街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・可児市 2024.3.13】今日も「青春18きっぷ」をつかっての見て歩きになるので、通常はなかなか行きがたい遠方まで足を伸ばすことにします。前々から見に行きたかった、岐阜県・可児市にのこる美濃金山城について電車の連絡などを調べていたところ、最寄り駅が名鉄の明智駅。もしやと思って地図をよくみると、駅の北と南に位置するものの、明智城跡がおどろくほど近いことに気づきました。駅からの距離も調べて、朝7時過ぎに自宅をでて、11時半に明智駅着。それから歩きはじめても二つの城をめぐることは十分可能です。楽しみが二倍になりました。 明智城跡 駅から南へ歩くと、明智城址がのこる丘陵が このあたりが大手門跡 左が東出丸曲輪、右が中ノ曲輪 中ノ曲輪の切岸... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・大垣市 2024.1.5】大垣城が歴史の中ではっきりと記録されるのは、美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀(信長の父)による争奪戦が繰りひろげられるようになってからです。地理的に言うと大垣城は尾張からずっと美濃の領地へ食い込んが位置にあるのですが、その大垣城を織田氏に奪われるというのは美濃をおさめる斎藤氏にとっては喉元に刃を突き付けられたようなものでしょう。ところが織田信秀が亡くなり、跡取りの信長がその威力を発揮するまでに至らぬうちに斎藤氏は尾張の勢力をぐぐっ押し返し、長良川をはさんで国境をしっかり固めます。歴史を振り返ってみると、信長はこの美濃との国境を越えるのに大変な労苦を強いられたようです。義父である斎藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて果てたのが1556年、そのときから信長は美濃侵攻をはかります。しかしその後1560年に桶狭間で今川義元を討って全国にその名を轟かせ、1561年に義龍が病死し嫡男・義興との小戦には勝利しますが、美濃侵略までにはいたりません。このあたりから信長は美濃攻めの方針を変えたようです。義龍を失って屋台骨が揺らぎはじめた斎藤氏の家臣たちの調略を始めます。5年の時がながれ機が熟したころ、当時まだ足軽頭ていどだった秀吉をつかって長良川の対岸(美濃側)に砦を築かせ、そこを拠点に一気に美濃に押し寄せ、翌1567年に美濃を完全に掌握します。この件(くだり)はよく把握しておかねばなりません。秀吉が長良川の対岸に砦を築いた(これが墨俣一夜城)おかげで信長の美濃侵攻が可能になったと、後世にはすべて秀吉の手柄のように語られていますが、そのまえに美濃の有力な国人衆を懐柔してその諸城を手にし、さらに斎藤家の重臣である西美濃三人衆すべてを味方につけています。すなわち美濃に侵攻してきた織田軍に対して全力で交戦する美濃兵はすでにほとんどいなかったということです。 大垣城 あらかじめ書いておきますと、大垣城は石垣と曲輪を遺構として残すのみで、天守をはじめ櫓や塀などはすべて鉄筋コンクリートで復元したものです。 城のそばに鎮座する護国神社 大垣城... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,岐阜

【静岡市 2023.1.12】山から下りて静岡市街につくと、さっそく駿府城を訪ねてみました。ここは徳川家康にとって(政治的、軍事的に)重要である以上に、お気に入りの土地だったのではないでしょうか。そもそも家康は三河の人ですからいまの岡崎、浜松あたりを拠点にしていました。家康は信長とともに武田氏を滅ぼすと、その所領であった駿河の領有をゆるされ、さっそくいまの静岡市に城をつくりはじめます。この辺りには、ずっと時をさかのぼれば今川氏の城がありましたが、それは防御機能もそなえた館ていどのもので、家康は今川氏の城を改修増築したのではなく、まったく新しく築いたとみるべきでしょう。やがて秀吉の時代になり、家康はさまざまな思惑から関東地方へ転封されます。そのとき築いたのが江戸城であり、江戸城を居城としている時期に天下人となりますが、じきに征夷大将軍の位だけを息子に譲り、自分はこの駿府城にもどり、隠居と称しながら実質上は駿河の地から日本を動かしてゆきます。いわゆる「大御所政治」のはじまりですが、このとき家康は駿府城を拡張さるだけでなく再整備してあきらかにより居心地のよい城に変え、以後ずっとこの城で暮らします。亡くなったのももちろんこの城でのこと。駿河湾でとれた魚をたべて食中毒になって死んだとの説もありますが、これはどうやら創作話で、実のところは胃癌だったようです。享年73歳。 駿府城・外堀と大手門跡 部分的に残っている外堀 外堀... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,岐阜

【岐阜市内 2022.2.11】織田信長が出身国の尾張をほぼ全域にわたって平定したのが1559年、そして隣国・美濃を攻略し岐阜へ移城するのが1567年。その翌年には伊勢、および畿内の山城、摂津、河内、大和などをいっきに平定しているので、美濃とその核になる稲葉山城(のちの岐阜城)を落とすのがいかに困難だったか、言いかえると美濃を手中にしたことで天下獲りが間近になったことを物語っているようです。 今回は「関西」から外に出て、岐阜のまちを歩いてみます。 岐阜駅前 JR岐阜駅前にたつ黄金の信長像 これが有名な黄金像ですか。たしかに目立ちはしますが、趣味がよいとは言い難いような... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜市内 2022.2.11】織田信長は尾張一国を平定後、美濃、伊勢と領土をひろげ、いよいよ天下を治めるために「天下布武」をかかげます。その起点となったのが、岐阜城です。岐阜城はもとは信長の正室・帰蝶(濃姫)の父、すなわち信長にとっては岳父である斎藤道三の居城でした。道三から信長に城主が代わるまでには、のちに秀吉の軍師となる竹中半兵衛がかかわったこともあり、なにかと歴史にその名を刻まれている名城です。 今回は「関西」から外に出て、その岐阜城を訪ねてみます。 金華山 金華山... Read More | Share it now!