【佐賀県・鹿島市 2023.1.20】サッカーチームの鹿島アントラーズがあるのは鹿嶋市で、茨城県南東部一体の「鹿行:ろっこう」あるいは「鹿島」とよばれる地域の5つの市をホームタウンとしていることから、鹿島アントラーズと表記しているのではないかと推測します。その鹿嶋市とはまったく別に、佐賀県南部に鹿島市があります。ところが日本三大神宮である鹿島神宮は、この鹿島市ではなく茨城県の鹿嶋市にあるので話はややこしくなります。では佐賀県の鹿島市はどうかというと、鹿島○○とは称しませんが、年間参詣者数300万人をかぞえる祐徳稲荷神社があります。さてこの祐徳稲荷神社ですが、ホームページ上でも、また鹿島市観光協会の案内でも「日本三大稲荷」と明記しています。日本三大稲荷と言えば、総本社である伏見稲荷大社は別格として、笠間稲荷神社(茨城県)と豊川稲荷(愛知県)を2番目3番目に並べるのが妥当でしょう。祐徳稲荷神社が自称しているのだとしても、なにを根拠に自称しているのか、訪ねてみることにしました。 祐徳稲荷神社へ 参道を進みます 錦波川をへだてて神社を見る 境内へ入る手前にある「神橋」 「稲荷神」はもとは稲を象徴とする穀物および農耕の神様ですが、いまでは五穀豊穣だけでなく商売繁盛、家内安全、病気平癒、恋愛成就、開運、金運、子宝、安産、等々生活全般にわたってマルチに御利益のある、ありがた~い神様です。 鳥居をくぐる D神池をわたる... Read More | Share it now!
有田焼と伊万里焼は違うのか
【佐賀県・伊万里市、有田町 2023.1.19】有田焼と伊万里焼は違うのかというと、むかしは同じもの、いまは違うものということになります。江戸時代には現在の有田周辺は磁器の一大生産地でしたが、出来上がったものを伊万里の港から輸出していたため伊万里焼と呼んでいたようです。(雑学の余談ですが、イランで採れた青い石をトルコを経由して欧州へ運んでいたたためその石をトルコ石とよびます。これと同じ発想です)やがて明治時代になると、生産地を重視するようになり有田で焼かれた磁器は有田焼、伊万里のおもに大川内山で焼かれたものは伊万里焼と呼ばれるようになります。同時に江戸時代の有田産の磁器は古い伊万里焼ということで古伊万里とよばれます。 大川内山 町の地図も磁器製、もちろん伊万里焼 伊万里焼の窯元があつまる大川内山にきました。ここに興味をもったのはネットでひょっこり街並みを紹介する画像を見たことに始まります。 ネットで見たのはこの橋の画像でした 素人がスマホで撮影ではあまり魅力が伝わりませんか 河原に下りて橋を見ると、こんな感じです ずいぶん手を加えた歩道ですが、気持ちよく歩けます 風鈴ではなくベルで、近づくと鳴ります 焼物(陶器)は大きく陶器と磁器にわけられます。陶器は長石という石の成分がすくない陶土を中高温で焼くため肌のあらい素朴な仕上がりとなり、磁器は逆に長石の多い磁器土を高温(1300度)で17時間以上焼くため、硬く丈夫で肌のなめらかな仕上がりとなります。また磁器土はもとが白いため染付、絵描きするのにも向いています。 街の通りは店舗や窯元など、大半が伊万里焼関係 途中に登り窯がありました 高台からこじんまりした街をのぞむ 川岸の側面に伊万里焼がびっしり 高台(展望台?)から町へもどる 今回の旅行は、家内と同伴しており、それほど長距離は歩けないので、レンタカーを借りて移動し、ポイントごとに散策しています。 伊万里 伊万里駅前... Read More | Share it now!
