街歩き・山歩き,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・加西市 2025.10.25】羅漢像がびっしりならぶ、たとえば五百羅漢を見たいと思い、大阪周辺で探してみました。京都市の石峯寺と兵庫県加西市の羅漢寺がヒット。画像をじっくり見ていると、羅漢寺の羅漢像はどこかで見たような。そうです、なにやらイースター島のモアイ像を想わせる顔立ちのものが多数。気持ちは一気にこちらに傾きました。 羅漢とは阿羅漢のこと、仏教で最高の悟りをえた僧にあたえられる称号のようなものです。称号とはべつに単純にその境地に達した僧のことを「無学」と称します。「学がない」のではなく「すでに学ぶべきことがない」、なんと素晴らしい。ちなみに「無学」に達していない僧は「学ぶべきことがまだまだある」ということで「有学」。 ところで最高の悟りをえて学ぶことがすでにない、といえばそれこそ仏陀ではないかと思うのですが、仏陀は釈迦にのみ与えられる称号で、その弟子たちはみんな阿羅漢。それゆえ五百もの羅漢像がならんでも胡散臭くはないということになります。 酒見寺 部分的に雰囲気をのこした町並みをあるく大阪からだとJR加古川駅で北条鉄道に乗り換え、終点の北条町駅で下車 楼門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,京都

【京都府・亀岡市 2025.10.13】まず亀岡市の所在について、関西在住以外の方にはピンとこないかもしれませんので述べておきます。亀岡市は京都市の西隣にあります。紅葉時期の京都観光でひときわ人気の保津峡下りはこの亀岡市からスタートして京都市の嵐山がゴールとなります。歴史好きの方に対してなら、明智光秀が居城とし織田信長を討つため本能寺にむけて出発した丹波亀山城のあるところといえば、より興味を持っていただけるでしょうか。明智光秀とその軍勢が本能寺へひたひたと進んだのは旧山陰道ですが、その北側の山系の尾根をむすぶように通じる間道があります。距離的には長くはありません。亀岡市の東寄り(馬堀)から京都市の西寄り(桂)まで11kmほど。この道を「唐櫃越えからとごえ」と呼びます。 唐櫃とは、唐からつたわった脚のついた櫃ひつのことです。話は歴史をずっとさかのぼりますが、西暦4世紀ごろ朝鮮半島(三韓)を征伐したとされる神功じんぐう皇后が帰国したさいに、武器や武具とともに黄金の鶏を唐櫃にいれて埋めたとの伝承があります。ではこの地がその唐櫃が埋められた地なのかというと、そうではありません。唐櫃という地名は西日本に何ヶ所かあります。そのなかで兵庫県の六甲山の山中にも唐櫃という地名があり、そこを通る道を唐櫃道とよびます。その六甲山の唐櫃道を越える(より険しい道の意か?)ゆえに「唐櫃越え」と名づけられたのだとか... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2025.9.13】奈良時代、仏教をひろめるため聖武天皇の勅願で東大寺が建立されますが、そののち東大寺と対になるように称徳天皇の勅願により西大寺が創建されます。両寺の寺名からもわかるように平城京においては東と西に位置します。さて今日訪ねる寺は、西の西大寺の、その北にあります。寺名は秋篠寺あきしのでら。東大寺と西大寺がともに由緒の正しさが明らかのであるのに対して、秋篠寺の前身は地元の豪族・秋篠氏の氏寺ではなかったかと伝えられているもののはっきりしません。しかし記録としては、奈良時代の末期に光仁天皇の勅願により造営されたとあるようです。その意味では天皇の勅願寺ということになり、由緒には問題はないと言ってよいでしょう。 秋篠といえば、あたりまえのように今上きんじょう天皇(現在の天皇)の弟君である秋篠宮殿下(文仁親王)を思い浮かべることでしょう。ところで天皇家の人々には姓がありません。さらに細かく言うと、今上天皇の徳仁とか秋篠宮家の文仁は名ではなく「称号」というべきものです。文仁親王の結婚に際し、そのときの天皇(平成天皇、いまの上皇)から秋篠宮の宮号を賜って、秋篠宮文仁(宮号+称号)と呼ばれるようになったということです。(今上天皇は現天皇ゆえに宮号もなく、ただ称号の徳仁のみ) 秋篠へ 近鉄大和西大寺駅から秋篠寺までは徒歩20分ほど 地名や寺名が宮号に使われるのは珍しいことではありません。たとえば三笠宮は春日神社の背後にある御蓋山(みかさやま)から。桂宮は桂離宮のある桂村から。 秋篠寺南門手前にある八所御霊神社崇道天皇ほか八所(八つ)の御霊をまつる、もとは秋篠寺の守護社 秋篠寺の本堂には本尊の薬師如来ほか多数の仏像が祀られており、そのなかでも伎芸天ぎげいてんは、その優しい笑みと美しい立ち姿から一番人気といえます。