【島根県・松江市 2024.8.1】松江城の歴史については、(地元の人間ではないので)それほど興味深いものが見あたりません。堀尾忠氏が関が原の戦いの戦功により浜松から出雲松江に加増転封され、当時の本城である月山富田城に入りますが、すでに戦国動乱期をすぎ領国統治を重視すべき時代には山城は不便不適なため、宍道湖に面し川に沿って中海にもぬけられる要衝の地にあらたに城を築きます。それが松江城です。 松江城に関して特筆すべきものとしては、江戸時代およびそれ以前に建てられた天守(閣)がそのまま残存している場合それを現存天守といいますが、全国にのこっているのはわずかに12基、松江城の天守はそのひとつです。 現存天守として残ることがどれほど稀有なことであるかを考えてみます。いま全国には3万ほどの城(大半が城跡)が残っています。鎌倉時代以前につくられた城はほとんどが砦のようなものです。室町時代になっても城郭に物見台をたてる例はふえたものの天守という概念で建てたものではありません。一般には織田信長が築いた安土城が天守をもつ最初の城といわれています。もうすこし広義にみると松永久秀が築いた多聞山城の多聞櫓をそれとする意見がありますが、どちらにしても戦国時代のことです。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて(慶長時代)、築城ブームがおこります。これは全国平定をおえた豊臣秀吉が諸侯に金とともに力をたくわえて謀反を起こさないよう意図的に散財させる目的があったとも考えられますが、ともあれこのとき3千におよぶ城が新築され、天守をもつものがその十分の一ほどと考えられます。すなわちこの時点で、3~4百の天守をもつ城があったということです。 松江城・大手門から三の門、二の丸へ 大手門跡の入口にあった案内板より抜粋 秀吉にとって代わり天下統一をなしとげ江戸幕府をひらいた家康は、自分が秀吉の天下を簒奪したからこそ秀吉の立場に陥ることを恐れたのでしょう、諸国の大名の力を削ぎ落すためまず一国一城令を発布します。これは居城以外の城(すなわち戦のための城)をみずから破却しろという命令です。この一国一城令により大半の城がなくなったように思われがちですが、この法令はおもに反徳川派であった西国大名を狙い撃ちするもので、すぐに全国の城が激減したわけではありません。 むしろそのあとに出された武家諸法度により城の新築を禁止されるだけでなく、修築も幕府の許可を得ることを義務化されたため、戦のない時代に多額の金をつぎこんでさらに幕府に頭をさげて許可をえて天守を保持することは酔狂と思われたのかもしれません。 堀越しに二の丸一帯をみる... Read More | Share it now!
難攻不落の月山富田城、たしかに落とせそうにない
【島根県・安来市 2024.8.1】月山富田城は鎌倉時代に冨田氏が築いた城でした。しかし時代は移りかわります。宇多天皇の流れをくむ宇多源氏のなかで、近江一帯でおおいに隆盛したのが佐々木氏(佐々木源氏)ですが、やがて信綱の時代に四家に枝分かれします。そのなかで宗家である六角氏を圧倒するように栄えたのが分家の京極氏です。京極氏の繁栄は、ひとえに佐々木道誉(京極道誉)が足利尊氏に協力して室町幕府創立におおいに貢献したことによりますが、このときの功績で京極氏は近江、若狭、摂津など京都周辺のほかに出雲の守護も務めることになります。もちろん京極氏みずからが守護職を務めるすべての国を管理することはできないので、ここでは血縁関係にある(道誉の孫からの分家?)尼子氏を守護代としておくことにします。その尼子氏ですが、応仁の乱のゴタゴタに乗じて勢力を拡大し、乱ののち当主となった尼子経久が京極氏から出雲における支配権をうばい実質的な守護になります。そして尼子氏は下剋上の典型のように守護大名から戦国大名として月山富田城を拠点に四方へ勢力を拡大してゆきます。経久のあとをつぐ晴久の時代には、山陰山陽11か国のうち実に8か国をおさめる大大名にまで駆け上がりますが、ここに毛利元就が登場します。 月山富田城・下段 登城途中にあった案内板より抜粋 まず月山富田城のイラストを掲載します。いまは建物は復元物をのぞくとなにも残っておらず、このイラストとはずいぶん違います。ここでは城郭構造が下段、中段、そして山頂の主郭の3段にわかれていることを確認してください。 下段にあたる部分から歩きはじめます。 千畳平から城下を見る 安来市観光協会提供の案内図より抜粋 迷子にならないように、ここで縄張図も掲載します。左上の駐車場🅿から千畳平まで上がってきました。千畳平は城下を見張ると同時に、城下から攻めてきた敵を防衛するための最初の拠点です。 このあと太鼓壇をぬけて、中段の花の壇から御殿平に向かいます。 曲輪と曲輪の間には大きな堀切(天然か?) 馬場とおもわれる細長い曲輪 山中鹿之助の像 当時は太鼓をたたいて城内の兵に伝達をおこなっており、その太鼓をすえた櫓がこの曲輪にあり太鼓壇とよばれていました。 その一角に山中鹿之助(幸盛)の像があります。 月山富田城・中段 御殿跡のある中段へとむかう/前方に山上主郭が見える 山中鹿之助は尼子氏の家臣ですが、系譜のうえでも尼子氏につながる武家に生まれたようです。13歳のときに敵の首を獲ったとか16歳のときに近隣にその名をしられた豪傑を一騎打ちで打ち負かしたという記述もありますが、それは話半分としても武勇に秀でていたことは間違いありません。 家屋を復元した花の壇... Read More | Share it now!
