街歩き・山歩き,大阪

【大阪市内 2023.1.2】大阪の南の中心的な繁華街・難波のもすこし南に、新世界と呼ばれる下町の繁華街があります。この地の成り立ちはいかにも真っ当で、明治36年に第5回内国勧業博覧会(万博のようなもの)が開催されたのち、その跡地を有効に利用しようということで、西側は天王寺公園となり(動物園や市立美術館がある)、東側にはニューヨークの公園ルナパークを模した有料公園をつくり、さらに中心にパリのエッフェル塔からアイデアをもらった通天閣をすえ、最新の文化を輸入した「新しい世界」を作り出してゆきます。人が集まりだすとさらに映画館や遊技場が次々にオープン、その客を目当てに飲食店が軒を並べます。こうして大阪を代表する繁華街へと発展するのですが、戦後の高度成長期に入ると難波(ミナミ)や梅田(キタ)に客を奪われ、さらに全国からあつまる日雇い労働者が生活する、あいりん地区が近いためそこからの人の流入で街の雰囲気はすっかり変わってしまいます。たしかに昭和の時代の新世界は、きたない、あぶない、普通の人はいない、という状態でした。ところが時が変われば何が幸いするかわかりません。近隣に大型アミューズメント施設や商業施設がつくられると人の流れがかわり、さらに街中の昔のままの古い姿がレトロとして注目され、ついにはインバウンドもふくめ若い人達にもSNSで紹介されるそのディープな画像がバカ受けし、一大観光地と化します。今日は天気がイマイチなので初詣をかねた社寺参詣はやめ、ディープな新世界へディープな世界を堪能しに行きたいと思います。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 法善寺横丁 法善寺横丁入口 ここは大阪でもっとも古い繁華街のひとつです。江戸時代に建てられた法善寺への参拝者を相手に店を並べていたのが基になっています。右端のひとつ奥の店が夫婦善哉(ぜんざい屋)です。 左側は空き地ではなく、法善寺の墓地 これが法善寺... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪

【大阪府・茨木市 2022.12.25】大阪生まれの大阪育ちの人の中には、関東の「茨城県」のことを「いばらきけん」と思い込んでいる人が結構います。なぜかというと、大阪府には「茨木市」が存在し、これを「いばらき」と読むゆえにほかなりません。地理的には、大阪府の北部で京都寄りに位置します。かつての摂津の国にあたり、高槻城、吹田城、池田城、伊丹城(有岡城)などとともにここには茨木城がありました。応仁の乱から三好長慶の時代を経て、織田信長に付いたり離れたりする群雄、荒木村重や高山右近らが生きた時代に、同じように生まれ、戦い、そして死んでいった武将・中川清秀が城主となって拡大増強した城です。摂津の国はことのほか衰亡が激しかったこともあるのでしょうか、さきに列記した城はいずれも遺構がほとんど残っていません。なかでも茨木城は石垣のひとつも、曲輪の一部も残っていません。午後からぽっかり時間が空きました。自宅から茨木まで片道30分なので、往復時間を入れても探索時間はじゅうぶん取れます。なにか名残りでも見られないだろうかとかすかな期待を胸に出向いてみることにしました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 ここが茨木城跡 阪急茨木市駅から徒歩10分ぐらい、googleマップで「茨木城跡」とピンで表示されるのはこの辺りです。現在マンション建築中、その周囲も住宅と道路で、それらしきものはまったく存在しません。 妙徳寺表口 かつて茨木城の脇門がここ妙徳寺の三門(表門)として移築され、その後台風や地震で何度も倒壊しながらも再建して今に至ると、画像で見たのですが、またまた壊れてしまったのか、現在はこのような「門なし」の状態でした。 楼門 近所の茨木小学校に楼門が再建されています。残念ながらあくまで再現したもので、当時の様子を知るには良いのでしょうが、それ以上のものではありません。 梅林寺 梅林寺は中川家の菩提寺です。この寺の墓地に中側清秀の墓があるはずなのですが、残念ながら寺は閉まっており、御堂の奥にあるはずの墓を見ることはとても無理でした。 茨木神社・東門 茨木神社のこの門は、茨木城の搦め手門(裏門)を移設したものと伝わっています。あくまで「伝わっている」です。そう思ってみると瓦は平成以後の葺き替えのようだし、壁はきれいすぎるし、柱もどうなのでしょう。ということは茨木城の名残りはなにも目にすることができなかったということになります。 茨木神社... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・四条畷市~大東市 2022.12.12】三好長慶という武将がいます。戦国時代は下克上の時代だったといえますが、その視点から見れば、戦国時代はこの三好長慶の登場時点から始まると言えるのではないでしょうか。室町幕府の将軍・足利家は時とともに力を弱めしだいにお飾り的な存在となってゆき、代わりに管領(かんれい)が将軍補佐役の立場をこえてみずから権勢をふるうようになります。細川晴元は12代将軍・足利義晴、13代将軍・義輝を補佐する管領でしたが、京の西南部をぐるり囲む摂津、山城、丹波3国と、さらに四国の阿波、土佐2国、計5国の守護をつとめる大名であると同時に、34代管領として当時の日本の実質ナンバーワンの存在でした。三好長慶はその細川家が守護をつとめる阿波国の、さらにその一部を守護代として管理する家系に生まれますが、細川家がごたごたする隙に、本願寺を味方につけたり敵対したり、あの手この手で勢力を拡大し、ついには細川家から実権をうばい、さらに和泉、河内、播磨、淡路、讃岐などを支配下におきます。織田信長に先んじて、「最初の天下人」と呼ばれるのはこのためですが、晩年はなんらかの精神の病を患ったようで、松永久秀と三好三人衆に実権をうばわれさびしく世を去っています。今日はその三好長慶が全盛を誇っていたころに築城した、飯盛山城をたずねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 四条畷神社 四条畷神社への参道... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・岸和田市 2022.12.9】岸和田の名の由来については、南北朝時代にこのあたり一帯が海岸沿いだったからか「岸」と呼ばれており、その当時世に出てきた楠木正成、その一族である和田某がここに城を築いて拠点としたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」になったというのがもっとも有力な説です。その和田氏が築いた城は16世紀初期に破却して現在の場所に移築し、豊臣の時代から江戸時代にかけて幾度も改築されながら本格的な城郭に変貌してゆきます。そして徳川家康の養女の子ともあるいは妹の子とも伝わる岡部宜勝が6万石で入城し、以後13代にわたり明治初期まで大坂と紀州をむすぶ要衝の城下町として栄えます。なお岸和田といえば、熱狂的なだんじり祭りで有名ですが、そのだんじり祭りは3代藩主の岡部長泰が京都伏見稲荷を岸和田城下に勧請し、五穀豊穣を祈っておこなった稲荷祭りが起源とされています。今日はそんな歴史をもつ岸和田の街を歩いてみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 岸和田駅からスタート 岸和田古城 南海岸和田駅からすぐ近いので、まずは和田氏が拠点としていた昔の岸和田城に寄ってみます。と言っても、いまではなにも遺構はなく、ここに城がありましたと告知する石碑があるだけ。しかも名前は「岸和田古城」となっています。 寺町筋 本徳寺 南海電車の高架下をくぐって現在の岸和田城へ向かう途中、すこし回り道して寺町筋に寄ってみました。目的は本徳寺。この寺は、(あくまで一説では)明智光秀の長男・光慶が出家して南国梵桂を号し開いた寺と伝わっています。そのためこの寺には明智光秀の唯一現存する肖像画があります。残念ながら2020年に27年ぶりかで特別公開されたそうなので次回いつ見られるかはわからないのですが、寺の境内だけでも見ておくつもりで訪ねてみました。しかし境内も非公開のようで、これこそまさに門前払いでした。 岸城神社 岸城神社... Read More | Share it now!

