【滋賀県・犬上郡多賀町 2025.8.13】「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀のお子じゃもの」といわれる滋賀県にある多賀大社。なぜかといえば、伊勢神宮内宮にまつられる天照大御神アマテラスオオミカミは、この多賀大社にまつられる伊邪那岐大神イザナギノオオカミ、伊邪那美大神イザナミノオオカミの子であるゆえです。 言い方をかえると、イザナギとイザナミはアマテラスの祖神おやがみということになるのですが、祖神は祖神であって「親神」ではありません。古事記によると、男神であるイザナギは先に亡くなった妻である女神のイザナミに会うために黄泉よみの国へむかいます。そこでイザナギが見たのは、腐敗して蛆がわいたイザナミの醜い姿。イザナギは恐れおののいて黄泉の国から逃げかえり、その穢れけがれをおとすため水で身体を清めて禊みそぎをします。その禊をするなかで、左の眼を洗った時にあられたのがアマテラス、右の眼を洗った時にあられたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのがスサノオということです。(このあたりの話は、山さんブログ『なぜ熊野三山では不吉なカラスが神使なのか』 https://yamasan-aruku.com/aruku-362/ に詳しく書いていますので、ここでは端折りました) 左の眼を洗ったらアマテラスが生まれたというのも奇異な話ですが、ここではそれはさておき、イザナギとイザナミは夫婦であるものの、この話を読むかぎり、アマテラスはイザナギから生まれたのであって、イザナミはその生誕にまったく関わっていないことがわかります。しかも具合が悪いことに(?)イザナギは男神です。男親から子が生まれるとはなんでやねん?と誰しもが思うはずです。このように神話の世界ではそれぞれの神々を「親」と「子」として見ると、不可解(あるいは不合理)な点が多々出てきます。しかし「アホくさ」で片づけてはいけません、なにしろ私たち日本人の創造主ですから敬わねばなりません。そこで教養のある先達が「親おや」神ではありません、「祖はじめ」神です、と断りを入れた、のではないかと私は勝手に考えている次第です。 ※なお天理教では、「人間を創造し育てられた神」のことを「親神様」と呼ぶそうです。 鳥居から太閤橋 多賀大社前駅をでると目の前に大鳥居 多賀大社が人気をあつめたのは、ひとつにはこのあたりが交通の要衝であり、宿場町が形成されたこともあります。 現地にあった案内板より抜粋 また京の都と北陸あるいは東国をむすぶ地理的に重要な位置にあり、むかしから有力な武将が近辺に居城をかまえていました。そのため佐々木道誉(勝楽寺城)、浅井長政(小谷城)、織田信長(安土城)、羽柴秀吉(長浜城)、さらに井伊家(彦根城)の関係からか徳川家等々が多額の寄進をした記録があります。 太閤橋... Read More | Share it now!
