【京都府・福知山市、綾部市 2022.11.28】古い寺のことをそのまんまですと、古寺(こじ)といいます。しかし古寺には、古びた寺、古くて荒れた寺というようなネガティブな意味合いも含んでいるようです。名刹(めいさつ)とは、由緒ある有名な寺のことを言います。「由緒ある」とか「有名」とはなにを基準にして言うのかがはっきりしませんが、なんとなく感じているのは、新興宗教でないものを「由緒ある」とし、その中でも空海(弘法大使)が開山に直接かかわったとか織田信長の菩提寺だとか「名の有る人が関係している」、あるいは寺そのものが美しくて訪れる人が絶えない「ひろく名を知られた」というような場合に「有名」としているように思います。ただし名刹には「古い」ことは必須ではありません。由緒ある古い寺のことは古刹(こさつ)と呼ぶのが一般的です。ただし古刹は「有名」であることを条件として含んでいません。古い神社のことはあまり一般的ではないですが、古社と呼ぶようです。ただし「古寺」のように、古びたとか古くて荒れたといったネガティブな意味合いはどうやら無いようです。なぜかといえば、これは推測ですが、明治初期の神仏分離令により神道(神社における日本古来の信仰)を国教とし、神社は国がまもる(管理する)ものとしたため、国が管理しているのだから古いものはあっても古びたものはない、ましてや古くて荒れたものがあるはずがない、という半強制的な発想からではないでしょうか。それでは名刹、古刹にあたる表記はといえば、神社は社格とか社号とかよばれるもので厳密にランク付けされており、世間一般の価値判断で由緒あるとか有名とか決める余地はない、ということになります。 さて前置きが長くなりました。今日は福知山とその近郊の古刹と古社を回れるだけ回ってみようと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 元伊勢外宮・豊受大神社 元伊勢外宮 中央が拝殿、奥が本殿、両脇は別宮、後方に末社 元伊勢とは天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめいま伊勢神宮に祀られている神様が、伊勢へうつる前に鎮座した、言うなれば伊勢の神様たちの故郷のような場所をいいます。たしかにとんでもなく由緒ある神社ではありますが、日本の昔の神様たちは旅から旅を続けていたため、この「伊勢の故郷」がいま日本中に自称他称ふくめて60以上もあるそうです。 そのなかでもここ福知山の元伊勢は、立派な建物が残っているぶん見ごたえあるのではないでしょうか。元伊勢外宮は、もともと衣食住の守り神である豊受大神(とようけだいじん)を祀っていたところ、天照大神のお告げにより共に伊勢に移られたそうです。なにかこの地に不満があったのでしょうか? そこのところは古い話なのでわかりませんが。 本殿... Read More | Share it now!
明智光秀を慕ってきた街・福知山を訪ねる
【京都府・福知山市 2022.11.27】明智光秀が築いた城はたくさんあります。居城としての機能も備えた坂本城、丹波亀山城、戦の拠点とする目的でつくられた金山城、周山城。そして本能寺の変の3年前、光秀が西丹波統治に拠点として築いたのが福知山城です。光秀はこの地を治めるにあたって、領民に課す地子銭(税)を免除するだけでなく、城下町の整備にも力を入れます。たとえば川沿いに竹藪をつくることで治水につとめたそうで、この竹藪はいまでも明智藪と呼ばれています。この明智藪、元は違う呼び名だったそうですが、明智光秀の功績をたたえる意味でそう呼んで市民から親しまれてきたということで、福知山で光秀がいかに大切にされてきたかが窺えます。そもそも福知山を訪ねてみようと関心を持ちはじめたキッカケは、市内にある御霊神社の存在です。御霊神社とは、生前に人々から慕われていたひとが冤罪などにより貶められた場合に、その人の霊を祀ってなぐさめるもので、ここ福知山の御霊神社には明智光秀が祀られています。すなわち本能寺の変により光秀が逆臣とされたのは冤罪だと、福知山ではむかしから考えられていたということになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福知山城へ JRの車窓から福知山城が見えました(中央) JR福知山線の黒井駅から30分ほどで福知山駅に着きます。列車が駅ホームに入る直前ぐらいに窓の外を眺めていると福知山城がばっちり見えます。 市役所前 福知山駅で下車してさっそく城に向かいます。徒歩15分ぐらいでしょうか。駅から10分ほど歩いてくると市役所があり、このあたりから城の全体が見えてきます。 福知山城 北東に登城口があり、ぐるっと回って南面 さらに回って西面... Read More | Share it now!
