街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・堺市~大阪狭山市 2025.1.20】行基上人は正真正銘のえらい人だと思います。14歳(15歳?)で出家し薬師寺(奈良市)で法相宗を学び名を行基とあらためます。そこまではフツーの出家者なのですが、やがて自分だけがどれだけ学ぼうがこれでは誰ひとり救えないと思いいたります。飛鳥時代当時の僧侶の役割とは、中国(隋または唐)から仏教を取り入れそれを学問としてまなび、知識として吸収し寺院を建立することでその教えを定着させることでした。そんな時代に行基は寺から俗世にでて民衆に辻説法をおこないます。僧侶が直接民衆に説法をおこなうのは禁じられていた時代です。まず寺院が騒ぎ立てますが行基人気は高まるばかり、その説法の場にはときに一千人もがあつまるほどになり、ついに寺院は朝廷に讒言ざんげんしてまで弾圧をつよめます。行基はといえば弾圧なんぞどこ吹く風、説法であつまった人々を指導し先ずは布施屋(貧しい人たちの救護施設であり宿泊施設)をつくり、さらに民衆のための土木事業にも着手し、橋をかけ用水路を掘り溜池をつくります。※井上薫氏の「行基事典」をもとに国土交通省が作成した図表には、行基がたずさわったインフラとして、池(溜池)15、溝(用水路)6、堀4、樋(水門)3、道1、橋6、船息(港)2、布施屋9とありました。 開口あぐち神社 赤鳥居 本殿 神仏習合の時代には寺と社が混在した<境内の案内図より抜粋> 開口あぐち神社は奈良と堺をむすぶ日本最古の官道(国道)である竹内街道の西端に位置し、堺の港を守るために建立されたと伝えられています。かつては広大な敷地内に行基が建立した念仏寺が存在したそうです。いまは念仏寺は廃寺となり痕跡すらありませんが、いまも神社でありながら当時の愛称から「大寺さん」とも呼ばれていると説明板にありました。 堺をあるくと古墳にあたる 大きな交差点を越えて東南方向へ陸橋の錆び具合からも自治体の困窮ぶりが伺えます 仁徳天皇陵の脇をかすめ、 大仙公園から履中天皇陵をのぞみ、 文殊塚古墳のまえを通る 家願寺えばらじ 本堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,山梨

【山梨県・甲州市ほか 2024.12.10~13】武田信玄ゆかりの地を、1⃣で書いた武田氏館、2⃣で書いた要害山城につづき、いくつか回りました。順に書き出してゆきます。 甲斐善光寺 山門 山門から本堂をのぞむ いまの長野市一帯は武田信玄と上杉謙信とが幾たびも干戈を交えた場所であり、そこに建立された善光寺に戦火が及ぶことを危惧し、まず謙信が本尊・善光寺如来を本国越後、いまの上越市の十念寺に移したとされています。たしかに十念寺はそこから「浜善光寺」と呼ばれるようになるのですが、じつはその本尊は偽物だったようです。つぎに信玄がやはり善光寺如来が焼失することを懼れ、どうやら今度こそ間違いなく本物の本尊を甲州へと移します。その善光寺如来を甲斐の地で本尊として祀るため建立したのが、この甲斐善光寺です。 信玄はたいへん信仰心があつく心底善光寺如来が焼失することを懼れたのはたしかですが、本尊を甲斐の国に移すとともに、本家の信濃善光寺のいわゆる「門前町」もちゃっかり移転させ、おかげで当時このあたり一帯は甲州一の賑わいを見せるようになったということです。 本堂 本堂 善光寺如来のその後について書いておきます。織田氏による武田氏滅亡におよんで総大将だった信忠(信長の嫡男)は善光寺如来を自領の岐阜城へ持ち帰ります。(次男の信雄が清州城へ持ちこんだとの説もあります)ところが同年本能寺の変により信長、信忠がともに亡くなると、徳川家康のはたらきで翌年には善光寺如来はここ甲斐善光寺へいったんは戻されます。それから10余年、権力を掌握した豊臣秀吉は京都に方広寺を建立し本尊として東大寺の大仏にまさる大大仏を造らせます。ところが慶長の大地震で大大仏は壊れてしまい、秀吉は側近からの入れ知恵でしょうが善光寺如来を方広寺の本尊として祀ることを命じます。すると吉祥どころか秀吉はこのころから急に病みはじめ、祟りと怖れたのか善光寺如来にお帰りいただくことを祈念し、甲斐善光寺ではなく本家の信濃善光寺へと戻すことになります。 