山登り,城郭・史跡,大阪

【大阪府・千早赤阪村 2022.10.30】金剛山は、大阪府と奈良県の境に位置し、いわゆる山頂は間違いなく奈良県側にあります。ところが金剛山というと、多くの人(とくに大阪人)は大阪の山と信じています。ガイドの中にも「大阪の最高峰で標高1125m」と書いているものさえあります。どうしてこのような勘違いが起きているのかといえば、なによりも金剛山に上ると言えば、(おそらく)100人中99人以上の人が大阪側からの登っているがためでしょう。金剛山に上る道は俗に48本あると言われていますが、主要な道はすべて大阪側からあります。それどころか大阪側からはロープウェイすらあります。(このロープウェイは現在停止中です)もう一つの理由は、金剛山の名を知らしめている千早城が、楠木正成(くすのきまさしげ)の出身地である千早赤阪村とともに大阪府に属していることもあります。楠木正成といえば大阪、千早赤坂は大阪、それゆえ金剛山は大阪の山ということになったのではないでしょうか。今日はその金剛山にのぼり、千早城(跡)に寄ってみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒栂谷道 金剛山登山口バス停から歩きはじめてすぐにこの分岐に出会います。右が千早本道で大半の人がこの道をつかいますが、今日は人が少ないだけでなく、登山道としておもしろい黒栂(くろとが)谷道からカトラ谷ルートを歩きたいので左に折れます。 車止めのゲートを抜けてまっすぐ このゲートがひとつの目印になります。まっすぐゆくと黒栂谷道からカトラ谷、右の道をすすむと妙見滝のあるタカハタ谷ルートに入ります。 しばらく林道を歩きます 林道も山道らしくなってきました この道では一人も出会いませんでした 黒栂谷道からのルートはずっと渓流沿いを登ってゆきます。本来それほど難しいルートではないのですが、倒木のひどい場所や山道が崩れている箇所もあり、十分に注意が必要です。 (現地で通行禁止のロープは張られていませんでしたが、ネットの道路情報では注意勧告が出ています) ★黒栂谷道からカトラ谷を通る予定でしたが、途中で道を誤り、ずっと脇道を上っていたことに後から気づきました。 谷部分をすぎて尾根部分に出てきたようです 山並みが紅葉しているのが見えます 金剛山頂 山頂の表示... Read More | Share it now!

山登り,大阪

【大阪府・東大阪市 2022.9.25】生駒山は大阪市内の自宅から電車で(乗り換えがあるため)30分ほど、自転車でも1時間かからずに行ける、自分にとってはもっとも近場の山です。北から南へつらなる生駒山系の尾根筋が境界となり、西面は大阪府、東面は奈良県に属します。街から遠く離れていないのに静かな山歩きが楽しめ、危険な箇所はないけれどもそこそこ歩きがいもあるのでたびたび出かけており、我が庭とまでは言いませんが、慣れ親しんだ山です。登山道は生駒山系全体で言えば数え切れないほどあり、それらの道を、上り×下りで組み合わせると組み合わせはそれこそ無数にあります。今日はそれらの中で、登り口にも降った先にも立派な神社がある、新石切~枚岡ルートを歩いてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 石切劔箭神社 石切劔箭神社・絵馬殿(神門にあたる) 近鉄電車新石切駅からあるいて10分ほどで石切劔箭(いしきりつるぎや)神社に着きます。起源はずいぶん古く、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の有力氏族・穂積氏が代々祭司をつとめてきたと伝えられています。 絵馬殿の屋根上の剣 昭和になって神道石切教を設立、その総本山となります。「石切劔箭」の名は、祀られた神さまの神威が、石をも切って両断するほどに強靭であることを表しているそうです。 もっとも近所では難しいことは言わず、「石切さん」と親しげに呼ばれていますが。 絵馬殿に祀られた神像(?) こちらは弓と矢です 絵馬殿を抜けると、 これは三の鳥居になります 本殿 この神社ではお百度参りがたいへん有名です。お百度参りというと、大層に想像されますが、ここのお百度参りは本殿前十数メートルほどのところにお百度石があり、本殿前まであるいて拝み、お百度石までもどって一周33メートルですからゆっくりやっても1時間ほどです。いつも多くの人がぐるぐる回っています。 正しいお百度のやり方(石切劔箭神社)https://meigen.keiziban-jp.com/manabi/kenkou/mubyou_zinzya/hyaku/ 本殿脇の御神木 上の社 境内を出て、また10分ほど歩くと(生駒山を登ると) 石切劔箭神社上の社に着きます 生駒山を登る いよいよ山登りが始まります 上の社を過ぎると、人家も途切れそろそろ山登りが始まります。生駒山は大抵は遊歩道のような整備された道があるので、子供連れの方もよく登っています。 道端に彼岸花が咲いていました お地蔵さんもいます 途中にある興法寺 興法寺 興法寺はわざわざ立ち寄るほどではありません 安全な道を快適にあるく これぐらい整備された道が 四方に伸びています 山並みの狭間から大阪市街地が見える 今日あるく道程ではあまり眺望のよいところはありませんが、森林浴にはもってこいの道です。 谷間にかかる赤い橋 この赤い橋が自然の景観を壊しているか、緑&赤で印象深い風景をつくっているかは人それぞれの見解があるのでしょう。 谷を見下ろす 橋の上から谷を見下ろす 枚岡神社 枚岡神社・二の鳥居 枚岡(ひらおか)神社まで下ってきました。ここもずいぶん由緒ある神社です。奈良の春日大社には四神が祀られていますが、その春日大社を創建するさいには、そのうち武甕槌命は鹿島神宮から、経津主命は香取神宮から、そして天児屋根命と比売神はここから分霊されたという事です。すなわち春日大社の神さまの半分はこの枚岡神社出身ということで、ちょっとびっくりします。 ですから春日大社とおなじ鹿が祀られています 拝殿 拝殿横から本殿をみる 若宮 よくは見えませんが、本殿は春日造りの四棟が並んでいます。春日大社に分霊したとはいえ、そののちにはやはり先方がずっと格上になり、こちらは落ちぶれてはいないものの、十分な予算も回ってこないのでしょう。4月にたずねた春日大社に比してずいぶん見劣りします。なにが見劣りするかといって、春日大社が本殿と若宮を天然の本朱で塗ってあるのに対して、こちらはあきらかにベンガラなのか朱色が鮮やかすぎて浮いています。 【アクセス】近鉄電車新石切駅から瓢箪山駅まで歩きました。【拝観料】すべて無料です。【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

