【和歌山県・海南市 2024.2.27】和歌山県に関していえば、大阪市内を起点にしてべつだての特急料金を払わずに、しかも気楽に日帰りで旅行できるのは海南市あたりまでと考えています。大阪府下を南下して府県境をこえるとすぐに和歌山市。ここまではよいとして、ここから先が交通の便が極端にわるくなります。それでも海南駅は、きのくに線の普通電車で4駅目ですので、乗り継ぎをうまくすれば大阪市内から2時間くらいで到着します。その海南駅からさらにバスに乗り換えてとなると往復に一日の大半を取られることになりますが、ガイドブックを見ていると、ここから歩いて登山口までゆける山がありました。海南駅から禅林寺、そこから集落をぬけると登山口、鏡石山から熊尾寺山へと登り、大野城跡を探訪して下山後は藤白神社に立ち寄って海南駅にもどる、ガイドブックによるとこれで5時間30分、内容豊富な充実の山歩きが楽しめると期待していたのですが。 禅林寺から登山口へ 禅林寺に到着 禅林寺境内から山並みを遠望する 集落を抜けて登山口へ... Read More | Share it now!
今城塚古墳・日本でただ一つ(?)みんなが入れる天皇陵古墳
【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!
夏目漱石の俳句「日は永し三十三間堂長し」は駄作か
【京都市・2024.2.9】京都東山にある三十三間堂は、中央のひときわ大きな中尊と、左右に正確に縦10列、横50列の各500、合計1001体の、十一面千手千眼観音像を本尊としています。それだけの数の仏像を祀るとなるとスペースも広大なものになり、とくに中尊を中心に101ならぶ横列は長大なものになります。三十三間堂は正式には蓮華王院といいますが、とにかく横に長く柱と柱の間が33あることから通称としてそう呼ばれているそうです。(横の全長は120m) この三十三間堂が長いということを読みこんだ俳句があります。「日は永し三十三間堂長し」、意外かもしれませんが、夏目漱石は生涯に小説だけでなく二千句をこえる俳句も残しています。俳句は五七五ですから、日は永し... Read More | Share it now!
和泉山系西端・四国山から四国は見えるか
【和歌山市 2024.2.7】関西人でなければ関西の各県がどのように隣接しあっているかよくわからないかもしれません。大阪府の南端は和歌山県の北端と接しており、その境界線にそって東西に連なっているのが和泉山脈です。山脈とはいっても山々の標高はせいぜい500mを越えるくらい、大方の山は300m前後に過ぎません。ところが周囲に高い山がないだけでなく瀬戸内海が近いこともあって、標高が低いわりに、言い換えると登るのが楽なわりに結構な眺望を楽しめます。オススメは冬のおだやかに晴れた日。いわゆる「陽だまりハイク」を楽しむには絶好の場所です。今日はその中でも西の端、すなわちもっとも瀬戸内海に近い位置にある四国山に登ってみます。四国山は、四国が見えるという意味から名付けられたのでしょうが、さて今日は四国が見られますかどうか。 加太さかな線・めでたいでんしゃ 和歌山市街と加太(港)をむすぶ観光列車 「めでたいでんしゃ」は乗るだけで楽しい 吊革にサカナ、広告一切なし 「めでたいでんしゃ」はすべての便で走っているわけではありません。実はこの写真は加太(かだ)から帰りの便で乗ることができ撮影したもので、あさ往くときは普通の車両でした。 登山口へ 西ノ庄駅で下車、一般道を上がる... Read More | Share it now!
王舎城ともよばれた鹿野城を訪ねる
【鳥取市 2024.2.2】鳥取市西部にある鹿野城は、因幡の豪族だった志加奴(鹿野)氏によりその原形が造られたのではないでしょうか。その後勢力を拡大する尼子氏に攻め落とされています。先日訪ねた布施天神山城を拠点に守護をつとめていた山名氏が、鳥取城主の武田某に攻められその尼子氏を頼りここ鹿野城まで撤退した歴史もあります。羽柴秀吉が鳥取城を落としたのは「飢え殺し」とまでいわれるほどの徹底した兵糧攻めでしたが、その時点では鹿野城はすでに秀吉方のものになっており、尼子氏の旧臣・亀井玆矩(これのり)が城代をつとめていたようです。亀井玆矩はその後徳川方についたことで飛躍し、鹿野藩の藩主となります(すなわち鹿野城の正式な城主でもある)。それを機に城を近代城郭に改修して王舎城(インドにあった、釈迦が長く滞在し説法を行なったマガダ王国の都の名)、また城下町をととのえ鹿野苑(釈迦が悟りをひらいてはじめて説法した地)などインド仏教に関係した名前をつけています。 幸盛寺 幸盛寺・山門 幸盛寺境内 山中鹿之助の墓 鹿野には山中鹿之助の墓があります。由来はこうです。玆矩の正妻は鹿之助の娘、すなわち鹿野藩主・亀井玆矩にとって山中鹿之助は義父になります。玆矩は非業の死をとげた義父の鎮魂の意味もこめて鹿野城下にあった寺を菩提寺とし、鹿之助の本名である幸盛(ゆきもり)から字をもらい幸盛(こうせい)寺と改めました。なお鹿之助の通称は、兜に鹿の角が脇立として飾られていたことが由来で、「鹿野」とは関係ありません。 鹿野城跡... Read More | Share it now!
