【京都市 2024.3.27】大阪と京都をむすぶ電車はいくつかありますが、京阪電車はその名称からしていかにも。大阪市の中心地から線路はまっすぐ北東へのび、京都市の中心地へ入ってゆきます。終点は出町柳駅。さて今日はその出町柳駅からほど近い下鴨神社からその北にある上賀茂神社へと歩いてみたいと思います。ながい歴史をもつ両神社、下(しも)から上(かみ)へと賀茂川沿いにあるく道、それだけでも楽しみはいっぱいですが、なにかテーマがあった方がより楽しめるでしょう。ということで、神社はなぜ赤いのか、神社の赤、正確には朱色について考えてみたいと思います。 河合神社から下鴨神社へ 出町柳駅と下鴨神社周辺図 北から流れてきた賀茂川と高野川は、ちょうど出町柳駅のあたりで合流し、そこから鴨川と呼び名が変わります。下の写真は河合橋から南を向いて両川が合流するあたりを撮影したものです。 前方で2本の川が合流する/前方は賀茂大橋 なぜこんなことをクダクダいうかといえば、これからの説明に大いに関係しています。 下鴨神社/正式には賀茂御祖かもみおや神社 下鴨神社についたと思ったら、いきなり赤い鳥居は修理中なのかカバーで覆われていました。今日のテーマは神社の朱色だけに、少々困りました。 下鴨神社の摂社・河合神社 河合神社の絵馬は美麗信仰の意味で手鏡型 河合神社は玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀り、本来は女性守護として信仰されていましたが、さらに玉依姫命がたいそう美しかったことから美麗信仰として人気を博しています。なおこの河合神社の名の由来ですが、「河が合わさる」ー賀茂川と高野川が合流するー場所との意味からきているともいわれています。下鴨神社と上賀茂神社の「かも」の字の違いについては、かたわらをながれる川が上流では「賀茂川」で下流では「鴨川」にかわることに起因してるとの説もあれば、神社が先で川のほうがそれに合わせたとの説もあり、はっきりしたことはわからないというのが実情です。 参道は大がかりに工事中 そもそも下鴨神社と上賀茂神社の関係ですが、もとは賀茂大社とよばれており、ふたつの社でセットだったようです。異なる点はというと、祀られている神様が違います。簡単にいうと、下鴨神社にはおじいさん(賀茂建角身命)とお母さん(玉依姫命)が祀られ、上賀茂神社には息子(賀茂別雷大神)が祀られています。 楼門 楼門... Read More | Share it now!
伊吹山の南尾根にどっしりかまえる弥高山
【滋賀県・米原市 2024.3.18】琵琶湖の北東、岐阜県との県境ちかくに名峰・伊吹山はそびえています。その伊吹山ですが、昨年夏の大雨で登山道というよりも斜面そのものが広範囲に崩落し、現在も登山禁止になっています。この崩落の様子はネットで『伊吹山 崩落』で検索し『画像』をクリックすれば生々しい現場写真を見ることができ、さすがに好きこのんで登ろうとは思いません。ところが山をよほどあまく見ているのか、あるいは禁止されると逆に登りたくなるのか、登山禁止になって以後もこの伊吹山の山頂をめざす人は絶えることなく、とうとう今年2月に、アルパイン登山(岩登り+山登り)をしていたとの情報もありますが、登山客が落石にあい死亡する事故がありました。伊吹山の登山道が復旧するのは公式にも長期間を要するとされており、いつになるのか気長に待つしかないのが現状です。ところで、その伊吹山の南尾根というか、南前面にこんもり隆起した山があります。伊吹山がそびえているのに対して、この山はまるで伊吹山の前衛山のようにどっしり構えています。それが弥高山です。 弥高山へ JR近江長岡駅から伊吹山をのぞむ 伊吹山の手前の山系、右のピークが弥高山 上平寺までは近江長岡駅から6km、歩いて来れます 弥高山へはここ上平寺から登ることになります。