神社・仏閣,奈良

【奈良市 2025.9.13】奈良時代、仏教をひろめるため聖武天皇の勅願で東大寺が建立されますが、そののち東大寺と対になるように称徳天皇の勅願により西大寺が創建されます。両寺の寺名からもわかるように平城京においては東と西に位置します。さて今日訪ねる寺は、西の西大寺の、その北にあります。寺名は秋篠寺あきしのでら。東大寺と西大寺がともに由緒の正しさがよく知られているのに対して、秋篠寺の前身は地元の豪族・秋篠氏の氏寺ではなかったかと伝えられているもののはっきりしません。しかし記録としては、奈良時代の末期に光仁天皇の勅願により造営されたとあるようです。その意味では天皇の勅願寺ということになり、由緒には問題はないと言ってよいでしょう。 秋篠といえば、あたりまえのように今上天皇の弟君である秋篠宮殿下(文仁親王)を思い浮かべることでしょう。天皇家の人々には姓がありません。さらに細かく言うと、今上天皇の徳仁とか秋篠宮家の文仁は名ではなく「称号」というべきものです。文仁親王の結婚に際し、そのときの天皇(平成天皇、いまの上皇)から秋篠宮の宮号を賜って、秋篠宮文仁(宮号+称号)と呼ばれるようになったということです。(今上天皇は天皇ゆえに宮号もなく、ただ称号の徳仁のみ) 秋篠へ 近鉄大和西大寺駅から秋篠寺までは徒歩20分ほど 地名や寺名が宮号に使われるのは珍しいことではありません。たとえば三笠宮は春日神社の背後にある御蓋山(みかさやま)から。桂宮は桂離宮のある桂村から。 秋篠寺南門手前にある八所御霊神社崇道天皇ほか八所(八つ)の御霊をまつる、もとは秋篠寺の守護社 秋篠寺の本堂には本尊の薬師如来ほか多数の仏像が祀られており、そのなかでも伎芸天ぎげいてんは、その優しい笑みと美しい立ち姿から一番人気といえます。文仁親王が結婚にさいして秋篠の宮号を賜ったことについて、その伎芸天の顔立ちが結婚される紀子さんに似ているので秋篠の号を希望したと語ったそうですが、これはあきらかにリップサービスに類するものでしょう。残念ながらというか可哀そうというか、天皇家の人々にはそのような、結婚相手の容姿がらみで宮号を選ぶ自由はありません。 南門から 秋篠寺・南門 南門から入って、 樹林と境内全体にひろがる緑苔三連休初日にもかかわらず人出もまばらで、 静謐の空間に身を置いていると、時の流れが止まったかのような錯覚を覚えます 天皇家の人々は法律上は日本国民ですが、戸籍がありません。日本国民の全員がもつ姓名もありません。日本国民としての権利(人権)がないので、選挙権も被選挙権もなく、日本国民としての自由を保障されていない(あるいは大幅に制約されている)ので、職業をえらぶ自由も、生活拠点を変える(引っ越し)自由も、好きなところへ旅行する自由もありません。天皇(および皇族)は、天照大御神あまてらすおおみかみを始祖とする神の系譜であり、戦後の「天皇の人間宣言」が発出されるまでは現人神あらひとがみ(人の姿でこの世に現れた神)とされてきました。ずいぶん右寄り思考の私ですら、(ブログにはしばしば天皇は現人神であると書いていますが)天皇が神様の系譜だとは信じていません。そもそもアマテラスであれ、スサノオであれ、オオクニヌシであれ、見方しだいではその生い立ちは笑止千万といえます。もともと日本人にとっての神様は「自然」でした。太陽の光であり、風であり、雨であり。その自然イコール神を崇拝するなかで、より拝む対象をはっきり具体化させるために御神体が生まれ(選ばれ)ました。それが富士山などの山であり、磐座いわくらとよばれる岩であり、霊木とよばれる巨樹であり。そこに神が降臨する、あるいは神霊が宿るとされました。それでは山や岩や巨木に降臨し宿る神とはいかなるものなのか。やがて神の姿をよりはっきり知りたいという欲求が生まれます。それは崇拝する対象をもっとくわしく知ることによって、より親しく崇めたい、拝みたいという希求がもとになっているのでしょう。古事記や日本書紀の神話に関する記述はなんともユーモラスで、(それゆえ見方次第では笑止千万となるのですが)対象が神様でありながら思わず親しみを感じてしまいます。日本の神様は八百万やおよろずといわれるように唯一神でないだけでなく、全知全能の絶対神でもありません。唯一神でもなく絶対神でもない、誰にとっても親しく身近に、むずかしい礼拝の言葉も必要なく、ただ手を合わせて頼ったり、すがったり、願ったり、甘えたり... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良市 2025.4.16】JR奈良駅から別名「万葉まほろば線」として親しまれている桜井線にのって南へ下ると、最初の駅が京終(きょうばて)です。意味は文字通り平城京の終わり(果て、端)を意味します。さらに南下すると、帯解(おびとけ)駅があり、石上神宮いそのかみじんぐうが近い天理駅、古代遺跡の代表である纒向まきむき遺跡がのこる巻向、大神おおみわ神社と三輪山が鎮座する三輪をへて桜井駅へ。このあたりは大和がまだ倭と記されていた時代にヤマトの中心であったと考えられている土地です。 「まほろば」とは古事記にも出てくる古語で、漢字で書くと「眞秀呂場」となり「素晴らしい処」を意味します。