比叡山には京都側から登るのが正しいか
【京都市 2024.1.27】昨年の1月に滋賀県の坂本から比叡山に登ったのですが、日吉大社の鳥居をくぐりそうして神域に足を踏み入れてから登山を始める、それが正しい比叡山の登り方だとそのときのブログに書きました。あくまでこれは自論であり、文中でも「個人的な自論」とことわっています。ところが先日、京都に住む知人からそのブログを読んで、これでは京都が軽視されているとクレームをつけられました。京都を軽視するつもりがもちろんないだけでなく、そもそもこの私的なブログをそれほど多数の人が読んでいるはずもなく、ましてやこのブログを読んで比叡山の登山ルートを決める参考にする人となると、過去に一人でもいたのかどうか。それはそうだが、と知人が言うには、滋賀県側からの登山ルートを薦めながら京都側からの登山ルートについて何も書かないのは片手落ちではないか。なにが片手落ちなのかよくわかりませんが、学生時代に京都に出てきてその後も京都好きでずっと京都で暮らす知人と話をしているうちに、久しぶりに京都側から比叡山に登るのも悪くないかと思うようになり、別れるときには近々修学院からのぼって大原まで歩いてみると約束していました。自分の愛する街で暮らす人から我が町自慢をきくのは楽しいだけでなく、最高の情報収集になります。 修学院から雲母坂、キララ坂城跡 京都側から比叡山に登る場合、もっともポピュラーなルートは京都一周トレイルにしたがって銀閣寺手前から北白川をぬけて上がるか、修学院から音羽川をさかのぼり離宮脇をのぼるか。今回はおよそ20年前にはじめて比叡山にのぼったときに使った後者の道を選びました。 修学院駅から音羽川をさかのぼる... Read More | Share it now!
金閣寺の金箔は総重量20kg、その値段は?
【京都市 2024.1.23】金閣寺は壁面に金箔を貼っています。金価格が高騰している今、その金箔の価格はどれほどなのか興味がわきました。品のない、下世話な話になりそうですが、金閣寺の造られた歴史を考えたとき雅(みやび)な話題を求めるにも無理があります。金閣寺は足利3代将軍義満により建立されています。足利幕府は初代尊氏から15代義昭までおよそ240年にわたって続きますが、尊氏の孫にあたる義満の時代に早くもピークを迎えています。ただ義満があまりにも貪婪に足利家を隆盛させたがために、4代目以後の将軍たちの存在がかすんでしまった感は否めません。義満は朝廷より征夷大将軍の宣下をうけ足利3代将軍になると、幕府の要職につく足利家一門である細川氏などの守護大名に守られながらしだいに力をつけ、朝廷と幕府に二分化していた行政権や課税権を幕府主導にあらためます。また、いまだ南北朝にわかれていたその南朝の武力をそぎ落としたうえで、後亀山天皇から三種の神器を返還させることで南朝を消滅させます。義満の朝廷への介入は、この時点ではまだ「国のため」と(無理をしてみれば)見れないことはありません。しかし義満は征夷大将軍となって武家の頂点に立ち、朝廷に働きかけて太政大臣となって公家の頂点にも立ち、さらには寺家の頂点にも立とうと画策します。天皇の子弟が有力寺院の住職を務めた場合、それを門跡もんぜきといいますが、義満は自分の子弟を次々に寺院に門跡として送り込み(もちろん出家させたうえで)、寺家での天皇家の地位を弱体化させ、自身の地歩を固めてゆきます。そして室町御所に隣接して臨済宗相国寺を開山します。(ちなみにこの相国寺の京都五山における寺格ですが、義満存命中はその意向により第一位とされ、没後に天龍寺が入れ替わり、今は第二位に位置付けられているという顛末があります。)そのようにして義満は足利家の地盤を確実なものにすると、将軍職を嫡男の義持にゆずり自らは広大な敷地をもつ北山山荘をつくってそこで院政を敷きます。この北山山荘が義満の死後その遺言により相国寺の境外塔頭けいがいたっちゅう・鹿苑寺ろくおんじとなり、その境内に鏡湖池にせり出すようにして建つ舎利殿が金閣です。(伽藍のひとつである舎利殿が金色でありそれがあまりにも有名なので金閣とよばれ、金閣のある鹿苑寺が金閣寺と呼ばれるようになっています) 鹿苑寺 鐘楼 庫裏 金閣 ここから先は拝観料が要ります。観光客がもっとも少ないと読んで訪れた1月のたいへん寒い平日にもかかわらず、拝観券売り場には数十人の列がありました。 鏡湖池の周囲をめぐりながら金閣をいろいろな角度から撮影してみます。 金閣は入れないだけでなく、これ以上は近づけません はじめの3枚は曇天で日差しがないのでむしろ陰鬱なくらいです。