神社・仏閣,城郭・史跡,愛知

【愛知県・岡崎市 2024.3.4】「青春18きっぷ」が使える時期になったので、さっそく「普通列車でぎりぎり日帰り旅行できる土地」を精力的に訪ねてみます。今日は、昨年の大河ドラマ「どうする家康」で脚光をあびた、その生誕地である岡崎を訪ねます。ちなみに大阪市内から岡崎まで普通列車(快速、新快速はつかえる)で片道3時間半ですが、料金は往復で8000円のところが2510円ですませられます。 大樹寺 大樹寺山門 境内から見ると、山門、総門を通して岡崎城がみえる 大樹寺は家康の先祖である松平家の菩提寺です。家康は遺命により位牌はこの大樹寺に祀るよう言い残したそうで、3代将軍家光により大造営がおこなわれ、そのさい境内から山門を通して、その先の総門の真ん中に岡崎城がみえる粋な計らいをしたようです。 本堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,愛知

【愛知県・名古屋市~豊明市 2023.12.29】桶狭間の戦いは、兵力ではるかに劣る織田信長が今川軍に奇襲をかけ、義元の首を獲り勝利したことで大きく飛躍するきっかけとなったとしてあまりにも有名です。今日はその関係地を見て歩くにあたって、土地名をしっかり確認しながら予習をしておきたいと思います。 桶狭間古戦場公園にある案内図より抜粋 信長の父・信秀の時代から尾張で台頭してきた織田家と、駿河・遠江の守護である名門・今川氏はその領土をめぐって争いの絶えない関係でした。信秀が亡くなり織田家は信長が受け継ぎますが、そのとき弟とのあいだに家督争いがおきます。そのゴタゴタに乗じて今川氏はまず鳴海城(上の地図の左上)を調略により落とし、つづけざまに沓掛城、大高城を奪い取ります。こうして尾張をしだいに侵食しながらもそれ以上は積極的に侵攻しなかった今川義元ですが、北の武田氏、東の北条氏と縁戚関係をむすぶことで後顧の憂いをなくすと、ついに上洛を決断します。(この上洛は天下取りのための布石とする説と、単に領土を西へ拡大するためとの説があります。 大高城 JR大高駅をでると、やがて大高城の城山が見えます 登り口付近のこのあたりも曲輪跡 ここが主郭部分のようです 大規模な空堀 曲輪と曲輪を仕切る堀切跡? さて義元ですが、みずから駿河を発つまえに先鋒を先立たせ、本人は後からゆっくり進軍します。このあたりを見ると、やはり織田軍を侮っていたのかもしれません。尾張国に踏み入れるとまず沓掛城に入り、そのころ人質として臣下させていた松平元康(のちの徳川家康)に命じて、翌日向かう予定の大高城に兵糧を運ばせます。織田軍との戦より、明日の晩飯の中身の方が気になったのでしょうか。織田方ですが、大高城をうばわれた段階で逆に敵城となった城をかこむべく鷲津砦、丸根砦を築いて対抗しますが、この時は激戦のすえに両砦は落とされ松平元康は兵糧を大高城に搬入してその任を果します。 鷲津砦 いったん大高駅にもどり、駅のすぐ北にある鷲津砦へ ここが曲輪跡なのか、わかりません 石碑のたつこの場所は曲輪跡でしょう 丸根砦 鷲津砦から20分ほど歩くと丸根砦 これは堀の跡か、後世の道か? 石碑のたつこの平坦地はいかにも曲輪跡 丸根城から大高城を望む(中央の右側の丘陵) 信長は鷲津砦と丸根砦が敵に落とされたことを聞いてやにわに動き始めます。これが夜明けごろのことだったようで、「信長公記」によると敦盛を舞い、湯漬けを掻きこみ、単身馬にまたがり(5,6人の小姓がなんとか追いつけた)まず熱田神宮へむかい必勝祈願します。一方の今川義元は朝も遅めに沓掛城を発ち、よほどゆっくりだったのか進軍ルートで測っても10kmとはない桶狭間に昼頃到着、暑い時期だったので兵士たちも軍装をといて日陰にはいり昼食をとります。 桶狭間 大池の向こうが桶狭間とよばれる一帯 いまは坂沿いに住宅が立ち並ぶここが桶狭間山 信長ですが、熱田神宮をあとにすると鳴海城に相対する善照寺砦(中島砦とも)に入り、そこで軍勢がそろうのを待ちます。ちなみにこの時の信長の総軍勢は2千または3千。一方の今川軍は2万5千から4万との説があります。またここから先についても、信長は迂回して奇襲したとする説と、正攻法でまっしぐらに敵陣に突っ込んだとする説がありますが、ともかく信長は斥候(偵察)から今川軍が桶狭間で休息しているとの報を得ると、一駆けで桶狭間まで急進します。このとき信長にとっては幸運なことに目の前さえ見えないような豪雨があったというのは事実のようですが、その豪雨の中を織田軍が急襲したというのはウソです。目の前が見えないのは今川方も織田方も同じです。実際のところは、信長は敵軍のまじかで豪雨がおさまるのを待ち、視界が晴れるや軍装もといて昼飯を手に右往左往している今川勢に襲いかかります。 桶狭間古戦場公園の信長像(左)と義元像(右) 義元が討ち取られたと伝わる地 そこには義元の墓もある 沓掛城 予定にはなかったのですが、見て歩いているうちに沓掛城も訪ねてみたくなり、Google... Read More | Share it now!