徳川家康が愛した駿河、その城を見に行く
【静岡市 2023.1.12】山から下りて静岡市街につくと、さっそく駿府城を訪ねてみました。ここは徳川家康にとって(政治的、軍事的に)重要である以上に、お気に入りの土地だったのではないでしょうか。そもそも家康は三河の人ですからいまの岡崎、浜松あたりを拠点にしていました。家康は信長とともに武田氏を滅ぼすと、その所領であった駿河の領有をゆるされ、さっそくいまの静岡市に城をつくりはじめます。この辺りには、ずっと時をさかのぼれば今川氏の城がありましたが、それは防御機能もそなえた館ていどのもので、家康は今川氏の城を改修増築したのではなく、まったく新しく築いたとみるべきでしょう。やがて秀吉の時代になり、家康はさまざまな思惑から関東地方へ転封されます。そのとき築いたのが江戸城であり、江戸城を居城としている時期に天下人となりますが、じきに征夷大将軍の位だけを息子に譲り、自分はこの駿府城にもどり、隠居と称しながら実質上は駿河の地から日本を動かしてゆきます。いわゆる「大御所政治」のはじまりですが、このとき家康は駿府城を拡張さるだけでなく再整備してあきらかにより居心地のよい城に変え、以後ずっとこの城で暮らします。亡くなったのももちろんこの城でのこと。駿河湾でとれた魚をたべて食中毒になって死んだとの説もありますが、これはどうやら創作話で、実のところは胃癌だったようです。享年73歳。 駿府城・外堀と大手門跡 部分的に残っている外堀 外堀... Read More | Share it now!
延暦寺は日本仏教の母と呼ばれるにふさわしいか
【滋賀県・大津市坂本 2023.1.6】延暦寺を開山したのは最澄ですが、その最澄は766年頃現在の大津市坂本に生まれます。近江国分寺にて15歳で出家し、20歳の時に奈良の東大寺で具足戒をうけて正式な僧となります。ここまでは当時としてはありふれた話なのでしょうが、そこからの最澄上人の精進と運も味方した栄達には目をみはるものがあります。そもそも最澄は東大寺で受戒しているので華厳宗の教化をおおいに受けているはずです。このあたりはのちに真言宗の開祖となる空海と近似しており、密教への関心は必然的に秘めていたはずです。ところが空海が華厳宗に満足できず究極的に密教を極めることになるのに対して、最澄は当時の日本ではそれほどひろまっていない法華経に傾倒してゆきます。そして仏教が最終目的として煩悩からの解脱をめざしている以上その方法を説くのが正しい仏道であって、奈良で隆盛する(いわゆる南都六宗のうち華厳宗と律宗をのぞく)法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗は釈迦の教えを独自に解釈して説いた論書にすぎないと批判します。そのうえで法華経を基とする(中国の)天台宗こそが正しい仏道であると主張します。もし最澄がそのとき奈良に居たら、あるいは20年も前であったら、奈良仏教界から袋叩きにあっていたかもしれません。桓武天皇が平安京へ遷都した理由の一つは、堕落した奈良の仏教界から政の中心すなわち都をひき離すべきと考えてのことでした。そこに平安京の北東(鬼門)比叡山に庵をむすぶ最澄がおり、仏道の論理として奈良仏教を批判したのですから喝采したかもしれません。二十数年ぶりに再開される遣唐使に選ばれたのは当然のことでしょう。唐ではなんとも精力的に、天台教学、禅、さらには密教を学びます。そしてもともと信仰の基礎であった法華経に、唐で学んできた思想をミックスして日本天台宗の源を築きます。難しいところは全部省いて、根底にあるものは「人はだれでも仏になれる」。その後ここ延暦寺から、南無阿弥陀仏の浄土宗の祖・法然、浄土真宗・親鸞、踊り念仏の時宗・一遍、ひたすら座禅の曹洞宗・道元、南無妙法蓮華経の日蓮宗・日蓮など錚々たる顔ぶれの僧(ここでは思想家)が輩出されたのは、最澄がいくつもの仏教思想を総合的に取り入れて延暦寺をつくり上げた故でしょう。※さらに空海が開祖となる真言宗がこれに加わり現在にいたる日本仏教の主流がすべてそろうことになるのですから、延暦寺こそが日本仏教の母と呼ばれるべきかもしれません。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 比叡山に向かって 日吉大社の鳥居をくぐり、 日吉大社の横にある表参道(本坂)をめざし、 表参道登り口 JR比叡山坂本駅からここまで、ゆっくり歩いて30分ほど。(京阪坂本比叡山口駅からだと15分ほど)穴太衆の石垣がのこる坂本の街をあるく、楽しい散歩を楽しめます。 比叡山登山については別のブログで詳しく書いています。以下のアドレスをクリック https://yamasan-aruku.com/aruku-98/ 比叡山を登る 飛び地境内にある花摘堂 表参道(本坂)を登ると、まだ半分ほど登ったところに、「飛び地境内」とよぶそうですが、ぽつんと花摘堂の跡があります。飛び地にあるのはそれもそのはず、むかし延暦寺は女人禁制だったため女性はここまで上がってきて花を供えることで参拝していたそうです。その花は、比叡山の峰に咲く花を摘んで供えるのが習わしで、花摘堂の名が残ったとか。 石碑が立ち並び、お寺らしい雰囲気になってきました 廟でしょうか、横目に登り続けます 東塔 そもそも延暦寺ですが、比叡山山上にある100以上の建物(伽藍)を総称してそう呼ぶのであって、延暦寺という一つの建物としての寺が存在するのではありません。(全盛期には3,000におよぶ堂塔があったそうです)東の東塔(とうどう)、西の西塔(さいとう)、北の横川(よこわ)の三つの地域から構成され、それぞれに中核となる伽藍をもっています。 大書院... Read More | Share it now!