浜田城にて、案内板を最大限につかって楽しむ
【島根県・浜田市 2024.7.31】浜田城の歴史はそれほど古くはありません。伊勢国松阪藩の吉田某が、大坂の陣のあと徳川氏主導の報奨をふくめた国替えにより5万余石で入封し、石見国浜田藩主となると同時に城づくりをはじめます。その後は、本多氏、松平氏など徳川将軍家と関係のふかい武将が入れ替わり藩主をつとめます。おそらく大幅な減封を強いられたことで徳川家に恨みをもつ毛利氏への山陰側の抑えの意味もあったのでしょう。江戸時代の毛利氏・長州藩は萩に居城をかまえており、その長州藩と隣接し萩を山側から見下ろす位置にある石見国津和野にはやはり徳川家と昵懇の亀井氏を藩主として配しているので納得できます。幕末になると長州藩は倒幕をかかげて武装蜂起しますが、案の定京都をめざす過程で浜田城を攻撃の第一目標にします。ここで激戦があり浜田城を死守する浜田藩兵の奮戦により長州軍は足止めを食い... Read More | Share it now!
石見銀山はどれだけ稼いでいたのか
【島根県・大田市 2024.7.31】石見銀山は2007年に世界遺産に登録されています。その登録理由は、石見銀山世界遺産センターによると、①「16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響」②「銀生産の考古学的証拠が良好な状態で保存されている」③「銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたる鉱山活動の総体を留める」②と③については現地を見て歩けば確認できるはずですが、①については資料をさがしながら考えてみたいと思います。 ①でいう16世紀から17世紀初頭ですが、守護大名の山内氏と戦国大名の尼子氏が出雲を中心に中国地方の覇権を争っていたのが1530年~1550年代、毛利氏が石見銀山の奪取もふくめて尼子氏を制圧したのが1560年代、信長の家臣として秀吉が中国攻めをおこなっていたのが1580年前後、そして関白となり事実上の天下人になったのは1585年、関ヶ原の戦いが1600年で家康が江戸幕府をひらいたのが1603年。こうしてみてくると、①でいう時期はまさに風雲急を告げる戦国時代にぴったり合致します。この間石見銀山の支配者も、山内氏→尼子氏→毛利氏→豊臣氏→徳川氏と目まぐるしく入れ替わります。それだけ石見銀山に魅力すなわち価値があったわけで、石見銀山を占有すれば莫大な富がもたらされたということでしょう。いかに戦国の武将たちがこの石見銀山を喉から手が出るほど欲していたかを示す例、それも露骨な例をひとつあげておきます。家康は関ヶ原で勝利しますが、この勝利は徳川方が親豊臣方に1勝したというだけで大坂城には豊臣秀頼は健在です。それにもかかわらず家康は豊臣家の一家老の立場のまま朱印状をだして石見銀山への出入りを禁制します、しかも関ヶ原で勝利したわずか10日後のこと。そして1ヶ月後には人を遣ってこの石見銀山を毛利氏から接収してしまいます。 石見銀山をあるく 観光案内所駐車場にあるジオラマ 石見銀山を見て歩くには、観光案内所前でうけつけているワンコインガイド(ひとり500円均一)に参加することをおすすめします。個人でも回れますが、限られた時間内で得られる情報量がまったくちがいます。なおこのツアーでは、ジオラマの左平坦地から谷沿いに右端の山間部まであるき、そこで坑道に入ります。 車も走れる舗装道と並行する遊歩道を歩きます 寺院跡... Read More | Share it now!