文仁親王が結婚にさいして秋篠の宮号を賜ったことについて、その伎芸天の顔立ちが結婚される紀子さんに似ているので秋篠の号を希望したと語ったそうですが、これはあきらかにリップサービスに類するものでしょう。残念ながらというか可哀そうというか、天皇家の人々にはそのような、結婚相手の容姿がらみで宮号を選ぶ自由はありません。 南門から 秋篠寺・南門 南門から入って、 樹林と境内全体にひろがる緑苔三連休初日にもかかわらず人出もまばらで、 静謐の空間に身を置いていると、時の流れが止まったかのような錯覚を覚えます 天皇家の人々は法律上は日本国民ですが、戸籍がありません。日本国民の全員がもつ姓名もありません。日本国民としての権利(人権)がないので、選挙権も被選挙権もなく、日本国民としての自由を保障されていない(あるいは大幅に制約されている)ので、職業をえらぶ自由も、生活拠点を変える(引っ越し)自由も、好きなところへ旅行する自由もありません。天皇(および皇族)は、天照大御神あまてらすおおみかみを始祖とする神の系譜であり、戦後の「天皇の人間宣言」が発出されるまでは現人神あらひとがみ(人の姿でこの世に現れた神)とされてきました。ずいぶん右寄り思考の私ですら、(ブログにはしばしば天皇は現人神であると書いていますが)天皇が神様の系譜だなどとは信じていません。そもそもアマテラスであれ、スサノオであれ、オオクニヌシであれ、見方しだいではその生い立ちは笑止千万といえます。もともと日本人にとっての神様は「自然」でした。太陽の光であり、風であり、雨であり。その自然イコール神を崇拝するなかで、より拝む対象をはっきり具体化させるために御神体が生まれ(選ばれ)ました。それが富士山などの山であり、磐座いわくらとよばれる岩であり、霊木とよばれる巨樹であり。そこに神が降臨する、あるいは神霊が宿るとされました。それでは山や岩や巨木に降臨し宿る神とはいかなるものなのか。やがて神の姿をよりはっきり知りたいという欲求が生まれます。それは崇拝する対象をもっとくわしく知ることによって、より親しく崇めたい、拝みたいという希求がもとになっているのでしょう。古事記や日本書紀の神話に関する記述はなんともユーモラスで、(それゆえ見方次第では笑止千万となるのですが)対象が神様でありながら思わず親しみを感じてしまいます。日本の神様は八百万やおよろずといわれるように唯一神でないだけでなく、全知全能の絶対神でもありません。唯一神でもなく絶対神でもない、誰にとっても親しく身近に、むずかしい礼拝の言葉も必要なく、ただ手を合わせて頼ったり、すがったり、願ったり、慕ったり-... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,大阪

【大阪府・豊能郡能勢町 2025.8.26】もう8月も終盤だというのに、いまだに大阪では猛暑日がつづいています。そんな状況下で、どこか山歩きに行けないものかと探してみました。京都も奈良も内陸になるゆえかさらに気温が高く、敬遠。神戸あたりはすこし気温が下がるものの、海寄りの山は岩盤質で樹林がすくなく木陰がないので夏場に山歩きは、不向き。もうすこし内陸にはいると京都や奈良と同じように気温は大阪よりも高く、パス。滋賀県の比良山系は琵琶湖がたくわえる豊富な水の影響か風が吹けば体感気温はぐっと涼しく感じられるのですが、山登り自体がきつくて今は体調が万全でないゆえ、断念。 では諦めるのかというと、長年関西一円を歩き回ってきた経験から、引出は他にもあります。大阪の最北端に位置する能勢町、ここは穴場です。なにが穴場なのかというと、大阪にありながら涼しい。天気予報で確認すると、今日の大阪市内の最高気温が36度、能勢町の最高気温は33度、早朝に家を出てめざす能勢妙見山を8時頃から登りはじめ正午前後に下山してしまえば、楽勝。であることを期待して、いざ出発。※正確には能勢妙見山は山頂付近にある寺院の名称であり、山の名としては「能勢」がつかない、「妙見山」と呼ぶべきようです。 初谷渓谷コース 妙見口駅近くにあった案内板より抜粋 前回2年前に歩いたときには、③の上杉尾根コースを登り、➃の初谷渓谷コースを下りました。登り下りともに大変良かった記憶があります。そこで今回は逆に初谷渓谷コースを登り、どのルートで下るかは山頂に着いてから考えることにします。先に結末を言いますと、山頂に着いた時点では➀の大堂越コースを下るつもりだったのですが、ふと気が変わって手前の新滝道コース(地図にはない➀と➂の中間あたり、リフト・ケーブル跡沿いにある道)をくだり、これが失敗でした。 