さいごの1枚はたまたま雲の切れ間から日差しが当たり輝いて見えはしましたが、さて荘厳といえるかどうかは個人の見解によるでしょう。 鹿苑寺の金閣は1950年に住み込みの青年僧により放火され全焼します。そして1955年に再建されるのですが、当時は日本全体がまだ貧しく、一口に金閣再建といってもお金がありません。そこで政府の補助にくわえて寄付を募った結果なんとか建物は建て直すのですが、肝心の壁面に貼る金箔を用意する資金は十分ではなく、金を薄く薄くのばして薄い薄い金箔をつくり、さらに重ね貼りはせず全面に一枚だけ貼ったそうです。そのため風雨にさらされるうちに次第にはがれ下地が見えるようになってしまいます。そこで1987年に昭和の大改修が行われます。当時は日本がバブル景気の時代、お金には余裕がありました。そこで金箔を1955年当時のものから一気に5倍の厚さにし、さらに2枚ずつの重ね貼り、計20㎏の金を使用したそうです。調べてみると1987年の金相場は平均すると1gあたり2133円だそうですので、20㎏というと4266万円ということになります。もっともそれは金そのものの価格だけで、諸費用をあわせるとこのときの費用総額は7億円超だったとか。なお、今現在金価格は高騰しており1gあたり10,500円くらいになっています。すなわち金20㎏をつかっていま貼り換えをするとなると、金そのものだけで2億1千万円となります。 【2026.2月追記】現在金1gは28,000円ほどに上がりに騰がっています。20㎏の金となると5億6千万円。たとえば金閣寺に金箔を貼ることを金保有の投資と考えるなら、とんでもない高利回りの投資ということになります。もっともそれを投資と結びつけるのはゲスな発想が大好きな私くらいのものでしょうが。 方丈 方丈... Read More | Share it now!
山中城は城跡ではなく公園として訪ねるべきか
【静岡県・三島市 2024.1.16】三島市の中心街から北東へ、ちょうど箱根に向かって国道1号線を登ってゆくと山中城跡があります。北条氏の始祖・早雲が韮山城を拠点に関東全域へと進出してゆく過程で、小田原城を落としますが、その小田原城を居城とするのは早雲の子である北条氏2代目氏綱の時代からとされています。北条氏は小田原城を改修し天下に聞こえた総構えの巨城へと変貌させる一方、その周囲には支城をつくり防御を鉄壁なものにしてゆきます。山中城は3代目氏康により造られた、小田原城から見て西の防御の要となる城で、東海道を箱根に向かって上がってきた敵軍を、まさに待ってましたとばかりに迎え撃つ絶好の地に造られました。(後北条氏が北条を名乗るのは2代目氏綱が壮年になってからで、元の性は伊勢。早雲については終生、伊勢宗瑞を名乗っていました) 山中城へ 国道1号線を走るバスの車窓から富士山を望む バスは三島スカイウォークの前を通ってゆく 山中城跡 バス停横にあった案内板より一部抜粋 三の丸堀の脇を進みます 田尻の池 箱井戸... Read More | Share it now!
讃岐の金刀比羅宮にて785段の石段をのぼる
【香川県・琴平町 2024.1.9】香川県の西寄りに琴平山はあります。香川県内でもっとも高い峰をもつ北側が大麻山(おおさやま)、そこからなだらかに続く南側を象頭山と称し、金刀比羅宮が鎮座しています。金刀比羅宮の本宮に祀られるのは大物主神(おおものぬしのかみ)。日本書紀に登場する神様で、本来の名は大国主命(おおくにぬしのみこと)、出雲に瑞穂国をつくり出雲大社に祀られる神様ですが、また因幡の白兎をたすけた話でも有名で、その話の中では大国様(だいこくさま)として紹介されています。(大黒様は七福神でまったく別の神様です)どうやら大国主命は出雲からはなれ他の地へ行幸したときには大物主神と称されたのか、大和でも三輪山で大物主神として祀られていますが、ここ讃岐でも昔は瀬戸内海にうかぶ島であった琴平山に行宮(あんぐう:神様の仮の居所、頓宮ともいう)を構えたことからそこに金刀比羅宮を建立し大物主神として祀られることになります。 小中高校時代は岡山県の瀬戸内海側に住んでいたため、そのころにはよく親に連れられ、あるいは同級生と遠足気分でこの金刀比羅宮はたびたび訪れましたが、今回数十年ぶりに門前町から785段の石段を上がって参詣したいと思います。 参道 金刀比羅宮北神苑にたつ高灯篭 土産物屋や旅館が立ち並ぶ 名物の石段登りがスタート 初詣が終わり、店の半分は閉まっていた 大門... Read More | Share it now!
