【京都市 2026.3.28 &... Read More | Share it now!
小野小町は乞食老婆となって野垂れ死んだ?
【京都市 2026.3.5】小野小町は世界三大美人のひとりとされています。クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町。クレオパトラは紀元前の古代エジプトの人、楊貴妃は8世紀の中国(唐)の人、小野小町は9世紀の平安京の人。地理的にも時代的にもこれだけ見るだけで、なんだか怪しい説との見当はつくでしょう。 しかし小野小町が美しい女性であったことは、写真はもちろん当時の肖像画も残ってはいないものの、どうやら確かだったようです。多くの男性に言い寄られたという事実から美なのか艶なのか男が喜ぶような魅力があったことはわかるし、歌人としての優れた才能からその魅力が官能的なものではなく、おそらくは凛とした美しさだったと想像されたのではないでしょうか。 ところがその小野小町、没年齢がはっきりしていません。60代と伝えるものもあれば、70代、80代、90代、ついには100歳没説まであります。没年齢だけでなく、没地もはっきりしません。小野小町の墓でしらべると、東北から本州最西端の下関まで20ヶ所ほどの「候補地」が見つかります。 おそらくは後半生があまりにもはっきりしないため、ここから謎が謎をよんだのか創作が創作をまねいたのか、老いた小野小町は乞食然の落魄した姿で諸国を放浪しついには路傍で野垂れ死にした、さらにはその骸骨(頭蓋骨)の眼窩からススキが生えてきたといった怪談めいた話まで残されます。 補陀洛寺(小町寺) 一般道の歩道から いきなり急階段をのぼりますそれだけ境内が手狭ということでもあります 補陀洛寺の境内にたつ十三本檜1本の根元から13本の幹が出ているとのことですが、何度数え直しても10本しかありませんでした。これも怪奇のひとつ? 小野小町姿見の井戸 あなめのススキ眼窩からススキが生えて、穴目のススキ? 補陀洛寺は(このあたりの伝承では)小野小町の終焉の地とされています。堂内には「小野小町老衰像」(90歳ごろの像とか)が祀られているそうですが、拝観するには予約が必要です。わたしはサイトの画像で十分満足したので予約見学はしていません。 ところで乞食をしながら諸国を放浪したとか路傍で野垂れ死にしたと伝えるかと思えば、ここでは平安京はずれの寺で没したとか、それにもかかわらず頭蓋骨の眼窩からススキが生えるとか。どうやらこの話は、胡散臭い。 中央後方が小野小町供養塔左は深草少将通魂碑 深草少将は小野小町に熱心に愛の告白をします。ところが小野小町はそれを煩わしく思い、テキトーにあしらうために私のもとへ百夜通えばその愛に応えようと告げます。深草少将は九十九夜までは通い続けるのですが、いよいよ最後の日になって雪降る中で行き倒れになってしまいます。じつはこれ、能作者たちが創作した『百夜通いももやがよい』というつくり話で、実話ではありません。 補陀洛寺をあとにして 川沿いに岩倉へとあるく 次の目的地である随身院は電車を乗り継いで醍醐あたりまで行かねばなりません。せっかく叡山鉄道沿いのこの地を訪れながら、補陀洛寺ひとつで立ち去るのはなんとも物足りない。ということで、岩倉の一角にある圓通寺を訪ねるべく叡山鉄道沿いでもあり川沿いでもある道をのんびり歩くことにします。とは言いましたが、ここで圓通寺に話題が移ったのではテレビドラマを見ていたら途中でいきなり他の番宣が入るようなものでしょうから、圓通寺は後回しにしてブログは隨心院へとつづけます。 