【京都府・木津川市 2024.11.19】大阪市内から真東にむかうと奈良市に到りますが、そこから北へ進路を変えるとじきに京都府にはいり木津川市があります。大阪からも奈良からも京都からも簡単にいける土地です。しずかな田園風景のなかに国宝や重文をあまた所蔵する社寺が散在していますが、平日ともなると観光客を見かけることもまれです。 その木津川市に三上山という里山があります。はっきりいうと登山愛好者にもあまり知られていない山です。山腹途中に国宝の五重塔をもつ海住山寺がありますが、登山者以外は気楽に歩いてゆける場所にはなく車が必須となるため平日は参詣者もほとんどいません。さて、今日は静かな見て歩きをたのしみに行きます。 JR棚倉駅から 「お茶の京都」の広告で全身装飾の列車でJR棚倉駅へ 駅前の湧出宮参道をぬける すぐに宅地はおわり山里をあるく 竹林のなかをすすむ 竹林を歩くことが30分以上もつづきます。京都の嵐山にある竹林のように手入れされたものではありませんが、さすがにこれだけ長距離にわたって竹林を歩いたのははじめての経験です。 登山 やっと登山気分になってきました... Read More | Share it now!
諏訪大社の謎:喧嘩に負けた神様が軍神になった理由
【長野県・茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町 2024.11.4】諏訪大社は上社の前宮、本宮、そして下社の春宮、秋宮の4社からなりたっています。もともとは上諏訪神社、下諏訪神社というべつべつの神社だったものが明治時代に国の管理になってから統合され一つになったようです。またそれぞれに前宮・本宮、春宮・秋宮の2社があるのは伊勢神宮に外宮・内宮があるように、あるいは京都に上賀茂神社と下鴨神社があうようにそれぞれ関係した別々の神様を祀っているなどそれほど珍しいことではありません。いぜん出雲大社について書いた折に古事記にでてくる大国主命(オオクニヌシ)から天照大御神(アマテラス)への国譲りの話に触れましたが、諏訪大社の由緒はそこに密接に関係しています。アマテラスの使者として天上界(高天原)から地上界(葦原中国)へ降臨した武甕槌神(タケミカヅチ)は、オオクニヌシに対して現在貴方が治めている葦原中国はそもそもアマテラスの子孫が治めるべき土地ゆえ、いまここで譲りわたすようにと要請します。それに対してオオクニヌシが判断は息子にゆだねると返答したところ、息子のひとりは畏れ多いと恐縮してすぐにでも譲ることを約します。ところがもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタ)は剛力無双を誇示するように巨岩を軽々とかついで現れ、タケミカヅチに対して力勝負で決めようと不敵に挑戦します。ところが勝負はあっけなく、赤子の手をひねるように投げ飛ばされたタケミナカタは出雲から一目散に逃げだし、たどり着いた先は科野(信濃)の諏訪湖。ところがあっさり追いつかれ殺されそうになると葦原中国は差し上げますと命乞い。あげくに今後けっしてこの地(信濃諏訪)から外へは出ませんと誓います。 このタケミナカタが、上社本宮と下社春宮秋宮の主祭神です。(上社前宮の主祭神は妃の八坂刀売神ヤサカトメです)ここで腑に落ちないことに気づきます。なぜ平素はいばった乱暴者で負けたとなるとあまりにもカッコ悪いこのタケミナカタが祭神しかも主祭神なのでしょうか。しかも神格はといえば水神、風神でありさらに軍神でもあります。タケミカヅチが鹿嶋神社の軍神として祀られているのは上記の逸話からも納得できますが、タケミナカタが軍神として祀られることに諏訪の人たちは納得したのでしょうか。と、おもって調べてみると上のタケミナカタの話は(大和が編纂した)古事記に書かれているだけで、諏訪および信濃につたわる地方史には異なるニュアンスで書かれているようです。たとえば、オオクニヌシが信濃を平定するためにタケミナカタを派遣した、あるいは信濃で勢力を拡大するタケミナカタをアマテラスが討伐した等々。 上社前宮 大鳥居... Read More | Share it now!
コスモス咲く般若寺で、般若心経とはなにかを考える
【奈良市 2024.10.30】東大寺の転害門からかつての京街道を北へ10分もあるくと般若寺があります。般若寺はコスモス寺として有名で例年なら10月末までが見頃なのですが、今年は夏から秋にかけて異常な高温がつづいたため今頃になって見頃を迎えたとWEBサイトで紹介されていました。夏にぎっくり腰を患い、さらに数日前にも腰を痛めて難儀していたのですが、近鉄奈良駅から歩いても2km強、この程度であればリハビリがてら歩くのも良かろうと判断し出かけてみることにしました。 般若寺は高句麗から渡来した法師が創建し、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を護るため伽藍をたて大般若経の経典をおさめたことが起源と伝わっています。往時には千人の学僧が修行をしていたといいます。修行といっても荒行苦行の類ではありません。般若経でいう般若とは「智慧」のことであり、ここでいう智慧とは「真理を見きわめる力」を意味します。経典を読み、もっぱら学問をしていたものと想像できます。その経典ですが、いうまでもなく般若経の教えをコンパクトにまとめた般若心経がつかわれていたことでしょう。 般若寺 楼門は鎌倉時代に再建された重要文化財 さてその般若心経、わずか260文字のおそらく世界一短い経典でしょうが、その260文字をそのまま読むだけで理解できる人がいるのでしょうか。凡夫の私などは260文字を理解するために260頁以上ある解説書を2度読みましたが、それでも「わかったようなわからないような」レベルです。 塀沿いに入口にむかう... Read More | Share it now!