モミジの永観堂へ、ライトアップを見に行く
【京都市・左京区 2022.11.21】今秋は前々回の高取城と前回の醍醐寺と、紅葉狩りを堪能してきたので、今日は趣向をかえて紅葉のライトアップを見に行くことにしました。めざすは、むかしから「秋はモミジの」とまで言われてきた、紅葉のメッカ(?)京都・東山の永観堂です。京都の人気紅葉スポットでは毎年トップ争いの常連で(対抗は東福寺、清水寺)、関西全域にひろげても常に上位(トップは常に滋賀・高島市のメタセコイア並木)に入っている超有名なところですので、いかにもミーハーな選択ではありますが、そこは「秋はモミジの永観堂」ということで、ホイホイと出かけます。なお京都・東山の永観堂と書きましたが、永観堂は東山区には属さず、その北の左京区にあります。しかし平安神宮や銀閣寺もふくめ比叡山より南は東山界隈と呼ばれており、いわゆる「東山」と東山区は同じではないようです。 紫のマークが今回訪れた場所です。 モミジの永観堂へ 京セラ美術館 京都市美術館がリニューアルした際、ネーミングライツを京セラに売ったもので、京セラが運営する美術館ではありません。ところでリニューアル後、来館者はいくらか増えたのでしょうが、京都市の負担は激増しているそうで、これも自治体破産もあり得るとウワサされる京都市にはアタマの痛いところでしょう。 総門 永観堂の正式名称は「(山号)... Read More | Share it now!
樂美術館から紅葉の醍醐寺へ
【京都市上京区、伏見区 2022.11.15】今日は樂焼の窯元・樂家の作品をみられる樂美術館へ、「利形の守・破・離」をテーマに季節展示会を開催しているので先ずはそこを見学し、それだけで帰るのはもったいないので、やや大回りになりますが、山科からすこし南、伏見区にある醍醐寺で紅葉を堪能しようと思っています。 まず樂焼について。茶聖といわれた千利休は、茶器(茶碗や茶釜や茶壺など)に高価な名物を使うのではなく、また豪華でなくきらびやかでなく、むしろ簡素な中に深い味わいのある精神的な豊かさをもとめて、茶の湯の世界に新しい価値観を想像します。その完成形が「侘び茶」ですが、茶碗といえばそれまで唐物とよばれるブランドものが絶対人気だったところに、ロクロを使わず手で捏(つく)ねヘラで削って形をつくり、彩色をせず、釉(うわぐすり)だけをかけて焼く、たいへんシンプルな茶碗を登場させます。これが樂焼きであり、釉のかけ方と焼き方の違いで仕上がりの色が変わり、黒樂茶碗と赤樂茶碗があります。初代陶工は長次郎といい、もとは瓦職人だったようです。千利休と瓦職人の長次郎がどこでどうして出合ったのかは不明なのですが、ともに惹かれるものがあり文字通り二人三脚で試作をつづけ、ついに黒樂茶碗を完成させます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 樂美術館 樂家宅と隣接する樂美術館 樂美術館の所蔵品は、樂焼きの後継者たちが手本として常に触れることができるように、代々の作品を残してきたものが中心になっています。今回の展示会のテーマは「利形の守・破・離」利形とは利休の美意識をもとにした様式美守は伝統を守り継承すること破は伝統を破り新たな挑戦離は守・破から脱皮し、自由な精神にいたること代々(初代から16代目まで)の作品を、それぞれ守・破・離の段階ごとにわけて展示してありました。 晴明神社... Read More | Share it now!
紅葉の高取城址へ高取山をのぼる
【奈良県・高取町 2022.11.12】「巽高取雪かとみれば... Read More | Share it now!
