神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.10.30】東大寺の転害門からかつての京街道を北へ10分もあるくと般若寺があります。般若寺はコスモス寺として有名で例年なら10月末までが見頃なのですが、今年は夏から秋にかけて異常な高温がつづいたため今頃になって見頃を迎えたとWEBサイトで紹介されていました。夏にぎっくり腰を患い、さらに数日前にも腰を痛めて難儀していたのですが、近鉄奈良駅から歩いても2km強、この程度であればリハビリがてら歩くのも良かろうと判断し出かけてみることにしました。 般若寺は高句麗から渡来した法師が創建し、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を護るため伽藍をたて大般若経の経典をおさめたことが起源と伝わっています。往時には千人の学僧が修行をしていたといいます。修行といっても荒行苦行の類ではありません。般若経でいう般若とは「智慧」のことであり、ここでいう智慧とは「真理を見きわめる力」を意味します。経典を読み、もっぱら学問をしていたものと想像できます。その経典ですが、いうまでもなく般若経の教えをコンパクトにまとめた般若心経がつかわれていたことでしょう。 般若寺 楼門は鎌倉時代に再建された重要文化財 さてその般若心経、わずか260文字のおそらく世界一短い経典でしょうが、その260文字をそのまま読むだけで理解できる人がいるのでしょうか。凡夫の私などは260文字を理解するために260頁以上ある解説書を2度読みましたが、それでも「わかったようなわからないような」レベルです。 塀沿いに入口にむかう... Read More | Share it now!

山登り,奈良

【奈良県・曽爾村 2024.10.14】室生山地を訪れるのは、昨秋ススキがひろがる風景を曽爾高原に見にきて以来ですからちょうど1年ぶりということになります。今回はその曽爾高原も東に望むことのできる兜岳と鎧岳に登ります。その名からしてなんとも勇ましいというか、厳めしくさえあるのですが、室生山地にそびえる山々はおおむね標高1000ⅿ前後、またバス停は標高400ⅿ前後の谷間沿いにあり、さらにバス停から車道をのんびり歩いて登山口まで行くとそこは標高600ⅿ前後。すなわちマイカーをつかった場合にもこの登山口までは行けるので、山道登りは標高差にして300~400ⅿ程度ということになります。 兜岳へ 車道をあるいているうちに兜岳が迫ってくる 手前が兜岳、右前方に見えるのが鎧岳 ここから山道に入ります 案内板には「ハイキングコース」とあります。この登山口が標高648ⅿ、兜岳山頂が894mゆえ246ⅿ上がるだけですからたしかにハイキングと言えなくもないですが。-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良市 2024.9.17】平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。 これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。 法華寺 南門から本堂をのぞむ 仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。 鐘楼から本堂 本堂 浴室(からふろ)/... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.7.13】今日は唐招提寺を訪ねます。ずいぶん前に、唐招提寺の平成の大改修をあつかったテレビ番組を見た記憶があるのですが(正確には2009年11月に大改修後の落慶式がおこなわれた直後にTBSで放送)、パソコンをいじくっていたところ偶然にもその番組をYouTubeで扱っており、ありがたいことに全編をあらためて見ることができました。場所は、かつての平城京の北西角あたりに南都七大寺としてのこる西大寺がありますが、そこから南へ2,3kmくだったあたりです。そこからさらに500mほど下ると、やはり南都七大寺に数えられる薬師寺があります。すなわち唐招提寺は南都七大寺に含まれていないわけで、そのあたりも知名度がいまひとつ低い理由かもしれません。またその宗派である律宗があまりにもマイナーゆえ地味な印象もぬぐえないのでしょう。しかし唐招提寺はその歴史をふり返ると、なかなかどうして見逃すことのできない歴史遺産です。 南大門 薬師寺近くの近鉄西ノ京駅で降りて徒歩10分 南大門 南大門は高さがなく、いわゆる楼門でないため迫力に欠けるのですが、横に長くまた前にせり出した軒を太い円柱がささえる特徴的な姿は、その奥に見える金堂をより印象深く視界にとられる効果があるかのようです。 南大門そばにあった境内案内図より抜粋 金堂 南大門から金堂へ 金堂... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.6.22】西大寺は奈良市中心街より西に在り、文字どおり東大寺に対比するように建立された由緒ある寺です。創建当時はその広大な境内に多数の堂宇が建ちならぶ様も東大寺に匹敵するような巨刹で、南都七大寺のひとつに数えられています。ところが東大寺が現在も(その境内が縮小されたとはいえ)大伽藍を誇っているのに対して、西大寺の衰退は著しく悲哀を感じるほどです。じつはこの衰退には理由があります。孝謙天皇は聖武天皇の娘ですが、ほかに妥当な皇位継承者としての男性がいなかったため聖武の没後46代天皇に即位します。母である光明皇后(藤原氏から聖武天皇のもとへ嫁いでいる)と、当時藤原四家にわかれた南家の嫡流・藤原仲麻呂の後見と助力がありましたが、どうやらこのころ孝謙天皇には政務に対する意欲は薄かったようで、実情は光明皇后の信任をえた藤原仲麻呂が実権を握ろうとしていたようです。やがて光明皇后が病いで寝込むようになり、孝謙天皇は皇后の看病を理由に譲位の意向をもらします。では誰を皇太子に指名するか、ここで藤原仲麻呂が動きます。孝徳天皇とははるか遠縁である、天武天皇の孫(舎人親王の七男)である大炊王(おおいおう)を担ぎ出してきて皇太子候補として強引に推挙します。その結果、孝徳天皇が譲位し、大炊王が淳仁天皇として47代天皇に即位します。この大炊王ですが、藤原仲麻呂の邸宅で起居し、さらに仲麻呂の娘(亡くなった長男の嫁で未亡人との説も)を妻としているのですから、仲麻呂はこの日のために着々と準備をすすめていたということでしょう。こうして藤原仲麻呂は淳仁天皇を立てながら完全に実権を掌握してゆきますが、ここで思わぬ「対抗勢力」が現れます。 孝謙天皇あらため上皇は、光明皇后が亡くなったことで気落ちしたのか床につくことが多くなっていました。ここで病気平癒のため祈祷だけでなく治療の知識も有する僧・道鏡が歴史の表舞台に出てきます。 西大寺は大和西大寺駅からすぐ(画像中央) 西大寺境内伽藍... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・桜井市 2024.4.13】御破裂山という奇妙な名前の山があります。多武峰(とうのみね)の山頂をそう呼ぶのですが、多武峰に関しては、神々が天からこの山の頂に降臨し、そこから天香久山(あまのかぐやま)へと下っていったという神話の世界にも登場します。御破裂山の名の由来については、醍醐天皇(後醍醐ではありません)の時代いらい天下に異変があると山全体が鳴動したとか。その回数は35回とか、50回超とか、資料によりまちまちなのが少々胡散臭い、いえいえ少々気にはなるのですが、かつてはその鳴動を注意深く聞くための拝所のような場所まであったというのですから、やはり由緒ある神山ともいえる山なのでしょう。その多武峰の南ふところに談山神社(たんざんじんじゃ)があります。飛鳥時代に蘇我氏が権勢をふるっていたころ、その専横ぶりに怒りを抱く中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が中大兄皇子を誘いひそかに談合した場所と言われており、この談合ののち蘇我氏を排除し(入鹿を暗殺、父の蝦夷は自害)ここから大化の改新が始まることになります。 神社へ バスを降りると、屋形橋をわたる 東大門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良市 2024.2.28】近鉄奈良駅から東へあるくとすぐに興福寺の堂宇が右手に見えてきます。それらをやり過ごしずっと東へあるくと春日大社にたどり着きますが、その「ずっと東へ」ひろがっているのが奈良公園です。なぜ街中にこれほど大きな公園があるのかといえば、もとは興福寺の境内であったということです。さらに言えば、春日大社はもとは興福寺を守るための鎮守社ですから、ここも境内みたいなものです。「境内都市」という表現があります。「宗教都市」にも近いのでしょうが、寺院や神社を中核として成立した都市のことをいい、門前町よりも規模がはるかに大きいだけでなく、政治的にもその地域を管轄している(支配している)のが特徴です。鎌倉から室町時代にかけて、大和一国の荘園の大半はこの興福寺が領していました。大和の国には朝廷の権威も武家の威力も及ばず、すなわち興福寺の権勢がつよすぎて朝廷も幕府も守護を配することができなかったということになります。 もっとも今日はそんな興福寺の歴史探訪ではなく、たんに奈良公園で梅を観て、鹿と遊ぶつもりで電車に乗りました。 猿沢池から興福寺 猿沢池から興福寺の五重塔をみる 興福寺へは、南側の猿沢池からアプローチするのがおすすめです。JR奈良駅からだとまっすぐ東へ歩くとここにたどり着きます。近鉄奈良駅からの場合はまっすぐ東へ行かず、いったん目のまえの商店街を南へすすみ、アーケードを抜けたところで左折するとここに出てきます。