【香川県・琴平町 2024.1.9】香川県の西寄りに琴平山はあります。香川県内でもっとも高い峰をもつ北側が大麻山(おおさやま)、そこからなだらかに続く南側を象頭山と称し、金刀比羅宮が鎮座しています。金刀比羅宮の本宮に祀られるのは大物主神(おおものぬしのかみ)。日本書紀に登場する神様で、本来の名は大国主命(おおくにぬしのみこと)、出雲に瑞穂国をつくり出雲大社に祀られる神様ですが、また因幡の白兎をたすけた話でも有名で、その話の中では大国様(だいこくさま)として紹介されています。(大黒様は七福神でまったく別の神様です)どうやら大国主命は出雲からはなれ他の地へ行幸したときには大物主神と称されたのか、大和でも三輪山で大物主神として祀られていますが、ここ讃岐でも昔は瀬戸内海にうかぶ島であった琴平山に行宮(あんぐう:神様の仮の居所、頓宮ともいう)を構えたことからそこに金刀比羅宮を建立し大物主神として祀られることになります。 小中高校時代は岡山県の瀬戸内海側に住んでいたため、そのころにはよく親に連れられ、あるいは同級生と遠足気分でこの金刀比羅宮はたびたび訪れましたが、今回数十年ぶりに門前町から785段の石段を上がって参詣したいと思います。 参道 金刀比羅宮北神苑にたつ高灯篭 土産物屋や旅館が立ち並ぶ 名物の石段登りがスタート 初詣が終わり、店の半分は閉まっていた 大門... Read More | Share it now!
南北朝時代から関ヶ原後まで生き抜いた手取城
【和歌山県・日高郡日高川町 2024.1.1】 2024年最初の見て歩きはどこにしようかといろいろ考えたのですが、有名な神社仏閣は初詣でごった返しているであろうし、天守がのこる城や歴史資料館の類は元旦ということで休館していると思われるし、それならば山登りか山城しかない、加えて年始に尋常でない人出のところが近所にあると交通機関が混雑するのでそれらを避け、和歌山県の御坊市の東、日高郡日高川町にある手取城を訪ねてみることにしました。 吉田八幡神社 神社入口 吉田八幡神社 JR御坊駅からまずは道成寺に行くため歩いていたところ、20分ほどで神社の入り口が見えました。吉田八幡神社とあります。今年の初詣はここにしようと思います。ところで初詣に行くなら神社か寺かどちらにすべきか。今年一年の安全、健康、幸運などなどを「神」に祈るのですから神社だと思っていたのですが、調べてみたところどちらでも良いそうです。ただ、これからゆく道成寺は天台宗の寺で、先祖の菩提寺でもなければもちろん自身が天台宗の信徒でもなく、そこへ元旦の朝から10円の賽銭で祈願にゆくのも遠慮があります。その点、八幡神にとくべつ信仰があるわけではありませんが、神道そのものが万物に神は宿るといっているのですから、どこの神社でもウェルカムしてくれるでしょう。 道成寺 道成寺・石段から仁王門 この石段には仕掛けがあって、階段脇の土手は上に行くほど幅広になるよう造られており、そのため遠近法を逆手にとった視覚効果により階段の勾配がゆるやかに見え、訪れた人をこころよく迎えてくれているそうです。たしかに緩やかにみえますが、現実にこの階段は寺のものとしてはずいぶん緩やかです—「いっそう」緩やかに見えるということにして、ありがたく受け止めたいと思います。 仁王門 本堂 本堂(左)、三重塔(右) この寺には「安珍と清姫の悲恋物語」が伝承として残っています。大筋は、旅の途中に一夜の宿をもとめた僧・安珍に清姫が惚れて恋狂いしたあげく、身を引く安珍に裏切られたとおもった清姫は大蛇となって追いまわし、寺の鐘のなかにかくれた安珍を焼き殺したというのです。それにしてもこの話、伝説であったにしても「悲恋」ではなくスリラーかオカルトの類ではないですか。 清姫でも安珍でもなく、本尊の千手観音に賽銭10円とともに手を合わせておきました。 手取城へ 日高川をわたり手取城へ向かいます ミカンではなく、甘夏 いかにも山城が似合う田園風景 ここから手取城址登り口となっています 手取城案内板より 案内板によると、まっすぐに歩いてゆけば次々に見どころに出くわすということのようです。さっそく登ってみます。 手取城 南北朝時代のころ、大和国の南部から日高川上流域を支配していた玉置氏がここに城を築き、その後もこの城を居城として支配を続けたようです。秀吉の紀州侵攻にさいして、ここよりも西方いまの御坊駅近くに城をかまえその一帯を支配していた湯川氏は秀吉に対抗しますが、玉置氏は秀吉に従います。そのため両氏は敵対することになり、より勢力の大きい湯川氏が玉置氏を城から追いやり、秀吉と交戦状態に入ります。秀吉方は地の利をいかして抵抗する湯川軍にてこずり和睦します。そして領地を安堵するのですが、その翌年に湯川氏の当主は急死(病死とされていますが、秀吉方の手による毒殺説が有力です)して領地は押収されます。一方の、秀吉方に付いたことから湯川氏に追いやられた玉置氏はこの手取城に返り咲いたということです。 道のりの前半はこんな林道を歩きます ここから山城の遺構が点在します さっそく目に入る堀の跡 竪堀の跡 溜池は草だらけで見えません 東の丸に着きました... Read More | Share it now!