太宰府天満宮にて菅原道真の怨霊について考える
【福岡県・太宰府市 2025.7.8】菅原道真というと今でこそ学問の神様として敬慕されていますが、そもそも太宰府天満宮は道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。天満宮が創祀時から趣旨替えして道真を学問の神として祀るようになったのは、怨霊騒動もおさまったことだしいつまでも鎮魂でもあるまい(現実問題としてそれでは庶民にありがたがれることもなく参拝者が増えない)との判断にもとづいたものでしょう。それでは発端の怨霊騒動とはなんだったのだろうかと考えたとき、人々の(この場合は道真追い落としにかかわった天皇や公卿の)怨霊を恐れる意識があまりにも過敏なのではないか、言いかえると誰かが作為して道真の怨霊を誇張し、その怨霊を鎮めるための神社をつくらせ道真を神として祀らせたのではないかと疑心が沸き上がってきました。 菅原道真は平安時代前期に公卿ではあるもののそれほど高位ではない学者の家に生まれます。幼少期から漢詩を詠んでいたという逸話に象徴されるように並外れた文才にめぐまれ、かつ公卿のなかでは身分が高くなかったので周囲との権力争いにエネルギーを浪費することもなく勉学に精進したようで、文字どおりトントン拍子で出世してゆきます。さらに宇多うだ天皇から目をかけられたことでその出世のペースは加速します。宇多天皇が即位したときに朝廷を取り仕切っていたのは藤原基経(のちに道真追い落としの首謀者となる藤原時平の父)、この人物が曲者くせものだったわけではありませんが、この時点で5代にわたる天皇に仕えてきた実績から宇多天皇にとっては煙たい存在であったことは容易に想像されます。その基経が亡くなり順当に時平が表舞台に登場しますが、そのとき時平は21歳の若輩、宇多天皇が21歳の弱輩とかるく見たかどうかはわかりませんが、自分の思い通りの政まつりごとができると解放感は感じたことでしょう。ここから偏愛ともおもえるほどの道真の重用がはじまります。 たとえば寛平3年には、2月に蔵人頭くろうどとう、3月に式部少輔しきぶのしょう、4月に左中弁さちゅうべんを兼務とめまぐるしく役職を得て、ついに寛平5年には参議に叙せられます。参議とは「朝廷の政に参議する」という意味からきた役職で、大納言・中納言とあわせて「卿」に属し、それに対して公家の「公」は大臣を指しており、一口に公卿といっても公と卿ではまるで位階がちがいます。先に書いたように道真は公卿でも身分が低かったために権力争いには無縁でした。ところが公卿の「卿」に仲間入りしたことで、仲間だけでなく多数の敵に取り囲まれることになります。やがて道真は周囲からの誹謗中傷に悩まされ辞任を申し出たとの説もありますが、どちらにしても宇多天皇が手放すはずもありません。 太宰府天満宮へ 西鉄太宰府駅ホーム朱鳥居をイメージしている? こんなタイル張りの参道を歩き、柄は大宰府で出土した蓮華唐花模様 道すがら、梅のマンホールを見やりながら いくつ目だかの鳥居の前に着きます奥の門は延寿王院の山門... Read More | Share it now!
なぜ熊野三山では不吉なカラスが神使なのか
【和歌山県・新宮市~田辺市~那智勝浦町 2025.6.19】熊野三山に興味を持ちはじめたのは、日本サッカー協会のシンボルでもある八咫烏ヤタガラスが熊野三山の神使しんしであることを知ったのがきっかけです。よりにもよって、なぜ不吉とされるカラスが神の使いになったのか。熊野三山とは新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の那智勝浦大社をあわせてそう呼びます。それぞれは20~30km離れており、むかし熊野詣といえば、伊勢神宮からだと伊勢路をあるき、高野山からだと小辺路こへちをすすみ、あるいは大坂(大阪)からなら紀伊路につづいていまの田辺から山中に入って中辺路なかへちをたどり、あるいは田辺から海岸沿いをつたう大辺路おおへち、また吉野からはもっぱら修験者が行脚する難路である大峯奥駈道おおみねおくがけみちがあり、彼らは熊野の地に着けばこれら三社(三山)を順にめぐりました。