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【愛知県・名古屋市 2022.10.26】いまの名古屋城の地には、かつて織田信長が生まれたとも育ったともいわれる那古野城がありましたが、両者には繋がりがありません。それゆえ名古屋城は比較的新しく造られた城ということになります。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのは、すでに60歳を目前にしたときでした。自分が天下人となり、さらに盤石な基盤を築くためにはすべてを急がねばなりません。自分の余命とのにらみ合い、とでもいった心境だったのではないでしょうか。家康は征夷大将軍となって江戸幕府をひらくと、西国(豊臣家およびその勢力下の大名が多い)への備えとして西日本の要衝となる地へ新たに城を築き、自身の身内や信頼できる家臣を移り住まわせます。名古屋城はそのなかでも最大規模の、象徴的な存在でした。城普請は、かつては秀吉の恩顧を受けていた加藤清正、福島正則、黒田長政、毛利秀就、池田輝政ら外様大名に命じ、石垣の組み上げだけで言えば一年足らずで仕上げています。そして天守閣が築かれるのが1612年で、大坂冬の陣がおこるのが1614年ですから、この名古屋城の完成をもって満を持し大手を打ってきたかのようです。その後、名古屋城は尾張徳川家が17代にわたって城主をつとめながら尾張の中心的存在として繁栄します。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 名古屋城へ 名古屋城はまだ先ですが、街中に城普請の跡が残っています。近くに「○○三の丸幼稚園」があったので、かつてこのあたりが三の丸だったということでしょう。 陸橋をわたっていると、ちょうどいい具合に天守閣が見えました。なんとなく計算してやっているようですが、これもサービス精神ゆえということで。 正門 まずは正門から入ってみます。それにしても看板、案内板が多いし、このあたりでは名所旧跡には三角コーンは必須とでも考えているのでしょうか。 西の丸 西南隅櫓から大天守、必須アイテムの▲コーン 西南隅櫓から東南隅櫓 東南隅櫓 石垣 石垣はもちろんですが、各隅櫓も当時のものが現存しているそうです。明治維新において全国に廃城令が出されますが、ここ名古屋城は市民からの強い要望で存続が決まります。しかし明治時代に起きた濃尾地震で石垣と建物の一部が崩壊、さらに大戦時の空襲で天守閣が消失してしまいました。 本丸 表二之門を入ると立派な虎口があります。 小天守と大天守 大天守 小天守と大天守 空襲で焼失した天守閣は、残っている写真や資料をもとにコンクリートで「復元天守」として1959年に再建されました。しかしいまは耐震強度の問題とかで入場できなくなっており、木造による再建を検討しているそうですが、関係者間ですったもんだしており、いまのところ見通しが立たないようです。 2018年に再建された本丸御殿 本丸御殿も空襲で建物はすべて焼失しましたが、障壁画などは取り外して他の場所で保管していたため難を逃れ現存しています。ただしこの本丸御殿を飾るそれらは、すべてデジタル技術を駆使してつくった模写です。京都の元離宮二条城の本丸御殿とおなじで、本物は宝物館で(期間限定で)見られます。 表書院 上洛殿 上洛殿 東二之門 二の丸とつながる東二之門 清正石... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・清須市 2022.10.26】清洲城は、室町時代に尾張、遠江、越前守護の名門・斯波氏により築城され、守護所が移ってきてからは尾張国の中心地となります。守護職(ここでは斯波氏)は、自身ですべての領地を統治することはできないので各地を分割してそれぞれに代理のものを置いていました。これを守護代といいます。尾張は岩倉織田家が国の上四郡を、清洲織田家が下四郡を、二つに分けてそれぞれ守護代として勤めており、この清洲織田家がここ清洲城を本城としていました。この清洲織田家には家臣にあたる清洲三奉行家がおり、そのうちのひとつ弾正忠家が織田信長の出身家系になります。信長の父・信秀に時代には武力の面では守護、守護代をしのぐまでになりますが、統治の面ではまだ上から頭を押さえられる状態でした。それを打ち破ったのが信長です。