【和歌山県・高野町 2025.12.18】 昨年母が亡くなりました。70歳のときに心臓にペースメーカーを入れて80歳まで生きれば御の字と思っていたところ、本人の並外れた食い意地のつよさゆえか90歳をむかえます。このときの感想は、ここまで生きられたらどんな形で亡くなっても大往生だわなあ。それから2年弱、享年(今風の満年齢計算で)91歳とはいえ翌月には92歳をむかえる年齢でまさに大往生。 超高齢で亡くなった母の友人知人もみな超高齢のため葬儀は「小さなお葬式」で簡単にすませ、大阪にもどる新幹線の中でこれで終わったと肩の荷を下ろしかけたところ、家内がかたわらに置いた遺骨の壺を指さしました。これを処分(いやいや廃棄物ではないのだから言葉がわるい)処理する大仕事が残っていました。 生前母には先祖に義理立てする必要もないので骨になったら高野山に納めると告げていました。信心深いからではありません。私自身が登山が趣味で高野山なら年に一度は訪れるため、わざわざ墓参りにゆくのではなく登山のついでに墓参りができるという、たいへん合理的でじつに身勝手な理由ゆえです。最初の案では、高野山のどこかで散骨するのが良かろうと思っていました。これなら費用もかかりません。ところが散骨について調べてみると、条件として骨とわからないよう粉骨する必要がある、具体的には2ミリ以下。これだけ細かくするには摺鉢すりばちにいれて擂粉木棒すりこぎぼうですりつぶさねばなりません。あたまのなかに遺骨をすりつぶす自分の姿を思いえがいてさすがにぞっとしました。信仰心のない私には罰ばちがあたるという発想はありませんんが、なにやら寝覚めが悪くなりそうです。 高野山・極楽橋駅から大門 高野山へ納骨のため、大阪市内から南海電車で極楽橋駅へ。 極楽橋駅で電車からケーブルカーに乗り換え 平日ということもあってか乗客はまばら 山上の高野山駅でバスに乗り換えます 大門前からの眺めはイマイチどころかイマサン けっきょく納骨は一周忌を過ぎてからということにしました。葬儀が簡単なものだったのでせめて1年間くらいは遺骨を自宅において供養しよう、というのは言い訳で本音はどうするか考えるのが面倒になった。そういえば「面倒なことを後回しにしてはいけない」と子供のころ母が言っていました。後回しにしているのではなく思慮深いということにしておきましょう。 さて納骨は越年ということになりましたが、葬儀後の段取りとしては位牌をつくらねばなりません。位牌といえば、そもそも戒名が決まっていません。戒名は常識的には坊さんに決めてもらうもの。ところが私はその坊さんにさほど敬意をもっていないので、坊さんにできることなら自分にもできるだろう、すなわち戒名を自分で決めることができるはずだと考えました。困ったときの神頼み、ならぬGoogle頼み、「戒名、自分で決める」と検索すると、自分で決めてもよいとあっさり明言しています。ただし、「菩提寺がある場合は相談すること」... Read More | Share it now!
二俣城と鳥羽山城を歩いて、家康はどうしたか考える
【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!
京都・鹿ヶ谷から二条城へと、狩りをしない紅葉狩り
【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!
加西市の五百羅漢をたずねてモアイ像に思いはいたる
【兵庫県・加西市 2025.10.25】羅漢像がびっしりならぶ、たとえば五百羅漢を見たいと思い、大阪周辺で探してみました。京都市の石峯寺と兵庫県加西市の羅漢寺がヒット。画像をじっくり見ていると、羅漢寺の羅漢像はどこかで見たような。そうです、なにやらイースター島のモアイ像を想わせる顔立ちのものが多数。気持ちは一気にこちらに傾きました。 羅漢とは阿羅漢のこと、仏教で最高の悟りをえた僧にあたえられる称号のようなものです。称号とはべつに単純にその境地に達した僧のことを「無学」と称します。「学がない」のではなく「すでに学ぶべきことがない」、なんと素晴らしい。ちなみに「無学」に達していない僧は「学ぶべきことがまだまだある」ということで「有学」。 ところで最高の悟りをえて学ぶことがすでにない、といえばそれこそ仏陀ではないかと思うのですが、仏陀は釈迦にのみ与えられる称号で、その弟子たちはみんな阿羅漢。それゆえ五百もの羅漢像がならんでも胡散臭くはないということになります。 酒見寺 部分的に雰囲気をのこした町並みをあるく大阪からだとJR加古川駅で北条鉄道に乗り換え、終点の北条町駅で下車 楼門... Read More | Share it now!
滋賀が喧嘩して、琵琶湖の水を止めるのは有りか
【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!
明智光秀が本能寺へと向かうのに、唐櫃越えを通った?
