【神奈川県・足柄上郡山北町 2025.1.10】二宮金次郎(のちの尊徳)はいまの小田原市栢山かやまの生まれです。金次郎の実家はそこそこの田畑を有し食べるには困らないレベルの農家でした。いまの栢山もそうですが、当時(江戸時代末)の栢山村も富士山東麓を源とする酒匂川さかわがわが村を北から南へ縦断するように流れており、金次郎の幼少時代に大規模な氾濫があり村の田畑はほぼ壊滅するほどの被害に見舞われます。むかし小学校に必ずと言っていいほど設置されていた、書を読みながら薪を背負ってあるく二宮金次郎の像は極貧時代のこのころのものと思われます。その金次郎は苦学と努力の末に今でいう農政家となり、地元の酒匂川の治水事業もふくめて国内の数々の村落を復興させます。 相模湾にそそぐ酒匂川の河口から上流へとさかのぼること20km、いまの足柄下郡山北町のやはり酒匂川沿いに河村城はあります。じつは二宮金次郎は今回のブログの内容とはまったく関係がありません。河村城の地理的位置を説明するうえで印象にのこるものはないかと地図を見ているうちにめずらしい酒匂川の名が目にとまり、そこから金次郎にたどり着いたという次第です。なお酒匂川さかわがわは氾濫のさいの暴れぶりから川が逆流するという意味でむかしは逆川さかがわともよばれていたそうです。 登城する 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!
秀吉は力の差を見せつけるために石垣山城を築いた
【神奈川県・小田原市 2025.1.8】1589年(天正17年)11月、豊臣秀吉は北条氏宛の宣戦布告状をおくる。1590年(天正18年)2月、西国から下向する本隊16万、越後・信濃から南下する北国勢4万、瀬戸内・志摩から水軍2万がぞくぞくと出陣する。3月、豊臣秀吉は北条氏討伐の勅命をうけ、万全の態勢で小田原へ向かう。 小田原征伐の名のもとに北条氏を屈服させるべく秀吉が出陣した時点で、この戦の趨勢は決まっていたようなものです。襲来する22万の軍勢にたいして迎え撃つ北条軍は5万数千。その数の差だけではなくこの時点で秀吉は全国をほぼ平定し終えているため、征伐軍をかく乱するため蜂起する北条氏にとっては救いの神となるような勢力はどこにもいません。おまけに小田原征伐自体が勅命を受けたものとなっており、征伐軍は官軍であり正義のために悪を討つ聖戦に仕立てられています。 北条氏は小田原城のまわりに100もの支城を築き防備をかためますが、ぎゃくにこれが災いした感は否めません。守る軍勢はぜんぶで5万数千、主城(小田原城)に1、2万を割いたとすれば他の城には200人とかせいぜい500人程度しか回せません。200人で守る城に2万人の大軍が攻め寄せたとして、しかも相手は官軍です、あっさり降伏するものが続出したとしても不思議ではありません。秀吉は4月初めには早くも箱根山に本陣をしき、北条氏の菩提寺である早雲寺に本営をおきます。 早雲寺 箱根湯本の早雲寺の画像があるのでアップします いまは惣門、本堂、庫裡、鐘楼があるだけ どうやら秀吉は箱根山に布陣するとすぐに石垣山城の築城にかかったようです。縄張は黒田官兵衛によると現地の案内板に書いてありました。80日間で造り上げたと伝えられています。複数の記録があるそうなので80日間という日数は偽りではないはずです。ほぼ人力であることを考えると、信じがたいほどの早業です。 入城する 縄張図... Read More | Share it now!