出雲大社をカップルで詣でると別れる?わけがない
【島根県・出雲市 2024.7.30】まず出雲大社の由緒から始めましょう。日本神話の中での最高神が天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、その弟に素戔嗚尊(スサノオノミコト)がいます。スサノオは日ごろから粗暴な振る舞いがめだち、乱暴者の烙印を押されていました。そんなスサノオに怯えるわ呆れるわでアマテラスはとうとう天の岩戸(洞窟)に隠れてしまいます。アマテラスは太陽神です。そのアマテラスが岩戸にこもってしまったために世の中からは太陽の光がなくなり、あらゆる作物が育たなくなり動物たちも病に倒れ始めます。さあ大変ということで八百万(やおよろず)の神々は話し合って策をねり、岩戸の外でどんちゃん騒ぎをはじめます。すると外の様子が気になったアマテラスは岩戸をすこしだけ開けて外の様子をうかがうのですが、そのすきに外に引き出されてしまったため世の中に太陽の光が戻されることになります。【このとき神々がやったどんちゃん騒ぎについて「古事記」には神々は踊り狂って、さらには女神が着物の裾をまくり上げ**と、ずいぶん過激な表現もあるのですが、こうして騒いで踊り狂ったことこそが「祭り=祀り」の起源とされています】そして神々はアマテラスがふたたび天の岩戸に隠れることがないように、岩戸を封鎖し端から端へと縄をかけます。【この岩戸にむすんだ縄が、注連縄(しめなわ)の起源です】 一方スサノオはというと、父から命じられた海をおさめるための仕事はしない、亡き母がいる国へ行きたいといつまでも子供のように駄々をこねる、粗暴な行動から姉のアマテラスに愛想をつかされる... Read More | Share it now!
奥出雲に三沢城をたずねる
【島根県・仁多郡奥出雲町 2024.7.30】 出雲駅近くでレンタカーを借り、カーナビで「三沢城」を目的地に指定したところ距離にして40km、時間にして1時間30分と表示されました。出雲市街は東西とくに東にながく拡がっており、南へ走るとじきに田園風景にかわります。田園風景はやがて山間部にはいり、信号も渋滞もなく50分ほどで三沢城に到着しました。山並みは低山ばかりで秘境にきたという印象はありませんが、集落がたまにあるだけでいかにも山深くに入ってきたと実感しました。ちなみに一帯ではスマホのネットは繋がらず難儀しました。 三沢城 登城口にあった案内板より抜粋 鎌倉時代に当時の武家政権の総領である北条義時にたいして、朝廷側の後鳥羽天皇が勅命で軍を起こしたのが承久の乱です。この承久の乱ですが、朝廷側の敗北におわり後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます。いっぽうの北条氏はそれまで朝廷の領地であった主に西日本一帯に息のかかった武家を配し、力を拡大してゆきます。このときあらたに領地をあたえられ守護管理のために赴いたものを新補地頭とよび、それ以前からいた本補地頭と区別します。 登城口にあった縄張図より抜粋 信濃国の豪族である飯島為光は、承久の乱における戦功で新補地頭として奥出雲の地に赴きます。為光としてはとんでもないところへ行かされると悲嘆したかというとさにあらず、この地は当時から砂鉄が採取されており、いわゆるタタラ製鉄法で(当時としては)良質な鉄を生産し、領地経営の基盤を築きます。そして一帯をみわたせる鴨倉山(別名、要害山)に城を築きます。三沢城の名は、この地がむかしから三沢と呼ばれていたこと、また為光も当時の慣習にしたがって飯島から三沢と氏をあらためていたことによります。 登城 ここは当時から登城道だったようです 大手口とつたわる地には石垣がのこる 二ノ丸に達しました 登ってきた道を見下ろす 本丸下曲輪 堀切 主郭部 本丸 本丸から見わたす 本丸曲輪の側面はふかく削られている 本丸と鳥居丸をしきる堀切 鳥居丸 土塁跡 巨大な切岸... Read More | Share it now!