中将姫の雲雀山から明恵上人の白上山へ
【和歌山県・有田市~湯浅町... Read More | Share it now!
観音寺城のどこが革新的なのだろうか
【滋賀県・近江八幡市 2023.12.21】観音寺城は佐々木六角氏によって造られた、通説では日本ではじめて本格的な石垣を組み入れた山城です。三好長慶が河内に築いた飯盛山城がさきに石垣を組み入れているとの説もありますが、その築城時期を比較する以前に、遺構としてのこる石垣群を見比べるならば、観音寺城を嚆矢とすべきと思ってしまいます。飯盛山城がのこる大阪府の住民でありながら地元びいきを抜きにして観音寺城に軍配を上げたくなるのですから、ここは「観音寺城こそ日本最初の石垣の城」ということにしてしまいましょう。 さてその観音寺城、歴史の上で2度の大きな戦いを経験しています。そしてそのたびに結構あっけなく開城(落城)しています。一度目は応仁の乱のさい、二度目は織田信長との戦いのさい。応仁の乱の時代には、観音寺城も巨大な要塞のようなもので石垣は取り入れていなかったでしょうから、いま見る姿は戦国時代の信長に攻城されたときのものと言えます。 繖山(観音寺山)に登る JR安土駅前の信長像、前方に繖山(きぬがさやま) 繖山登山口はたくさんありますが、そのひとつ 「石仏の道」を歩いています このあたりの岩石も石垣づくりに使われた? 繖山の山頂をのぞむ 山頂への最後の登りがきつい 手前から安土城跡、西の湖、後方に琵琶湖と比良山系 山頂からの眺望はよくありません 観音寺城・本丸跡 観音正寺にあった観音寺城縄張図より この地図でいうと、地図内には入りきらない上方(「近江風土記の丘へ」の文字の上)あたりに山頂があります。その山頂から下って、まず本丸から見て回ります。 本丸へつづく大階段 観音寺城のすぐ近くに織田信長が築いた安土城があります。(山頂につく直前に眼下を見わたした画像の、一番手前に安土城跡があります)信長は当然この観音寺城を目的は何であれ自分の目で見たはずです。安土城の顕著な特徴のひとつである石の大階段、どうやら信長はこの観音寺城の大階段を見て「めっちゃええやんか、こいつはもろとけ」と言って、安土城に採用したに違いありません。ただし信長が大阪弁を使うはずはないので、そこは尾張言葉かなにかで。 本丸 本丸にのこる石垣 虎口... Read More | Share it now!
小早川隆景が統治の要として築いた三原城
【広島県・三原市 2023.12.14】秀吉が天下人となってから指名した五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景の五人です。毛利輝元はもちろんのこと、小早川隆景も毛利家の重臣であり輝元の叔父です。そうしてみると、秀吉みずからのこの人選はなんだかイビツに思えてきます。そもそもの発端は、秀吉が毛利氏に属する清水宗治がまもる備中高松城を水攻めにした際、その最中に秀吉の主君である織田信長が本能寺で討たれますが、そのとき秀吉と毛利軍の頭をつとめる小早川隆景のあいだで急転直下和睦がむすばれ、清水宗治はみずから切腹、こうして秀吉はメンツをつぶされることもなく、さらに毛利家に追撃されることもなく疾風迅雷の勢いで畿内へとって返し(中国大返し)、鎧袖一触のもとに逆臣・明智光秀を討ち取ってしまいます(山崎の戦い)。そこから秀吉は一気に天下人へと駆け上がるのですが、このあたりの経緯があまりにも出来過ぎており、筋書きがあったのではないか、さらに突っ込んで言えば秀吉と隆景とのあいだに密約があったのではないかとさえ考えてしまいます。秀吉が天下統一に邁進するとともに、毛利家そのなかでも小早川隆景にたいする秀吉からの優遇は誰の目からもあきらかです。四国平定がすむと伊予一国をあたえ、九州平定を終えると筑前、筑後、さらに肥前の一部のあわせて37万石を加増しようとします。 三原城 三原城の天守台へ上がるには、駅の構内を抜ける 駅の建物から出ると、まずこの石垣が目にとび込みます 天守台の前方まで歩いてふり返ると、後方に駅のホームが 三原城は港湾に接してもいれば、海水を引きこんだ水路で周囲をかこみ、平城とも海城ともいえる、しかもずいぶんと大きな巨城だったようです。そのため終戦後市街地の整備をする際にも、三原城の遺構をすべて残すとなると市街地化の整備が進まず、かと言って歴史保存のためにいくらかは残さねばならず、結果として天守台だけをのこし、さらにその天守台も一部は駅のホームの下にのこる、という大胆な案を採用したようです。 街中にあった当時の三原城の縄張と、現在を重ねた図 そこでこのような不思議な光景が出現します... Read More | Share it now!
