【滋賀県・蒲生郡日野町 2022.5.28】蒲生賢秀は、主家の六角氏が観音寺城の戦いでやぶれると、三男の鶴千代(のちの氏郷)を人質として信長に差し出します。ところがその鶴千代はたいへん利発で肝もすわっており、信長から大いに可愛がられて、次女の冬姫を娶ることにより信長の娘婿となります。その後は信長の安土城からも近い日野城を居城とし、数々の殊勲をあげてゆきます。治世にも優れたものがあり、この地からのちの近江商人が誕生します。 近江鉄道に乗って 電車では珍しい乗車券 それでは近江鉄道電車に乗って、五個荘から日野へ移動します。近江鉄道はほぼすべての駅が無人でワンマン電車のため、乗車のさいに乗車券をとります。下のブルーの布地は座席カバーです。 日野駅のトイレは外観がユニーク 日野町へ 蒲生氏郷公像 駅から日野の中心街までは3kmほど離れています。歩いているとちょうど中間点あたりに蒲生氏郷の像がありました。 近江商人街道 近江商人街道を歩いて行きます。 観光案内所もあります。 若草清水 氏郷は多才なひとで、たんに勇将知将というだけでなく、茶の湯においては千利休の七哲のひとりでした。その氏郷が茶をたてるときにこの湧き水を使っていたという由緒ある清水です。 信楽院 信楽院 蒲生家の菩提寺である信楽院です。 ここは拝観料無料で本堂にも入らせてもらえます。 信楽院本堂・天井画 信楽院本堂・天井画 日野城址 日野城址のある森 日野城址へ着きました。蒲生氏郷の父・賢秀は本能寺で信長が討たれたとの報を聞き、明智の軍勢が安土城に攻め寄せることを察して、信長の家族の逃避を考えます。ここ日野城は安土城から24km(約6里)。急報をうけた氏郷は馬や駕籠をそろえ安土城にむかい、そして信長の家族や女子供を無事に脱出させます。 日野城址 どこまでが当時の遺構かはわかりません。 馬美岡綿向神社 馬見岡綿向神社 蒲生家が先祖代々氏神として庇護してきた、馬見岡綿向神社は、日野城址からあるいてほどなく着きます。町の東方にある綿向山の頂上に鎮座する綿向大神を、平安時代に移して祀ったのが始まりだとか。江戸時代には、近江商人から出世の神さまとして信仰されたそうです。 石橋と拝殿 石橋 拝殿から本殿(奥) 本殿(奥) 近江商人をデザイン それでは最後に、なかなかユニークな日野町のマンホールを撮影して、のんびり駅へもどります。 【アクセス】近江鉄道・日野駅から 日野駅へ戻る 17,000歩【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!
日本で最初の石垣の城・観音寺城を見にゆく
【滋賀県・近江八幡市安土 2022.5.28】思えば、安土にくるのはほんの3か月ぶりです。もっとも前回は信長がらみでしたが、今回はその信長と敵対した六角義賢(ろっかくよしかた)の居城であった観音寺城を見にゆきます。観音寺城(址)は、安土城(址)の北東にある標高432mの繖山(きぬがさやま)の山頂から南山麓部分にかけてひろがる大城郭です。しかも単に大きいというだけでなく、城郭全体に石垣が組まれており、日本最初の総石垣の城と言われています。 安土駅から繖山へ JR安土駅から歩きはじめます 後方が観音寺城址のある繖山 今回は安土城はスルーして、六角氏の居城・観音寺城(址)にむかいます。 桑実寺 桑実寺参道から登ってみます。 山門をぬけても階段がつづきます。 本堂 桑実寺は通り抜けるだけでも、拝観料300円が要ります。すなわち観音寺城址... Read More | Share it now!
琵琶湖に浮かぶ竹生島 1時間ツアーのご案内
【滋賀県・琵琶湖北部 2022.4.9】今日は午前中に琵琶湖にうかぶ竹生島をたずね、そのあと長浜へわたって長浜城の満開の桜を見にゆくつもりです。竹生島へは観光船で行くことになりますが、以下の4通りの船便があります。(1)近江今津... Read More | Share it now!
秀吉出世の地・長浜へ満開の桜を見にゆく
【滋賀県・長浜市 2022.4.9】秀吉は出自もたしかでない下賤の出ですが、織田信長に出会い、その人物に惚れこむことで草履とりから侍、侍大将から家臣へと破格の出世をつづけます。やがて近江の国を治めてきた浅井家を滅ぼすことに成功した秀吉は、この地を信長から授けられ、ついに12万石の城もち大名へと成りあがります。しかし秀吉がもっとも輝きながら躍動していたのはこの頃までではなかったでしょうか。明智光秀との出世競争、信長の死、そこから天下人へ。そのあたりの経緯には、なにやら怪しい印象が付きまといます。それはさておき、秀吉が躍動していた時期の、長浜の街を訪ねてみましょう。 長浜上陸 琵琶湖上より... Read More | Share it now!