随身院 総門から 長屋門から庫裡をみる 庭園 期間限定の花の間きれいですが、ぜんぶ造花です 堂宇がならぶ境内への正門 このあたりに小野小町が晩年を過ごした居住家があったとつたわる 小野小町化粧井戸 路傍で野垂れ死にから、補陀洛寺では寺院が終焉の地となり、随身院では専用の井戸もある家で暮らす生活に昇格しています。なんじゃこりゃ、といったところでしょうか。随身院には「卒塔婆小町像」が祀られています。こちらは拝観料をはらって堂内にはいればいつでも拝観できます。(写真撮影は禁止) 能のなかに「卒塔婆小町」という物語があります。高野山の僧があるとき卒塔婆(墓石に後ろに立てる戒名などを書いた板)にすわる乞食老婆を見かけます。話をしたところずいぶん教養豊かで、その素性を問うて小野小町の成れの果てだとわかります。さらには過去の栄華を語るうちに、熱愛された深草少将に冷たくあたり深草が雪のなかで凍死したことを告白するうちに怨霊に取りつかれついには狂乱しはじめます。最期は怨霊から解放され悟りの世界へ向かうというストーリーですが、これは先に書いた『百夜通い』の続きであることは明白です。 小野小町の文塚 この文塚は、小野小町が男達からもらった恋文(ラブレター)を大切にとって置いたものを埋めたと伝わっています。自分に思いを寄せた男性たちの気持ちがこもった文を捨てたり焼いたりするのは罪だと感じて大切に残しておいたということです。 随身院につたわる小野小町の晩年の姿が真実であるのかどうかはわかりません。しかし能の題材につかわれ、墓の候補地が20ヶ所もある乞食老婆とする話の方がどう考えても不自然です。もしかすると、小野小町はクレオパトラや楊貴妃に劣らぬほどに美しく、それだけ羨望もされれば嫉妬もされたのかもしれません。 圓通寺 圓通寺近くの道端からみる比叡山 時間を巻き戻して、圓通寺へ向かう道にもどります。ここで比叡山の写真を掲載したのには理由があります。圓通寺の庭園は比叡山を借景にしています。それゆえ雲で山が見えないのでは訪ねてゆく意味がなくなります。 ここがもとの正門? 境内に入ります 枯山水庭園と比叡山堂内は一切撮禁止 【アクセス】叡山鉄道・市原駅~補陀洛寺~圓通寺~木野駅... Read More | Share it now!
狭山池から西高野街道~天野街道をあるいて金剛寺へ
【大阪狭山市~河内長野市... Read More | Share it now!
京都東山を、登って歩いて探して登る
【京都市 2026.2.10】京都東山というと、清水寺や高台寺、八坂神社や二年坂など多数の人気観光スポットが集まる地区の名といまでは思われていますが、そもそもは京の都... Read More | Share it now!
国東半島をめぐる古寺巡礼の旅-いざ国東六郷満山へ
【大分県・宇佐市~豊後高田市~杵築市~国東市... Read More | Share it now!
宇佐神宮の詭・ご神託事件は神と仏と権力者の戦いか
【大分県宇佐市 2026.1.19】平城京に都が移されてから半世紀、諸国にそれぞれ僧尼二つの国分寺が建立され、東大寺の大仏が開眼し、唐から来日した鑑真が唐招提寺を創建して戒律をつたえ、奈良仏教が国と強固に結びつこうとしているとき、宇佐八幡宮ご神託事件がおこります。称徳天皇(孝謙天皇と同じ)に寵愛された怪僧(とつたわる)道鏡を、皇位につかせると天下泰平になると宇佐八幡宮(宇佐神宮)にてご神託があったとの上奏があり、そこに端を発する一連の事件をいいます。 まず道鏡が権力をにぎるまでの経緯から。聖武天皇の譲位にともない男子がいなかったことからその娘の阿倍内親王あべないしんのうが孝謙天皇として即位します。