神社・仏閣,城郭・史跡,新潟

【新潟県・上越市 2023.10.31】「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。 林泉寺 春日山城から移築したとつたわる惣門 山門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都市 2023.10.12】今年は真言宗の立教開宗1200年にあたるそうで、京都の東寺において、すべての伽藍をひらいてすべての仏像、仏具を一度に見せてくれるという一大イベントがあります。タイトルはそのまんま「東寺のすべて」。(立教開宗とは、その宗派の教義ができ上がった時。具体的に言えば、開祖すなわち真言宗の場合なら空海上人が真言密教の教えをひろく説くようになった時を指します)期間は10月9日から31日までの、わずか3週間ほど。行き逃さないよう早めに行っておきます。 東寺とは 南大門から金堂をのぞき見る 8世紀末、遷都にともない平安京の町づくりを始めるにあたって、その鎮護のため羅生門をはさんで東と西に、それぞれ東寺、西寺がつくられました。両寺は国の管理を受ける代わりに国から資金面での全面的な援助をうけられる官寺ですが、823年に当時の嵯峨天皇は、このうち東寺を空海上人に下賜し、そのためこの時から東寺は真言密教の根本道場となります。(西寺については、はっきりした記録が残っておらず、また羅生門とともに跡形もなく消滅しているため、ここでは触れません) 総合受付のある慶賀門(東門)に回る 根本道場(ねもとどうじょう)とはその宗派の総本山のことです。真言宗といえば、高野山の金剛峯寺が有名で、こちらも根本道場ですが、東寺真言宗と高野山真言宗の違いがあります。また空海上人が高野山を開山したのは816年ですから、金剛峯寺は山中に造ったことから考えても純粋に修験のため、そのあとで下賜された東寺は平安京にあり広報の意味があったのではないかと、自分なりに解釈しています。(あくまで個人的な解釈です) 「東寺のすべて」の広告 寺内にあった境内案内図より抜粋 境内伽藍を見てまわる 慶賀門を入ると、(この辺りはいつも拝観無料) 食堂(じきどう) 金堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・御所市 2023.9.25】「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、今年は彼岸を過ぎてもまだ十分に暑い! たしか昨日も日本のどこかで猛暑日のところがあったはずで、そこまでは行かないにしても、今日も大阪、奈良、京都あたりは最高気温が堂々と32度とか33度と言っています。過去何度もこの時期になると、奈良の古道街道をあるいて彼岸花をみてきましたが、こんなに気温が高かったのは記憶にありません。それでも深緑の中、あるいは黄色く実った稲穂と彼岸花の真紅が共演する光景は、一年のうち極々限られた時期にしか見られない眼福とも呼べるもので、暑いのは覚悟のうえで出掛けてみることにしました。 JR御所駅から葛城古道へ 葛城古道は、葛城山から金剛山にかけて東側の山麓を南北に、古寺古社をむすびながらつづく旧道です。下に御所市(ごせし)のHPから借用してきた地図を添付しましたが、この地図は横向きに置かれたもので、右が北になります。今回は地図の右下にあるJR御所駅からスタートし、途中で葛城古道に合流、左へ(すなわち南へ)と歩を進めました。 御所市の公式HPにある市内観光・散策用マップより抜粋 葛城山に登る際はいつも右折しますが、今日は直進... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良市・2023.9.12】東大寺は若草山麓にあった金鐘寺が起源で、この金鐘寺は奈良時代に国分寺・国分尼寺建立の詔が出されると、大和国の国分寺のポジションを与えられます。大和国の国分寺であることは、すなわち全国の国分寺を代表する総本山的な地位も与えられたのでしょう。