名古屋城を見て歩く
【愛知県・名古屋市 2022.10.26】いまの名古屋城の地には、かつて織田信長が生まれたとも育ったともいわれる那古野城がありましたが、両者には繋がりがありません。それゆえ名古屋城は比較的新しく造られた城ということになります。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのは、すでに60歳を目前にしたときでした。自分が天下人となり、さらに盤石な基盤を築くためにはすべてを急がねばなりません。自分の余命とのにらみ合い、とでもいった心境だったのではないでしょうか。家康は征夷大将軍となって江戸幕府をひらくと、西国(豊臣家およびその勢力下の大名が多い)への備えとして西日本の要衝となる地へ新たに城を築き、自身の身内や信頼できる家臣を移り住まわせます。名古屋城はそのなかでも最大規模の、象徴的な存在でした。城普請は、かつては秀吉の恩顧を受けていた加藤清正、福島正則、黒田長政、毛利秀就、池田輝政ら外様大名に命じ、石垣の組み上げだけで言えば一年足らずで仕上げています。そして天守閣が築かれるのが1612年で、大坂冬の陣がおこるのが1614年ですから、この名古屋城の完成をもって満を持し大手を打ってきたかのようです。その後、名古屋城は尾張徳川家が17代にわたって城主をつとめながら尾張の中心的存在として繁栄します。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 名古屋城へ 名古屋城はまだ先ですが、街中に城普請の跡が残っています。近くに「○○三の丸幼稚園」があったので、かつてこのあたりが三の丸だったということでしょう。 陸橋をわたっていると、ちょうどいい具合に天守閣が見えました。なんとなく計算してやっているようですが、これもサービス精神ゆえということで。 正門 まずは正門から入ってみます。それにしても看板、案内板が多いし、このあたりでは名所旧跡には三角コーンは必須とでも考えているのでしょうか。 西の丸 西南隅櫓から大天守、必須アイテムの▲コーン 西南隅櫓から東南隅櫓 東南隅櫓 石垣 石垣はもちろんですが、各隅櫓も当時のものが現存しているそうです。明治維新において全国に廃城令が出されますが、ここ名古屋城は市民からの強い要望で存続が決まります。しかし明治時代に起きた濃尾地震で石垣と建物の一部が崩壊、さらに大戦時の空襲で天守閣が消失してしまいました。 本丸 表二之門を入ると立派な虎口があります。 小天守と大天守 大天守 小天守と大天守 空襲で焼失した天守閣は、残っている写真や資料をもとにコンクリートで「復元天守」として1959年に再建されました。しかしいまは耐震強度の問題とかで入場できなくなっており、木造による再建を検討しているそうですが、関係者間ですったもんだしており、いまのところ見通しが立たないようです。 2018年に再建された本丸御殿 本丸御殿も空襲で建物はすべて焼失しましたが、障壁画などは取り外して他の場所で保管していたため難を逃れ現存しています。ただしこの本丸御殿を飾るそれらは、すべてデジタル技術を駆使してつくった模写です。京都の元離宮二条城の本丸御殿とおなじで、本物は宝物館で(期間限定で)見られます。 表書院 上洛殿 上洛殿 東二之門 二の丸とつながる東二之門 清正石... Read More | Share it now!
小牧山城を見て歩く
【愛知県・小牧市 2022.10.25】小牧山城は織田信長が築いた城です。信長は尾張国を治めてからは清州に居城を構えますが、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、東からの脅威がなくなるとすぐに上洛の途上にある美濃を併合することに全力を傾けるようになり、そのため清州からの移転を考えます。清須は美濃を攻めるには南に遠く、また平城であり、攻守激しい時代には向いていないとも考えたのでしょうが、それ以上に後の信長が築いた城をみると高い所から見下ろして号令する山城を良しとしたのではないかと思います。そこで目に着けたのが、広大な濃尾平野の中に位置する小高い(標高86m)小牧山です。家臣の丹羽長秀が中心となって築城された城は、当時としては珍しい石垣を多用したもので、また大手口から大手道が山頂に向かって中腹まで真っすぐにのびる、これはまさに後の安土城をほうふつとさせる仕上がりになっています。