妙見口駅から田園の中を、初谷渓谷コース登山口へ ここが入口です 渓流沿いの林道を歩きます 路面は自然の土、樹林で木陰、かたわらを渓流この3つがそろえば、暑さはぐっとやわらぎます。 なんとも涼し気なところに出てきました。実際にこのあたりは風が吹き抜けて快適でした 途中にあった、石で作った卵と牙のオブジェよくわからんので、写真だけ撮っておきます 渓流を渡渉する ここから渓流渡渉がはじまる 途中から渓流の渡渉をくりかえすことになります。前回この道を下った時には、渡渉した記憶はあるもののそれほど大変だった思いはないのですが、今回は昨夜の山間部での大雨の影響でしょうか、水量が多くてけっこう難儀しました。 十数回の渡渉があります 渓流を安全にわたるコツがあります。足元を濡らさないように岩の上を歩くと、足をすべらせて渓流に尻もちをついてずぶ濡れ、あるいはケガをすることもあります。このさい足元が濡れることは気にせず、水中の歩きやすいところに足を突っ込むことです。濡れても夏場ならすぐに乾きます。それでは冬場ならどうするか? 冬場に渓流渡渉はしない、それに限ります。 山頂の能勢妙見山(宮)へ このあたりから山道らしくなる 道が崩落したところもあるが、危険というほどでもない 緊急連絡する際の位置をしらせる番号札これが道標の代わりになる ここまでくると山頂も近い さいごに急坂をのぼる 能勢妙見山(宮)の鳥居寺でありながら鳥居があるのは、神仏習合のなごり 本殿 この寺院の正式名称は、「無漏山眞如寺むろさん しんにょじ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!

神社・仏閣,滋賀

【滋賀県・犬上郡多賀町 2025.8.13】「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀のお子じゃもの」といわれる滋賀県にある多賀大社。なぜかといえば、伊勢神宮内宮にまつられる天照大御神アマテラスオオミカミは、この多賀大社にまつられる伊邪那岐大神イザナギノオオカミ、伊邪那美大神イザナミノオオカミの子であるゆえです。 言い方をかえると、イザナギとイザナミはアマテラスの祖神おやがみということになるのですが、祖神は祖神であって「親神」ではありません。古事記によると、男神であるイザナギは先に亡くなった妻である女神のイザナミに会うために黄泉よみの国へむかいます。そこでイザナギが見たのは、腐敗して蛆がわいたイザナミの醜い姿。イザナギは恐れおののいて黄泉の国から逃げかえり、その穢れけがれをおとすため水で身体を清めて禊みそぎをします。その禊をするなかで、左の眼を洗った時にあられたのがアマテラス、右の眼を洗った時にあられたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのが素戔嗚尊スサノオノミコトということです。(このあたりの話は、山さんブログ『なぜ熊野三山では不吉なカラスが神使なのか』 https://yamasan-aruku.com/aruku-362/ に詳しく書いていますので、ここでは端折りました) 左の眼を洗ったらアマテラスが生まれたというのも奇異な話ですが、ここではそれはさておき、イザナギとイザナミは夫婦であるものの、この話を読むかぎり、アマテラスはイザナギから生まれたのであって、イザナミはその生誕にまったく関わっていないことがわかります。しかも具合が悪いことに(?)イザナギは男神です。男親から子が生まれるとはなんでやねん?と誰しもが思うはずです。このように神話の世界ではそれぞれの神々を「親」と「子」として見ると、不可解(あるいは不合理)な点が多々出てきます。しかし「アホくさ」で片づけてはいけません、なにしろ私たち日本人の先祖(とされている)ですから敬わねばなりません。そこで教養のある先達が「親おや」神ではありません、「祖はじめ」神です、と断りを入れた、のではないかと私は勝手に考えている次第です。 ※なお天理教では、「人間を創造し育てられた神」のことを「親神様」と呼ぶそうです。 鳥居から太閤橋 多賀大社前駅をでると目の前に大鳥居 多賀大社が人気をあつめたのは、ひとつにはこのあたりが交通の要衝であり、宿場町が形成されたこともあります。 現地にあった案内板より抜粋 また京の都と北陸あるいは東国をむすぶ地理的に重要な位置にあり、むかしから有力な武将が近辺に居城をかまえていました。そのため佐々木道誉(勝楽寺城)、浅井長政(小谷城)、織田信長(安土城)、羽柴秀吉(長浜城)、さらに井伊家(彦根城)の関係からか徳川家等々が多額の寄進をした記録があります。 太閤橋... Read More | Share it now!

