街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【滋賀県・大津市 2025.2.9】関西以外の土地に住んでいる方でも大抵は比叡山・延暦寺はご存じでしょうが、日吉大社となるとどれぐらい知られているのでしょうか。では関西の方で延暦寺と日吉大社の関係をご存じの方はどれほどいるのでしょうか。正解は、日吉大社に祀られる大山咋神おおやまくいのかみが地主神(この場合は比叡山の地主神)であり、そこから日吉大社が延暦寺の守護社となっています。もうひとつ質問です。平安時代に延暦寺の僧兵(山法師)が自らの要求を認めさすために強訴をくりかえし、当時の白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名ですが、その強訴のさい山法師が脅しとして振りまわした神輿はどこから出てきたものかご存じでしょうか。正解は日吉大社の神輿であり、けっして延暦寺の仏具を持ち出して振りまわしたり乱暴に扱うことはありませんでした。以上のことを考えたとき、延暦寺にとっては日吉大社は守護社というよりも利用するには便利な存在であり、日吉大社にとっての延暦寺はただただ厄介者でしかなかったのではないか、と思えてきませんか? 鳥居をくぐり日吉大社へ JR比叡山坂本駅から歩く 生源寺内にある最澄の産湯を汲んだ井戸(そう伝わっているだけで確証はありません) 大鳥居... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,奈良

【奈良県天理市・2025.3.9】国見山とは、その土地の国人(地頭、君主など)あるいはときに天皇が高台にのぼって一帯を見わたし世の平和を確認するための、その高台をふくむ山のことを指します。ネットで「国見山」と検索すると、全国に30ぐらいは同名の山があるようで、文明の利器のない時代にはとりあえずは高いところへあがり上から自分の目でみて確認していたのであろうことが察せられます。奈良県およびその周辺にも国見山という名の山は二つ三つありました。どのような意図で「大」の一字を加えたのでしょうか、その一字で大国見山は全国で唯一の山になっています。けっして大きな山ではありません(標高498m)考えられることは、非常に歴史がふるく記紀(古事記と日本書紀)にも祭神についての記述がある石上いそのかみ神宮とその元社といわれる石上神社がふもとに鎮座することから敬意の意味で「大」をつけたのではないか。そんなことまで考えてみたのですが、存外に「大奮発」とか「大サービス」ぐらいのノリで後世の人があてがっただけなのかもしれません。 天理教団から石上神宮へ 神殿とよばれる天理教本部前を通る 天理市は新興宗教の団体である天理教からその名がついた文字通りの宗教都市といえます。街を歩いていても違和感はありません。むしろ放置ごみや吸殻のポイ捨ても見当たらず、住民のマナーはきわめて良いように見受けられます。その意味では大阪市も大阪市民も... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都市 2025.1.29】焼酎の話です。戦後の高度成長とともにウィスキーをはじめとしたいわゆる洋酒が庶民の間に浸透しはじめると、日本在来の酒なかでも焼酎は急速に遠ざけられてゆきます。当時は焼酎といえば一升瓶で売られコップや湯呑みに瓶からじかに満たしてちびちびと飲むイメージ、豊かさからカッコよさを求めはじめた時代に、これでは消費者からそっぽを向かれてしまいます。 京都発祥の宝酒造(現・宝ホールディングス)は日本酒・松竹梅こそ石原裕次郎をCMに起用し存在感を示していましたが、創業以来の主力商品である宝焼酎の売り上げは低迷をつづけ、打開策を打ち出すことが喫緊の課題となっていました。ならばオシャレに飲む... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・堺市~大阪狭山市 2025.1.20】行基上人は正真正銘のえらい人だと思います。14歳(15歳?)で出家し薬師寺(奈良市)で法相宗を学び名を行基とあらためます。そこまではフツーの出家者なのですが、やがて自分だけがどれだけ学ぼうがこれでは誰ひとり救えないと思いいたります。飛鳥時代当時の僧侶の役割とは、中国(隋または唐)から仏教を取り入れそれを学問としてまなび、知識として吸収し寺院を建立することでその教えを定着させることでした。