寺名も金光明寺(金光明四天王護国之寺)と寺名を変えます。やがて聖武天皇は大仏建立の詔を発します。金光明寺の本尊として大仏の建立をはじめたのか、大仏建立が先でその地が金光明寺に隣接していたのかは不明ですが、大仏建立の過程でもともとあった金光明寺の名は消え、東大寺の名がこのころから記録されています。奈良仏教のなかで二大勢力といえば、法相宗と華厳宗ですが、興福寺が法相宗の総本山であるのに対して、東大寺は華厳宗の総本山とされました。仏教勢力はかつての支配者にとっては目の上のコブ。白河天皇が「鴨川の流れと、サイコロの目と、山法師=比叡山の仏徒は思いのままに扱えない」と嘆いたという逸話は有名ですが、奈良の東大寺(興福寺も)の仏徒もなかなか厄介な強者だったようです。平安時代末期に権力を握った平清盛は、堪忍袋の緒がきれたのか自分の五男・重衡に軍勢をあたえ東大寺(と興福寺)を壊滅させます。奈良時代に建立した際にはその伽藍のあまりの規模に建設費がかさみ国の財政を疲弊させるほどであったにもかかわらず、それでも朝廷主導でさっそく再建がはじめられます。これほどの寺は日本の国にとって、焼失しましたではすまされないものだったのでしょう、大仏は平安時代が終わる直前に、大仏殿など諸堂は鎌倉時代初期に再建されます。そして次に消失するのは戦国時代の真っ只中、松永久秀vs三好三人衆&筒井順慶連合の戦いにおいてであり、今日はこの戦いのことをもっと知りたくて、朝早くから出向いてきた次第です。 南大門から中門へ 奈良といえば鹿ですが、参道にもいるいる 南大門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,奈良

【大阪府・八尾市~奈良県・平群町、王寺町 2023.8.26】生駒山系は大阪府の東端を、奈良県との境界をなすように北から南へ伸びています。山系の中程には、古くは楠木正成が軍事拠点として利用し、のちに三好長慶が本格的に築城した飯盛山城があります。生駒山系の南の端にあるのが高安山で、ここにはずっと時代をさかのぼり、大和朝廷が都を守るためにその山上に築いた高安城がありました。さらに高安山から東へ、すなわち奈良側へ山中をすすむと信貴山に達します。この信貴山には、三好家の祐筆(書記のような役)をつとめながら権勢を拡大し、ついには三好家(主君)に取って代わった松永久秀が築いた名城・信貴山城がありました。 今日は大阪側から高安山にのぼり、高安城、信貴山城と探索して、奈良県の王寺町に下山しようと思います。 まずは高安山へ 近鉄信貴山口駅からスタートします 高安山(中央奥)へ、民家がたつ生活道路をあるく 20分ほどあるくと山道が始まります 信貴山口駅は大阪の中心地から生駒山へ向かった場合の終点になりますが、同時に高安山の山頂まであがるケーブルカーの麓駅でもあります。すなわちいま歩いている道は、ケーブルの軌道の横を並行していることになります。 竹林の下、岩が露出する道をすすむ 樹林の隙間から大阪湾まで見える 高安山の山容が垣間見える 開運橋の下に出合う 上がって開運橋を渡る 左の小高いところが高安山の山頂(何もない) 高安城址 信貴山に向かって東へすすみます 高安城倉庫址 奥へ奥へと倉庫址がつづく この高安城ですが、居住していた跡も、防御のための堀や土塁もみつかっていません。戦うための設備ではなく、いざという時のために、この山上の倉庫群に塩や食料を保管していたようです。 信貴山城址 さらに東、信貴山へ向かうと、 やがて信貴山城・松永屋敷跡が道横に見えます 下に降りて屋敷跡の曲輪(右上)を見上げる 堀切で曲輪を分割して屋敷を建てていたことがわかる 現地にあった案内板より 現地にあった信貴山城の見取り図をみると、松永久秀がいかにも細心な、むしろ臆病なのかと思えるほど巧妙に曲輪(くるわ)配置を考えていることがわかります。実際、信長が嫡男(跡取り息子)の信忠に命じて錚々たる勇将、智将とともに攻め立てさせますが、難攻不落。最後は、力攻めではなく松永方の家臣を寝返らせ、信長方の兵を城内へ隠密裏に侵入させることで落城させています。 