神社・仏閣,福岡

【福岡県・太宰府市 2025.7.8】菅原道真というと今でこそ学問の神様として敬慕されていますが、そもそも太宰府天満宮は道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。天満宮が創祀時から趣旨替えして道真を学問の神として祀るようになったのは、怨霊騒動もおさまったことだしいつまでも鎮魂でもあるまい(現実問題としてそれでは庶民にありがたがれることもなく参拝者が増えない)との判断にもとづいたものでしょう。それでは発端の怨霊騒動とはなんだったのだろうかと考えたとき、人々の(この場合は道真追い落としにかかわった天皇や公卿の)怨霊を恐れる意識があまりにも過敏なのではないか、言いかえると誰かが作為して道真の怨霊を誇張し、その怨霊を鎮めるための神社をつくらせ道真を神として祀らせたのではないかと疑心が沸き上がってきました。 菅原道真は平安時代前期に公卿ではあるもののそれほど高位ではない学者の家に生まれます。幼少期から漢詩を詠んでいたという逸話に象徴されるように並外れた文才にめぐまれ、かつ公卿のなかでは身分が高くなかったので周囲との権力争いにエネルギーを浪費することもなく勉学に精進したようで、文字どおりトントン拍子で出世してゆきます。さらに宇多うだ天皇から目をかけられたことでその出世のペースは加速します。宇多天皇が即位したときに朝廷を取り仕切っていたのは藤原基経(のちに道真追い落としの首謀者となる藤原時平の父)、この人物が曲者くせものだったわけではありませんが、この時点で5代にわたる天皇に仕えてきた実績から宇多天皇にとっては煙たい存在であったことは容易に想像されます。その基経が亡くなり順当に時平が表舞台に登場しますが、そのとき時平は21歳の若輩、宇多天皇が21歳の弱輩とかるく見たかどうかはわかりませんが、自分の思い通りの政まつりごとができると解放感は感じたことでしょう。ここから偏愛ともおもえるほどの道真の重用がはじまります。 たとえば寛平3年には、2月に蔵人頭くろうどとう、3月に式部少輔しきぶのしょう、4月に左中弁さちゅうべんを兼務とめまぐるしく役職を得て、ついに寛平5年には参議に叙せられます。参議とは「朝廷の政に参議する」という意味からきた役職で、大納言・中納言とあわせて「卿」に属し、それに対して公家の「公」は大臣を指しており、一口に公卿といっても公と卿ではまるで位階がちがいます。先に書いたように道真は公卿でも身分が低かったために権力争いには無縁でした。ところが公卿の「卿」に仲間入りしたことで、仲間だけでなく多数の敵に取り囲まれることになります。やがて道真は周囲からの誹謗中傷に悩まされ辞任を申し出たとの説もありますが、どちらにしても宇多天皇が手放すはずもありません。 太宰府天満宮へ 西鉄太宰府駅ホーム朱鳥居をイメージしている? こんなタイル張りの参道を歩き、柄は大宰府で出土した蓮華唐花模様 道すがら、梅のマンホールを見やりながら いくつ目だかの鳥居の前に着きます奥の門は延寿王院の山門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,和歌山

【和歌山県・新宮市~田辺市~那智勝浦町 2025.6.19】熊野三山に興味を持ちはじめたのは、日本サッカー協会のシンボルでもある八咫烏ヤタガラスが熊野三山の神使しんしであることを知ったのがきっかけです。よりにもよって、なぜ不吉とされるカラスが神の使いになったのか。熊野三山とは新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の那智勝浦大社をあわせてそう呼びます。それぞれは20~30km離れており、むかし熊野詣といえば、伊勢神宮からだと伊勢路をあるき、高野山からだと小辺路こへちをすすみ、あるいは大坂(大阪)からなら紀伊路につづいていまの田辺から山中に入って中辺路なかへちをたどり、あるいは田辺から海岸沿いをつたう大辺路おおへち、また吉野からはもっぱら修験者が行脚する難路である大峯奥駈道おおみねおくがけみちがあり、彼らは熊野の地に着けばこれら三社(三山)を順にめぐりました。