忠臣蔵

泉岳寺・浅野内匠頭の墓 泉岳寺・赤穂四十七士の墓 画像はともに【aruku-113】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-113/ 吉川英治氏の小説『新編 忠臣蔵』は上下2冊の長編ですが、この方の作品はとにかく長いものが多く、「宮本武蔵」が全8巻、「新・平家物語」に至っては全20巻に及びます。それでも思い切って読みはじめ無事に読了できたのは、読みやすいことが一番の理由ではないでしょうか。読みやすさは、まず全体の構成がすっきりしている、綿々細々とした心理描写がない、ひとつひとつの文章が比較的短い、会話が簡潔、そういったところにあると思います。さてこの『新編 忠臣蔵』ですが、読みはじめて少々戸惑います。文章が比較的短く、簡潔に表現されているのはいつものことなのですが、その文章にこの作品に限っての独特のリズムがあることに気づきます。この作品は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」を真正面からとらえ、それを文字にかえ本にしたものと考えたら良いでしょう。全編に通じる独特のリズムはまさに浄瑠璃や歌舞伎のもつ、ビートの効いたそれです。この作品の功績をあげるなら、忠臣蔵を世間によりひろく知らしめたことに尽きます。なにしろ昭和43年(1968)に書かれた作品です。この当時には忠臣蔵は忠臣蔵であって、元になる赤穂討入事件の真相究明に関心を抱く人など皆無に近かったのではないでしょうか。むしろこの作品が忠臣蔵の定本となり、そのあまりにも「良い話」に満足できなかった人たちが、つぎつぎに自説を盛りこんだ「真」とか「裏」とか「異」とかいった作品を発表してきたのだと思います。吉川英治『新編 忠臣蔵』★★★☆☆ 堺屋太一氏の小説『峠の群像』は、上中下3冊で1300ページを超える大作ですが、浅野内匠頭による江戸城での刃傷沙汰が登場するのは、そのなかで900頁めあたりになります。そこまでは当時の江戸と京都、そして赤穂における将軍、大名、役人から貧乏武士、塩に関わる町人、浜人、運送人などの生きる姿を通して、その時代背景を描いて行きます。ところが読むにしたがい、赤穂事件の時代背景を描いているというよりも、彼らが生きた時代そのものをいかにも活き活きと見せてくれていることに気づきます。堺屋氏は元経済官僚ゆえに、その著作は時代小説であっても当時の経済面をしっかり押さえストーリーの展開に取り込むことで、作品全体の骨組みを築いています。この物語の中でも、実際にはそれが誤った手法による、いまでいえばバブルに過ぎないにしろ、その時点では未曽有の好景気に沸き立ち、人々が浮かれ舞い上がる様を描きます。時期を同じくして世間をつつみこむ元禄文化の隆盛とともに、これを時代のひとつの頂点、すなわち「峠」と見ているのでしょう。そしてその峠の時代は、吉良邸討入と46士の切腹で赤穂事件が終焉するのに合わせたように、下り坂へと向かってゆきます。『峠の群像』は峠の時代に生きた貴人も庶民もふくめての群像劇であって、忠臣蔵すなわち赤穂事件さえもその群像劇のなかの一部でしかありません。しかしそれだからこそ俯瞰も出来れば、自分自身が劇中に参加したかのように個々の赤穂浪士達の喜怒哀楽にまで接してゆくことができます。文句なく、名作です。堺屋太一『峠の群像』★★★★★ 赤穂城内にのこる大石邸 赤穂城内に建てられた大石神社 画像はともに【aruku-75】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-75/ 井上ひさし氏の小説『不忠臣蔵』は、吉良邸討入に参加した赤穂義士ではなく、なんらかの事情で参加しなかった、そのため世間から不義不忠の輩と蔑まれた人々に焦点を当てています。まずこの着眼点の妙からして、さすが井上ひさし!と拍手を送りたくなります。全19話、すなわち19人の「不義不忠の輩」が登場する短編を集めたものです。19人の中には、最初から死体となって登場する人物もいます。