そんな時代に行基は寺から俗世にでて民衆に辻説法をおこないます。僧侶が直接民衆に説法をおこなうのは禁じられていた時代です。まず寺院が騒ぎ立てますが行基人気は高まるばかり、その説法の場にはときに一千人もがあつまるほどになり、ついに寺院は朝廷に讒言ざんげんしてまで弾圧をつよめます。行基はといえば弾圧なんぞどこ吹く風、説法であつまった人々を指導し先ずは布施屋(貧しい人たちの救護施設であり宿泊施設)をつくり、さらに民衆のための土木事業にも着手し、橋をかけ用水路を掘り溜池をつくります。※井上薫氏の「行基事典」をもとに国土交通省が作成した図表には、行基がたずさわったインフラとして、池(溜池)15、溝(用水路)6、堀4、樋(水門)3、道1、橋6、船息(港)2、布施屋9とありました。 開口あぐち神社 赤鳥居 本殿 神仏習合の時代には寺と社が混在した<境内の案内図より抜粋> 開口あぐち神社は奈良と堺をむすぶ日本最古の官道(国道)である竹内街道の西端に位置し、堺の港を守るために建立されたと伝えられています。かつては広大な敷地内に行基が建立した念仏寺が存在したそうです。いまは念仏寺は廃寺となり痕跡すらありませんが、いまも神社でありながら当時の愛称から「大寺さん」とも呼ばれていると説明板にありました。 堺をあるくと古墳にあたる 大きな交差点を越えて東南方向へ陸橋の錆び具合からも自治体の困窮ぶりが伺えます 仁徳天皇陵の脇をかすめ、 大仙公園から履中天皇陵をのぞみ、 文殊塚古墳のまえを通る 家願寺えばらじ 本堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,山梨,山さん

【山梨県・甲州市ほか 2024.12.10~13】武田信玄ゆかりの地を、1⃣で書いた武田氏館、2⃣で書いた要害山城につづき、いくつか回りました。順に書き出してゆきます。 甲斐善光寺 山門 山門から本堂をのぞむ いまの長野市一帯は武田信玄と上杉謙信とが幾たびも干戈を交えた場所であり、そこに建立された善光寺に戦火が及ぶことを危惧し、まず謙信が本尊・善光寺如来を本国越後、いまの上越市の十念寺に移したとされています。たしかに十念寺はそこから「浜善光寺」と呼ばれるようになるのですが、じつはその本尊は偽物だったようです。つぎに信玄がやはり善光寺如来が焼失することを懼れ、どうやら今度こそ間違いなく本物の本尊を甲州へと移します。その善光寺如来を甲斐の地で本尊として祀るため建立したのが、この甲斐善光寺です。 信玄はたいへん信仰心があつく心底善光寺如来が焼失することを懼れたのはたしかですが、本尊を甲斐の国に移すとともに、本家の信濃善光寺のいわゆる「門前町」もちゃっかり移転させ、おかげで当時このあたり一帯は甲州一の賑わいを見せるようになったということです。 本堂 本堂 善光寺如来のその後について書いておきます。織田氏による武田氏滅亡におよんで総大将だった信忠(信長の嫡男)は善光寺如来を自領の岐阜城へ持ち帰ります。(次男の信雄が清州城へ持ちこんだとの説もあります)ところが同年本能寺の変により信長、信忠がともに亡くなると、徳川家康のはたらきで翌年には善光寺如来はここ甲斐善光寺へいったんは戻されます。それから10余年、権力を掌握した豊臣秀吉は京都に方広寺を建立し本尊として東大寺の大仏にまさる大大仏を造らせます。ところが慶長の大地震で大大仏は壊れてしまい、秀吉は側近からの入れ知恵でしょうが善光寺如来を方広寺の本尊として祀ることを命じます。すると吉祥どころか秀吉はこのころから急に病みはじめ、祟りと怖れたのか善光寺如来にお帰りいただくことを祈念し、甲斐善光寺ではなく本家の信濃善光寺へと戻すことになります。 恵林寺 恵林寺は甲府市の中心街から20kmほど北東、いまの甲州市にある武田家の菩提寺です。信玄は京をはじめ上方から高僧を恵林寺の住職として招きますが、なかでも美濃(いまの岐阜)の崇福寺から招かれた快川紹喜上人が有名です。 山門 山門に記された「滅却心頭火自涼」 織田信忠は武田勝頼を自害させ武田氏を滅亡させると、武田領の掃討をはじめます。恵林寺については、かつて織田氏と抗戦し甲州まで逃げた武将がここに匿われているはずだと詰問し身柄を引き渡すよう要求します。しかし快川上人はここが浄域であることを理由に拒否。すると織田軍は快川上人ほか数十人の僧を山門の上に押し上げ下から火を放ちます。これに先立ち信忠は諏訪大社にも火を放っているのでどうやら神仏専門の放火魔だったのかもしれません。 