恵林寺 恵林寺は甲府市の中心街から20kmほど北東、いまの甲州市にある武田家の菩提寺です。信玄は京をはじめ上方から高僧を恵林寺の住職として招きますが、なかでも美濃(いまの岐阜)の崇福寺から招かれた快川紹喜上人が有名です。 山門 山門に記された「滅却心頭火自涼」 織田信忠は武田勝頼を自害させ武田氏を滅亡させると、武田領の掃討をはじめます。恵林寺については、かつて織田氏と抗戦し甲州まで逃げた武将がここに匿われているはずだと詰問し身柄を引き渡すよう要求します。しかし快川上人はここが浄域であることを理由に拒否。すると織田軍は快川上人ほか数十人の僧を山門の上に押し上げ下から火を放ちます。これに先立ち信忠は諏訪大社にも火を放っているのでどうやら神仏専門の放火魔だったのかもしれません。 下から迫りくる炎と灼熱のなか、快川上人は「心頭滅却すれば自ずから火もまた涼し」と偈げ(仏の教えや徳をたたえる韻文)をとなえながら往生したということです。 三重塔 開山堂 庭園 武田信玄の墓 「心頭滅却すれば」の偈ですが、そもそもこれは快川上人のオリジナルではなく中国の書に記されたものです。また近年の研究では快川上人は燃え盛る山門上でこのような偈は唱えていないとも言われています。 もうひとつ追記しておきます。平山優氏の『武田三代』を読んでいたらこの恵林寺山門炎上について触れている箇所がありました。山門に押し上げられた僧侶のうち16人が決死の覚悟で山門上から飛び降り難を逃れたとのこと。そのとき山門をとりかこむ織田軍の兵たちは槍を地面にふせて僧たちが逃げてゆくのを見逃したということです。ちょっと救われる話です。 見延山久遠寺 1571年、織田信長はかねてより仏門としての規律の退廃が目に余る比叡山が敵対する浅井・朝倉氏をかくまったこともあってついに全山焼き討ちの挙に出ます。その報をきいた信玄は胸を痛め、比叡山(延暦寺)をそっくり甲州へ移すことを考えます。そのとき候補地になったのがいまの南巨摩郡身延町にある身延山の久遠寺であり、久遠寺には代替え地をあたえるのでそっくり堂宇をのこして移転してもらい、残された堂宇をそのまま使って延暦寺を再興しようと企図します。 巨大な山門 長い長い石階段をのぼる(両脇に傾斜の異なる坂道もある) 当然と言えば当然ですが、久遠寺側はその要請に対して徹底抗戦もいとわぬ覚悟で拒絶します。このとき信玄は、どこまで本当かはわかりませんが、比叡山を焼き尽くし屈服させた信長と、久遠寺から移転の要請を拒否されてなす術もない自分自身との実行力の差を嘆いたとも言われています。1571年というと、信長38歳、浅井・朝倉や本願寺・一向宗徒など反対勢力に手を焼きながらも天下統一にむけて驀進していたころ。一方の信玄は50歳、当時ではすでに老境であり持病の労咳(肺結核)の症状も末期に近づき、それでいながら北条氏や上杉氏との諍いで西上(この場合は京にのぼり天下に号令する意)もままならず、ずいぶん焦っていたのでしょう。このあたりは信玄の人間らしさがもっとも垣間見える時期です。 仏殿(左)、客殿(右奥) 仏殿より 祖師堂 祖師堂より本殿と五重塔 祖師堂にて 五重塔 信玄は自分の余命が残り少ないことを自覚し西上をよほど焦っていたのでしょう、翌1572年甲斐を発ち西へと進軍をはじめますが、その途上で(戦死ではなく)病没します。 信玄築石 本栖湖と精進湖をつなぐ場所に中央往還(という名の道)が通っており、中世には軍用道路として利用されていました。その一部に「信玄築石」とよばれる溶岩をつみかさねた石垣のような防壁があります。どのような目的でつくられたのか判然とせず、もしかすると信玄とは関係ないかもしれません。(武田軍が富士の樹海をぬけて進軍したという記録はあります) 中央往環をあるく 樹海のなか人っ子ひとりいない... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ

【京都市・大山崎町~長岡京市 2024.11.28】天王山には過去2度登ったことがあります。山頂には秀吉が天王山の戦いで明智軍を撃破してのち本城とするためにつくらせた山崎城がありました。秀吉は主君であった信長の先見の明に触発されたのか、天下を治めるためには摂津の地に海に面して城を構えることが最良と考えていたようで、いずれは大坂城をつくることになります。その前段階でつくらせたのがこの山崎城ということになります。信長が徹底して一向宗の総本山である摂津の石山本願寺をつぶそうとしたのは、その地にみずから城をかまえる構想があったからで、信長の第一の子分であった秀吉には継承するという意図もあったかもしれません。それゆえ山崎城はあくまで「仮の本城」「暫時の本城」であったはずです。ところが山崎城を巨城と表現している記述をしばしば見かけます。仮の、あるいは暫時の本城が巨城であるはずがありません。これは確認しておく必要があると、あらためて天王山に登ることにしました。 天王山をのぼる JR線の踏切越しに天王山を見る 一般にば天下分け目の戦いと言えば天王山の戦いのように伝えられていますが、実際には天王山において干戈を交えたことはなく、その山麓の東側、淀川沿いの平地で戦いはおこなわれました。それゆえいまでは土地の名前から山崎の戦いと改められつつあります。 宝積寺の山門を入り 三重塔を横に見て 本殿横の山道を登ります なかなかワイルドな登山道です 秀吉の活躍を描いた屏風絵風の陶板画 天王山へはいくつかの登山道がありますが、この道は「秀吉の道」と名づけらています。道沿いには、秀吉が中国大返しで畿内へ駆けもどり明智光秀を討伐して天下取りの足がかりをつくる活躍を、陶板画を順に並べることで解説しています。内容は思いっきり秀吉びいきです。 展望所から合戦のあった一帯を見わたせる 合戦時の両軍の配陣 十七烈士の墓幕末の禁門の変でやぶれて自刃した尊王攘夷派の墓 途中にある三社宮 酒解神社は産土神・牛頭天王を祀る天王山の山名はこの牛頭天王に由来 ここからもう少し山道をのぼると山頂 山崎城 本丸にあたる曲輪、奥が天守台相当部か? 一段高く、天守台跡と思われる 天守台跡から下の曲輪をみる 天守台にのこる石垣跡 本丸下にある二ノ丸相当の曲輪 井戸は二ノ丸に続く小ぶりの曲輪にある 曲輪の外周にのこる土塁 山崎城に関してのこっており見られるのはこれだけです。秀吉はこの城をつくっても腰を落ち着けることなく早々に大坂城を築かせていることから考えてもやはり一時的な本城であり、ここに時間と金をかけて巨城をかまえる必然性がありません。「居城」を「巨城」と誤植したのではないかとさえ疑ってしまいます。 山崎城が巨城でなかったことは確認できましたが、これだけで下山して帰宅したのではあまりに物足りません。そこで小倉神社のある東方面へとくだり長岡京まであるいて紅葉の名所でもある光明寺を訪ねてみることにしました。 小倉神社にむかって下山 下山とはいっても山中をいったん西へ それから東へと旋回するように歩きます やがて遊歩道のような道を下ってゆきます 小倉神社秀吉が合戦に先立ち戦勝祈願をしたとか、ホンマか? 光明寺 光明寺は昨年夏にたずねて、モミジの青葉が濃密に繁茂して木陰をつくるたいへん雰囲気のよい御寺と記憶していたので今回紅葉狩りのために再訪しました。さきに結果からいいますと、青葉が3割、見頃が4割、変色または枯葉が3割、色づきが遅れているのではなくあまりに長びいた残暑のために紅葉も乱れてしまったということでしょう。それでも人出は前回の100倍ほど。※写真撮影についていえば、どこを撮ってもきれいといえるものではなく、部分部分で切り取るように撮影しました。またきれいな写真が撮れそうなところには必ず人がわんさかいて紅葉を撮ったのか人を撮ったのかわからない写真になりがちです。 総門 総門からつづく参道 参道 参道 観音堂で特別公開されていた秘仏写真撮影可とけっこう大きな字で書かれていました 御影堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,滋賀

【滋賀県・東近江市 2024.11.24】今日は滋賀県の東近江市、赤神山(太郎坊山)の中腹に鎮座する阿賀神社(太郎坊宮)をたずねます。唐突ですが、日本の神様の話になります。天照大御神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(占い... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣

【京都府・木津川市 2024.11.19】大阪市内から真東にむかうと奈良市に到りますが、そこから北へ進路を変えるとじきに京都府にはいり木津川市があります。大阪からも奈良からも京都からも簡単にいける土地です。しずかな田園風景のなかに国宝や重文をあまた所蔵する社寺が散在していますが、平日ともなると観光客を見かけることもまれです。 その木津川市に三上山という里山があります。はっきりいうと登山愛好者にもあまり知られていない山です。山腹途中に国宝の五重塔をもつ海住山寺がありますが、登山者以外は気楽に歩いてゆける場所にはなく車が必須となるため平日は参詣者もほとんどいません。さて、今日は静かな見て歩きをたのしみに行きます。 JR棚倉駅から 「お茶の京都」の広告で全身装飾の列車でJR棚倉駅へ 駅前の湧出宮参道をぬける すぐに宅地はおわり山里をあるく 竹林のなかをすすむ 竹林を歩くことが30分以上もつづきます。京都の嵐山にある竹林のように手入れされたものではありませんが、さすがにこれだけ長距離にわたって竹林を歩いたのははじめての経験です。 登山 やっと登山気分になってきました... Read More | Share it now!

神社・仏閣,長野

【長野県・茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町 2024.11.4】諏訪大社は上社の前宮、本宮、そして下社の春宮、秋宮の4社からなりたっています。もともとは上諏訪神社、下諏訪神社というべつべつの神社だったものが明治時代に国の管理になってから統合され一つになったようです。またそれぞれに前宮・本宮、春宮・秋宮の2社があるのは伊勢神宮に外宮・内宮があるように、あるいは京都に上賀茂神社と下鴨神社があうようにそれぞれ関係した別々の神様を祀っているなどそれほど珍しいことではありません。いぜん出雲大社について書いた折に古事記にでてくる大国主命(オオクニヌシ)から天照大御神(アマテラス)への国譲りの話に触れましたが、諏訪大社の由緒はそこに密接に関係しています。アマテラスの使者として天上界(高天原)から地上界(葦原中国)へ降臨した武甕槌神(タケミカヅチ)は、オオクニヌシに対して現在貴方が治めている葦原中国はそもそもアマテラスの子孫が治めるべき土地ゆえ、いまここで譲りわたすようにと要請します。それに対してオオクニヌシが判断は息子にゆだねると返答したところ、息子のひとりは畏れ多いと恐縮してすぐにでも譲ることを約します。ところがもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタ)は剛力無双を誇示するように巨岩を軽々とかついで現れ、タケミカヅチに対して力勝負で決めようと不敵に挑戦します。ところが勝負はあっけなく、赤子の手をひねるように投げ飛ばされたタケミナカタは出雲から一目散に逃げだし、たどり着いた先は科野(信濃)の諏訪湖。ところがあっさり追いつかれ殺されそうになると葦原中国は差し上げますと命乞い。あげくに今後けっしてこの地(信濃諏訪)から外へは出ませんと誓います。 このタケミナカタが、上社本宮と下社春宮・秋宮の主祭神です。(上社前宮の主祭神は妃の八坂刀売神ヤサカトメです)ここで腑に落ちないことに気づきます。なぜ平素はいばった乱暴者で負けたとなるとあまりにもカッコ悪いこのタケミナカタが祭神しかも主祭神なのでしょうか。しかも神格はといえば水神、風神でありさらに軍神でもあります。タケミカヅチが鹿嶋神社の軍神として祀られているのは上記の逸話からも納得できますが、タケミナカタが軍神として祀られることに諏訪の人たちは納得したのでしょうか。と、おもって調べてみると上のタケミナカタの話は(大和が編纂した)古事記に書かれているだけで、諏訪および信濃につたわる地方史には異なるニュアンスで書かれているようです。たとえば、信濃を平定するためにオオクニヌシがタケミナカタを派遣しそのまま住み着いた、あるいは信濃で勢力を拡大するタケミナカタに対してアマテラスが刺客をおくって討伐した等々。 上社前宮 大鳥居... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.10.30】東大寺の転害門からかつての京街道を北へ10分もあるくと般若寺があります。般若寺はコスモス寺として有名で例年なら10月末までが見頃なのですが、今年は夏から秋にかけて異常な高温がつづいたため今頃になって見頃を迎えたとWEBサイトで紹介されていました。