女性天皇ということで心許なかったのか、母であり聖武天皇の后である光明皇后(この時点で皇太后)が後見します。この光明皇太后ですが、藤原不比等の娘。藤原不比等ふひとは藤原氏の祖・藤原鎌足(もと中臣鎌足なかとみのかまたり)の息子であり、藤原氏を繁栄させるためにこの世に生まれ出てきたかのような人物ですから、光明皇太后の脳裡にどのような朝廷の将来図があったかは容易に想像できます。案の上というか光明皇太后の甥である藤原仲麻呂が朝廷内で台頭してきます。当初は孝謙天皇との仲は良好で互いに協力し合っていたようです。どちらが先かはわかりませんが、孝謙天皇は母である光明皇太后の健康が芳しくないこともあって退位の意向を示します。一方の藤原仲麻呂は自分の娘を皇太子候補となる大炊王おおいのおおきみと婚姻させて関係を強化し孝謙天皇が譲位した後にそなえます。(娘ではなく、早逝した長男の嫁すなわち後家との説もあります)さて大炊王は践祚せんそし淳仁じゅんにん天皇として即位しますが、これが完全な操り人形、実権は仲麻呂が握ります。 そのころ孝謙天皇(この時点で上皇)は光明皇太后の崩御ののち魂が抜けたかのように病に伏していました。そこに登場するのが病気平癒を祈祷するため参内した道鏡。このとき、ふたりが親密になりすぎて濃密な肉体関係をもち、(さまざまな醜聞をへて江戸時代の川柳では「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」と揶揄されることになるのですが)、これ以後孝謙上皇はすっかり元気を取り戻したようです。私的には、孝謙上皇がいまでいう更年期障害で鬱々とした日々を送っているときに道鏡がよき話し相手になったのではないかと考えていますが、どちらにしろ孝謙上皇が元気になったのは事実です。 さて孝謙上皇が健康を取りもどして外界をよく見れば、淳仁天皇はお飾りに過ぎず藤原仲麻呂が朝廷を取り仕切っているさまに切歯せっしし、反対に仲麻呂としては孝謙上皇が一僧にすぎない道鏡を過度に重んじることに扼腕やくわんし。事態は急速に険悪化し、ついに仲麻呂は軍事力をもって上皇と道鏡を排斥しようと行動を起こします、これが俗にいう藤原仲麻呂の乱ですが、最終的には仲麻呂政権下で冷や飯を喰わされていた吉備真備きびのまきびの活躍もあって、仲麻呂は斬殺され淳仁天皇は廃位のうえ淡路島に追放されます。 こうして対抗勢力を駆逐した孝謙上皇は重祚ちょうそ(いったん退位した天皇がふたたび皇位につく)して称徳天皇となります。天皇の寵愛を一身にうける道鏡の栄達は雲上人の域を越え、太政大臣禅師さらに法王と、昇り詰めるのではなく道鏡のために特別につくられた地位に栄進してゆきます。 宇佐神宮神橋~大鳥居~菱形池 現地にあった案内図より抜粋最上部の「現在地」から神橋をわたり表参道を進みます 神橋から大鳥居へ 大鳥居 菱形池 菱形池に浮かぶかのような能楽堂 宇佐神宮の由緒に触れておきます。飛鳥時代のまえ「古墳時代」としか呼びようのなかった6世紀中ごろのこと、宇佐の菱形池のほとりに八幡神やはたのかみが降り立ち、その地に神を祀るための社が建てられます。記紀(古事記と日本書紀)によると、4世紀から5世紀ごろ三韓征伐をおこなった神功じんぐう皇后が帰途に筑豊あたりで男児を出産します。この男児がのちに応神天皇として国を大いに発展させるのですが、生誕地が近いこともあってか八幡神は応神天皇の神霊であるとされ、八幡神を祀る社は応神天皇を主祭神とする宇佐神宮へと昇格します。(神社が神全般を祀るのにたいして神宮は天皇や皇族の祖先をまつるため格上とされる... Read More | Share it now!