ところでこの撮影をした場所の背中には、抜群のロケーションで「スタバ」があります。外国人がコーヒーを飲みながらこの光景を眺めているのに比して、日本人がパソコンやスマホを見ながらコーヒーを飲んでいる光景には笑ってしまいました。 猿沢池をまわって 猿沢池を時計回りとは逆にまわると、この場所にでます。この階段をあがって興福寺にいたるのがベストな選択です。(あくまで個人的な感想です)現在、五重塔は修復中で下層部分は足場が組まれているためこれより先の写真は撮っていません。また興福寺については以前にもブログに載せているので、今回は省きます。 奈良公園 奈良公園にて... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・吉野郡吉野町 2023.11.19】吉野山には3万本といわれる桜が植えられ、毎年春には全山が桜色に染まります。日本人の、おそらく99%かそれ以上の人達は、「吉野山といえば、桜」のイメージではないでしょうか。もちろん、吉野山といえば、まずは桜です。それだけでもかまいません。しかしちょっとばかり吉野山の歴史に目をむけてみると、吉野山観光が2倍も3倍も楽しくなる、かもしれません。 そもそもなぜ吉野山といえば桜なのか。奈良時代のまえ白鳳時代のころ修行道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が一千日間の山ごもり修行のすえ、金剛蔵王大権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで祀ったことに由来するそうで、その後は修験者がご神木として桜を植えはじめたとのこと。もとは観賞用ではありません。おなじころ天智天皇のあとには、次の天皇候補が2人いました。天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)。天智天皇本人が息子に肩入れしていることを知り身の危険を感じた大海人皇子は、剃髪し出家して吉野山にのぼります。しかし冬の吉野山で山中に桜が咲く夢を見たところ、それこそ王になる吉兆と告げられ、挙兵することを決意します。これが壬申の乱のはじまりであり、大友皇子に勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となります。 時代がくだって平安時代末期には、源頼朝と不仲になった義経が、追討から逃れてこの吉野山にのぼり、しばらくの間(数日間?)かくまわれていた史実もあります。その時にはわずかな伴回りしかおらず、愛妾の静御前が捕縛されその後処刑、義経は身一つで奥羽まで逃れますがその後自刃しています。(ただし、この話には... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・吉野郡吉野町 2023.11.19】奈良県の東西南北ちょうど中央あたりに吉野山はあります。もっとも吉野山という単体の山があるのではなく、吉野川の南岸から南の大峰山脈へとつながる尾根筋にある山々を総称して吉野山とよびます。また大和の国から修験道を通って熊野へとつうじる、山深い地にあたるため修験者にとっては山岳信仰の聖地であり、金峰山寺(きんぷさんじ)など多数の社寺がつくられ、その修行と信仰の地を総称して吉野ともよんでいました。その意味では、和歌山県の高野山や、京都と滋賀にまたがる比叡山に近いものがあります。 ところで、吉野といえば桜があまりにも有名で、まるで桜の山のような印象がありますが、吉野山は同時に紅葉の名所でもあります。紅葉するのはおもにモミジとサクラ、特筆すべきは吉野山にあるモミジが300本ほどであるのに対して、桜の本数はざっと3万本。桜紅葉という言葉は、吉野山のためにつくられたものではないでしょうか。3万本のサクラの紅葉は、おそらく日本はもちろん世界でも吉野山でしか見られないものと思います。ところが今年は10月末まで気温が高く、モミジやカエデよりもさきに色づくサクラはじゅうぶんに葉を色づかせる間もなく、散ってしまいました。それでもモミジの紅葉が見頃となったそうなので、出かけてみることにします。 吉野山歩き 吉野山観光協会・公式サイトの地図から一部抜粋 今日の予定ですが、右下の吉野駅をスタート、上下に2本ある黄色と青色のダブルになった下の方の道を進み、途切れたところから青破線をすすんで如意輪寺へ。そこからさらに青破線をすすみ、花矢倉の手前で太い青線に合流、そこから先へ吉野水分神社、高城山をへて奥千本地区へ。青破線を一周して、花矢倉までもどり、そこからひきつづき太い青い線をくだり、竹林院、桜本坊、吉水神社をへて金峰山寺、黒門をぬけ九十九折の急坂をくだって吉野駅へもどることにします。 如意輪寺へ 歩きはじめは車道ですが、車は走っていません 左は吉野桜、右は吉野杉 吉水神社への分岐あたりから紅葉が見られる 如意輪寺へあがる石畳の道... Read More | Share it now!