【京都市 2026.2.10】京都東山というと、清水寺や高台寺、八坂神社や二年坂など多数の人気観光スポットが集まる地区の名といまでは思われていますが、そもそもは京の都... Read More | Share it now!
国東半島をめぐる古寺巡礼の旅-いざ国東六郷満山へ
【大分県・宇佐市~豊後高田市~杵築市~国東市... Read More | Share it now!
宇佐神宮の謎・ご神託事件は神と仏と権力者の戦いか
【大分県宇佐市 2026.1.19】平城京に都が移されてから半世紀、諸国にそれぞれ僧尼二つの国分寺が建立され、東大寺の大仏が開眼し、唐から来日した鑑真が唐招提寺を創建して戒律をつたえ、奈良仏教が国と強固に結びつこうとしているとき、宇佐八幡宮ご神託事件がおこります。称徳天皇(孝謙天皇と同じ)に寵愛された怪僧(とつたわる)道鏡を、皇位につかせると天下泰平になると宇佐八幡宮(宇佐神宮)にてご神託があったとの上奏があり、そこに端を発する一連の事件をいいます。 まず道鏡が権力をにぎるまでの経緯から。聖武天皇の譲位にともない男子がいなかったことからその娘の阿倍内親王あべないしんのうが孝謙天皇として即位します。女性天皇ということで心許なかったのか、母であり聖武天皇の后である光明皇后(この時点で皇太后)が後見します。この光明皇太后ですが、藤原不比等の娘。藤原不比等ふひとは藤原氏の祖・藤原鎌足(もと中臣鎌足なかとみのかまたり)の息子であり、藤原氏を繁栄させるためにこの世に生まれ出てきたかのような人物ですから、光明皇太后の脳裡にどのような朝廷の将来図があったかは容易に想像できます。案の上というか光明皇太后の甥である藤原仲麻呂が朝廷内で台頭してきます。当初は孝謙天皇との仲は良好で互いに協力し合っていたようです。どちらが先かはわかりませんが、孝謙天皇は母である光明皇太后の健康が芳しくないこともあって退位の意向を示します。一方の藤原仲麻呂は自分の娘を皇太子候補となる大炊王おおいのおおきみと婚姻させて関係を強化し孝謙天皇が譲位した後にそなえます。(娘ではなく、早逝した長男の嫁すなわち後家との説もあります)さて大炊王は践祚せんそし淳仁じゅんにん天皇として即位しますが、これが完全な操り人形、実権は仲麻呂が握ります。 そのころ孝謙天皇(この時点で上皇)は光明皇太后の崩御ののち魂が抜けたかのように病に伏していました。そこに登場するのが病気平癒を祈祷するため参内した道鏡。このとき、ふたりが親密になりすぎて濃密な肉体関係をもち、(さまざまな醜聞をへて江戸時代の川柳では「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」と揶揄されることになるのですが)、これ以後孝謙上皇はすっかり元気を取り戻したようです。私的には、孝謙上皇がいまでいう更年期障害で鬱々とした日々を送っているときに道鏡がよき話し相手になったのではないかと考えていますが、どちらにしろ孝謙上皇が元気になったのは事実です。 さて孝謙上皇が健康を取りもどして外界をよく見れば、淳仁天皇はお飾りに過ぎず藤原仲麻呂が朝廷を取り仕切っているさまに切歯せっしし、反対に仲麻呂としては孝謙上皇が一僧にすぎない道鏡を過度に重んじることに扼腕やくわんし。事態は急速に険悪化し、ついに仲麻呂は軍事力をもって上皇と道鏡を排斥しようと行動を起こします、これが俗にいう藤原仲麻呂の乱ですが、最終的には仲麻呂政権下で冷や飯を喰わされていた吉備真備きびのまきびの活躍もあって、仲麻呂は斬殺され淳仁天皇は廃位のうえ淡路島に追放されます。 こうして対抗勢力を駆逐した孝謙上皇は重祚ちょうそ(いったん退位した天皇がふたたび皇位につく)して称徳天皇となります。天皇の寵愛を一身にうける道鏡の栄達は雲上人の域を越え、太政大臣禅師さらに法王と、昇り詰めるのではなく道鏡のために特別につくられた地位に栄進してゆきます。 