社と社をむすぶ道をふくめ、これらすべての道を総称して熊野古道と呼びます。また2004年(平成16年)には、伊勢神宮をのぞく上記のすべてをあわせて「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。※伊勢神宮だけが含まれなかったのには理由があり、伊勢神宮は古来より20年ごとに社殿をあたらしく建て替えて祭神に遷宮していただく神事があり、その「建て替え」という行事が「過去からのこる遺産を守り後世につたえる」という世界遺産の理念にそぐわないということのようです。 それぞれの祭神について触れておきましょう。熊野本宮大社の主祭神は元々は家都御子大神けつみみこのおおかみ、のちに素戔嗚尊スサノオノミコトと同一神とされ、さらに神仏習合の時代には阿弥陀如来を本地仏ほんじぶつとします。熊野本宮大社は地勢的にももっとも山中深くに鎮座し、本来は熊野座神社くまのにますじんじゃと呼ばれたことからも熊野三山のなかで中心的存在であることがわかります。熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神くまのはやたまおおかみ、伊弉諾尊イザナギノミコトを同一神としています。そして本地仏は薬師如来。さいごに那智勝浦大社については、熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみが主祭神であり、伊弉冉尊イザナミノミコトが同一神、本地仏は千手観音とされています。 もっとも知りたいのは本来の神様である、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神の三神についてですが、ほとんど手掛かりがありません。本地仏については神仏習合という一時期の、すなわち時限的な教えからの産物にすぎません。しかも神仏習合の考え方は仏優位で、神は仏や菩薩の化身であるとする本地垂迹説ほんちすいじゃくせつにもとづいているので神についてアプローチするには足枷にすらなります。そうなると、ヒントは記紀(古事記と日本書紀)に記されたスサノオ、イザナギ、イザナミから探っていくしかありません。 神倉神社 天照大御神アマテラスオオミカミから5代後の子孫とされる磐余彦尊イワレヒコノミコト(のちの神武天皇)は東征にさいして高千穂から瀬戸内海を東進し、紀伊半島をまわっていったん熊野に上陸します。そのとき登ったとされるのがいまの新宮市の中心にある神倉山。そこから見わたす深山幽谷の景観に進むべき道もわからず躊躇するイワレヒコでしたが、高倉下タカクラジなるアマテラスの使者から神剣を授かり、そしてアマテラスが遣わしたカラスの導きで紀伊の山中をわけ進み大和の地にたどり着くことになります。これは古事記と日本書紀に同じような内容で記されていることですが、熊野信仰では熊野の三神すなわち家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神がはじめて降臨した地とされています。神倉神社はいまは熊野速玉大社の摂社とされていますが、その熊野速玉大社のHPをみると、記紀にある記述にはまったく触れていません。 この鳥居をくぐって、 538段の急峻な石段をあがると、 朱い玉垣にかこまれた拝所に着きます 天ノ磐盾あまのいわたてとよばれる崖上にあり、御神体のゴトビキ岩が鎮座しています イザナギとイザナミは国産み、神産みの神であり、また夫婦神でもあります。二柱の神は力を合わせてまず淡路島を生み出し、つづいて四国、九州などいずれ日本国となる島々を生み、さらに山の神や海の神など三十五柱の神々を産み出しますが、イザナミがさいごに火の神を産み出した時には、女陰を火の神の火焔で焼かれ亡くなってしまいます。(柱:神様の数え方。御神木にみられるように神は木に宿るとの信仰から「木の主」と書いて一柱ひとはしら、二柱ふたはしらとかぞえました)イザナギは最愛の妻イザナミを失った悲しみに耐えきれず、黄泉よみの国まで訪ねてゆきます。自分に会うためここまで訪ねてきてくれた夫の思いに心を動かされ、イザナミは黄泉の国をつかさどる神に地上の国へもどしてもらえないか相談すると告げます。