社と社をむすぶ道をふくめ、これらすべての道を総称して熊野古道と呼びます。また2004年(平成16年)には、伊勢神宮をのぞく上記のすべてをあわせて「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。※伊勢神宮だけが含まれなかったのには理由があり、伊勢神宮は古来より20年ごとに社殿をあたらしく建て替えて祭神に遷宮していただく神事があり、その「建て替え」という行事が「過去からのこる遺産を守り後世につたえる」という世界遺産の理念にそぐわないということのようです。 それぞれの祭神について触れておきましょう。熊野本宮大社の主祭神は元々は家都御子大神けつみみこのおおかみ、のちに素戔嗚尊スサノオノミコトと同一神とされ、さらに神仏習合の時代には阿弥陀如来を本地仏ほんじぶつとします。熊野本宮大社は地勢的にももっとも山中深くに鎮座し、本来は熊野座神社くまのにますじんじゃと呼ばれたことからも熊野三山のなかで中心的存在であることがわかります。熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神くまのはやたまおおかみ、伊弉諾尊イザナギノミコトを同一神としています。そして本地仏は薬師如来。さいごに那智勝浦大社については、熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみが主祭神であり、伊弉冉尊イザナミノミコトが同一神、本地仏は千手観音とされています。 もっとも知りたいのは本来の神様である、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神の三神についてですが、ほとんど手掛かりがありません。本地仏については神仏習合という一時期の、すなわち時限的な教えからの産物にすぎません。しかも神仏習合の考え方は仏優位で、神は仏や菩薩の化身であるとする本地垂迹説ほんちすいじゃくせつにもとづいているので神についてアプローチするには足枷にすらなります。そうなると、ヒントは記紀(古事記と日本書紀)に記されたスサノオ、イザナギ、イザナミから探っていくしかありません。 神倉神社 天照大御神アマテラスオオミカミから5代後の子孫とされる磐余彦尊イワレヒコノミコト(のちの神武天皇)は東征にさいして高千穂から瀬戸内海を東進し、紀伊半島をまわっていったん熊野に上陸します。そのとき登ったとされるのがいまの新宮市の中心にある神倉山。そこから見わたす深山幽谷の景観に進むべき道もわからず躊躇するイワレヒコでしたが、高倉下タカクラジなるアマテラスの使者から神剣を授かり、そしてアマテラスが遣わしたカラスの導きで紀伊の山中をわけ進み大和の地にたどり着くことになります。これは古事記と日本書紀に同じような内容で記されていることですが、熊野信仰では熊野の三神すなわち家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神がはじめて降臨した地とされています。神倉神社はいまは熊野速玉大社の摂社とされていますが、その熊野速玉大社のHPをみると、記紀にある記述にはまったく触れていません。 この鳥居をくぐって、 538段の急峻な石段をあがると、 朱い玉垣にかこまれた拝所に着きます 天ノ磐盾あまのいわたてとよばれる崖上にあり、御神体のゴトビキ岩が鎮座しています イザナギとイザナミは国産み、神産みの神であり、また夫婦神でもあります。二柱の神は力を合わせてまず淡路島を生み出し、つづいて四国、九州などいずれ日本国となる島々を生み、さらに山の神や海の神など三十五柱の神々を産み出しますが、イザナミがさいごに火の神を産み出した時には、女陰を火の神の火焔で焼かれ亡くなってしまいます。(柱:神様の数え方。御神木にみられるように神は木に宿るとの信仰から「木の主」と書いて一柱ひとはしら、二柱ふたはしらとかぞえました)イザナギは最愛の妻イザナミを失った悲しみに耐えきれず、黄泉よみの国まで訪ねてゆきます。自分に会うためここまで訪ねてきてくれた夫の思いに心を動かされ、イザナミは黄泉の国をつかさどる神に地上の国へもどしてもらえないか相談すると告げます。