下から迫りくる炎と灼熱のなか、快川上人は「心頭滅却すれば自ずから火もまた涼し」と偈げ(仏の教えや徳をたたえる韻文)をとなえながら往生したということです。 三重塔 開山堂 庭園 武田信玄の墓 「心頭滅却すれば」の偈ですが、そもそもこれは快川上人のオリジナルではなく中国の書に記されたものです。また近年の研究では快川上人は燃え盛る山門上でこのような偈は唱えていないとも言われています。 もうひとつ追記しておきます。平山優氏の『武田三代』を読んでいたらこの恵林寺山門炎上について触れている箇所がありました。山門に押し上げられた僧侶のうち16人が決死の覚悟で山門上から飛び降り難を逃れたとのこと。そのとき山門をとりかこむ織田軍の兵たちは槍を地面にふせて僧たちが逃げてゆくのを見逃したということです。ちょっと救われる話です。 見延山久遠寺 1571年、織田信長はかねてより仏門としての規律の退廃が目に余る比叡山が敵対する浅井・朝倉氏をかくまったこともあってついに全山焼き討ちの挙に出ます。その報をきいた信玄は胸を痛め、比叡山(延暦寺)をそっくり甲州へ移すことを考えます。そのとき候補地になったのがいまの南巨摩郡身延町にある身延山の久遠寺であり、久遠寺には代替え地をあたえるのでそっくり堂宇をのこして移転してもらい、残された堂宇をそのまま使って延暦寺を再興しようと企図します。 巨大な山門 長い長い石階段をのぼる(両脇に傾斜の異なる坂道もある) 当然と言えば当然ですが、久遠寺側はその要請に対して徹底抗戦もいとわぬ覚悟で拒絶します。このとき信玄は、どこまで本当かはわかりませんが、比叡山を焼き尽くし屈服させた信長と、久遠寺から移転の要請を拒否されてなす術もない自分自身との実行力の差を嘆いたとも言われています。1571年というと、信長38歳、浅井・朝倉や本願寺・一向宗徒など反対勢力に手を焼きながらも天下統一にむけて驀進していたころ。一方の信玄は50歳、当時ではすでに老境であり持病の労咳(肺結核)の症状も末期に近づき、それでいながら北条氏や上杉氏との諍いで西上(この場合は京にのぼり天下に号令する意)もままならず、ずいぶん焦っていたのでしょう。このあたりは信玄の人間らしさがもっとも垣間見える時期です。 仏殿(左)、客殿(右奥) 仏殿より 祖師堂 祖師堂より本殿と五重塔 祖師堂にて 五重塔 信玄は自分の余命が残り少ないことを自覚し西上をよほど焦っていたのでしょう、翌1572年甲斐を発ち西へと進軍をはじめますが、その途上で(戦死ではなく)病没します。 信玄築石 本栖湖と精進湖をつなぐ場所に中央往還(という名の道)が通っており、中世には軍用道路として利用されていました。その一部に「信玄築石」とよばれる溶岩をつみかさねた石垣のような防壁があります。どのような目的でつくられたのか判然とせず、もしかすると信玄とは関係ないかもしれません。(武田軍が富士の樹海をぬけて進軍したという記録はあります) 中央往環をあるく 樹海のなか人っ子ひとりいない... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ

【京都市・大山崎町~長岡京市 2024.11.28】天王山には過去2度登ったことがあります。山頂には秀吉が天王山の戦いで明智軍を撃破してのち本城とするためにつくらせた山崎城がありました。秀吉は主君であった信長の先見の明に触発されたのか、天下を治めるためには摂津の地に海に面して城を構えることが最良と考えていたようで、いずれは大坂城をつくることになります。その前段階でつくらせたのがこの山崎城ということになります。信長が徹底して一向宗の総本山である摂津の石山本願寺をつぶそうとしたのは、その地にみずから城をかまえる構想があったからで、信長の第一の子分であった秀吉には継承するという意図もあったかもしれません。それゆえ山崎城はあくまで「仮の本城」「暫時の本城」であったはずです。ところが山崎城を巨城と表現している記述をしばしば見かけます。仮の、あるいは暫時の本城が巨城であるはずがありません。これは確認しておく必要があると、あらためて天王山に登ることにしました。 天王山をのぼる JR線の踏切越しに天王山を見る 一般にば天下分け目の戦いと言えば天王山の戦いのように伝えられていますが、実際には天王山において干戈を交えたことはなく、その山麓の東側、淀川沿いの平地で戦いはおこなわれました。それゆえいまでは土地の名前から山崎の戦いと改められつつあります。 