高野山に母の遺骨を納めるまでの顛末記
【和歌山県・高野町 2025.12.18】 昨年母が亡くなりました。70歳のときに心臓にペースメーカーを入れて80歳まで生きれば御の字と思っていたところ、本人の並外れた食欲ゆえか90歳をむかえます。このときの感想は、ここまで生きられたらどんな形で亡くなっても大往生だわなあ。それから2年弱、享年(今風の満年齢計算で)91歳とはいえ翌月には92歳をむかえる年齢でまさに大往生。 超高齢で亡くなった母の友人知人もみな超高齢のため葬儀は「小さなお葬式」で簡単にすませ、大阪にもどる新幹線の中でこれで終わったと肩の荷を下ろしかけたところ、家内がかたわらに置いた遺骨の壺に目をやりました。これを処理する大仕事が残っていました。 生前母には先祖に義理立てする必要もないので骨になったら高野山に納めると告げていました。信心深いからではありません。私自身が登山が趣味で高野山なら年に一度は訪れるため、わざわざ墓参りにゆくのではなく登山のついでに墓参りができるという、たいへん合理的でじつに身勝手な理由ゆえです。最初の案では、高野山のどこかで散骨するのが良かろうと思っていました。ところが散骨について調べてみると、条件として骨とわからないよう粉骨する必要がある、具体的には一片2ミリ以下。これだけ細かくするには摺鉢すりばちにいれて擂粉木棒すりこぎぼうですりつぶさねばなりません。あたまのなかに遺骨をすりつぶす自分の姿を思いえがいてさすがにぞっとしました。 高野山・極楽橋駅から大門 高野山へ納骨のため、大阪市内から南海電車で極楽橋駅へ。 極楽橋駅で電車からケーブルカーに乗り換え 平日ということもあってか乗客はまばら 山上の高野山駅でバスに乗り換えます 大門前からの眺めはイマイチどころかイマサン けっきょく納骨は一周忌を過ぎてからということにしました。葬儀が簡単なものだったのでせめて1年間くらいは遺骨を自宅において供養しよう、というのは言い訳で本音はどうするか考えるのが面倒になった。そういえば「面倒なことを後回しにしてはいけない」と子供のころ母が言っていました。後回しにしているのではなく思慮深いということにしておきましょう。 さて納骨は越年ということになりましたが、葬儀後の段取りとしては位牌をつくらねばなりません。位牌といえば、そもそも戒名が決まっていません。戒名は常識的には坊さんに決めてもらうもの。ところが私はその坊さんにさほど敬意をもっていないので、坊さんにできることなら自分にもできるだろう、すなわち戒名を自分で決めることができるはずだと考えました。困ったときの神頼み、ならぬGoogle頼み、「戒名、自分で決める」と検索すると、自分で決めてもよいとあっさり明言しています。ただし、「菩提寺がある場合は相談すること」... Read More | Share it now!
二俣城と鳥羽山城を歩いて、家康はどうしたか考える
【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!
京都・鹿ヶ谷から二条城へと、狩りをしない紅葉狩り
【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!
加西市の五百羅漢をたずねてモアイ像に思いはいたる
【兵庫県・加西市 2025.10.25】羅漢像がびっしりならぶ、たとえば五百羅漢を見たいと思い、大阪周辺で探してみました。京都市の石峯寺と兵庫県加西市の羅漢寺がヒット。画像をじっくり見ていると、羅漢寺の羅漢像はどこかで見たような。そうです、なにやらイースター島のモアイ像を想わせる顔立ちのものが多数。気持ちは一気にこちらに傾きました。 羅漢とは阿羅漢のこと、仏教で最高の悟りをえた僧にあたえられる称号のようなものです。称号とはべつに単純にその境地に達した僧のことを「無学」と称します。「学がない」のではなく「すでに学ぶべきことがない」、なんと素晴らしい。ちなみに「無学」に達していない僧は「学ぶべきことがまだまだある」ということで「有学」。 ところで最高の悟りをえて学ぶことがすでにない、といえばそれこそ仏陀ではないかと思うのですが、仏陀は釈迦にのみ与えられる称号で、その弟子たちはみんな阿羅漢。それゆえ五百もの羅漢像がならんでも胡散臭くはないということになります。 酒見寺 部分的に雰囲気をのこした町並みをあるく大阪からだとJR加古川駅で北条鉄道に乗り換え、終点の北条町駅で下車 楼門... Read More | Share it now!