さてイザナギですが、自分がもどるまで決してここを動かず待っているようイザナミから忠告されたにもかかわらず、その後の様子が気になりだすと居ても立っても居られなくなり、つい闇に光をかざして探したところ、イザナミは腐敗し全身に蛆がわいた醜い姿をしているではないですか。イザナギは恐怖にひきつり、イザナミは自分の醜い姿をみられたことを恥じ、イザナギは一目散に逃げ、それを見たイザナミは羞恥が恨怒へとかわりあとを追いかけます。 最後はイザナギは逃げ切るのですが、黄泉の国からの急峻な坂道に大きな岩をおいてふさぎ、岩越しにイザナミに離婚を言い渡します。(アマテラスの岩戸の話もそうですが、ここでも大きな岩(石)が話の中に登場することには注目すべきです)ところで余談ですが---離婚を宣告されたイザナミは怒りにまかせて「あなたが離婚するというなら私は地上のあなたの国の人間を、一日に千人殺すことにしましょう」と叫びます。するとイザナギは「おまえがそんなことをするなら私は一日に千五百人の人間を生ませることにしよう」と叫び返します。こうして地上の国では一日に千人が死ぬかわりに千五百人が生まれることになるのですが--記紀が書かれた時代の人たちはよもや日本に人口減少の時代が訪れるとは夢想だにしなかったのでしょう。あくまで余談ですが。 熊野速玉大社 神橋をわたり参道へ 神門(左)、手水舎 神門撮影時には気づかなかったのですが、注連縄のあたりが奇妙です。おそらく一時的にレンズが曇ったのでしょうが、霊気?があったとすればそれはそれですごい。 左奥手前が拝殿、その奥から結宮、速玉宮、横長は上三殿、さらに八社殿。結宮には熊野夫須美大神(イザナミ)、速玉宮には熊野速玉大神(イザナギ)、上三殿左には家都御子大神(スサノオ)が祀られ、今ではどこへ参詣してもすべての神をお参りできる、なんとも便利なシステムになっているようです。 地上の国へもどったイザナギは、黄泉の国の穢けがれをおとすため身体を水で清めます。これが禊みそぎです。まず脱ぎ捨てた服から十二柱の神々があらわれ、川に身を入れて身体をあらったときにも洗い落とされた穢れからは災いの神々がうまれ、さらにこの災いを直そうと新たな神々があらわれ、といった具合に「穢れを落とすための禊」の過程でたくさんの神が生み出されます。そして最後に左の眼を洗った時にあらわれたのがアマテラスであり、右の眼を洗った時にあらわれたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのがスサノオということです。 熊野本宮大社 熊野三山に関する知識を得るため資料を読んでいる分には、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神とあわせてスサノオ、イザナギ、イザナミの名がしばしば登場します。ところが熊野三山(三社)独自のサイトをみると、熊野オリジナルの3神にくわえてさらにマイナーな神様や氏族の名が登場するばかりで記紀に登場する神々はすっかり影を潜めています。本地仏については、明治維新とともに神仏分離令が施行されたため、今ではせいぜい探せばその残滓が認められるぐらいのものです。 平安時代から室町時代にかけては、熊野に詣でることが大流行しました。信仰とか宗教において「大流行」という言葉を使うと身も蓋もないと言われそうですが、どうやら当時の権力者のなかに「熊野詣」を(今でいうところの商品化して)売りに売ろうと意図した人がいたのではないでしょうか。「家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神」これら熊野土着の信仰だけでは盛り上がりません。「スサノオ、イザナミ、イザナギ」ここで土着信仰に神道が加わります。「阿弥陀如来、薬師如来、千手観音」さらに神仏習合により仏教が合わさることで「熊野だけの信仰」が、「熊野信仰」として日本中に流布されます。さらに修験道がくわわり、修験者が修行のために熊野古道をあるくことで、(修験者にそのような企図があるなしは別にして)けっして楽ではない熊野詣がそのまま神や仏への帰依につながると口から口へ言い伝えられるようになります。 表鳥居... Read More | Share it now!