天下の堅城・小田原城は戦わずして落とされた
【神奈川県・小田原市 2025.1.8】「小田原評定」とネットで調べると、AIが「会議や相談が長引いて結論が出ないことを意味する慣用句」と教えてくれます。さらに類義語として「押し問答」「水掛け論」といった負のイメージの言葉が紹介されます。AIはしょせん人間が表示した情報を集積し分析するのですからAIの責任ではありませんが、この説明だか解釈だかは微妙に違うように感じます。(鎌倉時代の執権をになった北条氏とは区別して小田原北条あるいは後北条といわれる)北条氏5代は、宗瑞(早雲)にはじまり、およそ100年にわたり氏綱、氏康、氏政、氏直と正統な後継者である嫡男がお家騒動もなく順当に家督をついでゆきます。驚くべきは5代にわたって皆が非凡であること、しかも親(君主)が息子に幼少時から帝王学を説き、自分が君主として衰えの見えないうちから家督を譲って相談役に徹することを常としています。二代目氏綱の代から北条氏の主城となる小田原城では、定期的におもだった家臣があつまり内政を中心に重要事項を合議により決定していました。この会合に出席するものを評定衆といい、小田原城で行われたゆえにこれが小田原評定です。 北条早雲とは伊勢新九郎のこと 小田原駅前にたつ北条早雲像 小田原駅前にたつ像ですら北条早雲公と記していますが、本人が生前にそのように名乗った記録はありません。室町幕府の政所まんどころ執事をつとめる伊勢氏の出身で、本名は伊勢新九郎盛時が正しいのではないかとされています。戒名が早雲庵宗瑞そううんあんそうずい、この勇ましい馬上の姿はどう見ても出家者のそれではありません。まして北条の姓はというと、氏綱の時代にれっきとした大名になり、西国の政所執事の姓では締まりが悪いので鎌倉時代に関東で覇権をにぎっていた北条氏の姓にあやかったものと考えられます。 新九郎は姉が駿河守護の今川義忠に嫁いでいたことからその今川家の家督争いに介入し、みごとに調停したことから名を上げます。ふたたび争いが勃発したときにはあたえられた軍勢で反抗勢力を切り伏せ、その功で興国寺城をあたえられます。このころまでは新九郎も幕府の家臣として幕府のために働いていたようですが、しだいに野心を抑えがたくなったのでしょう、将軍家の家督争いが起こると騒動の渦中にみずから兵をひきいて伊豆平定をなしとげ、ついに伊豆一帯の統治者におさまります。ここから北条氏5代100年の歴史が始まります。 小田原城・早川口遺構 小田原市観光協会のサイトより抜粋 小田原城というと「総構え」。小田原征伐と称し北条氏を屈服させるため豊臣秀吉が22万の軍勢をひきいて東進してきます。そこで氏直は小田原評定をひらき、城だけでなく城下町もふくめた広大な土地を堀と土塁で囲うことで未曽有の防御を整えることを決めます。小田原市のサイトによると、堀の幅は16m、深さ10m、内側には堀を掘ることで溜まる大量の土で土塁が盛られ、その総延長は9kmにも及んだということです。 まずは案内図の左下に見られる早川口遺構に寄ってみます。 早川口... Read More | Share it now!
国防のためつくられた品川台場は、幕末のあだ花か
【東京都・品川区 2025.1.9】 東京お台場というとフジテレビの社屋や大型ショッピングモールが湾岸沿いに立ちならぶ観光エリアですが、そもそも台場とは幕末に外国船の襲来から国土を守るためにつくられた砲台のことをいい、同時に砲台を擁する要塞のことを指します。江戸幕府がつくったもの、各藩が独自につくったものなど全国に多数の台場がつくられ今もなにかしらの遺構を残しているものは国の史跡として保存されています。 当初の予定では、江戸湾(東京湾)を入口で守るべく無人島につくられた猿島要塞をたずねるつもりでしたが... Read More | Share it now!
大楠山にのぼって相模湾越しに富士山のぞむ
【神奈川県・横須賀市 2025.1.9】富士山がもっとも美しく見られるのは寒さが厳しくなる時期、12月から2月ということになります。一昨年から新年早々に富士山を眺めるための登山を企画していますが、今年は神奈川県にやってきました。今回のメインとなるのは箱根にもふくまれる金時山ですが、もうひとつ別の方角、異なる立地から眺められる場所として三浦半島に着目しました。さてその三浦半島、選んだのはいいものの山らしい山がない。いろいろ調べた結果、三浦半島の中では最高峰の大楠山なら山頂からは相模湾越しにさえぎるもののない富士山の全姿が望めるようなので、ここに決めました。ところで大楠山ですが、三浦半島の最高峰とはいえ標高241m、山というよりは小丘といったほうが適しているみたいです。山登りとは言わずハイキングがてら富士山をのぞむ、と表現を変えましょうか。 大楠山へ この山並みが大楠山のようです 横須賀市街にある三笠公園そばの埠頭から幕末につくられた要塞・猿島へ渡る予定でしたが、強風のため船が休航。ガックリ気落ちしてしまったので、気分転換のためにも大楠山登山口まで5kmを歩くことにしました。 自動車道の下をくぐる... Read More | Share it now!