さてイザナギですが、自分がもどるまで決してここを動かず待っているようイザナミから忠告されたにもかかわらず、その後の様子が気になりだすと居ても立っても居られなくなり、つい闇に光をかざして探したところ、イザナミは腐敗し全身に蛆うじがわいた醜い姿をしているではないですか。イザナギは恐怖にひきつり、イザナミは自分の醜い姿をみられたことを恥じ、イザナギは一目散に逃げ、それを見たイザナミは羞恥が恨怒へとかわりあとを追いかけます。 最後はイザナギは逃げ切るのですが、黄泉の国からの急峻な坂道に大きな岩をおいてふさぎ、岩越しにイザナミに離婚を言い渡します。(アマテラスの岩戸の話もそうですが、ここでも大きな岩(石)が話の中に登場することには注目すべきです)ところで余談ですが---離婚を宣告されたイザナミは怒りにまかせて「あなたが離婚するというなら私は地上のあなたの国の人間を、一日に千人殺すことにしましょう」と叫びます。するとイザナギは「おまえがそんなことをするなら私は一日に千五百人の人間を生ませることにしよう」と叫び返します。こうして地上の国では一日に千人が死ぬかわりに千五百人が生まれることになるのですが--記紀が書かれた時代の人たちは、よもや日本に人口減少の時代が訪れるとは夢想だにしなかったのでしょう。あくまで余談ですが。 熊野速玉大社 神橋をわたり参道へ 神門(左)、手水舎 神門撮影時には気づかなかったのですが、注連縄のあたりが奇妙です。おそらく一時的にレンズが曇ったのでしょうが、霊気?があったとすればそれはそれですごい。 左奥手前が拝殿、その奥から結宮、速玉宮、横長は上三殿、さらに八社殿。結宮には熊野夫須美大神(イザナミ)、速玉宮には熊野速玉大神(イザナギ)、上三殿左には家都御子大神(スサノオ)が祀られ、今ではどこへ参詣してもすべての神をお参りできる、なんとも便利なシステムになっているようです。 地上の国へもどったイザナギは、黄泉の国の穢けがれをおとすため身体を水で清めます。これが禊みそぎです。まず脱ぎ捨てた服から十二柱の神々があらわれ、川に身を入れて身体をあらったときにも洗い落とされた穢れからは災いの神々がうまれ、さらにこの災いを直そうと新たな神々があらわれ、といった具合に「穢れを落とすための禊」の過程でたくさんの神が生み出されます。そして最後に左の眼を洗った時にあらわれたのがアマテラスであり、右の眼を洗った時にあらわれたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのがスサノオということです。 熊野本宮大社 熊野三山に関する知識を得るため資料を読んでいる分には、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神とあわせてスサノオ、イザナギ、イザナミの名がしばしば登場します。ところが熊野三山(三社)独自のサイトをみると、熊野オリジナルの3神にくわえてさらにマイナーな神様や氏族の名が登場するばかりで記紀に登場する神々はすっかり影を潜めています。本地仏については、明治維新とともに神仏分離令が施行されたため、今ではせいぜい探せばその残滓が認められるぐらいのものです。 平安時代から室町時代にかけては、熊野に詣でることが大流行しました。信仰とか宗教において「大流行」という言葉を使うと身も蓋もないと言われそうですが、どうやら当時の権力者のなかに「熊野詣」を(今でいうところの商品化して)売りに売ろうと意図した人がいたのではないでしょうか。「家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神」これら熊野土着の信仰だけでは盛り上がりません。「スサノオ、イザナギ、イザナミ」ここで土着信仰に神道が加わります。「阿弥陀如来、薬師如来、千手観音」さらに神仏習合により仏教が合わさることで「熊野だけの信仰」が、「熊野信仰」として日本中に流布されます。さらに修験道がくわわり、修験者が修行のために熊野古道をあるくことで、(修験者にそのような企図があるなしは別にして)けっして楽ではない熊野詣がそのまま神や仏への帰依につながると口から口へ言い伝えられるようになります。 表鳥居... Read More | Share it now!