城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・今治市 2025.10.4】日本200名城(日本百名城+続日本百名城)を制覇するのは目標ではないものの、できるものなら制覇してみたいと思っています。その200の城の中で、住まいのある大阪から比較的近いにも関わらずなかなか行き難い城のひとつに能島城があります。なぜ行き難いかというと、瀬戸内海にうかぶ小島であること、そして無人島のため定期航路がなくツアーで行くしか方法がないこと、しかもそのツアーは週末と祝日にしか実施されていないこと。今回愛媛県をまわる旅程を組むうえでは、一番に能島城訪問が週末になるよう注意をはらいました。週間天気予報でも週末は天気が崩れるとのことだったものの、海が荒れて船が出ない以外はOKということで。当日、前夜から雨が降り続いていたものの、船着き場に着くころには小降りになり、船が出港するころには完全に雨はあがりました。 能島へ この船で能島へ この日のツアー参加者は40人ぐらい。ガイドがふたり同船し、上陸してからは2グループにわかれて見学します。往復に30分、上陸後の散策が45分の計75分。料金はひとり3000円。高いか安いかはそれぞれの判断でしょう。 真ん中にみえる小島が能島 能島の全容... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・新居浜市 2025.10.3】奈良の大仏にはおよそ500トンの銅が使われています。(加工しやすく耐久性も増すよう8トンの錫すずをくわえた青銅製)752年に開眼した初代の大仏はいまのものより全体に1割大きかったそうなので、単純に考えると550トンほどの銅が使われていたことになります。1300年近く前ですら銅の需要はそれほどあり、しかもその需要に応えうる生産もあったということでしょう。 戦国時代までは、銅のおもな使い道と言えば貨幣または仏像仏具をつくることに特化していたようです。加工しやすい反面鉄にくらべて軟らかいため武器や工具には向かなかったのでしょう。江戸時代になると、火事への防火対策から屋根瓦として使われるようになります、ただし社寺や城がおもな対象で、一般の家屋には普及していません。単純に高価なためというのが理由です。高価といえば、江戸時代には鉄鍋も普及していましたが、熱効率のよい銅鍋はコストの面で生産に到っていなかったようです。 明治から大正へと時代が進むにつれて電気が普及し、電線として銅が使われます。その後も文明がすすむにしたがい、導電効率、熱伝導効率などの観点から銅の需要はますます高まってゆきます。 ブログの冒頭ではいつもはその歴史について書くのですが、別子銅山は江戸時代に住友が開坑し、昭和48年(1973)に住友が閉山。最初から最後まで同一企業により操業していたもので、歴史では書くことがなにもありませんでした。 別子銅山・端出場地区 別子銅山の見どころはこんな山の中にある 新居浜駅から7.5km南へ。初めは市街地を走りますが、突然に山のなかへと入りこんでゆきます。そして到着したところはこんな山中。雨雲が垂れ込めているので心細ささえ感じる風景です。 トロッコ列車にのって鉱山入口までゆきますが、その出発時まで時間があるので先に発電所を見にゆきます。 水力発電所 別子銅山が操業していた当時使われていた水力発電所 レンガ造りのしっかりした建物 建物内の様子タービンと発電機 建物下にある放水口ここから噴出する水の勢いでタービン(水車)を回す 坑道 実際に使われていたトロッコ列車 観光客が乗るのはこれ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・北宇和郡 2025.9.30】愛媛県南部(いわゆる南予)の中心都市である宇和島から東(内陸)へ15kmほど、高知県との県境近くに河後森かごもり城はあります。昔風にいえば、伊予国と土佐国の境。地図上で見れば、東を流れる広見川とその広見川に各々注ぎこむ鰯川が北、堀切川が南をかこむ防御面からは絶好の山上。 この河後森城ですが、歴史的には特筆するようなものはありません。長曾我部氏が四国制覇を目指していたころ、抗戦する城主を家臣の某氏が裏切り、いったんは長曾我部氏に下ったものの、次には四国平定に乗り出した秀吉の軍のまえに降伏。大きな力、次はさらに大きな力に圧迫されつづける戦国時代の典型的な城の歴史をたどったと言うことです。 興味深い出来事をしいてあげれば、藤堂高虎が宇和島城主だったときに、この河後森城の天守を解体して運び、宇和島城の月見櫓に移築したとのこと。しかしこれも「事実」として記しているものもあれば、「伝承」として片づけているものもあり、そもそも宇和島城に当該の月見櫓が残っていないのですから感慨にふけることもできません。 そんな河後森城ですが、現実に探索してみるとこれがなかなか面白い。と言うことで、ブログに残しておくことにしました。 河後森城 駐車場から奥へ進みます 谷間の道をあるく 現地にあった案内図より抜粋 いま案内図真ん中の「現在地」に居ます。この城の特徴は谷をかこむ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・宇和島市 2025.9.30】戦国武将のなかで築城名人として知られるのは、藤堂高虎、加藤清正、黒田官兵衛(孝高)の3人です。その築城術において長けているところは各々異なり、誰が一番優れているかの判断は好みもあって決めがたいでしょうが、もっとも多くの城普請に携わりその才能を後世に多数遺したのは間違いなく藤堂高虎です。 藤堂高虎ははじめ浅井長政につかえていたようですが、浅井家が織田信長に滅ぼされたことから浮かばれぬ浪人さながらの境遇をへて、秀吉の弟・秀長にひろわれます。これが運命の出会いだったのか、まずは武人として頭角をあらわし、秀長の但馬攻めをへて、賤ヶ岳の戦いでも七本槍の七人に負けぬ戦功をあげています。さらに秀長が紀伊平定を進めるなかで、粉河寺こかわでら勢力を牽制するため猿岡山城(和歌山県・紀の川市)を築きます。これが高虎の最初の築城となります。(この猿岡山城はいまは公園として整備され当時の姿を思い浮かべるにも無理があります) その後秀長の紀伊平定が東へとすすむと、一揆をおさえるため(いまの三重県・熊野市に)赤木城を築きます。もちろん普請役は高虎。この城は大規模なものではありませんが、高虎の非凡な才能をうかがわせる傑作です。 赤木城をつくって一揆を平定した2年後に秀長が死去。高虎は秀吉・秀長の甥(一時期関白になった秀次の次弟)であり秀長の養子となっていた秀保ひでやすに仕えることになりますが、その秀保も夭逝。よほど律儀な性格なのか、高虎は出家して高野山に上がってしまいます。 宇和島城 長屋門から入る... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・松山市 2025.9.29】賤ヶ岳の七本槍と称された加藤姓の武将、といえば少しばかり歴史好きな方なら容易に加藤清正を思い浮かべるはずです。ところが加藤姓の武将がもう一人います、加藤嘉明よしあき。といってもこの武将の名をフルネームで覚えている方はさぞかし少ないのではないでしょうか。たしかに清正のことを知りたいと思って探せば、研究書、解説書、小説、コミックなどわんさかみつかります。一方の嘉明はというと、せいぜい近衛龍春氏の小説『加藤嘉明』くらいのもの。しかもこの小説には副題が付いていて「賤ヶ岳七本槍・知られざる勇将」-... Read More | Share it now!