横浜の市街地にのこる小机城、茅ヶ崎城
【横浜市 2024.4.2】小机城が歴史の表舞台にはじめて登場するのは長尾景春の乱においてではないでしょうか。室町幕府が京都にありながら関東10ヵ国を統治するため設置したのが鎌倉府であり、その長官が鎌倉公方です。鎌倉公方とは役職名というよりも、京都の室町幕府将軍にたいして鎌倉すなわち関東の将軍といったようなものです。それゆえ鎌倉公方は足利将軍家の直系が世襲しており、じっさいに執務をとりしきるのは補佐役の関東管領、その職は上杉氏が世襲していました。その上杉氏が山内上杉家、扇谷上杉家に分かれており、さらに有力家臣である長尾氏も白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家にわかれ、関東管領を直接補佐する最重要ポストの家宰職を持ちまわりで務めていました。こんな状況なら跡目争いがおきるのは必定で、案の上白井長尾家の家督をついだ景春は自分に家宰職が回ってこなかったことに不満をだき、さらに白井長尾家に家宰職が回らないことで既得権益をうしなう周りのものに後押しされ、ついに挙兵します。このとき景春を支持する豊嶋某が立てこもったのが小机城なのですが、それだけであれば後世にさほど注目されることもなかったでしょう。ここに太田道灌が登場します。扇谷上杉家の重臣であり、武だけでなく文にも秀で、また江戸城の原型をつくったとも伝わる有能な武将ですが、自信過剰で人を食ったような面もあり、最後は仕えていた扇谷上杉家の手で暗殺されています。よほど目に余るものがあり主家として危機感を抱いたのでしょうか。その太田道灌がこの小机城を攻め落とすことになるのですが、その際に「小机はまず手習ひのはじめにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」と戯れ歌をうたっています。小机はこの地の地名ですが、それを子供が勉強につかう小さな机にかけ、「小机城ごときは手習いはじめのように、いろはにほへと書くほどにたやすく散り散りとなる(落城する)だろう」と小馬鹿にしたわけです。いろはにほへとの小机城を訪ねてみることにしました。 小机城へむかって 日産スタジアムの横を通って 小机城へ行くには小机駅が最寄になりますが、今夕大阪へもどる都合で新横浜駅のコインロッカーに荷物を預けました。小机駅は一駅だけ先、わざわざ電車に乗り直すこともないので新横浜駅から歩くことにしました。 前方の丘陵が小机城址 現在は、小机城址市民の森なる公園です 小机城 小机城跡の第一の特徴は、この竹林です もっとも当時から竹林があったのかは不明 大がかりな空堀 竹があると斜面をいかにも登りやすいので 竹林は当時はなかったものと考えるべきでしょう 二の丸広場 二の丸から本丸へと向かいます 防御と言えば堀と土塁だけ、そのぶん堀は大がかり 本丸広場 本丸は二の丸とどっこいどっこいの広さ、位置的にも横に並んでいるだけで、資料によるとどちらが主となる曲輪なのかはっきりしないそうです。 本丸から櫓跡へむかいます 天守がない代わりに、ここに遠望するための櫓があった いろはにほへと、の内に落とせるとは思えませんが、それほどの堅城というイメージはありませんでした。それにしても「市民の森」となっており近くに住宅がひしめいているにもかかわらず、散歩する人すら見かけませんでした。密生する竹林と木立のため、たしかに憩いの場とするにはふさわしい雰囲気ではないかもしれません。 茅ヶ崎城へむかって 小机城から6kmほどあるいて茅ヶ崎城を訪ねます。茅ヶ崎城は横浜市の港北ニュータウンを開発中にみつけられた遺跡のひとつで、どうやら小机城の支城だったのではないかと考えられています。小机城のその後はというと、後北条氏が勢力を拡大すると相模から武蔵へ進出してゆく拠点として整備しなおしたようで、茅ヶ崎城もやはり支城のひとつとして使われていたようです。※鎌倉時代の執権・北条氏は相模北条氏とよばれ、北条早雲にはじまる北条氏は小田原北条氏または後北条氏として区別されています。 港北ニュータウンのマンション群を抜けて 戸建て住宅地に出ると、やがて茅ヶ崎城につきます ここは茅ヶ崎城址公園となっています 現地にあった案内板より抜粋 茅ヶ崎城 案内板のある北曲輪(郭) 西曲輪へ向かいます このあたりが西曲輪と思われます 中曲輪... Read More | Share it now!
鎌倉にて、こだわってのちざっと歩く
【神奈川県・鎌倉市 2024.3.31~4.1】過去に訪れたことのない鎌倉を訪ねました。一日半をまるまる鎌倉見物にあてましたが、とてもすべてをじっくり見てまわることはできませんでした。こだわって見て歩いたのは、鎌倉時代初期の頼朝、実朝ゆかりの地。そして幕府倒幕にかかわる後醍醐天皇の皇子・護良親王と足利尊氏ゆかりの地。鎌倉幕府を立ちあげたのは源頼朝ですが、3代目将軍・源実朝が26歳の若さで暗殺され頼朝の血筋は絶え、その後は執権・北条氏による統制(というよりも支配)の時代がながく続きます。その北条氏の出過ぎた執政に業を煮やして王政復古をとなえ行動をおこしたのが後醍醐天皇であり、その勅命にこたえて参集したのが、関東では足利尊氏であり新田義貞であり、畿内では楠木正成です。ところが北条氏をたおして鎌倉幕府を地上から葬り去ったものの、その後はそれぞれの野心や思惑がぞろぞろと顔をだし複雑にからみ合い、ついに足利尊氏の弟で好戦家の直義が、後醍醐天皇の皇子で行動家の護良親王(もりよししんのう)を殺してしまうところから、後醍醐天皇(のちの南朝)vs... Read More | Share it now!