城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・関ケ原町 2024.10.10】関ヶ原の合戦については、徳川家康率いる東軍と豊臣家を代表する石田三成率いる西軍が天下をわけて争ったというイメージがあるのですが、調べればしらべるほど違和感を覚えてしまいます。まずこの争いについては敵対する者同士が領土の取り合いをするといった戦国時代特有の戦ではなく、豊臣家の中での主導権をめぐる、いうなれば内輪揉めであると捉えた方がしっくりきます。 秀吉による豪奢な城づくりをはじめとした放逸な散財、あるいは意図の理解できない朝鮮出兵などの愚政に庶民だけでなく武人たちもほとほと嫌気がさしていました。それに取って代わろうとした家康。家康が天下をおさめた結果として生まれた江戸幕府が、大きな争乱もなく260余年にわたって太平な時代をつむいで行けたのは、ひとえに家康のビジョンが優れていたからでしょう。 関ヶ原の合戦を前にして、豊臣派であった多くの武将たちが家康に従うようになります。しかし家康がえがく将来の日本の姿に共感した、なんて者はひとりもいなかったのではないでしょうか。大半の武将はわが家(いえ)の存続のため豊臣方と徳川方とどちらが勝ちそうか天秤にかけた上でのこと。あるいは石田三成憎しの私怨で突っ走った者。ただ一人だけ家康の器量を認めたうえで、(豊臣政権を倒すかどうかは別にして)家康がトップに立って国政を取り仕切るべきと考えていた、と思われる武将がいます。それが石田三成に従い獅子奮迅の活躍をする大谷吉継であるのは皮肉すぎますが。 豊臣家の面々はどうなのかと見ると、北政所ねね(高台院)はどちらかというと三成よりも家康のほうに傾いていたようです。淀君と秀頼、一般には淀君が近江の生まれのため三成をはじめ近江衆と懇親であったと言われていますが、関ヶ原合戦の前後に淀君がいわゆる西軍のためになんらかの助成をしたかというとまったくその痕跡はありません。そうなると、西軍vs東軍とは豊臣方vs徳川方だったのかその構図さえ怪しくなってきます。 そもそも石田三成は、秀吉亡きあと秀頼をたてて豊臣政権を末永くつづけていこうと考えていたとして、どのような国づくりをするか明確なビジョンがあったのでしょうか。三成があれほど嫌われたのは本人の横柄な性格にくわえて、秀吉がおこなった悪政をそのまま取り仕切る代官であり、ほかの武将としては恩義のある秀吉には向けられない怒りの矛先を三成に集中させていたとも考えられます。 この関ヶ原へは今年の夏に訪れる予定だったのですが、あまりにも暑い日々がつづくため10月も半ば近くになってやっと腰をあげました。その間にもさらに下調べをすすめたため準備万端、いざ出発です。 ◆話の展開をわかりやすくするため、今回は歩いた順ではなく故意に並べ替えをしています。 毛利秀元、吉川広家 合戦がはじまる直前の陣形 赤で記された「東軍」のやや後方・桃配山に徳川家康が布陣しています。そのさらに後方の南宮山には黒で「傍観軍」と記された吉川広家をはじめ秀元率いる毛利家の本隊が控えています。 そもそも寝返ったのは吉川広家、そして毛利本隊を説得して山上にとどめ置き、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親は西軍に味方していましたが、毛利の大軍が居座るため動くに動けなかったようです。 桃配山の家康の陣跡 後方の山並みが南宮山、その手前麓に桃配山 南宮山の手前にひろがる平地一帯に東軍の軍勢が陣取っていました。その後方に家康が本陣をかまえること自体に不自然さはないのですが、そびえる南宮山には毛利の大軍がいます。吉川広家の寝返りは確実だったものの、家康としては毛利秀元がどう動くかは最後まで確信できずにいたと伝わっています。しかしこの陣形をみれば秀元の寝返りも確信していたと考えるべきです。家康としては吉川だけでなく毛利も100%内応しており、南宮山山上から自分に襲いかかってくることは200%ないと信じていたからこそあの場所に陣を敷いたのでしょう。 毛利氏が徳川方に寝返ったのは、一にも二にも御家存続のためです。ところが家康の剛腕のまえには抗うすべもなく、関ヶ原後毛利氏は120万石から30万石に減封されたうえ、本州の西の端の長門・周防へ押しやられます。