武田二十四将に数えられるだけでなく武田家とは縁戚関係もあった譜代の家臣です。年齢的には主君の信玄が京で覇を唱えるための西上を目指すころがもっとも働き盛りで、浜松城で待ち受ける家康と徳川軍を打ちのめす三方ヶ原の戦いでは先鋒をまかされ戦勝後にはその武功を一番と評価されています。 信玄の没後には西上はとりやめたものの後継の勝頼が怒涛の勢いで周辺国に侵攻し領土を拡大してゆきます。ところが対織田・徳川連合軍との長篠の戦いで重臣らの諫言に耳を貸さず強攻したことから惨敗、これがきっかけとなって武田氏は衰退の一途をたどることになるのですが、なぜ急速に衰退したかというと、落ち目の主君に従っていても将来に利するものがないと家臣らが見切りをつけ離反していったことが最大の理由です。 信玄の娘を正室として武田氏の親族衆となっていた木曾義昌、武田の姓をつかうことを許されていた一門衆の穴山信君のぶただ(武田信君)らがつぎつぎに背き、見る影もなく弱体化した武田氏を壊滅させるべく織田・徳川・北条の同盟軍が甲州を圧迫してきます。このとき外様ながらもいまだ武田家につき従っていた真田昌幸(幸村の父さん)が自身の居城のひとつ岩櫃城へ退去することを勧めます。ところが小山田信茂が自分の領地にある岩殿山の山上にある詰城がさらに難攻不落であることを理由につよく誘ったため、勝頼としては外様の真田よりも譜代の小山田の勧誘に従う気になったのでしょう、未完成の新府城を捨て岩殿城へと向かいます。 岩殿山 岩殿山... Read More | Share it now!