左の大きな曲輪は立入屋敷跡 立入屋敷跡 雄嶽、雌嶽 空鉢御法堂より二上山、大和葛城山をのぞむ 雄嶽が信貴山の北峰であり山頂にあたります。信貴山の東懐(奈良側)には朝護孫子寺というたいへんユニークな御寺がありますが、その御堂のひとつです。 ところで信貴山城があった当時、この山頂には4層の天守が建てられていたそうです。これだけ見晴らしのよい山頂ですから物見目的の天守が必要なはずがありません。松永久秀は権力の象徴として、あえて天守を建てたのだと考えられます。そしてこの天守が、その後の城では定番となる「天守閣」のモデルになります。 山頂の御堂から本堂のある伽藍へくだる 正面の小高いところが雌嶽(南峰) 雌嶽入口にあった案内板より 朝護孫子寺伽藍まで下りてきました 朝護孫子寺から信貴山・雄嶽をふりかえる 朝護孫子寺は昨年秋にじっくり見てまわっているので今回は素通りします。たいへんユニークな御寺ですので、興味のある方は、https://yamasan-aruku.com/aruku-64/ 王寺へ もとケーブルカーの軌道があった坂道を下ります 平地に出ると、やがて大和川を渡ります 達磨寺 達磨寺 聖徳太子の愛犬・雪丸の像 聖徳太子が路傍に倒れた老人を助けたところ、その老人こそが達磨大師だったという逸話があります。その現場がここだったということで、ゆかりの寺が建立されています。境内には聖徳太子の愛犬・雪丸の像もあります。雪丸は人の話を理解できるだけでなく、御経も読めたとか... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,奈良

【奈良県・天理市 2023.8.19】今日は奈良県北中部にある龍王山を登りに行きます。この龍王山は... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・出石市 2023.7.24】 但馬国の守護はながらく山名氏が務めていました。織田信長の西国平定にともない、山名祐豊はその居城をいったん捨て退去しますが、すぐに今の出石町中心地にある有子山の山頂にあらたな城を築きます。さらに山麓に居館を築くのですが、信長の命をうけた秀吉(この当時は羽柴秀吉)の軍により攻め滅ぼされます。時がうつり秀吉の時代になると、その家臣である小出吉政が但馬藩主となって入城します。この小出吉政ですが、なかなか世渡りがうまく、関ケ原の戦いにおいては自身は西軍につく一方、弟・秀家は東軍について、戦況が東軍有利とみるや吉政は戦うのをひかえ、秀家は勇躍します。弟・秀家が東軍で働いただけでなく、兄・吉政が西軍で「働かなかった」功もくわえ、小出氏はその領地を安堵されます。吉政の子・吉英はこれも情勢をよむのに長けており、徳川家康にあえて恭順を示すため、有子山上の本体となる城郭を破却し、山麓の居館であった部分を拡張し、天守閣をもたない、いかにも平和な時代の居館然とした城を築きます。これがいまの出石城であり、山上にあったものがいまは有子山城址と呼ばれているものです。出石城の歴史においてはもうひとつ特筆しておくことがあります。小出氏はのちに世継ぎがいなかったために改易となりますが、そのあと仙石政明が信濃上田藩から転封されてあらたな城主となります。信濃上田城といえば、もとは真田家がきずいた名城ですが、いまは城について語るのではなく、信濃地方の名産である蕎麦について。仙石政明は信濃上田藩主時代に食した、その蕎麦の味を忘れがたかったのか、蕎麦職人まで連れて但馬に移り、この地でソバの栽培からはじめて、ついには蕎麦を特産品にまで育て上げます。それゆえ今回は出石城を訪ねるだけでなく、出石蕎麦も食べて、と企画しています。 出石城 出石城の内堀では出石焼の風鈴が奏でています 登城橋をわたり登城門へ 振り返る... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都府・向日市~長岡京市 2023.7.15】久しぶりに京都の寺社を見に行こうと思ったものの、よくよく考えてみるとこの日は3連休のはじまりで、しかも今日から祇園祭がいよいよ佳境にはいるため、まさに言語を絶する人出が予想されます。