信長は叔父の信光(信秀の弟)と組んで当時の清洲城の城主・信友を殺害して自身が移り住みます。信長はこの清洲城を10年間居城としますが、その間に尾張を統一し、さらに桶狭間の合戦で今川義元を葬るなど確実に力をつけて行きます。信長が小牧山城へ移ってからは織田家支配の城のひとつとして残るに過ぎませんでしたが、本能寺の変で信長が横死してのち、その信長の跡取りをきめる会議が秀吉主導で行われたのがこの清洲城です(清洲会議)清洲会議のあとには、信長の次男・信雄が城主となり、大規模な改修改造を行なったようです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 清洲城 オッと、という感じで工場の建物と建物の間に清洲城が見えました。 ところで、市は清須市、城は清洲城と書きます。 五条川と大手橋ごしに城をみる 大手橋から城へ 色々な角度から天守を撮影してみました。空も澄みわたり美しい写真ができましたが、残念ながら、そもそもこの天守は資料をもとに復元したものではありません。それどころか当時の清洲城に天守があったかどうかもはっきりしないまま、桃山時代の城の造形からイメージで造りあげた「模擬天守」と呼ばれるものです。 天守の分類https://blog.kojodan.jp/entry/2019/02/25/191515 天守へ 門から この庭の意図は??? 500円払って入城しましたが、はっきり言って見るべきものは特にはありません。ただ、この新聞には笑いました。他にも「長篠の合戦で大勝」とか「信長公、本能寺で横死」など数種類ありました。 天守最上階から、五条川にかかる大手橋、清洲古城跡公園を見渡す。 信長と濃姫 濃姫(左)と信長(右) 信長と濃姫の像があります。濃姫は美濃から嫁いできた信長の正室で、「美濃からきた姫」ゆえ濃姫、もとは帰蝶と呼ばれ斎藤道三の娘です。 この濃姫、信長と数年ここ清洲城で暮らしていた記録はあるのですが、その後まったく歴史の記録から消息が消えてしまいます。そのため死亡説、離婚説、出奔説など出てきますが、いまだに確定できる説はありません。 濃姫 信長 【アクセス】JR枇杷島駅から徒歩30分、名鉄新清洲駅へ徒歩15分【入城料】清洲城天守... Read More | Share it now!

神社・仏閣,愛知

【愛知県・小牧市 2022.10.25】小牧山城は織田信長が築いた城です。信長は尾張国を治めてからは清州に居城を構えますが、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、東からの脅威がなくなるとすぐに上洛の途上にある美濃を併合することに全力を傾けるようになり、そのため清州からの移転を考えます。清須は美濃を攻めるには南に遠く、また平城であり、攻守激しい時代には向いていないとも考えたのでしょうが、それ以上に後の信長が築いた城をみると高い所から見下ろして号令する山城を良しとしたのではないかと思います。そこで目に着けたのが、広大な濃尾平野の中に位置する小高い(標高86m)小牧山です。家臣の丹羽長秀が中心となって築城された城は、当時としては珍しい石垣を多用したもので、また大手口から大手道が山頂に向かって中腹まで真っすぐにのびる、これはまさに後の安土城をほうふつとさせる仕上がりになっています。しかし築城からわずか4年後、信長が斎藤龍興をやぶりその居城である岐阜城(もと稲葉山城)へ移ったことから廃城となってしまいます。それから十数年後、秀吉と家康とがぶつかる小牧長久手の戦いにおいて、家康が荒れ果てていた小牧山城に陣を敷き、土塁をあげ濠を掘り改修します。結局小牧山城は戦場になることなく家康軍は退陣しふたたび廃城となるのですが、戦場にならなかったために家康が改修した際の土塁や濠も発掘調査によって蘇ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 小牧山城 小牧山の山頂に城が見えます 名鉄小牧山駅から西へあるくと小牧山城がはっきり見えてき、山頂に城らしき形が見えます。 大手道 安土城とは較べものになりませんが、たしかにまっすぐに大手道が伸びる形状は、のちの安土城と同じです。 ところでひしめくのぼり旗は「三つ葉葵」ですから徳川家。ということは、小牧市としてはこの小牧山城は信長が築いた城というより、家康が小牧長久手の戦いで本陣を敷いた城として紹介したいわけですね。 