このあたりも常に趣向をこらした場面を読者の前に展開してくれる、さすが井上ひさし!と拍手×2を送りたくなります。文章は筆で遊んでいるかのように軽妙で、各20ページ程度の物語りはアッという間に読み終わります。しかもその短い話の中で、意外な事実がもたらされ、討入に加わらず不義不忠と蔑視された人々は、実はみずから自己犠牲となって陰で討入をしっかり支え、不参加ながら忠臣蔵に参加していたことがわかる構図になっています。読むごとに拍手×3、4、5と満足感は増してゆきます。ところが、後半すなわち8話あたりから聞き覚えのない人物が登場してきます。各々について調べたところ、19人のうち6人はネットでも「井上ひさし氏の小説に出てくる赤穂浪士」とあるだけで詳細はとんと分かりません。おそらくは廃藩時に200人だかいたとされる赤穂藩士の名簿には名が残っているのかもしれません。その名前からピックアップし、作者の想像力で人物像をつくり上げることは小説であれば何ら問題はありません。しかしこの作品がなぜ面白いかといえば、あのとき討入のための資金をもったまま姿を消した○○某とか、あのとき女によろめいて去って行った○○某とか、そういった人たちのその後の行動を追うと、じつはこんな隠れた事情があったんですよと作者のアイデアで見せてくれるからこそであり、そこに尽きます。ところがその焦点をあてた人物がなぜ討入に参加せずに去ったのか、その大元となるところからして作者の創作では、すべて単なる作り話で、それでは「不忠臣蔵」として楽しむことができません。読み終えたときには、拍手する気はすっかり失せていました。井上ひさし『不忠臣蔵』★★★☆☆ 森村誠一氏の小説『忠臣蔵』は上下2冊計1000余頁の長編です。大体において忠臣蔵関係の小説は長いものが多く慣れているはずなのですが、この作品はしまいに飽きてしまうほど長く感じました。群像劇のスタイルをとっていますが、とにかく登場人物がやたらに多い。著者が執筆にあたってよく調べているのはわかるのですが、あれもこれもとテンコ盛りに書いているので食傷気味になってきます。登場人物の絡み合いには、著者オリジナルのひねりもあり、さてどうなるのかと期待を抱かせられる場もありました。しかし登場人物の性格や行動を誇大にデフォルメするあまり、興が削がれてしまうこともしばしばでした。たとえば吉良上野介の絵に描いたように陰湿で悪辣な性格描写には白けてしまうし、大石内蔵助が討入前に遊里で豪遊する場面でのエログロ描写には、誰に読ませたくて書いているのかと呆れてしまいます。さらに文章そのものにも首をかしげる箇所がいくつかありました。たとえば、「砌(みぎり)」など古風な表現をつかったり、「蒐める」と当用漢字にはない当て字を使ってまでいかにも歴史小説風に文体を整えているかと思うと、「陥穽」にブラックホール、「無役」にレイオフと振り仮名代わりに但し書きを付けるなど、意図しているものが理解できません。もうひとつこれはぜひ言っておきたいことですが、「浅葱裏」(あさぎうら)という語があります。江戸時代に一時期ですが浅葱色(文字から推測できるように、緑がかった薄い藍色)の着物が流行したことがあります。その流行が終わってからも参勤交代で江戸へ上がってくる地方の侍が、裏地にその浅葱色の布をあわせた着物を着ている例がたびたびあったために、流行に敏でない、すなわち粋でない田舎侍と揶揄してつかわれたものです。その「浅葱裏」をこの小説のなかでは「浅黄裏」と書いています。たしかに浅黄裏でも間違いではないのですが、色としていうなら浅黄色はそのまま薄い黄色のことで、浅葱色とはまったく違います。歴史小説のなかで書くのであれば、知らない読者が浅黄色をイメージすることがないよう「浅葱裏」と書くべきです。森村誠一『忠臣蔵』★★☆☆☆ 下津井城址(岡山県倉敷市) 大石内蔵助の祖父は、岡山藩・池田氏の重臣で、下津井城の城代をつとめていました。赤穂藩取りつぶし後に、そのツテをたよってここまで流れてきた赤穂浪士もいたそうです。