さらに天気予報によると京都市内の予想最高気温は36度。猛暑のもとで人でごった返すなか寺社見物をたのしむ場面はどうしてもイメージできません。そこで大阪を基点にいうと、京都市の手前にあたる向日市、長岡京市あたりでめぼしい寺社はないかと調べてみたところ、いくつか見つかりました。なかでも長岡京市にある光明寺は紅葉で有名なところですが、紅葉が美しいということは青もみじも美しいはずです。ありがたいことに(というと同じ時に京都市内を散策する人には申し訳ないのですが)、京都盆地から南に外れているためかこの一帯の予想最高気温は33度。正午過ぎまでに引き上げるようにすれば、もっとも暑い時間帯でも30度そこらとなり、これなら最後まで楽しめるレベルでいられます。 向日神社 舞楽殿から拝殿(奥) 拝殿 本社拝殿と祖霊社本殿をつなぐ渡廊下の下をくぐる 向日神社はそもそもは向神社であったようで、社伝によると718年の創建とのことですからずいぶん歴史の古い社です。護火および祈雨の神である火雷大神、五穀豊穣の向日神、さらに神武天皇とその御妃の御母である玉依姫命(玉櫛姫)と、神話の時代の神様を祀っています。 急階段を下る 渡廊下をくぐって本社の後方に抜けると、木立越しに街並みを見下すことになり、この神社が小丘の上にあることがわかります。高さでいうと100mぐらいある急階段をくだると、住宅地に出ますが、そこから長岡京市に変わります。 乙訓寺 表門 徒歩20分ほどで乙訓寺(おとくにでら)に着きます。乙訓寺は推古天皇の勅願により、聖徳太子が開祖となって建立したと伝えられていますが、とにかく関西には「聖徳太子開祖」の寺はあまりに多いので、伝承の域をでません。しかし史実として確実なことは、早良親王はここに幽閉され配流の途上でなくなり、怨霊として祟り神になった事実です。 鐘楼と本殿(奥) 早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の弟であり、次の天皇候補すなわち皇太子でした。桓武天皇は平城京における仏教勢力の過大な影響を憂慮して、(平安京のまえに)長岡京へ遷都を計画します。その実務をおこなう責任者が早良親王と藤原氏の実力者・藤原種継ですが、その種継が暗殺されたことから早良親王は首謀者として拘束されることになります。その拘束されていたのが、この乙訓寺です。早良親王は絶食して自分の無実を訴えますが、聞き入れられることなく、淡路島へ配流となり、その途上でまさに憤死します。 本堂 ところが早良親王の死からのち、桓武天皇の身辺で次々に凶事がおこり、これら不幸不吉な出来事が続発するのは早良親王の祟りだと噂されるようになります。そもそも祟りとか怨霊を恐れるのは、無実の相手を陥れた側のうしろめたい気持ちから出てくるもので、その意味では早良親王は無実で、桓武天皇の側になんらかの意図的なものがあったのでしょうか。早良親王は崇道天皇という追尊の位をあたえられ、さらに怨霊を鎮めるため京都や奈良にある崇道神社に祀られています。(すなわち崇道神社はすべて怨霊神社です) 光明寺 乙訓寺から徒歩15分ほどで光明寺に着きます。光明寺は、平家物語にも出てくる源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が出家してのちに創建した寺です。平家没落の起点となった一ノ谷の戦い(いまの神戸市西側)に勝利した源氏方は、周辺の掃討をすべく個々に見回りをおこなっていました。そのとき熊谷直実は須磨の海岸で逃げ遅れた平家の将を見つけます。勝利の勢いそのままに直実が相手を組み伏せると、それは見た目もうつくしい若者で、いかにも高位のものと思われます(実は平清盛の甥にあたる平敦盛でした)。その首を取れば大殊勲です。しかし相手は自分の息子と同年くらいの若者、しかもその目は涼しげで怒りも恨みもありません。しかも直実の躊躇を見て取ったのか、若者(敦盛)はためらわず自分の首をとって手柄にするよう勧めます。