夏にぎっくり腰を患い、さらに数日前にも腰を痛めて難儀していたのですが、近鉄奈良駅から歩いても2km強、この程度であればリハビリがてら歩くのも良かろうと判断し出かけてみることにしました。 般若寺は高句麗から渡来した法師が創建し、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を護るため伽藍をたて大般若経の経典をおさめたことが起源と伝わっています。往時には千人の学僧が修行をしていたといいます。修行といっても荒行苦行の類ではありません。般若経でいう般若とは「智慧」のことであり、ここでいう智慧とは「真理を見きわめる力」を意味します。経典を読み、もっぱら学問をしていたものと想像できます。その経典ですが、いうまでもなく般若経の教えをコンパクトにまとめた般若心経がつかわれていたことでしょう。 般若寺 楼門は鎌倉時代に再建された重要文化財 さてその般若心経、わずか260文字のおそらく世界一短い経典でしょうが、その260文字をそのまま読むだけで理解できる人がいるのでしょうか。凡夫の私などは260文字を理解するために260頁以上ある解説書を2度読みましたが、それでも「わかったようなわからないような」レベルです。 塀沿いに入口にむかう... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・甲賀市 2024.9.23】今日は滋賀県の甲賀にある飯道山に登ります。飯道山は山として登ることそのものには飛びぬけて魅力があるわけでもないのですが、山頂付近はかつて修験者のための修験場であり、かつ甲賀忍者の修練の場でもあったところで、いまは飯道神社として古色蒼然とした社殿が残っています。また今回は水口側(貴生川駅)からアプローチしますが、下山した信楽側には紫香楽宮跡がのこり歴史を堪能できます。紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が造営した離宮で、発掘調査の結果いまは寺院らしきものの痕跡が広範囲にわたって見られます。 水口町を歩いて三大寺登山口へ 杣川越しに飯道山(左奥)をのぞむ ところではじめに言っておきますと、飯道山登山は山登り重視で考えるなら水口から信楽へ歩くのがお薦めですが、歴史見分を主とするのであれば逆ルートの方がフィットすると思います。 飯道山へ 登山口からしばらく整備された道を歩く この先あたりからやっと山道らしくなる 山道はずっと歩きやすい 左羅坂も注意して歩けば問題なし 杖の権現茶屋休憩所... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良市 2024.9.17】平城京跡を見に行くのに合わせて、近辺の寺院をまわってみました。訪ねたのは、法華寺と海龍王寺。3連休明けの平日、奈良市内で人気の東大寺や法隆寺からは遠く離れている、しかも9月後半とはいえこの日の現地の最高気温は34℃。たしかに大勢の観光客がくりだす要素はありませんが、それにしてもそのあまりの少なさには愕然としました。なにしろ法華寺での滞在時間は45分ほど、その間に境内でみかけた観光客(参拝者もふくむ)はというと、たった1人。海龍王寺にいたっては30分ほどの滞在時間中に自分以外は誰も見かけませんでした。さらに最寄駅から寺へ、寺から寺への移動中も観光客らしき人の姿は皆無です。 これが京都であれば、清水寺周辺や嵐山など人気の場所を遠く離れても、(本音として一人静かに散策したいと願ったところで)必ず前にも後ろにも他の観光客がいます。おなじ日本を代表する古都でありながら、この差は何なのでしょうか。 法華寺 南門から本堂をのぞむ 仏教の布教に力をそそいだ聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を詔します。そのなかで、全国の国分寺を管轄する総国分寺が奈良の大仏さんで有名な東大寺であり、国分尼寺を総括するのがここ法華寺でした。すなわちこの寺はとんでもないほどに由緒ある御寺です。また天皇の皇女や摂家の貴女が住職を務めているため、いわゆる(尼)門跡寺院でもあります。 鐘楼から本堂 本堂 浴室(からふろ)/... Read More | Share it now!