米沢城は城主の知名度で人をよぶ
【山形県・米沢市 2025.5.24】2022年に放映された大河ドラマは「鎌倉殿の13人」でした。ここでいう13人とは、もともと2代将軍・源頼家と直接主従関係をむすんだ家臣、すなわち鎌倉幕府においての御家人にあたり、それらが13人おり全員の合議制でことを決めようとしたものでした。そのなかのひとり大江広元は公家出身で、源頼朝の時代にはその補佐役であり、幕府と朝廷のパイプ役であり、かつ他の御家人と頼朝との連絡係でもあり、将軍につぐナンバー2だったと言って過言ではありません。 その大江広元が米沢城とどのように関係してくるのか。「鎌倉殿の13人」をご覧になった方はご承知のように北条義時が御家人のなかのトップにたち権力をしだいに掌握してゆきます。やがて後鳥羽上皇が幕府への権力集中に不満を抱き周囲に鎌倉打倒を勅命することになります。これが承久の乱ですが、朝廷側はあっけなく敗北し、上皇は隠岐に流されます。史実によれば、大江広元は北条義時が台頭するのちも鎌倉幕府の政務に協力するだけでなく、承久の乱では公家出身であるにもかかわらず終始幕府方についていたようですが、嫡男の大江親広は朝廷方につき幕府軍との戦闘にも関わっていたようです。もうすこしで米沢城にたどり着きます。それがために親広は改易、次男の時広が惣領となります。さて時広ですが、幕府の中枢で活躍していたはずなのですが、いつのまにか出羽国に所領をあたえられ鎌倉からも京からも離されてしまいます。なんとなく左遷の空気がただよいます、やはり長男・親広の行動が問題になったのでしょうか。 時広が所領をえた地は長井郡(長井荘?)と呼ばれていたため本人も長井時広と改姓し、その地に拠点とする館を築きます、それが米沢城のはじまりと言われています。※ここまで話をひっぱりながら恐縮なのですが、長井時広の館が米沢城のはじまりというのも一つの説にすぎず確証はありません。 米沢城 本丸をまもる水堀 城内の案内図より 舞鶴橋(石橋)から本丸へ 舞鶴橋をわたる 上杉鷹山の像 舞鶴橋の手前に上杉鷹山ようざんの座像があり写真を撮るでもなくやり過ごしたところ、本丸に入ってすぐのところにふたたび立像がありました。よほど「売り」にしているのでしょう。 冒頭で大河ドラマを話題にあげたのは、じつは米沢城内でしきりに「上杉鷹山を大河ドラマに」と訴える幟が目についたがため... Read More | Share it now!
西宮神社境内は、走らず歩いて参詣します
【兵庫県・西宮神社 2025.5.8】きょうは、招福の神であり商売の神様でもある、恵比須さまを祀るえびす宮の総本山、西宮神社に参詣します。そもそも恵比須とはどのような由緒をもつ神様なのか。いわゆる七福神のなかで、唯一日本古来の神様です。(他は大黒天、弁財天、毘沙門天がインド由来、布袋、寿老人、福禄寿が中国由来)日本古来の神様であるなら記紀(古事記と日本書記)に記述があるはずですが、たしかに日本書紀の国生みの話のなかで1つではなく数度にわけて書いてあります。それぞれ表現は違うのですが、すべてを総合すると、「伊弉諾尊いざなぎのみことと伊弉冉尊いざなみのみことが日の神と月の神を産んだあとに生まれたのは蛭子(ひるこ:蛭ひるのように手足のない子、あるいは不自由で3歳になっても脚が立たなかったとも)でした。そのためイザナギ、イザナミは古事記によると「出来がわるい」と葦の船にのせて海へ流してしまいます。なんとも残酷というか可哀そうな話なのですが、この流された蛭子の運命はこれで尽きたわけではありません。ここから先の話は、記紀をはなれます、出典はわかりません... Read More | Share it now!