関ヶ原合戦で一番の貧乏くじをひいたのは毛利氏かもしれません。◆毛利氏はこのときの恨みを二百数十年忘れず、幕末には長州藩みずから先頭に立って江戸幕府(徳川幕府)をたおすため決起するのですが、それはのちの話。 黒田長政 黒田長政が布陣した丸山 黒田長政は、秀吉に天下を取らせた男といわれた黒田官兵衛の息子で、まさにあの親にしてこの子あり、たくみな人心掌握により秀吉子飼いの武将たちを次々に徳川方に引きこみます。父親の官兵衛(このときは剃髪後で如水と号す)が秀吉と一心同体のごとくであったにもかかわらずなぜ家康にすり寄ったのか。そもそもが石田三成とは反目しており、さらに親は親とわりきっていざ情勢を俯瞰したところおのずと家康に傾いたということでしょう。関ヶ原合戦後は、豊前中津12.5万石から筑前52万石の大名に大抜擢されています。 ◆黒田長政はなかなか恨み深い性格だったようです。官兵衛が幼少時から育てた家臣の後藤基次(又兵衛)とそりが合わずついには又兵衛が出奔してしまいます。又兵衛は武勇名高く仕官先には事欠かなかったのですが、長政がこのもの召し抱えることならずと全国に布告したため(これを奉公構という)又兵衛はその後浪人生活をおくるしかなく、それがゆえに大坂の陣では招かれて豊臣方につくことになります。 細川忠興 細川忠興の陣跡... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・甲賀市 2024.9.23】今日は滋賀県の甲賀にある飯道山に登ります。飯道山は山として登ることそのものには飛びぬけて魅力があるわけでもないのですが、山頂付近はかつて修験者のための修験場であり、かつ甲賀忍者の修練の場でもあったところで、いまは飯道神社として古色蒼然とした社殿が残っています。また今回は水口側(貴生川駅)からアプローチしますが、下山した信楽側には紫香楽宮跡がのこり歴史を堪能できます。紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が造営した離宮で、発掘調査の結果いまは寺院らしきものの痕跡が広範囲にわたって見られます。 水口町を歩いて三大寺登山口へ 杣川越しに飯道山(左奥)をのぞむ ところではじめに言っておきますと、飯道山登山は山登り重視で考えるなら水口から信楽へ歩くのがお薦めですが、歴史見分を主とするのであれば逆ルートの方がフィットすると思います。 飯道山へ 登山口からしばらく整備された道を歩く この先あたりからやっと山道らしくなる 山道はずっと歩きやすい 左羅坂も注意して歩けば問題なし 杖の権現茶屋休憩所... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良市 2024.9.17】平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。 これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。 法華寺 南門から本堂をのぞむ 仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。 鐘楼から本堂 本堂 浴室(からふろ)/... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県・津市 2024.9.9】津とはかつて港(あるいは湊)を意味する語でした。それゆえ津市とは港町を意味するわけで地名としてなんとも舌足らずですが、歴史をたどれば安濃津(あのつ)、すなわち安濃の港とよばれていました。それがいつのまにか津に短縮されたわけで、ここが最初に「津」を名乗ったゆえに大津や今津(ともに滋賀県)などは先を越されたと悔しがった(?)かもしれません。そもそも伊勢湾に面する重要な港であり室町時代には小規模ながら城があったようですが、戦国時代に織田信長が侵攻して弟の信包(のぶかね)がこの地に入り大規模な城に改修します。その後秀吉の時代には、富田某が移封されて安濃城(津城)を居城としますが、その富田某は関ヶ原の役においては東軍(徳川方)に与します。関ヶ原の役というと、いまの滋賀県関ケ原での合戦ばかりがクローズアップされますが、実際には全国各地で戦の火は上がっていました。