ところで上平寺登山口は、弥高山のピークを越えて伊吹山に登るためのものと想定されており、わざわざ弥高山だけにのぼる登山客はほとんどいません。そのため登山口には「伊吹山は落石のため登山禁止」と札がありロープが張られています。崩壊、落石は弥高山ピークより先であることは確認していますので、申し訳ないのですがロープをくぐって先に進みました。 京極氏遺跡・上平寺城跡 上平寺村にあった案内板より抜粋 太平記(原本ではなく、吉川英治『私本太平記』)を読んでいたところ、バサラ大名として知られる佐々木道誉(ささきどうよ)が六波羅探題からの要請で、不穏な動きで入洛をめざす東国の兵を検めるため「伊吹の城」でかまえて監視する場面がでてきます。さらに逆心をいだく足利高氏(のちの尊氏)が単身で「伊吹の城」を訪れ、歓談のうちに道誉を倒幕側にひきこむという場面もあります。そこから「伊吹の城」に俄然興味を抱いてしらべたところ、この上平寺城にたどりついた次第です。 案内板からもわかるように、上平寺城は弥高山の麓から山頂近くまで斜面にそって展開し、さらに山頂から反対側には弥高寺跡がのこっています。 登山口を入ると、道両側に曲輪跡が並びます 歴代京極氏の墓、右は伊吹神社の殿 その伊吹神社へ上る階段、雰囲気が良いので 下から上から撮影しました 崖沿いですが道幅があるので危険はない 坂は徐々にきつくなります 落石とか崩落とは縁のない穏やかな山登り やがて雰囲気が変わってきます 山上の上平寺城跡 竪堀 広大な曲輪跡 城跡にたてられた案内板から抜粋 佐々木氏は59代宇多天皇の流れをくむ近江の氏族で、鎌倉時代にいくつもの分家をし、そのなかで六角氏と京極氏がもっとも著名なのではないでしょうか。六角氏は六角(京洛中の地名)に屋敷があり、京極氏はおなじく京極に屋敷があったため、各々そう呼ばれていますが、正式にはともに佐々木氏です。そして佐々木道誉は京極家に属しているので、この京極遺跡である上平寺城は、太平記のなかで佐々木道誉が東国からくる討幕軍を牽制するためにこもった城であることはまちがいありません。 曲輪から曲輪の間にはもとは堀切があった 堀をほり土塁をあげて虎口をつくっている 曲輪の周囲を土塁で囲んでいる ここが本丸に相当する曲輪... Read More | Share it now!
織田信長絶対絶命の危機、金ケ崎からの脱出
【福井県・敦賀市 2024.3.15】明日3月16日に北陸新幹線が延長開業され、東の金沢から福井・敦賀までの運行が始まります。しばらくの間は新幹線開通祝いの余波で敦賀も観光客で混むのではないかと懸念し、なんとかそれまでにと思いながら伸ばし伸ばしになっていたのですが、ぎりぎり前日になって青空にも恵まれることを確認しました。それでは出発します。 JR敦賀駅 JR敦賀駅前は、明日からのイベント準備中 開業初日もいろいろ新鮮な光景が見られるのでしょうが、開業前日もなかなか興味深いものが見れました。ちなみに駅構内でも以下のとおり... Read More | Share it now!
岐阜・可児市へ、明智城と美濃金山城をたずねる
【岐阜県・可児市 2024.3.13】今日も「青春18きっぷ」をつかっての見て歩きになるので、通常はなかなか行きがたい遠方まで足を伸ばすことにします。前々から見に行きたかった、岐阜県・可児市にのこる美濃金山城について電車の連絡などを調べていたところ、最寄り駅が名鉄の明智駅。もしやと思って地図をよくみると、駅の北と南に位置するものの、明智城跡がおどろくほど近いことに気づきました。駅からの距離も調べて、朝7時過ぎに自宅をでて、11時半に明智駅着。それから歩きはじめても二つの城をめぐることは十分可能です。楽しみが二倍になりました。 明智城跡 駅から南へ歩くと、明智城址がのこる丘陵が このあたりが大手門跡 左が東出丸曲輪、右が中ノ曲輪 中ノ曲輪の切岸... Read More | Share it now!