しかし築城からわずか4年後、信長が斎藤龍興をやぶりその居城である岐阜城(もと稲葉山城)へ移ったことから廃城となってしまいます。それから十数年後、秀吉と家康とがぶつかる小牧長久手の戦いにおいて、家康が荒れ果てていた小牧山城に陣を敷き、土塁をあげ濠を掘り改修します。結局小牧山城は戦場になることなく家康軍は退陣しふたたび廃城となるのですが、戦場にならなかったために家康が改修した際の土塁や濠も発掘調査によって蘇ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 小牧山城 小牧山の山頂に城が見えます 名鉄小牧山駅から西へあるくと小牧山城がはっきり見えてき、山頂に城らしき形が見えます。 大手道 安土城とは較べものになりませんが、たしかにまっすぐに大手道が伸びる形状は、のちの安土城と同じです。 ところでひしめくのぼり旗は「三つ葉葵」ですから徳川家。ということは、小牧市としてはこの小牧山城は信長が築いた城というより、家康が小牧長久手の戦いで本陣を敷いた城として紹介したいわけですね。 家康が改修した際の土塁 上から見下ろすと堀跡も確認できる 山腹に残っている土塁跡 これらは家康時代のものか信長時代のものなのか 発掘調査で出てきた石 おそらくは石垣に使われていた石が発掘調査により見つかり、そのままの状態で置かれています。これは信長時代のものです。 天守閣(風)歴史館 山頂に当時の天守を復元したのではなく、 歴史館として天守閣風の建物をたてました 信長時代の石垣 階段状に石垣を組んでいるのが特徴的です 天守閣からの眺めはさほどでした 曲輪 下山途中にみられた曲輪 立派な坂道がつけられていました 下まで降りてきました 搦め手口付近 城の南に位置する大手口からのぼり、北の搦め手口へ降りてきたことになります。北側には平らな空き地がたくさんありそこが公園になっているのですが、このあたりが家来の住居があつまる曲輪だったと思われます。 小牧神明社 鳥居 拝殿と本殿 ご神木「連理木」 ここ小牧神明社は織田信長が小牧山に城を築くとすぐに勧請してこの地に建立したものだそうです。しかしそのような歴史よりも、ここで興味深いのは、「連理木」とよばれるご神木で、3本の大きな幹にわかれて伸びているのですが、高さ4.6mのところで2本ずつがそれぞれに枝をのばして繋がっています。クスノキにはこのように繋がるのはよく見られますが、2本ずつが各々繋がっているのははじめて見ました。 【アクセス】名鉄小牧駅から徒歩20分【料金】小牧市歴史館(山上の天守閣)と小牧山城史跡情報館(大手口そば)両方で100円【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!
奈良斑鳩でコスモスを楽しむ
【奈良県・生駒郡斑鳩町 2022.10.23】斑鳩(いかるが)とは、もとは聖徳太子(厩戸皇子)がこの地に宮を建て(その宮が斑鳩宮とよばれる)、さらに周辺に法隆寺、法起寺、中宮寺を創建したことから一時は日本(大和)の政治の中心地となります。聖徳太子が没して後、その子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が蘇我入鹿(そがのいるか)に襲撃され後に自害することでこの地も没落してゆきますが、聖徳太子ゆかりの寺が残っていることから多くの人々(信仰者と観光客)が訪れる土地として伝わっています。秋には中宮寺跡地はコスモス畑となり、また法起寺は三重塔を背景にして絶好のコスモスの撮影スポットになるため、今日は久しぶりに斑鳩を歩きに行きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 小泉神社 小泉神社・鳥居 鳥居の奥に、城門? 城門をくぐると神社(拝殿など)がある JR大和小泉駅で降りたので、小泉神社に寄って行きます。ここはたいへん珍しい神社で、鳥居をくぐるとその奥に城門があります。室町時代に、このあたりの豪族・小泉氏が神社の敷地内に陣屋を構えたゆえだそうです。 法起寺 農道をあるく 斑鳩は古都保存法の指定地のため、こんな道がのこっています。残念なのは、畑にブルーシートがわんさかあること。古都保存法の指定地にするのならば、補助金を出してせめて茶色とかグレーのシートを使うようにすれば、と思うのですが。 法起寺・三重塔 塀越しに 垣根越しに... Read More | Share it now!