そもそもはヤマトタケルが詠んだ歌「倭は 国のまほろば 畳たたなづく 青垣 山籠ごもれる 倭し麗し」が由来となっているようです。 奈良観光というと、東大寺や春日大社をふくむ奈良公園周辺、法隆寺のある斑鳩、桜と紅葉がみごとな吉野、あとは薬師寺、飛鳥(明日香村)、橿原神宮といったところのようですが、この万葉まほろば線沿いにもなかなか見逃せない処(観光客がぐっと少ないという意味では穴場)があります。とはいっても、天理~巻向~三輪~桜井あたりは以前にあるいてブログにも書きました。そこで今日は、京終から天理までの途中に位置する帯解おびとけで下車して周辺を歩いてみることにします。 帯解寺 帯解寺・山門 帯解寺おびとけでらの名の由来を書いておきます。文徳もんとく天皇(1200年ほど前に即位した第55代天皇)と后の染殿皇后が子供ができないことを悩みこの寺で祈願したところ、男児・惟仁親王(のちの清和天皇)をさずかり無事に出産。天皇はおおいに喜び「腹帯がとけて安産できた」との意味で、「帯解寺」の名を下賜されたとのこと。 本堂、左後方に十三重石塔 以上が一般につたわる由来ですが、実際のところはずいぶんキナ臭い史実が残っています。染殿皇后の元の名は藤原明子。父は藤原良房、皇族以外ではじめて摂政の位についた実力者(くせ者とも言える)です。 藤原良房の妹・順子は54代任明天皇に嫁ぎ道康親王を出産、これがのちの文徳天皇です。 本堂 文徳天皇は他の后がさきに産んだ第一皇子を寵愛していたものの、良房は娘である明子を入内させ惟仁親王を出産すると、天皇家に藤原家の血をさらに濃く注ぎ込むため強引に惟仁親王を立太子させます。※立太子とはつぎの皇位継承者として立てること。本来は天皇すなわち文徳天皇が決めるべきことをここでは岳父の良房がやってしまっている。 帯解寺の名の由来にケチをつけようというのではなく、歴史は裏があるから面白い、と思いませんか? 円照寺 帯解寺から円照寺へは徒歩20分 長い参道を歩いてゆくと、 やっと山門に着きます ところが未公開の拝観謝絶でした(笑) 山門手前から霊気漂うような石段が なんとか歩けるように整えた道をすすむと、 大師堂にたどり着きました... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・吉野町 2025.4.9】およそ15年ぶりに吉野の桜を見に行くことにしました。ベストの見頃は明後日か明々後日のようなのですが、明日から天気がくずれるとの予報のため、快晴予報の本日決行することにしました。なぜ「決行」などという大げさな言葉を使うかというと、桜が見頃時期の吉野はえぐいほどの人出で、たとえば関西登山のガイドブックには桜のシーズンは混みすぎるので避けた方がよいと注意書きがされるほどです。人出に関して、それほど多くないのではと楽観できる要因は今日が平日であること、とんでもなく多いのではないかと悲観するしかない要因は明日から天気が悪くなるため(私と同じように)今日しかチャンスはないと考える人が... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・桜井市 2025.3.31】神様について、少々ややこしいですが、ここは肝心なところなので詳しく書いておきます。日本の神話においては天照大御神あまてらすおおみかみが最高神ですが、アマテラスが神のくらす天上界の主宰神(その世界を統べる主たる神)であるのにたいして、人がすむ地上界で国づくりをおこなったのが大国主神おおくにぬしのかみであり、そのためオオクニヌシは地上界(葦原中国)の主宰神とされています。さてアマテラスの数代あとの孫のひとりが日本の初代天皇である神武天皇です。神武天皇は127歳まで生きたということになっているので、このあたりの記紀(古事記と日本書紀)の記述はずいぶん疑わしいのですが、日本人として実直に信じるならば、いまの天皇家はアマテラスの後裔ということであり、それゆえに現人神あらひとがみとされています。そのアマテラスの弟が須佐之男命すさのうのみことであり、オオクニヌシはスサノオの数代あとの孫とされています。すなわちオオクニヌシは天皇家とは直接血のつながりがありません。それどころか記紀を読んでいるとスサノオは暴れん坊であったとか、オオクニヌシは優しい性格ゆえに兄弟に虐められていたとか、なんだか神様でありながら人間くさく身近に感じられるところが多々あります。個人的な推論ですが、天上界の主宰神アマテラスを天皇家の始祖とすることで、地上界のオオクニヌシをはじめ各地で祀られる氏神や鎮守神らと区別して、あくまでアマテラスすなわち天皇家は手の届かないものとします。そのうえで地上界の神々は人がスガルも良しアガメルも良し、困ったときだけの神頼みもOK、しかも家内安全・商売繁盛・厄除け・交通安全・念願成就・病気平癒・恋愛・結婚・安産なんでもござれ、任せなさい、頼りなさい、ということになったのでしょう。ということは、オオクニヌシこそ我ら平民のたよれる神様の、さらにその親方ということになります。オオクニヌシが祀られている神地としては出雲大社がもっとも有名ですが、奈良県・桜井市の三輪山にも祀られています。むしろ三輪山に祀られたとする歴史の方が古く、山麓にある大神神社おおみわじんじゃは日本最古の神社と記録されています。ところが大神神社の主祭神はオオクニヌシ(大国主)ではなく、オオモノヌシ(大物主)です。じつはオオモノヌシはオオクニヌシの異名です。なぜ異名で呼ばれるか... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,奈良