【京都府・亀岡市 2025.10.13】まず亀岡市の所在について、関西在住以外の方にはピンとこないかもしれませんので述べておきます。亀岡市は京都市の西隣にあります。紅葉時期の京都観光でひときわ人気の保津峡下りはこの亀岡市からスタートして京都市の嵐山がゴールとなります。歴史好きの方に対してなら、明智光秀が居城とし織田信長を討つため本能寺にむけて出発した丹波亀山城のあるところといえば、より興味を持っていただけるでしょうか。明智光秀とその軍勢が本能寺へひたひたと進んだのは旧山陰道ですが、その北側の山系の尾根をむすぶように通じる間道があります。距離的には長くはありません。亀岡市の東寄り(馬堀)から京都市の西寄り(桂)まで11kmほど。この道を「唐櫃越えからとごえ」と呼びます。 唐櫃とは、唐からつたわった脚のついた櫃ひつのことです。話は歴史をずっとさかのぼりますが、西暦4世紀ごろ朝鮮半島(三韓)を征伐したとされる神功じんぐう皇后が帰国したさいに、武器や武具とともに黄金の鶏を唐櫃にいれて埋めたとの伝承があります。ではこの地がその唐櫃が埋められた地なのかというと、そうではありません。唐櫃という地名は西日本に何ヶ所かあります。そのなかで兵庫県の六甲山の山中にも唐櫃という地名があり、そこを通る道を唐櫃道とよびます。その六甲山の唐櫃道を越える(より険しい道の意か?)ゆえに「唐櫃越え」と名づけられたのだとか... Read More | Share it now!
剣山の磐座をたずねて、神に接することはできるのか
【徳島県・つるぎ町~美馬市... Read More | Share it now!
秋篠寺は秋篠宮家の名の由来にもなった名刹
【奈良市 2025.9.13】奈良時代、仏教をひろめるため聖武天皇の勅願で東大寺が建立されますが、そののち東大寺と対になるように称徳天皇の勅願により西大寺が創建されます。両寺の寺名からもわかるように平城京においては東と西に位置します。さて今日訪ねる寺は、西の西大寺の、その北にあります。寺名は秋篠寺あきしのでら。東大寺と西大寺がともに由緒の正しさが明らかのであるのに対して、秋篠寺の前身は地元の豪族・秋篠氏の氏寺ではなかったかと伝えられているもののはっきりしません。しかし記録としては、奈良時代の末期に光仁天皇の勅願により造営されたとあるようです。その意味では天皇の勅願寺ということになり、由緒には問題はないと言ってよいでしょう。 秋篠といえば、あたりまえのように今上きんじょう天皇(現在の天皇)の弟君である秋篠宮殿下(文仁親王)を思い浮かべることでしょう。ところで天皇家の人々には姓がありません。さらに細かく言うと、今上天皇の徳仁とか秋篠宮家の文仁は名ではなく「称号」というべきものです。文仁親王の結婚に際し、そのときの天皇(平成天皇、いまの上皇)から秋篠宮の宮号を賜って、秋篠宮文仁(宮号+称号)と呼ばれるようになったということです。(今上天皇は現天皇ゆえに宮号もなく、ただ称号の徳仁のみ) 秋篠へ 近鉄大和西大寺駅から秋篠寺までは徒歩20分ほど 地名や寺名が宮号に使われるのは珍しいことではありません。たとえば三笠宮は春日神社の背後にある御蓋山(みかさやま)から。桂宮は桂離宮のある桂村から。 秋篠寺南門手前にある八所御霊神社崇道天皇ほか八所(八つ)の御霊をまつる、もとは秋篠寺の守護社 秋篠寺の本堂には本尊の薬師如来ほか多数の仏像が祀られており、そのなかでも伎芸天ぎげいてんは、その優しい笑みと美しい立ち姿から一番人気といえます。文仁親王が結婚にさいして秋篠の宮号を賜ったことについて、その伎芸天の顔立ちが結婚される紀子さんに似ているので秋篠の号を希望したと語ったそうですが、これはあきらかにリップサービスに類するものでしょう。残念ながらというか可哀そうというか、天皇家の人々にはそのような、結婚相手の容姿がらみで宮号を選ぶ自由はありません。 南門から 秋篠寺・南門 南門から入って、 樹林と境内全体にひろがる緑苔三連休初日にもかかわらず人出もまばらで、 静謐の空間に身を置いていると、時の流れが止まったかのような錯覚を覚えます 天皇家の人々は法律上は日本国民ですが、戸籍がありません。日本国民の全員がもつ姓名もありません。日本国民としての権利(人権)がないので、選挙権も被選挙権もなく、日本国民としての自由を保障されていない(あるいは大幅に制約されている)ので、職業をえらぶ自由も、生活拠点を変える(引っ越し)自由も、好きなところへ旅行する自由もありません。天皇(および皇族)は、天照大御神あまてらすおおみかみを始祖とする神の系譜であり、戦後の「天皇の人間宣言」が発出されるまでは現人神あらひとがみ(人の姿でこの世に現れた神)とされてきました。ずいぶん右寄り思考の私ですら、(ブログにはしばしば天皇は現人神であると書いていますが)天皇が神様の系譜だなどとは信じていません。そもそもアマテラスであれ、スサノオであれ、オオクニヌシであれ、見方しだいではその生い立ちは笑止千万といえます。もともと日本人にとっての神様は「自然」でした。太陽の光であり、風であり、雨であり。その自然イコール神を崇拝するなかで、より拝む対象をはっきり具体化させるために御神体が生まれ(選ばれ)ました。それが富士山などの山であり、磐座いわくらとよばれる岩であり、霊木とよばれる巨樹であり。そこに神が降臨する、あるいは神霊が宿るとされました。それでは山や岩や巨木に降臨し宿る神とはいかなるものなのか。やがて神の姿をよりはっきり知りたいという欲求が生まれます。それは崇拝する対象をもっとくわしく知ることによって、より親しく崇めたい、拝みたいという希求がもとになっているのでしょう。古事記や日本書紀の神話に関する記述はなんともユーモラスで、(それゆえ見方次第では笑止千万となるのですが)対象が神様でありながら思わず親しみを感じてしまいます。日本の神様は八百万やおよろずといわれるように唯一神でないだけでなく、全知全能の絶対神でもありません。唯一神でもなく絶対神でもない、誰にとっても親しく身近に、むずかしい礼拝の言葉も必要なく、ただ手を合わせて頼ったり、すがったり、願ったり、慕ったり-... Read More | Share it now!