北条早雲は本名・伊勢宗瑞、備中国の高越城に生まれる
【岡山県・井原市 2023.12.13】戦国時代に関東の覇者として名を馳せたのは北条氏ですが、そもそもは新九郎なる素浪人が、あの手この手で小田原城を奪取し一代で相模国の領主になったのが始まりと伝えられてきました。ところがその後の調査研究で、この新九郎、浪人どころか、室町幕府将軍の執政を担当する名門・伊勢家の直系で、本人も応仁の乱ののち9代目将軍となる足利義尚の申次衆(将軍御所にて、将軍本人へ諸事を取り次ぐ役)として取り立てられていたようです。小田原城を奪取するのも、そもそもは相模国内での内紛が収まらないようなので手配してくるよう、将軍直々か管領か、ともかく幕府のトップから指名があり、幕府の仕事として赴いたようです。そこからは何があったのか、手練手管か権謀術数か、寝技裏技もつかって城ひとつを奪取してしまい、ついには相模国の領主におさまります。本人のために弁護しておきますと、領主となってからは、他国が常識的に六公四民、よくて五公五民で年貢を徴収していたのにたいして、なんと四公六民という民が暮らしよいよう配慮した税制にあらためたため、自国では百姓は歓喜し、近隣国からは相模国に併呑されることを期待されるほどの人気ぶりだったようです。ところで新九郎はその後出家して宗瑞と名乗りますが、苗字はずっと伊勢のまま。北条と名乗るのは息子の氏綱の代からで、また戒名が早雲庵宗瑞だったことから、後々に北条早雲として伝えられてきたようです。※北条早雲の出自や生誕地については異説があります。 さて今日は、その北条早雲が生まれたとされる備中(岡山県西部)、後月郡荏原(しつきぐんえばら:いまの井原市江原)にある高越城を訪ねてみます。 高越城へ 荏原駅前にある早雲の像... Read More | Share it now!
応仁の乱ゆかりの地を歩く VOL.2
【京都市内 2023.12.6】2週間前に、上御霊神社と西陣を中心に応仁の乱ゆかりの地を歩きましたが、今日はその続きということで、以下の予定で歩いてみます。1)華開院(日野富子の御墓がある、ただし未公開)2)等持院(足利家の菩提寺、開祖は足利尊氏)3)龍安寺(東軍の首領であった細川勝元により建立)4)船岡山城址(西軍の山名氏が急きょ築きたてこもった激戦地のひとつ)5)大報恩寺(応仁の乱の戦火からのがれ洛中で唯一のこった仏閣、堂内に刀槍による傷跡がのこる)なお歩いているうちに、寄り道することもあるかもしれませんが、それもまた楽しみのひとつと言うことで。 華開院から等持院 JR円町駅から徒歩5分ほどのところに華開院(けかいいん)はあります。御深草天皇の勅願で建立された皇室ゆかりの寺で、公家にまじって足利将軍家の、たとえば日野富子の墓もあるそうです。皇室ゆかりの寺となると非公開のところが間々あるのですが、ここも案の定「特別公開日なし」の非公開。それがわかっていたゆえか、門前に立って入れないことを確認しただけで納得してしまい、写真を撮るのをすっかり忘れていました。ゆえに写真はありません。 等持院... Read More | Share it now!