播磨の新龍アルプスをあるき龍野城へ
【兵庫県・たつの市 2024.3.9】アルプスALPSは、ラテン語のALPESを英語読みにしたもので語源をたどれば、雪をかぶった白い山の峰というような意味があるそうです。そもそもはフランス~スイス~オーストリア~イタリア~ドイツあたりを東西につらぬく山脈のことを指しますが、19世紀にイギリス人技師が信州につらなる山系をみて日本アルプスと呼んだのは白眉といっていいのではないでしょうか。ところがその後、ご当地アルプスがつぎつぎに名乗りをあげます。いまでは全国に50以上あるといわれていますが、その大半は「白い山の峰」とは縁遠いもので、なかには100~200m級の山々が連なるといったのどかなものさえあります。しかしアルプスと名乗るだけのことはあって(?)、どれもアップダウンをくりかえすためそこそこ登りごたえはあり、尾根歩きが主となるので景観も楽しめます。さらに里山が多く登山口までのアプローチが楽なのも魅力です。今日はその〇〇アルプスのなかで、兵庫県南西部たつの市の、標高458mの亀山を最高峰とし北から南へとつらなる新龍アルプスを歩きます。 祇園嶽 JR播磨新宮駅から新龍アルプスへ なぜ新龍アルプスと呼ばれるのか、なにやらイワクありげなと、あらかじめその名の由来をネットなどで調べてみましたがわかりませんでした。ところが現地にきて電車をおりたのが播磨新宮駅、ふと思いついて調べてみると、ここは新宮町。新宮町からスタートし、ゴールは龍野城のある龍野町。新から龍へ、案外そういう単純な理由かもしれません。 山道に入ります 最初のピークである祇園嶽をのぞむ 祇園嶽へは一旦ルートから外れ 荒々しい急坂をのぼる 山頂から... Read More | Share it now!
家康の生誕地・岡崎をたずねる
【愛知県・岡崎市 2024.3.4】「青春18きっぷ」が使える時期になったので、さっそく「普通列車でぎりぎり日帰り旅行できる土地」を精力的に訪ねてみます。今日は、昨年の大河ドラマ「どうする家康」で脚光をあびた、その生誕地である岡崎を訪ねます。ちなみに大阪市内から岡崎まで普通列車(快速、新快速はつかえる)で片道3時間半ですが、料金は往復で8000円のところが2510円ですませられます。 大樹寺 大樹寺山門 境内から見ると、山門、総門を通して岡崎城がみえる 大樹寺は家康の先祖である松平家の菩提寺です。家康は遺命により位牌はこの大樹寺に祀るよう言い残したそうで、3代将軍家光により大造営がおこなわれ、そのさい境内から山門を通して、その先の総門の真ん中に岡崎城がみえる粋な計らいをしたようです。 本堂... Read More | Share it now!
播磨の高砂市に生石神社をたずねる
【兵庫県・高砂市 2024.3.2】大阪からJR神戸線にのって加古川駅をすぎると宝殿駅につきます。なんとも立派な駅名ですが、ここから西へ2kmほどのところ岩山の中腹に、その岩盤をけずって造った(正確には造りかけた)石の宝殿があり、そこから宝殿駅と命名されたようです。10代崇神天皇の時代に疫病がはやり、その平癒と平安のため天皇の勅願によりこの石の宝殿を御神体として創建されたと伝わるのが生石神社です。生石神社は「おうしこじんじゃ」と読みます。なぜそう読むのかは不明です。不明というと、なぜここに石の宝殿が造られたのか、そもそもこの巨石は宝殿として削岩されたものなのか、そういったこともすべて不明です。 生石神社 中央に見えるのが生石神社、左には採石場 生石神社周辺には採石場がたくさんあります むかしから播磨には岩山が多くあることは知られていたようで、いま奈良や大阪にのこる古墳のなかに収められている石棺は、このあたりから巨石を切り出して運んだとの説もあります。 鳥居をくぐり急階段をのぼる... Read More | Share it now!