宝積寺の山門を入り 三重塔を横に見て 本殿横の山道を登ります なかなかワイルドな登山道です 秀吉の活躍を描いた屏風絵風の陶板画 天王山へはいくつかの登山道がありますが、この道は「秀吉の道」と名づけらています。道沿いには、秀吉が中国大返しで畿内へ駆けもどり明智光秀を討伐して天下取りの足がかりをつくる活躍を、陶板画を順に並べることで解説しています。内容は思いっきり秀吉びいきです。 展望所から合戦のあった一帯を見わたせる 合戦時の両軍の配陣 十七烈士の墓幕末の禁門の変でやぶれて自刃した尊王攘夷派の墓 途中にある三社宮 酒解神社は産土神・牛頭天王を祀る天王山の山名はこの牛頭天王に由来 ここからもう少し山道をのぼると山頂 山崎城 本丸にあたる曲輪、奥が天守台相当部か? 一段高く、天守台跡と思われる 天守台跡から下の曲輪をみる 天守台にのこる石垣跡 本丸下にある二ノ丸相当の曲輪 井戸は二ノ丸に続く小ぶりの曲輪にある 曲輪の外周にのこる土塁 山崎城に関してのこっており見られるのはこれだけです。秀吉はこの城をつくっても腰を落ち着けることなく早々に大坂城を築かせていることから考えてもやはり一時的な本城であり、ここに時間と金をかけて巨城をかまえる必然性がありません。「居城」を「巨城」と誤植したのではないかとさえ疑ってしまいます。 山崎城が巨城でなかったことは確認できましたが、これだけで下山して帰宅したのではあまりに物足りません。そこで小倉神社のある東方面へとくだり長岡京まであるいて紅葉の名所でもある光明寺を訪ねてみることにしました。 小倉神社にむかって下山 下山とはいっても山中をいったん西へ それから東へと旋回するように歩きます やがて遊歩道のような道を下ってゆきます 小倉神社秀吉が合戦に先立ち戦勝祈願をしたとか、ホンマか? 光明寺 光明寺は昨年夏にたずねて、モミジの青葉が濃密に繁茂して木陰をつくるたいへん雰囲気のよい御寺と記憶していたので今回紅葉狩りのために再訪しました。さきに結果からいいますと、青葉が3割、見頃が4割、変色または枯葉が3割、色づきが遅れているのではなくあまりに長びいた残暑のために紅葉も乱れてしまったということでしょう。それでも人出は前回の100倍ほど。※写真撮影についていえば、どこを撮ってもきれいといえるものではなく、部分部分で切り取るように撮影しました。またきれいな写真が撮れそうなところには必ず人がわんさかいて紅葉を撮ったのか人を撮ったのかわからない写真になりがちです。 総門 総門からつづく参道 参道 参道 観音堂で特別公開されていた秘仏写真撮影可とけっこう大きな字で書かれていました 御影堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,滋賀

【滋賀県・東近江市 2024.11.24】今日は滋賀県の東近江市、赤神山(太郎坊山)の中腹に鎮座する阿賀神社(太郎坊宮)をたずねます。唐突ですが、日本の神様の話になります。天照大御神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(占い... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣

【京都府・木津川市 2024.11.19】大阪市内から真東にむかうと奈良市に到りますが、そこから北へ進路を変えるとじきに京都府にはいり木津川市があります。大阪からも奈良からも京都からも簡単にいける土地です。しずかな田園風景のなかに国宝や重文をあまた所蔵する社寺が散在していますが、平日ともなると観光客を見かけることもまれです。 その木津川市に三上山という里山があります。はっきりいうと登山愛好者にもあまり知られていない山です。山腹途中に国宝の五重塔をもつ海住山寺がありますが、登山者以外は気楽に歩いてゆける場所にはなく車が必須となるため平日は参詣者もほとんどいません。さて、今日は静かな見て歩きをたのしみに行きます。 JR棚倉駅から 「お茶の京都」の広告で全身装飾の列車でJR棚倉駅へ 駅前の湧出宮参道をぬける すぐに宅地はおわり山里をあるく 竹林のなかをすすむ 竹林を歩くことが30分以上もつづきます。京都の嵐山にある竹林のように手入れされたものではありませんが、さすがにこれだけ長距離にわたって竹林を歩いたのははじめての経験です。 登山 やっと登山気分になってきました... Read More | Share it now!