南北朝分裂の発端となった笠置山の戦い
【京都府・相楽郡笠置町~南山城村 2023.12.2】朝廷が持明院統(のちの北朝)と大覚寺統(のちの南朝)として争い南北朝時代の発端となったのは、御嵯峨天皇の皇子である後深草天皇(89代)のときに、父母の寵愛をうけていた弟がわずか11歳で譲位を受け亀山天皇(90代)となったことによります。後深草天皇を推す持明院統にとってはおもしろいはずがなく、ここで争いの火がくすぶりかけるのですが、このときは第三者的な立場にいた幕府からの仲裁もあって、持明院統と大覚寺統が交代で皇位を継承することに決まります。90代91代は大覚寺統、92代93代は持明院統、94代は大覚寺統、95代は持明院統と、順当に継がれてゆくのですが、96代の後醍醐天皇は、幕府すなわち武人が政(まつりごと)に介入し実質的に土地と民を支配する国のあり方に反撥し、天皇が中心になって国をおさめる「天皇親政」に切り替えようと画策をはじめます。そうなると幕府そのものが目障りになり、必然的に打倒幕府を企てるようになります。最初は天皇の側近が幕府により捕縛、処罰されて火が消えかけたかに見えたのですが、後醍醐天皇はこのころから執念の塊のようなひとで、ふたたび討幕運動をくわだてます。それがまた露見して幕府が掃討のため動きはじめると、変装したニセ後醍醐を比叡山に逃げさせて幕府の目をあざむきつつ、自身はいまの京都府の南端にある笠置山にあがり、そこで近隣の武人や土豪に宣下して武装蜂起します。このとき笠置山に集まった兵はおよそ3千、対する幕府軍は7万5千、圧倒的な兵力差にもかかわらず堅固な笠置山で1か月ものあいだ抵抗をつづけますが、ついに落城。この討幕戦の責任をとわれ後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となります。ところでこの戦で時代の表舞台に登場する楠木正成ですが、笠置山から脱出してさらに河内の赤坂城(いまの下赤坂城)で抗戦をつづけたという説と、はじめから赤坂城にいて笠置山から落ち延びてきた護良親王(もりよししんのう... Read More | Share it now!
楠木七城 / 今日は嶽山城、金胎寺城、烏帽子形城を歩く
【大阪府・富田林市~河内長野市 2023.11.29】楠木七城について書くまえに、楠木正成について説明しておきます。いまの時代、「くすのきまさなり」と読んでしまう人も多いのかもしれません。それどころか「くすのきまさしげ」と読むと説明しても「誰やそれ?」と返されるかもしれません。鎌倉時代末期、その鎌倉幕府を倒して天皇がみずから政治をおこなう、いわゆる「天皇親政」の時代の幕をあけた中心人物が後醍醐天皇であり、それを補佐した(というよりも実行部隊として働いた)のが、足利尊氏、新田義貞、そして楠木正成の3名です。この後醍醐天皇による親政は「建武の新政」とか「建武の中興」と呼ばれて歴史に記録されていますが、じっさいのところは足利尊氏の謀反により中途半端に終わってしまいます。しかしそれは後の話で、鎌倉幕府を倒すべく河内で反乱をおこし、討伐にきた幕府軍をさんざんに打ちのめしたのが楠木正成です。さてその楠木正成ですが、河内一円に七つの城を築いていました。せっかくですから七城の名を並べておきます。まず本城である千早城、上赤坂城の一部である小根田城と桐山城、下赤坂城、そして嶽山城、金胎寺城、烏帽子形城。前の4つはこの1,2年の間におとずれブログにも載せています。今日はまだ見たことのない後ろ3つをたずねてみたいと思います。 瀧谷不動尊 まず嶽山城をたずねるため最寄り駅としてJR滝谷不動駅で下車しました。そのついでと言っては失礼かもしれませんが、ちょうど道の途中にあるので瀧谷不動尊に寄ってみます。瀧谷不動尊は正式名を瀧谷不動明王寺といい、空海による開山とつたえられ、いうまでもなく真言宗の寺院です。(空海本人による開山については、本寺院の案内にそのように書いてあるというレベルです) 正面:本堂... Read More | Share it now!
丹波・摂津・播磨の三国を半分ずつのぞむ半国山
【京都府・亀岡市 2023.11.26】京都市の西に隣接して亀岡市はあります。亀岡市は観光で有名な保津川下りの出発地点であり、ここから舟は水流にのって嵐山まで下ってゆきます。サッカーチームの京都(パープル)サンガのホームスタジアムがあることでも知られています。もうひとつ、歴史ファンにとっては明智光秀との関わりを忘れるわけにはいきません。この亀岡には明智光秀の居城であった丹波亀山城がありました。その亀山城から北西13kmの地点に半国山(はんごくやま)はあります。たいへん見晴らしのよい山で、まるで三国をそれぞれ半分ずつ見わたせるということが(現実には丹波の半分、摂津のすこし、播磨を遠くのぞむくらいですが)山の名の由来になっています。三国の半分はさておき、ともかく見晴らしがよいのは事実で、この半国山に東からつらなる尾根にそい、ちょうど山陰道を見下ろすように、室町時代には神尾山城(かんのおさんじょう)が築かれています。築城当時は砦ていどのものだったのでしょうが、明智光秀が丹波攻略の際にここを拠点とするため大修築をほどこし、石垣もつみあげた立派な山城に仕上げたのではないかと推測されています。今日は、半国山にこの神尾山城側からのぼって山頂に立ち、音羽渓谷のハイキング道を散策しながら下ってみたいと思います。 宮川バス停からスタート 宮川バス停から山へ向かいます 宮川神社参道... Read More | Share it now!