須磨寺は寺か神社かワンダーランドか確認する
【神戸市内 2023.1.3】関西のなかで京都や奈良は別格として、他の中小都市や城下町と比較しても神戸はずいぶん歴史の重みを欠く町のように映ります。しかし歴史を紐解いてみると、意外に古い史書や文献にいまの神戸市内の地名が登場しています。たとえば楠木正成が寡兵で足利尊氏の大軍をむかえ撃った湊川の戦いは南北朝時代、いまの神戸市中央区あたりが舞台です。平家物語で有名な源平合戦において源義経が一躍名をあげる、一ノ谷の戦いも須磨区を中心にした神戸市西側一体が舞台で、時は平安時代末期。さらに紫式部が遺した「源氏物語」には、源氏の君が一時凋落したとき時勢の不利をすばやくさとり須磨へとみずから下向する展開があります。もちろん「源氏物語」は小説であり創作ですが、当時から須磨は京から離れてはいるが朝廷と何らかの繋がりがある田舎として認識されていたということでしょう。この作品が書かれたのは平安時代中期、いまから1000年も前です。今日はその須磨に、源義経、さらに織田信長が好んで舞った幸若舞「敦盛」にも関係する須磨寺があるので、そこへ初詣気分で出かけてみます。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 須磨寺へむかって JR須磨駅... Read More | Share it now!
欲張って芥川山城、高槻城に古墳も見て歩く
【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!
周山城と黒塗りの明智光秀像をたずねて
【京都市京北... Read More | Share it now!
初冬の飯盛山をハイキング
【大阪府・四条畷市~大東市 2022.12.12】三好長慶という武将がいます。戦国時代は下克上の時代だったといえますが、その視点から見れば、戦国時代はこの三好長慶の登場時点から始まると言えるのではないでしょうか。室町幕府の将軍・足利家は時とともに力を弱めしだいにお飾り的な存在となってゆき、代わりに管領(かんれい)が将軍補佐役の立場をこえてみずから権勢をふるうようになります。細川晴元は12代将軍・足利義晴、13代将軍・義輝を補佐する管領でしたが、京の西南部をぐるり囲む摂津、山城、丹波3国と、さらに四国の阿波、土佐2国、計5国の守護をつとめる大名であると同時に、34代管領として当時の日本の実質ナンバーワンの存在でした。三好長慶はその細川家が守護をつとめる阿波国の、さらにその一部を守護代として管理する家系に生まれますが、細川家がごたごたする隙に、本願寺を味方につけたり敵対したり、あの手この手で勢力を拡大し、ついには細川家から実権をうばい、さらに和泉、河内、播磨、淡路、讃岐などを支配下におきます。織田信長に先んじて、「最初の天下人」と呼ばれるのはこのためですが、晩年はなんらかの精神の病を患ったようで、松永久秀と三好三人衆に実権をうばわれさびしく世を去っています。今日はその三好長慶が全盛を誇っていたころに築城した、飯盛山城をたずねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 四条畷神社 四条畷神社への参道... Read More | Share it now!