【奈良県天理市・2025.3.9】国見山とは、その土地の国人(地頭、君主など)あるいはときに天皇が高台にのぼって一帯を見わたし世の平和を確認するための、その高台をふくむ山のことを指します。ネットで「国見山」と検索すると、全国に30ぐらいは同名の山があるようで、文明の利器のない時代にはとりあえずは高いところへあがり上から自分の目でみて確認していたのであろうことが察せられます。奈良県およびその周辺にも国見山という名の山は二つ三つありました。どのような意図で「大」の一字を加えたのでしょうか、その一字で大国見山は全国で唯一の山になっています。けっして大きな山ではありません(標高498m)考えられることは、非常に歴史がふるく記紀(古事記と日本書紀)にも祭神についての記述がある石上いそのかみ神宮とその元社といわれる石上神社がふもとに鎮座することから敬意の意味で「大」をつけたのではないか。そんなことまで考えてみたのですが、存外に「大奮発」とか「大サービス」ぐらいのノリで後世の人があてがっただけなのかもしれません。 天理教団から石上神宮へ 神殿とよばれる天理教本部前を通る 天理市は新興宗教の団体である天理教からその名がついた文字通りの宗教都市といえます。街を歩いていても違和感はありません。むしろ放置ごみや吸殻のポイ捨ても見当たらず、住民のマナーはきわめて良いように見受けられます。その意味では大阪市も大阪市民も... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.10.30】東大寺の転害門からかつての京街道を北へ10分もあるくと般若寺があります。般若寺はコスモス寺として有名で例年なら10月末までが見頃なのですが、今年は夏から秋にかけて異常な高温がつづいたため今頃になって見頃を迎えたとWEBサイトで紹介されていました。夏にぎっくり腰を患い、さらに数日前にも腰を痛めて難儀していたのですが、近鉄奈良駅から歩いても2km強、この程度であればリハビリがてら歩くのも良かろうと判断し出かけてみることにしました。 般若寺は高句麗から渡来した法師が創建し、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を護るため伽藍をたて大般若経の経典をおさめたことが起源と伝わっています。往時には千人の学僧が修行をしていたといいます。修行といっても荒行苦行の類ではありません。般若経でいう般若とは「智慧」のことであり、ここでいう智慧とは「真理を見きわめる力」を意味します。経典を読み、もっぱら学問をしていたものと想像できます。その経典ですが、いうまでもなく般若経の教えをコンパクトにまとめた般若心経がつかわれていたことでしょう。 般若寺 楼門は鎌倉時代に再建された重要文化財 さてその般若心経、わずか260文字のおそらく世界一短い経典でしょうが、その260文字をそのまま読むだけで理解できる人がいるのでしょうか。凡夫の私などは260文字を理解するために260頁以上ある解説書を2度読みましたが、それでも「わかったようなわからないような」レベルです。 塀沿いに入口にむかう... Read More | Share it now!

山登り,奈良

【奈良県・曽爾村 2024.10.14】室生山地を訪れるのは、昨秋ススキがひろがる風景を曽爾高原に見にきて以来ですからちょうど1年ぶりということになります。今回はその曽爾高原も東に望むことのできる兜岳と鎧岳に登ります。その名からしてなんとも勇ましいというか、厳めしくさえあるのですが、室生山地にそびえる山々はおおむね標高1000ⅿ前後、またバス停は標高400ⅿ前後の谷間沿いにあり、さらにバス停から車道をのんびり歩いて登山口まで行くとそこは標高600ⅿ前後。すなわちマイカーをつかった場合にもこの登山口までは行けるので、山道登りは標高差にして300~400ⅿ程度ということになります。 兜岳へ 車道をあるいているうちに兜岳が迫ってくる 手前が兜岳、右前方に見えるのが鎧岳 ここから山道に入ります 案内板には「ハイキングコース」とあります。この登山口が標高648ⅿ、兜岳山頂が894mゆえ246ⅿ上がるだけですからたしかにハイキングと言えなくもないですが。-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良市 2024.9.17】平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。 これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。 法華寺 南門から本堂をのぞむ 仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。 鐘楼から本堂 本堂 浴室(からふろ)/... Read More | Share it now!