画像は【aruku-122】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-122/ 岳真也氏の研究書『吉良上野介を弁護する』は、タイトルからわかるように、吉良上野介を一方的に悪人扱いする世評に対して真っ向から物申しています。ところが吉良上野介が悪人であり、それがために浅野内匠頭が耐えかねて斬りかかったとする世評は、江戸時代に流行った浄瑠璃や歌舞伎の「忠臣蔵」に起因するもので、1980年代にはすでに吉良上野介を「一方的な悪人とはしない」作品は発表されています。それゆえこのタイトルには、定説を覆すといったインパクトはありません。また内容自体もそれほど斬新というものではありません。ところが読むうちに、筆者は吉良上野介を悪人ときめつける世評にたいしてどうやら腹を立てていることに気づかされます。さらに赤穂浪士にたいしては、義士と称賛されることに憤りさえ覚えている様子です。それらの怒りや憤りがこの本を書く上でのエネルギーになっているのではないでしょうか。たとえば吉良上野介を弁護するために引用する資料のなんとおびただしいこと、執念を通りこして怨念のようなものさえ感じてしまいます。だからといって偏狭な考えに凝り固まることなく、怒りも憤りもオブラートで包みながら、浅野内匠頭をチクリ、大石内蔵助をコツンと仕置きしてゆきます。著者としてはこの本を書き終えて、さぞかし胸のつかえが下りたのではないでしょうか。岳真也『吉良上野介を弁護する』★★★★☆山本博文氏の解説書『東大教授の「忠臣蔵」講義』は当たり前ですが、東大生ぐらいの学力がないと理解できないというものではありません。おそらく私が学んだ有名でもない地方の大学名を冠にしたのでは宣伝効果も見込めないでしょうから妥当なタイトルだとは思います。さて読んでみたところ、なによりも分かりやすい。「講義」という形式を取ったのが良かったのだと思います。生徒というよりも進行役のようなものがいて、これってどういう意図があるんですか?といった調子で質問し、それに対して先生が、こういう説もありますが、他の資料を見るとこういうふうにも考えられます、といった具合に会話調で説明してゆきます。ただこう言った形式の解説は、とくにネットのなかでは氾濫しており珍しくもないのですが、ネットの場合には往々にあまりにも軽い調子で進行するため、全体の印象が軽妙というより軽薄にさえ感じられてしまいます。この書はどうかというと、なんとか軽妙の域でとどまっており、さすが東大教授!と頷きながら読みすすめられます。ただタイトルでこの本を手に取った読者としては、東大の講義としてはいまひとつ物足りないと感じるかもしれません。そのときはタイトルをもう一度見直してみてください。「東大の講義」ではなく、「東大教授の講義」であって、東大の教授が出張講義にきているようなものでしょう。堅苦しい研究書の形をとれば、味気ない文章がだらだら続くだけのものになっていたかもしれません。その味気ない文章の随所に、それでなくても舌をかむような、吉良上野介(きらこうずけのすけ)とか、何と読むのか悩んでしまう、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)などの名が並べば、イラッときてしまうでしょう。つまらない読本の代表になりがちな歴史研究書を、形式をかえることで読んで楽しい歴史解説書に変えて見せてくれただけでも、この本が出版された価値はあると思います。山本博文『東大教授の「忠臣蔵」講義』★★★★☆ 高野山にある浅野内匠頭と四十七士の墓 浅野内匠頭と四十七士の墓は、地元赤穂と東京(江戸)だけでなく、高野山にもあります。墓自体は大きなものではありませんが、奥の院の最奥、弘法大師御廟の近くという特等の場所です。画像は【aruku-109】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-109/ ... Read More | Share it now!