奈良には信貴山朝護孫子寺もある
【奈良県・生駒郡平群町 2022.10.4】奈良でお寺と言えば、まずは大仏のある東大寺や、聖徳太子が建立した法隆寺あたりを思い浮かべますが、実は奈良にはそれらと比較しても遜色ないのではなく、比較の仕様がないような奇抜な寺があります。大阪府との県境近く、信貴山(しぎさん)のふところに抱かれるようにある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がそれです。創建については、1400年余りまえ、朝敵・物部守屋を討つべく聖徳太子がこの山(信貴山)にきて必勝祈願したところ、天空からあらわれた毘沙門天が必勝の秘法をさずけ、その加護により戦いに勝つことが出来たため、この山を「信ずべき貴い山」として信貴山とし、毘沙門天を祀る寺を建立したとのこと。さらにその毘沙門天が現れたのが、寅の月の寅の日、さらに寅の時刻であったことから様々な「寅」を神の代理として安置しているそうです。ですから起源は聖徳太子建立となるのですが、これは「伝承」の域を出ていません。確実に聖徳太子建立とされる法隆寺や四天王寺と比較して、伽藍配置もまったく違うし、なによりも雰囲気があまりに異なります。密接して立ち並ぶ建物、乱立する毘沙門天の赤い旗、あちこちに配された寅のオブジェ、さらに神仏習合時代の名残りで鳥居もたくさん残っており、それは寺というよりオモチャ箱のようで、聖徳太子をまったく知らない子供をつれてきても退屈させることはないかもしれません。もちろん本来の姿は、れっきとした信貴山真言宗の総本山です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 仁王門から赤門へ 仁王門が見えてきました 仁王門の手前にある千体地蔵 前方の高所に本堂が見える 前方の高所に本堂が見えてきましたが、その手前進む先に、黄色に黒い縞模様といえば、タイガース、いえいえこれぞ「寅」のお出迎えです。 これが信貴山一番の寅(の張り子) 更に2体の寅(の張り子) 2体の「寅」の先にある赤門 赤門を抜けると鳥居があります寺の中に神社の鳥居があるのは神仏習合の時代のなごり 毘沙門天のパワー満開(?) 寅、虎、トラ 寅の郵便ポスト 狛犬の代わり(?)の寅 この寅は檻に入っています こんな悪面の寅もいます 聖徳太子像 数々の、しかも漫画チックなものも混じる寅のなかに紛れて立つ聖徳太子には、居心地は良いのかどうなのか。 なお他にもたくさん寅がいますので、それら寅をさがすだけでも結構楽しめます。 多宝塔から大地蔵尊へ 多宝塔を見上げる 多宝塔 下を見ると、信貴山にはこれほど建物が密集しています 大地蔵尊へ 大地蔵尊と三重塔 こうして見上げると、たしかに大きな地蔵尊 本堂 本堂 本堂から見下ろす 本堂正面(毘沙門天王) 「毘沙門天王」の額の両側にあるムカデの彫り物 本堂より大和盆地を見下ろす ムカデにまつわる物語http://www.amh.ako.hyogo.jp/upload/hospital_news/40/4bdde23531f9d419a35517b283b215ed.pdf 千手院の寅の胎内くぐり 最後に福をさずかる寅の胎内くぐりをして帰路につきます。 【アクセス】近鉄信貴山下駅から歩くのがおすすめルートです。【拝観料】無料【満足度】★★★★☆ 仕事を引退してプー太郎になり、今日ははじめて平日(火曜日)に出かけることになりました。あさ大阪から奈良へと向かう電車にはまだ通勤客が乗っていて、その中でリュックをかかえて遊びに出かける自分がなんとも居心地が悪く、なんとなく身を小さくしていました。 ... Read More | Share it now!
紀州の紀三井寺をたずねる
【和歌山市 2022.9.24】先日(2022.9.3)たずねた滋賀の三井寺がなかなか良かったので、名前の類似からここも良いのではと勝手に期待して、和歌市内でもずっと南にある紀三井寺まで歩いてみることにしました。和歌山城から5.5km、1時間ほどの道のりです。ところが、紀三井寺は三井寺とは何の関係もありませんでした。そもそもは奈良時代に唐の僧・為光(いこう)上人により千手観音を尊像として開基されました。鎌倉時代には僧侶の数も500名を越え、江戸時代には紀州徳川家の歴代藩主がたびたび参詣したとのことですからこのあたり一帯ではもっとも大きくて由緒ある寺院だったのでしょう。紀三井寺の名は、紀州の、三つの井戸がある寺からきているようで、いまも山内では清浄水(しょうじゅうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水が絶えることなく湧き出ているそうです。なお正式な寺号は、金剛宝寺といいます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 和歌山市内を南へあるく 和歌山市中心街の立派な道路 途中に立ち寄ったお寺(延命院) 中心街を離れると、退屈な道が延々とつづきます。 紀三井寺 紀三井寺・楼門 紀三井寺に到着しました。歴史を感じられない楼門、シャッターを閉めた商店、正面にある電信柱、数々の看板... Read More | Share it now!