神社・仏閣,大阪

【A-33】大阪市・住吉大社→堺港→堺市・大鳥大社(2022.6.26) 今日は大阪市最南部にある住吉大社から、市境をこえて堺市の大鳥大社まで歩いてみます。 住吉高燈篭 大阪メトロ・北加賀屋駅で下車し、住吉大社へ向かう途中、住吉高燈篭に寄ってみました。 そもそもは住吉大社の常夜灯として立てられ、江戸時代になってからは、このあたりまで海岸線が迫っていたため灯台の代役として使われていたそうです。当時のものは解体されたようですが、その後外形をそのまま保ってコンクリート造りとして復活させたとか。 住吉公園 隣接する住吉公園をぬけます。 南海電車・住吉大社駅の高架をくぐり、 ちょこっと歩くと住吉大社に到着します。 反り橋 境内にはいるとすぐに反り橋をわたります。 反り橋 反り橋を横からみると、こんな景色です。 反り橋の一番上から進行方向を見る この住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社になります。 社殿はいわゆる拝殿が存在せず、むき出しで(?)... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪,兵庫

【兵庫県・伊丹市、大阪府・池田市 2022.6.12】 今日は黒田官兵衛と荒木村重ふたりのゆかりの地を訪ねたいと思います。黒田官兵衛といえば、言わずと知れた秀吉の軍師(知恵袋ともいわれます)ですが、荒木村重が信長に背いた際には思いとどまるようその居城・有岡城へ説得にゆきます。ところが説得に失敗しただけでなく、官兵衛をこころよく思わない者からの讒言により有岡城の地下牢に幽閉され、一年におよぶ牢獄生活で官兵衛は頭髪が抜け落ち、体中に瘡(かさ)ができ、さらにひざの関節が曲がらなくなる障害をかかえることになります。その官兵衛にとっては地獄の思いをした有岡城が本日最初の訪問地です。 JR伊丹駅まえに有岡城址公園があります。この石垣が当時のままのものなのか分かりかねますが、ちょっと整いすぎているように思えます。 石垣を上ってみると、上にあるのはこれだけでした。あとからアレコレ造るよりは、これだけしかありませんという方が潔いのかもしれませんが、しかし物足りません。 街を歩いていると、他にも土塁や 石垣がところどころに残っていました。 ところで荒木村重は信長に背いたことにより、ここ有岡城に籠城します。村重の背信に激怒した信長は、有岡城を厳重に包囲させ、そして村重が城外へ脱出したにもかかわらず、城に残っていた家臣や女子供にいたるまでを、報復と見せしめのために殺しつくします。信長の残虐性をつたえる、敵方に対する殲滅戦や虐殺は数々ありますが、この有岡城での虐殺はその最たるものではないでしょうか。信長ファンであったもここでの惨劇を天下布武の過程で必要だったとはとうてい認められません。 荒木村重の謀反と有岡城の戦い、そして荒木一族の処刑https://senjp.com/arioka-2/ 酒蔵 伊丹は伝統のある酒造りのまちで、ふるい酒蔵も残されています。 旧岡田家宅 江戸時代に酒造家によってたてられた商屋。 酒屋の商家をイメージしたマンホール 極めつけはこれです。伊丹ミュージアム正面入り口のちかくにあります。一点物のマンホールです。 猪名野神社 かつての有岡城は、総構えといって城下の町ごと濠や石垣でぐるりと囲んで防御機能をたかめていたのですが、その総構えの北端にあったのがこの猪名野神社です。 拝殿 拝殿奥の本殿は修繕中で、全体的には少々さびれた感じでした。 伊丹空港から飛行機が飛び立つ 猪名川をわたって池田市へ向かいます。大阪空港(国内線が中心)から5分に1便ぐらいの頻度で飛行機が飛び立ってきます。