宇佐神宮神橋~大鳥居~菱形池 現地にあった案内図より抜粋最上部の「現在地」から神橋をわたり表参道を進みます 神橋から大鳥居へ 大鳥居 菱形池 菱形池に浮かぶかのような能楽堂 宇佐神宮の由緒に触れておきます。飛鳥時代のまえ「古墳時代」としか呼びようのなかった6世紀中ごろのこと、宇佐の菱形池のほとりに八幡神やはたのかみが降り立ち、その地に神を祀るための社が建てられます。記紀(古事記と日本書紀)によると、4世紀から5世紀ごろ三韓征伐をおこなった神功じんぐう皇后が帰途に筑豊あたりで男児を出産します。この男児がのちに応神天皇として国を大いに発展させるのですが、生誕地が近いこともあってか八幡神は応神天皇の神霊であるとされ、八幡神を祀る社は応神天皇を主祭神とする宇佐神宮へと昇格します。(神社が神全般を祀るのにたいして神宮は天皇や皇族の祖先をまつるため格上とされる... Read More | Share it now!
高野山に母の遺骨を納めるまでの顛末記
【和歌山県・高野町 2025.12.18】 昨年母が亡くなりました。70歳のときに心臓にペースメーカーを入れて80歳まで生きれば御の字と思っていたところ、本人の並外れた食い意地のつよさゆえか90歳をむかえます。このときの感想は、ここまで生きられたらどんな形で亡くなっても大往生だわなあ。それから2年弱、享年(今風の満年齢計算で)91歳とはいえ翌月には92歳をむかえる年齢でまさに大往生。 超高齢で亡くなった母の友人知人もみな超高齢のため葬儀は「小さなお葬式」で簡単にすませ、大阪にもどる新幹線の中でこれで終わったと肩の荷を下ろしかけたところ、家内がかたわらに置いた遺骨の壺に目をやりました。これを処分(いやいや廃棄物ではないのだから言葉がわるい)処理する大仕事が残っていました。 生前母には先祖に義理立てする必要もないので骨になったら高野山に納めると告げていました。信心深いからではありません。私自身が登山が趣味で高野山なら年に一度は訪れるため、わざわざ墓参りにゆくのではなく登山のついでに墓参りができるという、たいへん合理的でじつに身勝手な理由ゆえです。最初の案では、高野山のどこかで散骨するのが良かろうと思っていました。これなら費用もかかりません。ところが散骨について調べてみると、条件として骨とわからないよう粉骨する必要がある、具体的には一片2ミリ以下。これだけ細かくするには摺鉢すりばちにいれて擂粉木棒すりこぎぼうですりつぶさねばなりません。あたまのなかに遺骨をすりつぶす自分の姿を思いえがいてさすがにぞっとしました。信仰心のない私には罰ばちがあたるという発想はありませんが、なにやら寝覚めが悪くなりそうです。 高野山・極楽橋駅から大門 高野山へ納骨のため、大阪市内から南海電車で極楽橋駅へ。 極楽橋駅で電車からケーブルカーに乗り換え 平日ということもあってか乗客はまばら 山上の高野山駅でバスに乗り換えます 大門前からの眺めはイマイチどころかイマサン けっきょく納骨は一周忌を過ぎてからということにしました。葬儀が簡単なものだったのでせめて1年間くらいは遺骨を自宅において供養しよう、というのは言い訳で本音はどうするか考えるのが面倒になった。そういえば「面倒なことを後回しにしてはいけない」と子供のころ母が言っていました。後回しにしているのではなく思慮深いということにしておきましょう。 さて納骨は越年ということになりましたが、葬儀後の段取りとしては位牌をつくらねばなりません。位牌といえば、そもそも戒名が決まっていません。戒名は常識的には坊さんに決めてもらうもの。ところが私はその坊さんにさほど敬意をもっていないので、坊さんにできることなら自分にもできるだろう、すなわち戒名を自分で決めることができるはずだと考えました。困ったときの神頼み、ならぬGoogle頼み、「戒名、自分で決める」と検索すると、自分で決めてもよいとあっさり明言しています。ただし、「菩提寺がある場合は相談すること」... Read More | Share it now!