奈良駅から万葉まほろば線で南へ、帯解周辺を歩く
【奈良市 2025.4.16】JR奈良駅から別名「万葉まほろば線」として親しまれている桜井線にのって南へ下ると、最初の駅が京終(きょうばて)です。意味は文字通り平城京の終わり(果て、端)を意味します。さらに南下すると、帯解(おびとけ)駅があり、石上神宮いそのかみじんぐうが近い天理駅、古代遺跡の代表である纒向まきむき遺跡がのこる巻向、大神おおみわ神社と三輪山が鎮座する三輪をへて桜井駅へ。このあたりは大和がまだ倭と記されていた時代にヤマトの中心であったと考えられている土地です。 「まほろば」とは古事記にも出てくる古語で、漢字で書くと「眞秀呂場」となり「素晴らしい処」を意味します。そもそもはヤマトタケルが詠んだ歌「倭は 国のまほろば 畳たたなづく 青垣 山籠ごもれる 倭し麗し」が由来となっているようです。 奈良観光というと、東大寺や春日大社をふくむ奈良公園周辺、法隆寺のある斑鳩、桜と紅葉がみごとな吉野、あとは薬師寺、飛鳥(明日香村)、橿原神宮といったところのようですが、この万葉まほろば線沿いにもなかなか見逃せない処(観光客がぐっと少ないという意味では穴場)があります。とはいっても、天理~巻向~三輪~桜井あたりは以前にあるいてブログにも書きました。そこで今日は、京終から天理までの途中に位置する帯解おびとけで下車して周辺を歩いてみることにします。 帯解寺 帯解寺・山門 帯解寺おびとけでらの名の由来を書いておきます。文徳もんとく天皇(1200年ほど前に即位した第55代天皇)と后の染殿皇后が子供ができないことを悩みこの寺で祈願したところ、男児・惟仁親王(のちの清和天皇)をさずかり無事に出産。天皇はおおいに喜び「腹帯がとけて安産できた」との意味で、「帯解寺」の名を下賜されたとのこと。 本堂、左後方に十三重石塔 以上が一般につたわる由来ですが、実際のところはずいぶんキナ臭い史実が残っています。染殿皇后の元の名は藤原明子。父は藤原良房、皇族以外ではじめて摂政の位についた実力者(くせ者とも言える)です。 藤原良房の妹・順子は54代任明天皇に嫁ぎ道康親王を出産、これがのちの文徳天皇です。 本堂 文徳天皇は他の后がさきに産んだ第一皇子を寵愛していたものの、良房は娘である明子を入内させ惟仁親王を出産すると、天皇家に藤原家の血をさらに濃く注ぎ込むため強引に惟仁親王を立太子させます。※立太子とはつぎの皇位継承者として立てること。本来は天皇すなわち文徳天皇が決めるべきことをここでは岳父の良房がやってしまっている。 帯解寺の名の由来にケチをつけようというのではなく、歴史は裏があるから面白い、と思いませんか? 円照寺 帯解寺から円照寺へは徒歩20分 長い参道を歩いてゆくと、 やっと山門に着きます ところが未公開の拝観謝絶でした(笑) 山門手前から霊気漂うような石段が なんとか歩けるように整えた道をすすむと、 大師堂にたどり着きました... Read More | Share it now!
ホトの話もホドホドに、御神体山・三輪山に登拝する
【奈良県・桜井市 2025.3.31】神様について、少々ややこしいですが、ここは肝心なところなので詳しく書いておきます。日本の神話においては天照大御神あまてらすおおみかみが最高神ですが、アマテラスが神のくらす天上界の主宰神(その世界を統べる主たる神)であるのにたいして、人がすむ地上界で国づくりをおこなったのが大国主神おおくにぬしのかみであり、そのためオオクニヌシは地上界(葦原中国)の主宰神とされています。さてアマテラスの数代あとの孫のひとりが日本の初代天皇である神武天皇です。神武天皇は127歳まで生きたということになっているので、このあたりの記紀(古事記と日本書紀)の記述はずいぶん疑わしいのですが、日本人として実直に信じるならば、いまの天皇家はアマテラスの後裔ということであり、それゆえに現人神あらひとがみとされています。そのアマテラスの弟が須佐之男命すさのうのみことであり、オオクニヌシはスサノオの数代あとの孫とされています。すなわちオオクニヌシは天皇家とは直接血のつながりがありません。それどころか記紀を読んでいるとスサノオは暴れん坊であったとか、オオクニヌシは優しい性格ゆえに兄弟に虐められていたとか、なんだか神様でありながら人間くさく身近に感じられるところが多々あります。個人的な推論ですが、天上界の主宰神アマテラスを天皇家の始祖とすることで、地上界のオオクニヌシをはじめ各地で祀られる氏神や鎮守神らと区別して、あくまでアマテラスすなわち天皇家は手の届かないものとします。そのうえで地上界の神々は人がスガルも良しアガメルも良し、困ったときだけの神頼みもOK、しかも家内安全・商売繁盛・厄除け・交通安全・念願成熟・病気平癒・恋愛・結婚・安産なんでもござれ、任せなさい、頼りなさい、ということになったのでしょう。ということは、オオクニヌシこそ我ら平民のたよれる神様の、さらにその親方ということになります。オオクニヌシが祀られている神地としては出雲大社がもっとも有名ですが、奈良県・桜井市の三輪山にも祀られています。むしろ三輪山に祀られたとする歴史の方が古く、山麓にある大神神社おおみわじんじゃは日本最古の神社と記録されています。ところが大神神社の主祭神はオオクニヌシ(大国主)ではなく、オオモノヌシ(大物主)です。じつはオオモノヌシはオオクニヌシの異名です。なぜ異名で呼ばれるか... Read More | Share it now!