豊臣秀次の城下町を基礎とする近江八幡を歩く
【滋賀県・近江八幡市 2022.2.26】近江八幡は豊臣秀吉の甥にあたる秀次が居城を構えることで城下町として発展してゆきますが、入城した当時の秀次は若干18歳。すべては近江を軍事・経済両面の要衝とすべく着々と手をうつ秀吉が、その中心に飾り物として据えたにすぎません。秀次はその後すぐに尾張清須へ移封となり、さらに秀吉の勘気にふれ追放、切腹。そして近江八幡城もわずか10年で廃城となります。しかし街はいわゆる近江商人の活躍の場となり、その後も商業都市として発展してゆきます。 安土から近江八幡へ 近江八幡市街へむかって歩く ふり返ると安土山、繖山 じっさいにはここからしばらく南へ歩いてJR近江八幡駅、その手前で西へ進路をかえまたしばらく歩くのですが、ざざっと省略します。近江八幡市街の古い町並みに到着です。 近江八幡の古い町並み 後方に見えるのが、このあと登る八幡山 八幡堀 ここが近江八幡のイメージとしてパンフレットなどに頻繁につかわれる八幡堀です。昔のままなのか、昔のまま風なのか... Read More | Share it now!
信長の夢の跡・安土城址と安土の郷を歩いてみる
【滋賀県・近江八幡市安土町 2022.2.26】織田信長によって築かれた安土城は、それまでの城の概念にはおさまらない、独創的な縄張りと意匠で威容を誇っていたといわれています。そもそも守るための城ではなく、見せること、さらには魅せることに重きをおいていました。真っすぐ上へとのびる大手道からは、登りながらに山上の金色の望楼をもつ天守(天主)閣を見上げます。絢爛豪華に飾られた、その天守にはまさに天主、神たらん信長が住まわっていました。 安土駅 JR安土駅 安土駅は、駅でもあり広告塔でもあり。 安土城址 安土城址・石垣 安土城址・曲輪 自慢の一直線にのびる階段(大手道) 本来城の階段は敵の侵入や攻撃をふせぐ目的で途中に虎口をつくって屈曲させたりするものですが、この安土城は視覚効果を計算して一直線に上りあがってゆく、きわめて特異なつくりになっています。ところがその一番の見せ場の長階段がこれです。土日は工事をしないのなら、道具を片付けてもらえないのかねえ。 安土城はなにが画期的だったのかhttps://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/539262 羽柴秀吉邸跡(下階) 羽柴秀吉邸跡(上階) 上の2枚は羽柴秀吉邸の跡地とつたわる場所です。上下2階に分かれているのは、いまでいうメゾネットタイプではないですか。このあたりにも斬新さがうかがえます。きっと下の階に厩舎や薪置き場、あるいは小者の寝場所などがあり、上の階にあがると秀吉の生活空間があったのでしょう。それにしても上階から前方に見えるのは総見寺のはずですが、みごとにブルーシートで覆われています。てことは見れないということですかね。(結果:やはり立ち入ることはできませんでした) 石階段につかわれた石仏 石階段に、石なら何でもとばかりに石仏が押し込まれています。これは信仰心の有無ではなく、この当時はよその城から石垣をこわして持ちかえる、あるいは近在の社寺から石仏、墓石、石塔なんでもござれとすべて使って、より早く城を完成させることが普請役の腕の見せどころでした。姫路城にはどこから持ってきたのかでかい石棺を門柱のごとく立てて使っていますし、奈良の郡山城には石仏をよりによって逆さまにはめ込んだ「逆さ地蔵」なるものもあります。 黒金門跡 黒金門跡 今までと異なりここで階段が90度右に曲がり、虎口が造られています。ここに黒金門とよばれる立派な門があったそうで、ここからは防御をかんがえた構造になっているわけです。ところで安土城には「蛇石」とよばれる7000人のひとが命がけで運んだ巨石があったはずで、使われるとすればメインゲートにあたるこの黒金門周辺に配置されているはずなのですが、完全に行方不明になっています。 石材として使われていた仏足石 次男・信雄と子息の供養塔 信長本廟 信長の本廟 信長の本廟もここにあります。秀吉が遺品を埋葬してここを本廟としたそうです。ところで次男・信雄(のぶかつ)がどうしようもない愚物で、信長が討たれた直後になにを血迷ったか、この安土城に火を放ってすべてを消失させてしまったとの説がありますが、これは大ウソです。この話は宣教師が書き残したものですが、おそらくはキリスト教に理解を示さない信雄憎しでいい加減に書いたものと思われます。 本丸跡 天守台跡 総見寺 もと総見寺のあった地にのこる三重塔... Read More | Share it now!
由緒あるのに知名度のひくい西教寺をたずねる
【滋賀県・大津市坂本 2022.1.9】滋賀県大津市にある西教寺は、延暦寺(天台宗総本山)、三井寺(天台寺門宗)とならぶ天台真盛宗の総本山で、400以上の末寺を有します。起源はふるく聖徳太子がみずからの師のために建立したとも伝えられています。(真偽は不明)確かなのは、室町時代に比叡山で学んだ僧・真盛が入ってから隆盛したようです。この西教寺は明智光秀の菩提寺でもあります。それでは西教寺を訪ねてみます。 西教寺 西教寺・総門 西教寺の総門は、明智光秀の居城であった坂本城の城門を移築したものだそうです。総門から先へつづく参道がいい雰囲気です。明智光秀と西教寺https://shigatoco.com/toco/saikyoji/ 勅使門から宗祖大師殿 勅使門 総門から参道をあるいて突き当りにあるのが勅使門です。勅使門とは、そもそもは天皇や天皇から派遣された勅使を迎えるときにだけ開かれた門です。ですから今はかたく閉ざされています。 宗祖大師殿・唐門 宗祖大師殿 宗祖大師殿は、西教寺にとっては中興の祖ともいえる真盛上人を祀っています。 本堂・客殿 本堂と手水舎 本堂を横から見る... Read More | Share it now!