宇陀松山城は織田信雄と無関係ではないけれど
【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!
飯道山は古社に修験場、宮跡も見れて楽しみがいっぱい
【滋賀県・甲賀市 2024.9.23】今日は滋賀県の甲賀にある飯道山に登ります。飯道山は山として登ることそのものには飛びぬけて魅力があるわけでもないのですが、山頂付近はかつて修験者のための修験場であり、かつ甲賀忍者の修練の場でもあったところで、いまは飯道神社として古色蒼然とした社殿が残っています。また今回は水口側(貴生川駅)からアプローチしますが、下山した信楽側には紫香楽宮跡がのこり歴史を堪能できます。紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が造営した離宮で、発掘調査の結果いまは寺院らしきものの痕跡が広範囲にわたって見られます。 水口町を歩いて三大寺登山口へ 杣川越しに飯道山(左奥)をのぞむ ところではじめに言っておきますと、飯道山登山は山登り重視で考えるなら水口から信楽へ歩くのがお薦めですが、歴史見分を主とするのであれば逆ルートの方がフィットすると思います。 飯道山へ 登山口からしばらく整備された道を歩く この先あたりからやっと山道らしくなる 山道はずっと歩きやすい 左羅坂も注意して歩けば問題なし 杖の権現茶屋休憩所... Read More | Share it now!
奈良はなぜ京都にくらべて観光客がこれほど少ないのか
【奈良市 2024.9.17】平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。 これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。 法華寺 南門から本堂をのぞむ 仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。 鐘楼から本堂 本堂 浴室(からふろ)/... Read More | Share it now!
佐和山城は石田三成に過ぎたるものか
【滋賀県・彦根市~長浜市 2024.8.28】 「三成に過ぎたるものが二つあり... Read More | Share it now!
明治天皇陵のふもとにある乃木神社をたずねて
【京都市伏見区 2024.8.24】 「天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり」という言葉が中国の兵学書・六韜のなかにあります。天下は君主一人のものではなく万民のものだという考えで、現代の感覚からいっても至極真っ当な言葉です。この言葉を下敷きにして吉田松陰は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と言っています。「一人の天下」の一人とは天皇のことです。単純に読むと、偏執的なまでのガチガチ尊王思想のようですが、吉田松陰がのこした名言の2つ3つでも知っていれば、そんな単純なものではなくさらに深い意味があるはずだと容易に察しがつくはずです。すなわち封建制の江戸時代から近代国家へと生まれ変わる段階で、天皇を中心としてその下(もと)で万民がまとまって国を形作りさらに国を動かしてゆく、というようなことを言いたかったのでしょう。尊王思想ではありますが、天皇は神ではなく万民と一体となっていると捉えるべきです。 ところが、その天皇を神格化することで尊崇の対象とし、万民は天皇と一体であるがゆえに日本国民であるならば天皇にはたとえ命を賭してでも忠心を尽くさねばならないと、なんとも国民にとっては理不尽な理屈を押しつけてくる連中があられます。思想的には、本来美徳であるはずの愛国主義が右傾化しさらに先鋭化して国家主義へと流れたとでも言えばよいでしょうか。(ちなみに国家主義とは国家を第一とし、国民よりも国家を優先する考え) そもそも日本において天皇は尊敬される存在でした。なかには天皇のためにみずからの命を捧げることに大義を感じた人がいました。たとえば楠木正成。もしかすると、乃木希典(乃木大将)は明治天皇が崩御された後、自分が生きている大義名分がないと考えたゆえに自決を選んだのでしょうか。ちなみに乃木希典は、冒頭にかいた吉田松陰とおなじく、松下村塾を創設した玉木文之進から薫陶を受けています。 明治天皇陵を仰ぎみる乃木神社 背後に見える丘陵に、 明治天皇の伏見桃山陵がある 明治天皇が崩御されたのが明治45年7月30日、そして9月13日に大喪の儀がおこなわれますが、その日の夜まさに明治天皇の遺体をのせた車が出発する合図の号砲がひびいた刹那に、乃木希典は妻静子とともに自刃します。乃木希典の辞世の句は、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり」 明治天皇陵のある桃山に対面するように 境内の伽藍は北面しています この乃木神社は近畿を中心にした全国の民間の人々の尽力により創建されたそうです。