吉田松陰は長州・萩の草葉の陰でなにを思う
【山口県・下関市~萩市... Read More | Share it now!
日吉大社は延暦寺の守護社となって泣いてないか
【滋賀県・大津市 2025.2.9】関西以外の土地に住んでいる方でも大抵は比叡山・延暦寺はご存じでしょうが、日吉大社となるとどれぐらい知られているのでしょうか。では関西の方で延暦寺と日吉大社の関係をご存じの方はどれほどいるのでしょうか。正解は、日吉大社に祀られる大山咋神おおやまくいのかみが地主神(この場合は比叡山の地主神)であり、そこから日吉大社が延暦寺の守護社となっています。もうひとつ質問です。平安時代に延暦寺の僧兵(山法師)が自らの要求を認めさすために強訴をくりかえし、当時の白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名ですが、その強訴のさい山法師が脅しとして振りまわした神輿はどこから出てきたものかご存じでしょうか。正解は日吉大社の神輿であり、けっして延暦寺の仏具を持ち出して振りまわしたり乱暴に扱うことはありませんでした。以上のことを考えたとき、延暦寺にとっては日吉大社は守護社というよりも利用するには便利な存在であり、日吉大社にとっての延暦寺はただただ厄介者でしかなかったのではないか、と思えてきませんか? 鳥居をくぐり日吉大社へ JR比叡山坂本駅から歩く 生源寺内にある最澄の産湯を汲んだ井戸(そう伝わっているだけで確証はありません) 大鳥居... Read More | Share it now!
天理教→石上神宮と新旧の宗教にふれ大国見山にのぼる
【奈良県天理市・2025.3.9】国見山とは、その土地の国人(地頭、君主など)あるいはときに天皇が高台にのぼって一帯を見わたし世の平和を確認するための、その高台をふくむ山のことを指します。ネットで「国見山」と検索すると、全国に30ぐらいは同名の山があるようで、文明の利器のない時代にはとりあえずは高いところへあがり上から自分の目でみて確認していたのであろうことが察せられます。奈良県およびその周辺にも国見山という名の山は二つ三つありました。どのような意図で「大」の一字を加えたのでしょうか、その一字で大国見山は全国で唯一の山になっています。けっして大きな山ではありません(標高498m)考えられることは、非常に歴史がふるく記紀(古事記と日本書紀)にも祭神についての記述がある石上いそのかみ神宮とその元社といわれる石上神社がふもとに鎮座することから敬意の意味で「大」をつけたのではないか。そんなことまで考えてみたのですが、存外に「大奮発」とか「大サービス」ぐらいのノリで後世の人があてがっただけなのかもしれません。 天理教団から石上神宮へ 神殿とよばれる天理教本部前を通る 天理市は新興宗教の団体である天理教からその名がついた文字通りの宗教都市といえます。街を歩いていても違和感はありません。むしろ放置ごみや吸殻のポイ捨ても見当たらず、住民のマナーはきわめて良いように見受けられます。その意味では大阪市も大阪市民も... Read More | Share it now!