大阪で暑いときに登山をするなら、能勢妙見山
【大阪府・豊能郡能勢町 2025.8.26】もう8月も終盤だというのに、いまだに大阪では猛暑日がつづいています。そんな状況下で、どこか山歩きに行けないものかと探してみました。京都も奈良も内陸になるゆえかさらに気温が高く、敬遠。神戸あたりはすこし気温が下がるものの、海寄りの山は岩盤質で樹林がすくなく木陰がないので夏場に山歩きは、不向き。もうすこし内陸にはいると京都や奈良と同じように気温は大阪よりも高く、パス。滋賀県の比良山系は琵琶湖がたくわえる豊富な水の影響か風が吹けば体感気温はぐっと涼しく感じられるのですが、山登り自体がきつくて今は体調が万全でないゆえ、断念。 では諦めるのかというと、長年関西一円を歩き回ってきた経験から、引出は他にもあります。大阪の最北端に位置する能勢町、ここは穴場です。なにが穴場なのかというと、大阪にありながら涼しい。天気予報で確認すると、今日の大阪市内の最高気温が36度、能勢町の最高気温は33度、早朝に家を出てめざす能勢妙見山を8時頃から登りはじめ正午前後に下山してしまえば、楽勝。であることを期待して、いざ出発。※正確には能勢妙見山は山頂付近にある寺院の名称であり、山の名としては「能勢」がつかない、「妙見山」と呼ぶべきようです。 初谷渓谷コース 妙見口駅近くにあった案内板より抜粋 前回2年前に歩いたときには、③の上杉尾根コースを登り、➃の初谷渓谷コースを下りました。登り下りともに大変良かった記憶があります。そこで今回は逆に初谷渓谷コースを登り、どのルートで下るかは山頂に着いてから考えることにします。先に結末を言いますと、山頂に着いた時点では➀の大堂越コースを下るつもりだったのですが、ふと気が変わって手前の新滝道コース(地図にはない➀と➂の中間あたり、リフト・ケーブル跡沿いにある道)をくだり、これが失敗でした。 妙見口駅から田園の中を、初谷渓谷コース登山口へ ここが入口です 渓流沿いの林道を歩きます 路面は自然の土、樹林で木陰、かたわらを渓流この3つがそろえば、暑さはぐっとやわらぎます。 なんとも涼し気なところに出てきました。実際にこのあたりは風が吹き抜けて快適でした 途中にあった、石で作った卵と牙のオブジェよくわからんので、写真だけ撮っておきます 渓流を渡渉する ここから渓流渡渉がはじまる 途中から渓流の渡渉をくりかえすことになります。前回この道を下った時には、渡渉した記憶はあるもののそれほど大変だった思いはないのですが、今回は昨夜の山間部での大雨の影響でしょうか、水量が多くてけっこう難儀しました。 十数回の渡渉があります 渓流を安全にわたるコツがあります。足元を濡らさないように岩の上を歩くと、足をすべらせて渓流に尻もちをついてずぶ濡れ、あるいはケガをすることもあります。このさい足元が濡れることは気にせず、水中の歩きやすいところに足を突っ込むことです。濡れても夏場ならすぐに乾きます。それでは冬場ならどうするか? 冬場に渓流渡渉はしない、それに限ります。 山頂の能勢妙見山(宮)へ このあたりから山道らしくなる 道が崩落したところもあるが、危険というほどでもない 緊急連絡する際の位置をしらせる番号札これが道標の代わりになる ここまでくると山頂も近い さいごに急坂をのぼる 能勢妙見山(宮)の鳥居寺でありながら鳥居があるのは、神仏習合のなごり 本殿 この寺院の正式名称は、「無漏山眞如寺むろさん しんにょじ... Read More | Share it now!
平群には、なぜ神はたくさんいるのに仏は少ないのか
【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!