そこには政治的な干渉はなく、純粋に乃木大将を敬慕する一般の人たちの志から生まれたと言ってよいでしょう。乃木大将は軍人としてはけっして有能ではなかったようです。じっさい旅順攻略に行き詰まっていたときには乃木を解任しろとの怒りの声は少なからずありました。乃木大将がそれほどに敬慕されたのは、軍人として有能ゆえではなく人として有徳ゆえのものでした。逸話はたくさんあります。その逸話がマスコミ(おもに新聞)で紹介されるにしたがい、乃木希典は人としての美徳を兼ね備えた徳人、武士道をまさに具現する軍神としてひろく知れわたります。そして明治天皇の大喪の日に殉死。それ自体がセンセーショナルですが、そこには天皇にみずからの命をささげようとする忠心が鮮やかに顕れたかもしれません。 学習院長時代の乃木希典の胸像 ロシアの降伏をうけて会見した水師営に植えれれていたナツメの木を植樹したもの 乃木大将を軍神として崇め、その軍神がみずからの命を賭して天皇への忠心をつらぬいたことをひろく国民に知らしめることがプロパガンダとなったのはいつからなのでしょうか。日清戦争の公的な記録については、真実をただしく伝えていた決定稿が没にされ軍部にとって都合よく改竄されていた事実が、のちにその没になった決定稿が世に現れたことで後世に知られることになりました。(渡辺延志氏の著作「日清・日露戦史の真実」による)太平洋戦争における大本営発表の欺瞞を知る我々としては、そのあとの日露戦争においても真実がそのまま伝えられたとは到底信じられません。 本殿拝殿横にある、えびす神社 よく見ると、「幸せに成り」鯛(ダジャレか?) 勝運をまねく祠... Read More | Share it now!
出雲大社をカップルで詣でると別れる?わけがない
【島根県・出雲市 2024.7.30】まず出雲大社の由緒から始めましょう。日本神話の中での最高神が天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、その弟に素戔嗚尊(スサノオノミコト)がいます。スサノオは日ごろから粗暴な振る舞いがめだち、乱暴者の烙印を押されていました。そんなスサノオに怯えるわ呆れるわでアマテラスはとうとう天の岩戸(洞窟)に隠れてしまいます。アマテラスは太陽神です。そのアマテラスが岩戸にこもってしまったために世の中からは太陽の光がなくなり、あらゆる作物が育たなくなり動物たちも病に倒れ始めます。さあ大変ということで八百万(やおよろず)の神々は話し合って策をねり、岩戸の外でどんちゃん騒ぎをはじめます。すると外の様子が気になったアマテラスは岩戸をすこしだけ開けて外の様子をうかがうのですが、そのすきに外に引き出されてしまったため世の中に太陽の光が戻されることになります。【このとき神々がやったどんちゃん騒ぎについて「古事記」には神々は踊り狂って、さらには女神が着物の裾をまくり上げ**と、ずいぶん過激な表現もあるのですが、こうして騒いで踊り狂ったことこそが「祭り=祀り」の起源とされています】そして神々はアマテラスがふたたび天の岩戸に隠れることがないように、岩戸を封鎖し端から端へと縄をかけます。【この岩戸にむすんだ縄が、注連縄(しめなわ)の起源です】 一方スサノオはというと、父から命じられた海をおさめるための仕事はしない、亡き母がいる国へ行きたいといつまでも子供のように駄々をこねる、粗暴な行動から姉のアマテラスに愛想をつかされる... Read More | Share it now!
奈良を訪ねたら唐招提寺をお忘れなく
【奈良市 2024.7.13】今日は唐招提寺を訪ねます。ずいぶん前に、唐招提寺の平成の大改修をあつかったテレビ番組を見た記憶があるのですが(正確には2009年11月に大改修後の落慶式がおこなわれた直後にTBSで放送)、パソコンをいじくっていたところ偶然にもその番組をYouTubeで扱っており、ありがたいことに全編をあらためて見ることができました。場所は、かつての平城京の北西角あたりに南都七大寺としてのこる西大寺がありますが、そこから南へ2,3kmくだったあたりです。そこからさらに500mほど下ると、やはり南都七大寺に数えられる薬師寺があります。すなわち唐招提寺は南都七大寺に含まれていないわけで、そのあたりも知名度がいまひとつ低い理由かもしれません。またその宗派である律宗があまりにもマイナーゆえ地味な印象もぬぐえないのでしょう。しかし唐招提寺はその歴史をふり返ると、なかなかどうして見逃すことのできない歴史遺産です。 南大門 薬師寺近くの近鉄西ノ京駅で降りて徒歩10分 南大門 南大門は高さがなく、いわゆる楼門でないため迫力に欠けるのですが、横に長くまた前にせり出した軒を太い円柱がささえる特徴的な姿は、その奥に見える金堂をより印象深く視界にとられる効果があるかのようです。 南大門そばにあった境内案内図より抜粋 金堂 南大門から金堂へ 金堂... Read More | Share it now!