だんじりだけではない、岸和田の歴史を見て歩く
【大阪府・岸和田市 2022.12.9】岸和田の名の由来については、南北朝時代にこのあたり一帯が海岸沿いだったからか「岸」と呼ばれており、その当時世に出てきた楠木正成、その一族である和田某がここに城を築いて拠点としたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」になったというのがもっとも有力な説です。その和田氏が築いた城は16世紀初期に破却して現在の場所に移築し、豊臣の時代から江戸時代にかけて幾度も改築されながら本格的な城郭に変貌してゆきます。そして徳川家康の養女の子ともあるいは妹の子とも伝わる岡部宜勝が6万石で入城し、以後13代にわたり明治初期まで大坂と紀州をむすぶ要衝の城下町として栄えます。なお岸和田といえば、熱狂的なだんじり祭りで有名ですが、そのだんじり祭りは3代藩主の岡部長泰が京都伏見稲荷を岸和田城下に勧請し、五穀豊穣を祈っておこなった稲荷祭りが起源とされています。今日はそんな歴史をもつ岸和田の街を歩いてみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 岸和田駅からスタート 岸和田古城 南海岸和田駅からすぐ近いので、まずは和田氏が拠点としていた昔の岸和田城に寄ってみます。と言っても、いまではなにも遺構はなく、ここに城がありましたと告知する石碑があるだけ。しかも名前は「岸和田古城」となっています。 寺町筋 本徳寺 南海電車の高架下をくぐって現在の岸和田城へ向かう途中、すこし回り道して寺町筋に寄ってみました。目的は本徳寺。この寺は、(あくまで一説では)明智光秀の長男・光慶が出家して南国梵桂を号し開いた寺と伝わっています。そのためこの寺には明智光秀の唯一現存する肖像画があります。残念ながら2020年に27年ぶりかで特別公開されたそうなので次回いつ見られるかはわからないのですが、寺の境内だけでも見ておくつもりで訪ねてみました。しかし境内も非公開のようで、これこそまさに門前払いでした。 岸城神社 岸城神社... Read More | Share it now!
日本でいちばん古い道・山の辺の道をあるく
【奈良県・天理市~桜井市 2022.12.3】かつて奈良盆地の東南に位置する三輪山の麓から東北の春日山の麓まで通じる、日本書紀にも記された古代の道がありました。山々の裾をぬうように道が走っているからか「山の辺の道」と呼ばれ、全長は26km。そのうち三輪山のある(いまの)桜井市から古墳や神社をたどるように続く天理市までの17kmの道のりが、よく整備され歴史探訪の道とした紹介されています。確認出来るかぎりでは日本でいちばん古い道とのうたい文句ですが、古墳や神社はわかるにしても古代よりはるかに後に建てられたはずの寺院までも路程にふくまれており、実際のところどこまでもとのルートを再現できているのかは疑問です。しかし堅いことは抜きにして、ともかく歩いてみようと思わせるだけの魅力ある古道です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天理から歩きはじめる 天理教の教団施設がならぶ 過去に2度ほど桜井側から歩いたことがあるので今回は天理側から歩きはじめることにします。 天理市は駅(JR、近鉄とも同じ駅舎)から東口へ出てそのまま進むと、みごとに天理教の教団施設が立ち並び、まるで宗教都市の観があります。誤解のないように言っておきますと、掃除は行き届いているし、いたって静かで穏やかな町です。 路上には山の辺の道の標識 石上神宮 回廊から楼門 楼門を入ると拝殿へ 拝殿と本殿(奥) 国宝・(摂社)出雲建雄神社拝殿から楼門 石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつと言われています。建立は一説では崇神(すじん)天皇の勅命によるとのことですが、その崇神天皇は紀元前100年頃に天皇位についていたと考えられる方です。わかりやすく言うと、もとは朝廷の武器庫であり、神武天皇が国の平定の際につかわれた神剣・韴霊(ふつのみたま)、さらにスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際に使った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)なども保管されていたそうで、その剣にやどる神霊を祀るためにこの石上神宮がつくられたといわれています。また摂社の出雲建雄神社は三種神器のひとつ草薙剣の神霊を祀るためのものです。 神使の鶏 石上神宮は鶏を神の使いと崇めており、烏骨鶏などのやたらに元気のよい鶏が境内を歩き回っています。鳥類の苦手な人には恐怖かも知れませんが、恐れるのではなく畏れ多いとかしこまって参拝してください。 夜都岐神社 山の辺の道をあるく... Read More | Share it now!