家康が改修した際の土塁 上から見下ろすと堀跡も確認できる 山腹に残っている土塁跡 これらは家康時代のものか信長時代のものなのか 発掘調査で出てきた石 おそらくは石垣に使われていた石が発掘調査により見つかり、そのままの状態で置かれています。これは信長時代のものです。 天守閣(風)歴史館 山頂に当時の天守を復元したのではなく、 歴史館として天守閣風の建物をたてました 信長時代の石垣 階段状に石垣を組んでいるのが特徴的です 天守閣からの眺めはさほどでした 曲輪 下山途中にみられた曲輪 立派な坂道がつけられていました 下まで降りてきました 搦め手口付近 城の南に位置する大手口からのぼり、北の搦め手口へ降りてきたことになります。北側には平らな空き地がたくさんありそこが公園になっているのですが、このあたりが家来の住居があつまる曲輪だったと思われます。 小牧神明社 鳥居 拝殿と本殿 ご神木「連理木」 ここ小牧神明社は織田信長が小牧山に城を築くとすぐに勧請してこの地に建立したものだそうです。しかしそのような歴史よりも、ここで興味深いのは、「連理木」とよばれるご神木で、3本の大きな幹にわかれて伸びているのですが、高さ4.6mのところで2本ずつがそれぞれに枝をのばして繋がっています。クスノキにはこのように繋がるのはよく見られますが、2本ずつが各々繋がっているのははじめて見ました。 【アクセス】名鉄小牧駅から徒歩20分【料金】小牧市歴史館(山上の天守閣)と小牧山城史跡情報館(大手口そば)両方で100円【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・犬山市 2022.10.25】犬山城の歴史は織田信長の叔父・信康が当時あった砦を改修して城の形にしたことに始まります。信康の死後、息子の信清があとを継ぎますが、そのころ頭角を現しはじめていた信長に追われ、ここで信長の城となります。信長時代には池田恒興が城主をつとめていましたが、本能寺の変の後は信長の次男・信雄の管轄下におかれます。小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が激突した際ふたたび大きな動きがあります。大垣城に移っていた元城主で秀吉の有力な協力者である池田恒興が奇襲をかけこの城を奪い取ってしまうのです。この時点で犬山城は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のものとなります。そして秀吉はこの犬山城に本陣をかまえて、小牧山城に陣を敷く家康と対峙します。秀吉は天下統一のために着々と手を打ち、この犬山城もいったんは信雄に返しますが、すぐに信雄を減封のうえこの要衝の地から追い出し、甥の秀次に統治をまかせます。さらに秀次を切腹させたあと腹心の石川貞清を城主に据えます。この貞清が犬山城を大いに改築し、今につたわる城に仕上げます。その後は、関ケ原の合戦でも西軍の拠点となりますが、西軍が敗れてからは家康の手にわたり、江戸時代をとおして成瀬家が城主をつとめることになります。さてこの犬山城は、信長、秀吉、家康それぞれに奪い奪われ、歴史の荒波にもまれてきた城なのです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 犬山城へ 名鉄犬山駅前の方向表示は犬山城が中心 本町通を城へ向かってあるく 前方に城の天守が見えてきました 名鉄犬山駅から西へ歩き、右折して城下町の面影のこる本町通を北上すると城に着くのですが、そこそこ観光客も歩いているその本町通を車が走っているのにはびっくりしました。日中だけでも歩行者専用にすることはできないのでしょうか。 赤鳥居が三光稲荷神社、石鳥居が針綱神社 ふたつの神社の間の道(大手道)を進んでも、あるいはそれぞれの神社の境内を通っても天守へはたどり着けます。標高88mですので山ではなく、丘の上といった方が正しいでしょう。 それにしても看板やら▲コーンやらが目立つ 針綱神社 針綱神社・鳥居 そり橋 ご神馬 針綱神社はおもに子授け、安産、厄除けなどの御神徳があるそうです。子授けのお守りが800円ですが、夫婦で一つずつ持つのがよいと但し書きがあり、セットで1600円ということになります。販促みたいな-... Read More | Share it now!