二俣城と鳥羽山城を歩いて、家康はどうしたか考える
【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!
京都・鹿ヶ谷から二条城へと、狩りをしない紅葉狩り
【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!
加西市の五百羅漢をたずねてモアイ像に思いはいたる
【兵庫県・加西市 2025.10.25】羅漢像がびっしりならぶ、たとえば五百羅漢を見たいと思い、大阪周辺で探してみました。京都市の石峯寺と兵庫県加西市の羅漢寺がヒット。画像をじっくり見ていると、羅漢寺の羅漢像はどこかで見たような。そうです、なにやらイースター島のモアイ像を想わせる顔立ちのものが多数。気持ちは一気にこちらに傾きました。 羅漢とは阿羅漢のこと、仏教で最高の悟りをえた僧にあたえられる称号のようなものです。称号とはべつに単純にその境地に達した僧のことを「無学」と称します。「学がない」のではなく「すでに学ぶべきことがない」、なんと素晴らしい。ちなみに「無学」に達していない僧は「学ぶべきことがまだまだある」ということで「有学」。 ところで最高の悟りをえて学ぶことがすでにない、といえばそれこそ仏陀ではないかと思うのですが、仏陀は釈迦にのみ与えられる称号で、その弟子たちはみんな阿羅漢。それゆえ五百もの羅漢像がならんでも胡散臭くはないということになります。 酒見寺 部分的に雰囲気をのこした町並みをあるく大阪からだとJR加古川駅で北条鉄道に乗り換え、終点の北条町駅で下車 楼門... Read More | Share it now!
滋賀が喧嘩して、琵琶湖の水を止めるのは有りか
【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!
明智光秀が本能寺へと向かうのに、唐櫃越えを通った?
【京都府・亀岡市 2025.10.13】まず亀岡市の所在について、関西在住以外の方にはピンとこないかもしれませんので述べておきます。亀岡市は京都市の西隣にあります。紅葉時期の京都観光でひときわ人気の保津峡下りはこの亀岡市からスタートして京都市の嵐山がゴールとなります。歴史好きの方に対してなら、明智光秀が居城とし織田信長を討つため本能寺にむけて出発した丹波亀山城のあるところといえば、より興味を持っていただけるでしょうか。明智光秀とその軍勢が本能寺へひたひたと進んだのは旧山陰道ですが、その北側の山系の尾根をむすぶように通じる間道があります。距離的には長くはありません。亀岡市の東寄り(馬堀)から京都市の西寄り(桂)まで11kmほど。この道を「唐櫃越えからとごえ」と呼びます。 唐櫃とは、唐からつたわった脚のついた櫃ひつのことです。話は歴史をずっとさかのぼりますが、西暦4世紀ごろ朝鮮半島(三韓)を征伐したとされる神功じんぐう皇后が帰国したさいに、武器や武具とともに黄金の鶏を唐櫃にいれて埋めたとの伝承があります。ではこの地がその唐櫃が埋められた地なのかというと、そうではありません。唐櫃という地名は西日本に何ヶ所かあります。そのなかで兵庫県の六甲山の山中にも唐櫃という地名があり、そこを通る道を唐櫃道とよびます。その六甲山の唐櫃道を越える(より険しい道の意か?)ゆえに「唐櫃越え」と名づけられたのだとか... Read More | Share it now!
剣山の磐座をたずねて、神に接することはできるのか
【徳島県・つるぎ町~美馬市... Read More | Share it now!