南北朝時代から関ヶ原後まで生き抜いた手取城
【和歌山県・日高郡日高川町 2024.1.1】 2024年最初の見て歩きはどこにしようかといろいろ考えたのですが、有名な神社仏閣は初詣でごった返しているであろうし、天守がのこる城や歴史資料館の類は元旦ということで休館していると思われるし、それならば山登りか山城しかない、加えて年始に尋常でない人出のところが近所にあると交通機関が混雑するのでそれらを避け、和歌山県の御坊市の東、日高郡日高川町にある手取城を訪ねてみることにしました。 吉田八幡神社 神社入口 吉田八幡神社 JR御坊駅からまずは道成寺に行くため歩いていたところ、20分ほどで神社の入り口が見えました。吉田八幡神社とあります。今年の初詣はここにしようと思います。ところで初詣に行くなら神社か寺かどちらにすべきか。今年一年の安全、健康、幸運などなどを「神」に祈るのですから神社だと思っていたのですが、調べてみたところどちらでも良いそうです。ただ、これからゆく道成寺は天台宗の寺で、先祖の菩提寺でもなければもちろん自身が天台宗の信徒でもなく、そこへ元旦の朝から10円の賽銭で祈願にゆくのも遠慮があります。その点、八幡神にとくべつ信仰があるわけではありませんが、神道そのものが万物に神は宿るといっているのですから、どこの神社でもウェルカムしてくれるでしょう。 道成寺 道成寺・石段から仁王門 この石段には仕掛けがあって、階段脇の土手は上に行くほど幅広になるよう造られており、そのため遠近法を逆手にとった視覚効果により階段の勾配がゆるやかに見え、訪れた人をこころよく迎えてくれているそうです。たしかに緩やかにみえますが、現実にこの階段は寺のものとしてはずいぶん緩やかです—「いっそう」緩やかに見えるということにして、ありがたく受け止めたいと思います。 仁王門 本堂 本堂(左)、三重塔(右) この寺には「安珍と清姫の悲恋物語」が伝承として残っています。大筋は、旅の途中に一夜の宿をもとめた僧・安珍に清姫が惚れて恋狂いしたあげく、身を引く安珍に裏切られたとおもった清姫は大蛇となって追いまわし、寺の鐘のなかにかくれた安珍を焼き殺したというのです。それにしてもこの話、伝説であったにしても「悲恋」ではなくスリラーかオカルトの類ではないですか。 清姫でも安珍でもなく、本尊の千手観音に賽銭10円とともに手を合わせておきました。 手取城へ 日高川をわたり手取城へ向かいます ミカンではなく、甘夏 いかにも山城が似合う田園風景 ここから手取城址登り口となっています 手取城案内板より 案内板によると、まっすぐに歩いてゆけば次々に見どころに出くわすということのようです。さっそく登ってみます。 手取城 南北朝時代のころ、大和国の南部から日高川上流域を支配していた玉置氏がここに城を築き、その後もこの城を居城として支配を続けたようです。秀吉の紀州侵攻にさいして、ここよりも西方いまの御坊駅近くに城をかまえその一帯を支配していた湯川氏は秀吉に対抗しますが、玉置氏は秀吉に従います。そのため両氏は敵対することになり、より勢力の大きい湯川氏が玉置氏を城から追いやり、秀吉と交戦状態に入ります。秀吉方は地の利をいかして抵抗する湯川軍にてこずり和睦します。そして領地を安堵するのですが、その翌年に湯川氏の当主は急死(病死とされていますが、秀吉方の手による毒殺説が有力です)して領地は押収されます。一方の、秀吉方に付いたことから湯川氏に追いやられた玉置氏はこの手取城に返り咲いたということです。 道のりの前半はこんな林道を歩きます ここから山城の遺構が点在します さっそく目に入る堀の跡 竪堀の跡 溜池は草だらけで見えません 東の丸に着きました... Read More | Share it now!