直実はあらゆる感情を殺してそのときは敦盛の首を取るのですが、この事件は直実の心に大きな影を落とすことになり、やがて直実は出家して高野山に上がります。のちに直実は法然上人に出合い、その弟子となり、この光明寺を開山することになります。 総門からいきなり続くゆるやかな階段 いったん平坦部をあるくと次の階段が見えてきます 階段を上りきるとまっすぐ御影堂(本堂にあたる)へ 総門から御影堂への道は、絵画のように美しいもので、この道を歩くだけでもわざわざ来る甲斐があります。階段の傾斜が緩やかなゆえか、風景に厳かさはないのですが、優しさがあります。それゆえ総門をくぐり御影堂にたどり着くまでに、ゆっくり穏やかに仏の慈愛に包み込まれてゆくような感覚をおぼえます。 法然上人像と御影堂 御影堂から阿弥陀堂をみる 阿弥陀堂 阿弥陀堂の奥に法然上人御廟や納骨堂がありますが、一般参拝者はこれより先には立ち入れません。それでも御影堂は中まで入らせてもらえたので良しとしましょう。 御影堂から一段低くなった伽藍へ下る 勅使門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・高市郡明日香村 2023.7.2】聖徳太子について興味をもてば、その太子が活躍したのが飛鳥時代ですから当然のように明日香村がゆかりの地として注目されます。明日香村は村全体が歴史的風土保存地区に指定されており、たしかに大きなビルや目立つ看板などは一切なく、いつ訪れても穏やかで落ち着いた散策を楽しめます。なお「明日香村」の表記ですが、もとは飛鳥村であったものが昭和の時代に隣村との合併があり、そのさいに変更されたようです。 今回は歩いたポイントを示す地図を添付しました。 野口王墓古墳(天武・持統天皇陵) 天武・持統天皇陵は八角形墳 当初は5段に築成されていたと考えられています 橘寺、川原寺へ 亀石 何の目的で造られたのか、完成なのか未完なのか、謎につつまれた巨石。たしかに亀と言われれば亀のようですが、なにかの造りかけのようにも見えます。 ところでここを訪れるといつも思うのですが、後方の垣根をもう少し高くして背後の民家が見えないようにすれば良いのでは。民家の住人もきっと迷惑しているはずです。 橘寺 後方に見えるのが橘寺、一説では聖徳太子の生まれた地とも言われています。ここは昨年春に拝観したので今回は遠望するに留めます。(拝観料400円要) 向かいに、当時は大寺院だった川原寺の跡があります 川原寺跡から橘寺を遠望する 岡寺(龍蓋寺) 岡寺・仁王門 天武天皇の子息で若くして亡くなった草壁皇子がくらしていた、岡宮跡に建立されたため岡寺と通称されますが、本来の寺名は龍蓋寺。7世紀末につくられたとの記録があるので、飛鳥時代の末期になります。 仁王門 岡寺は「花の寺」を自称しているようですが、下の画像のようになにやら「やり過ぎ感」が否めません。 手水 奥の院への道 開山堂(中央)、本堂(奥) 本堂(内の如意輪観音坐像は見応えあり) あるがままでも大変魅力のある寺院です。 岡寺境内からの眺望 飛鳥宮跡 この一帯に天皇の宮や政事を執行する建物があり 大和朝廷の心臓部であったことになります 酒船石遺跡 亀形石造物 これは祭祀のためにつくられた導水設備と考えられています。斉明天皇の時代につくられたとのことなので、7世紀中頃、飛鳥時代の真っ只中ということになります。注目すべきは右端の丸い石造物。これはあきらかに亀形で、やはり先に見た亀石と何らかの関連があるのでしょうか。(あるいはこの亀形石造物ゆえになんでもかんでも亀と連想しているだけで、亀石自体は亀とは関係ないのかもしれません) 酒船石 こちらは酒船石との名も付いており、酒造につかったものではないかと推測はされていますが、確証はされていません。 飛鳥寺 裏側(北側)からアプローチ 本堂にある飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は日本最古の仏像 蘇我入鹿の首塚... Read More | Share it now!