ところで大阪空港は伊丹空港ともよばれるのですが、伊丹市(兵庫県)、池田市(大阪府)、豊中市(大阪府)の3市の市境にあり、この3市にまたがるのですが、さらに飛び地があって地理的にはたいへん複雑です。 猪名川から池田市をのぞむ ヒメジョオンが咲く猪名川河岸から池田市街を遠望します。ところでヒメジョオンは小さな花ですが、これだけ咲いていると壮観です。 呉服神社 池田市街につきました。 ぜひ立ち寄ってみたかった、JR池田駅からほどちかくにある呉服神社(くれはじんじゃ)をのぞいてみます。 拝殿 拝殿 応神天皇(仁徳天皇の父)の時代に、機織りと裁縫の技術をとりいれるため、呉の国より呉服媛(くれはとりのひめ)と綾羽媛(あやはとりのひめ)姉妹を招きます。姉妹はそれこそ夜も徹して織物、染色、縫製にはげみその技術を日本につたえ残してくれます。その功績に感謝し、呉服媛を呉服大明神として祀ったのがこの神社のはじまりです。なおいま日本につたわる呉服(ごふく)という言葉は、この呉服(くれは)からきています。 拝殿をかざるステンドグラス 拝殿をかざるステンドグラス 池田城公園入口 つぎには、これもほど近くにある池田城址にむかいます。 池田城公園 池田城公園 池田城公園内にたつ天守閣のごとき建物は、説明板によると、公園のシンボルとしてそれらしく造ったもので、史実にもとづいて正確に再現したものではないそうです。 石基がのこっています。 池田城より五月山をのぞむ 公園内に咲くテッポウユリ 動物園へむかう坂道 時間もあるので、入場料無料の池田市立動物園へ寄ってみます。 動物園へむかってあるくと こんなマンホールが道案内してくれる 動物園入口 なんだかチャチい入口ですが、まあそこは入場料無料ということで-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,大阪

【大阪府・交野市、枚方市 2022.5.22】今日は、徳川家康ゆかりの地である「家康ひそみの藪」を見にゆき、そこから直線距離では16kmほど北にある明智光秀ゆかりの洞ヶ峠まで歩くつもりですが、一般道を通ったのでは面白くもないので、大阪の森林地帯といわれる大阪府民の森から交野山を歩いて行きたいとおもいます。 星田妙見宮 星田妙見宮(小松神社) JR星田駅をおりて、宅地の中のくねくね曲がった道をスマホの地図アプリをみながら歩き、星田妙見宮に到着しました。 各地でときどき見かける妙見宮も妙見神社も、ともに天之御中主神をまつる神社です。 けっこう長い階段を上ります。 さいごの階段をのぼって拝殿へ。 この巨岩がご神体です。 (水の乏しい)滝場も巨岩でした。 家康ひそみの藪 (伝)家康ひそみの藪 じつは、きょう一番の目的地はここなんです。本能寺の変の折、徳川家康は織田信長から安土城で接待をうけ、そのあと京、堺を見物して回る予定でした。まさにその瞬間には、このあたりにいたようなのですが、信長の同盟者であることから身の危険を察した家康は、土地勘のある従者の導きで山伝いに伊賀から伊勢へと決死の脱出行を行います。その行程中に潜んだのがこの藪だそうです。ただし、あくまで「伝」の範囲内です。 ほしだ園地 ほしだ園地へ 大阪府の東側、奈良県との境に森林地帯がのこっていて南から、みずのみ園地、なるかわ園地、ぬかた園地、くさか園地、むろいけ園地、ほしだ園地、くろんど園地とつづき、さらに北へ進むと交野山につながります。 「星のブランコ」と名付けられた吊り橋。 寄付金箱がありますが、わたるのは実質無料です。 ほしだ園地から磐船神社へ ほしだ園地へ入ってきた時と同じような道がつづきますが、いっそう緑深くなってきました。 磐船神社 磐船神社 ... Read More | Share it now!