西軍は関ヶ原での合戦にさきだち豊臣秀頼のいる大坂城から出陣し、近畿内で東軍につく武将たちの城を攻略してゆきます。このとき大津城(滋賀県大津市)と田辺城(京都府舞鶴市)はすくない守兵でよく持ちこたえ結果として両城を攻める各1万5千、合計3万におよぶ西軍の軍勢は関ケ原での合戦に間に合わず、これが西軍が敗れた一因ともされています。ところで安濃津城ですが、開戦からわずか3日目に降伏し開城します。この安濃津城攻めには守兵1,500に対して西軍からじつに3万の軍勢が攻め寄せたようで、文字どおり多勢に無勢だったのですが、無責任な?歴史ファンとしてはあまりにもあっさり開城いるのでこのあたりには興味を覚えません。津城に対する興味と言えば、築城の名手といわれた藤堂高虎の手によりつくられたということ、いかほどの名城かと期待しながら訪ねました。 津城・内堀と石垣 現在の津城は本丸を中心とした一角しか残っていいません。そこで内堀の周囲を、石垣を見ながら歩いてみます。そもそもは水城だったようですが、なにしろ外堀はまったく残っていないので現状から想像してみるしかありません。ところでこの堀の水、藻がたまっているだけなのかもしれませんが、見ていてあまり気持ちのいいものではありませんでした。 西の丸 西の丸へ いかにも内堀であることがわかる 内側は石垣(石塁)で囲まれている 本丸 本丸に入ると三重櫓が見えたので さきに眺めに行ってきます 櫓自体は復元したものです 石垣が直線的なのが高虎の城の特徴 ここも石垣は急こう配で登れそうにない 天守台の石垣 天守の横に埋門(通常は隠していた門) 埋門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,広島

【広島県・大竹市 2024.9.4】福島正則は秀吉の母(のちの大政所)の妹の子として尾張に生まれます。すなわち秀吉の従弟にあたり、少年のころから小姓として仕えたようです。たんに血縁関係による身びいきではなく、正則本人の勇猛果敢な武功によりしだいに頭角をあらわし、ついに柴田勝家とたたかう賤ヶ岳の戦いで、のちに語り継がれる七本槍でもって世間にその名を知られるところとなります。その後も小牧・長久手の戦い、四国、九州さらに小田原征伐、そして朝鮮出兵と戦をかさね武功を積みあげ、秀吉が亡くなるまえには尾張・清州城にて20万石の大名になっていました。 さてその後におこる関ヶ原合戦について、西軍=豊臣方と東軍=徳川方の天下争いというように認識されがちですが、この時点での家康には豊臣家の天下を簒奪しようとする野心はまだなかったと見るべきです。正確には、豊臣家(秀頼)のもとで自分の剛腕辣腕をさらに発揮せんとする家康と、出過ぎる家康に危機感をだく石田三成、さらに三成の仕置きに憤る福島正則をはじめとした豊臣派の武将たち、そしてその豊臣派の憤りを三成排除の道具として利用しようと暗躍する家康の参謀・本多正信、こうして必然的に三成vs家康の戦いが演出されたと見るべきでしょう。 亀居公園 亀居城は1970~80年代に発掘調査がおこなわれ、その後整備されていまは公園になっています。案内図の右下、国道2号線から繋がる道をあるき、松の丸跡にたどり着きました。 松の丸は駐車場のようです 石垣にそって歩きます 二ノ丸から本丸へつづくあたりの石垣です 石田三成を殺してやりたいほどに嫌悪していた正則は、黒田長政の勧めで関ヶ原の役では東軍・徳川方につきます。長政は謀略の天才といわれた黒田官兵衛の嫡男であり、さずがに人を口説くには天賦の才があったようで、この戦い(関ヶ原)が豊臣家に弓を引くものではなく、石田三成を排除するためのものだと説得し納得させます。もっともその黒田長政はというと、家康側近の本多正信にあやつられていたことは言うまでもありません。 石垣をみる おもに本丸周辺にのこる石垣は 実に見事で一見の価値があります 全体は切込み接ぎ、端は算木積み 城郭石垣の完成された姿です 本丸 本丸をささえる石垣 本丸へ 本丸への虎口... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福井