奈良公園で梅をみて鹿とあそぶ
【奈良市 2024.2.28】近鉄奈良駅から東へあるくとすぐに興福寺の堂宇が右手に見えてきます。それらをやり過ごしずっと東へあるくと春日大社にたどり着きますが、その「ずっと東へ」ひろがっているのが奈良公園です。なぜ街中にこれほど大きな公園があるのかといえば、もとは興福寺の境内であったということです。さらに言えば、春日大社はもとは興福寺を守るための鎮守社ですから、ここも境内みたいなものです。「境内都市」という表現があります。「宗教都市」にも近いのでしょうが、寺院や神社を中核として成立した都市のことをいい、門前町よりも規模がはるかに大きいだけでなく、政治的にもその地域を管轄している(支配している)のが特徴です。鎌倉から室町時代にかけて、大和一国の荘園の大半はこの興福寺が領していました。大和の国には朝廷の権威も武家の威力も及ばず、すなわち興福寺の権勢がつよすぎて朝廷も幕府も守護を配することができなかったということになります。 もっとも今日はそんな興福寺の歴史探訪ではなく、たんに奈良公園で梅を観て、鹿と遊ぶつもりで電車に乗りました。 猿沢池から興福寺 猿沢池から興福寺の五重塔をみる 興福寺へは、南側の猿沢池からアプローチするのがおすすめです。JR奈良駅からだとまっすぐ東へ歩くとここにたどり着きます。近鉄奈良駅からの場合はまっすぐ東へ行かず、いったん目のまえの商店街を南へすすみ、アーケードを抜けたところで左折するとここに出てきます。ところでこの撮影をした場所の背中には、抜群のロケーションで「スタバ」があります。外国人がコーヒーを飲みながらこの光景を眺めているのに比して、日本人がパソコンやスマホを見ながらコーヒーを飲んでいる光景には笑ってしまいました。 猿沢池をまわって 猿沢池を時計回りとは逆にまわると、この場所にでます。この階段をあがって興福寺にいたるのがベストな選択です。(あくまで個人的な感想です)現在、五重塔は修復中で下層部分は足場が組まれているためこれより先の写真は撮っていません。また興福寺については以前にもブログに載せているので、今回は省きます。 奈良公園 奈良公園にて... Read More | Share it now!
熊尾寺山に登った感想は、なんだかなあ
【和歌山県・海南市 2024.2.27】和歌山県に関していえば、大阪市内を起点にしてべつだての特急料金を払わずに、しかも気楽に日帰りで旅行できるのは海南市あたりまでと考えています。大阪府下を南下して府県境をこえるとすぐに和歌山市。ここまではよいとして、ここから先が交通の便が極端にわるくなります。それでも海南駅は、きのくに線の普通電車で4駅目ですので、乗り継ぎをうまくすれば大阪市内から2時間くらいで到着します。その海南駅からさらにバスに乗り換えてとなると往復に一日の大半を取られることになりますが、ガイドブックを見ていると、ここから歩いて登山口までゆける山がありました。海南駅から禅林寺、そこから集落をぬけると登山口、鏡石山から熊尾寺山へと登り、大野城跡を探訪して下山後は藤白神社に立ち寄って海南駅にもどる、ガイドブックによるとこれで5時間30分、内容豊富な充実の山歩きが楽しめると期待していたのですが。 禅林寺から登山口へ 禅林寺に到着 禅林寺境内から山並みを遠望する 集落を抜けて登山口へ... Read More | Share it now!
今城塚古墳・日本でただ一つ(?)みんなが入れる天皇陵古墳
【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!