【山形県・米沢市 2025.5.24】2022年に放映された大河ドラマは「鎌倉殿の13人」でした。ここでいう13人とは、もともと2代将軍・源頼家と直接主従関係をむすんだ家臣、すなわち鎌倉幕府においての御家人にあたり、それらが13人おり全員の合議制でことを決めようとしたものでした。そのなかのひとり大江広元は公家出身で、源頼朝の時代にはその補佐役であり、幕府と朝廷のパイプ役であり、かつ他の御家人と頼朝との連絡係でもあり、将軍につぐナンバー2だったと言って過言ではありません。 その大江広元が米沢城とどのように関係してくるのか。「鎌倉殿の13人」をご覧になった方はご承知のように北条義時が御家人のなかのトップにたち権力をしだいに掌握してゆきます。やがて後鳥羽上皇が幕府への権力集中に不満を抱き周囲に鎌倉打倒を勅命することになります。これが承久の乱ですが、朝廷側はあっけなく敗北し、上皇は隠岐に流されます。史実によれば、大江広元は北条義時が台頭するのちも鎌倉幕府の政務に協力するだけでなく、承久の乱では公家出身であるにもかかわらず終始幕府方についていたようですが、嫡男の大江親広は朝廷方につき幕府軍との戦闘にも関わっていたようです。もうすこしで米沢城にたどり着きます。それがために親広は改易、次男の時広が惣領となります。さて時広ですが、幕府の中枢で活躍していたはずなのですが、いつのまにか出羽国に所領をあたえられ鎌倉からも京からも離されてしまいます。なんとなく左遷の空気がただよいます、やはり長男・親広の行動が問題になったのでしょうか。 時広が所領をえた地は長井郡(長井荘?)と呼ばれていたため本人も長井時広と改姓し、その地に拠点とする館を築きます、それが米沢城のはじまりと言われています。※ここまで話をひっぱりながら恐縮なのですが、長井時広の館が米沢城のはじまりというのも一つの説にすぎず確証はありません。 米沢城 本丸をまもる水堀 城内の案内図より 舞鶴橋(石橋)から本丸へ 舞鶴橋をわたる 上杉鷹山の像 舞鶴橋の手前に上杉鷹山ようざんの座像があり写真を撮るでもなくやり過ごしたところ、本丸に入ってすぐのところにふたたび立像がありました。よほど「売り」にしているのでしょう。 冒頭で大河ドラマを話題にあげたのは、じつは米沢城内でしきりに「上杉鷹山を大河ドラマに」と訴える幟が目についたがため... Read More | Share it now!
山形城といえば最上義光なんだけど
【山形市 2025.5.23】南北朝時代、足利尊氏とおなじ清和源氏のながれをくむ斯波某が北朝方の奥州管領かんれいとしてこの地に入ったのか、その斯波某が南朝方の某氏をしりぞけかわってこの地をおさめることになり結果として奥州管領となったのか。そこのところはよくわからないのですが、ともかく斯波某がここに山形城の原型となる城をきずいて統治の拠点とした、というのが山形城の歴史のはじまりのようです。 信長に代表される織田家が勃興し支配した尾張国を室町時代に統治していたのも斯波氏ですが、それぞれ尾張斯波氏、出羽斯波氏のように区別されています。出羽斯波氏はやがて最上と名乗るようになります。ということは、南北朝時代から室町、戦国時代をへて江戸時代初期にいたるまで戦乱の下剋上の時代にいちども領主の家筋がかわることがなかった、稀有な例といえます。戦国時代に、たとえば尾張斯波氏が織田氏に尾張国を乗っ取られたように、なぜ出羽国は成り上がり大名に取って代わられなかったかといえば、もっとも多難な時代に最上家に義光よしあきがうまれてきたからと言っても過言ではないでしょう。そのすぐれた武力と政治感覚で、ときには伊達政宗の爪牙そうがをかわし、ときには上杉家の直江兼続の猛攻を耐えぬき、家康とは昵懇の仲になり57万石を領して初代出羽藩主となり、藩の統治においては善政をしき明君として民からも慕われていたようです。 山形城 水堀... Read More | Share it now!
立石寺は人が多くて閑かでもなく蝉の声もなかったが、
【山形市 2025.5.23】正式に「宝珠山... Read More | Share it now!