【福井県・美浜町 2024.8.9】室町時代から越前・敦賀を領する朝倉氏が若狭へ侵攻しようとするたびに、その国境で断固としてその進軍をはばむ城がありました。それがいまの福井県美浜町の東部にある佐柿国吉城です。城のある周辺の地名が佐柿で、城のもとをつくったのが〇〇国吉なる人物だったため、佐柿城とも国吉城とも呼ばれてきました。 青春18きっぷをつかって大阪から敦賀へ(往復2410円)、敦賀駅近くの格安ニコニコレンタカーで12時間(アプリ料金で2525円+シーズン特別加算1100円)、夏休みをはずせばシーズン特別加算がつかないため5000円以下でおさまります。 佐柿国吉城・居館跡 登城口近くにあった案内板より抜粋 当時の屋敷風につくられた歴史資料館 若狭の国の守護・武田氏の重臣・粟屋勝久が本格的に築城し、それこそ毎年のように侵攻する朝倉氏を退けたというのですから、ひとえに勝久が城づくりにも戦にも秀でていたということなのでしょう。発掘調査の結果、周辺から石垣のものと思われる礫が大量に出土し、このあたりに居館があったことがわかりました。いまある石垣は組み直したものです。 家臣の住居があったと思われる曲輪群 下からみても上からみてもずいぶん大規模です 山上へ 山上へは険しい坂を登ります 山上の縄張図 二ノ丸曲輪 土塁 くい違い虎口 本丸へ向かう途中に見られる曲輪側面の急斜面 本丸 くずれた石垣の礫が散乱する?それとも投石用? 下界を見下ろす 本丸への虎口跡 曲輪数が多いぶん本丸は小さめ 本丸からは若狭湾(日本海)が見える 本丸の先にある堀切 堀切に下りると、曲輪がつづいていた 連郭曲輪群へ 本丸を下りて、連郭曲輪群へ 石垣もつかった堀切跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,島根

【島根県・松江市 2024.8.1】松江城の歴史については、(地元の人間ではないので)それほど興味深いものが見あたりません。堀尾忠氏が関が原の戦いの戦功により浜松から出雲松江に加増転封され、当時の本城である月山富田城に入りますが、すでに戦国動乱期をすぎ領国統治を重視すべき時代には山城は不便不適なため、宍道湖に面し川に沿って中海にもぬけられる要衝の地にあらたに城を築きます。それが松江城です。 松江城に関して特筆すべきものとしては、江戸時代およびそれ以前に建てられた天守(閣)がそのまま残存している場合それを現存天守といいますが、全国にのこっているのはわずかに12基、松江城の天守はそのひとつです。 現存天守として残ることがどれほど稀有なことであるかを考えてみます。いま全国には3万ほどの城(大半が城跡)が残っています。鎌倉時代以前につくられた城はほとんどが砦のようなものです。室町時代になっても城郭に物見台をたてる例はふえたものの天守という概念で建てたものではありません。一般には織田信長が築いた安土城が天守をもつ最初の城といわれています。もうすこし広義にみると松永久秀が築いた多聞山城の多聞櫓をそれとする意見がありますが、どちらにしても戦国時代のことです。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて(慶長時代)、築城ブームがおこります。これは全国平定をおえた豊臣秀吉が諸侯に金とともに力をたくわえて謀反を起こさないよう意図的に散財させる目的があったとも考えられますが、ともあれこのとき3千におよぶ城が新築され、天守をもつものがその十分の一ほどと考えられます。すなわちこの時点で、3~4百の天守をもつ城があったということです。 松江城・大手門から三の門、二の丸へ 大手門跡の入口にあった案内板より抜粋 秀吉にとって代わり天下統一をなしとげ江戸幕府をひらいた家康は、自分が秀吉の天下を簒奪したからこそ秀吉の立場に陥ることを恐れたのでしょう、諸国の大名の力を削ぎ落すためまず一国一城令を発布します。これは居城以外の城(すなわち戦のための城)をみずから破却しろという命令です。この一国一城令により大半の城がなくなったように思われがちですが、この法令はおもに反徳川派であった西国大名を狙い撃ちするもので、すぐに全国の城が激減したわけではありません。 むしろそのあとに出された武家諸法度により城の新築を禁止されるだけでなく、修築も幕府の許可を得ることを義務化されたため、戦のない時代に多額の金をつぎこんでさらに幕府に頭をさげて許可をえて天守を保持することは酔狂と思われたのかもしれません。 堀越しに二の丸一帯をみる... Read More | Share it now!