【大阪府・富田林市~河内長野市 2023.11.29】楠木七城について書くまえに、楠木正成について説明しておきます。いまの時代、「くすのきまさなり」と読んでしまう人も多いのかもしれません。それどころか「くすのきまさしげ」と読むと説明しても「誰やそれ?」と返されるかもしれません。鎌倉時代末期、その鎌倉幕府を倒して天皇がみずから政治をおこなう、いわゆる「天皇親政」の時代の幕をあけた中心人物が後醍醐天皇であり、それを補佐した(というよりも実行部隊として働いた)のが、足利尊氏、新田義貞、そして楠木正成の3名です。この後醍醐天皇による親政は「建武の新政」とか「建武の中興」と呼ばれて歴史に記録されていますが、じっさいのところは足利尊氏の謀反により中途半端に終わってしまいます。しかしそれは後の話で、鎌倉幕府を倒すべく河内で反乱をおこし、討伐にきた幕府軍をさんざんに打ちのめしたのが楠木正成です。さてその楠木正成ですが、河内一円に七つの城を築いていました。せっかくですから七城の名を並べておきます。まず本城である千早城、上赤坂城の一部である小根田城と桐山城、下赤坂城、そして嶽山城、金胎寺城、烏帽子形城。前の4つはこの1,2年の間におとずれブログにも載せています。今日はまだ見たことのない後ろ3つをたずねてみたいと思います。 瀧谷不動尊 まず嶽山城をたずねるため最寄り駅としてJR滝谷不動駅で下車しました。そのついでと言っては失礼かもしれませんが、ちょうど道の途中にあるので瀧谷不動尊に寄ってみます。瀧谷不動尊は正式名を瀧谷不動明王寺といい、空海による開山とつたえられ、いうまでもなく真言宗の寺院です。(空海本人による開山については、本寺院の案内にそのように書いてあるというレベルです) 正面:本堂... Read More | Share it now!
丹波・摂津・播磨の三国を半分ずつのぞむ半国山
【京都府・亀岡市 2023.11.26】京都市の西に隣接して亀岡市はあります。亀岡市は観光で有名な保津川下りの出発地点であり、ここから舟は水流にのって嵐山まで下ってゆきます。サッカーチームの京都(パープル)サンガのホームスタジアムがあることでも知られています。もうひとつ、歴史ファンにとっては明智光秀との関わりを忘れるわけにはいきません。この亀岡には明智光秀の居城であった丹波亀山城がありました。その亀山城から北西13kmの地点に半国山(はんごくやま)はあります。たいへん見晴らしのよい山で、まるで三国をそれぞれ半分ずつ見わたせるということが(現実には丹波の半分、摂津のすこし、播磨を遠くのぞむくらいですが)山の名の由来になっています。三国の半分はさておき、ともかく見晴らしがよいのは事実で、この半国山に東からつらなる尾根にそい、ちょうど山陰道を見下ろすように、室町時代には神尾山城(かんのおさんじょう)が築かれています。築城当時は砦ていどのものだったのでしょうが、明智光秀が丹波攻略の際にここを拠点とするため大修築をほどこし、石垣もつみあげた立派な山城に仕上げたのではないかと推測されています。今日は、半国山にこの神尾山城側からのぼって山頂に立ち、音羽渓谷のハイキング道を散策しながら下ってみたいと思います。 宮川バス停からスタート 宮川バス停から山へ向かいます 宮川神社参道... Read More | Share it now!
戦いの歴史にも翻弄された吉野山
【奈良県・吉野郡吉野町 2023.11.19】吉野山には3万本といわれる桜が植えられ、毎年春には全山が桜色に染まります。日本人の、おそらく99%かそれ以上の人達は、「吉野山といえば、桜」のイメージではないでしょうか。もちろん、吉野山といえば、まずは桜です。それだけでもかまいません。しかしちょっとばかり吉野山の歴史に目をむけてみると、吉野山観光が2倍も3倍も楽しくなる、かもしれません。 そもそもなぜ吉野山といえば桜なのか。奈良時代のまえ白鳳時代のころ修行道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が一千日間の山ごもり修行のすえ、金剛蔵王大権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで祀ったことに由来するそうで、その後は修験者がご神木として桜を植えはじめたとのこと。もとは観賞用ではありません。おなじころ天智天皇のあとには、次の天皇候補が2人いました。天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)。天智天皇本人が息子に肩入れしていることを知り身の危険を感じた大海人皇子は、剃髪し出家して吉野山にのぼります。しかし冬の吉野山で山中に桜が咲く夢を見たところ、それこそ王になる吉兆と告げられ、挙兵することを決意します。これが壬申の乱のはじまりであり、大友皇子に勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となります。 時代がくだって平安時代末期には、源頼朝と不仲になった義経が、追討から逃れてこの吉野山にのぼり、しばらくの間(数日間?)かくまわれていた史実もあります。その時にはわずかな伴回りしかおらず、愛妾の静御前が捕縛されその後処刑、義経は身一つで奥羽まで逃れますがその後自刃しています。(ただし、この話には... Read More | Share it now!
いまとなっては滑稽劇の応仁の乱、その跡地をあるく
【京都市内 2023.11.12】日本史のなかで応仁の乱はあまり人気がないようです。登場人物がやたらに多くて、学生であれば記憶するのがたいへんで、歴史ファンであれば読んでいて煩わしくなるからでしょう。しかし、いかに欲と欲とが露骨にからみ合っているかと視点を変えてみると、よくもまあ同時期に、しかも名家といわれる家柄ばかり、その内紛の醜悪を通りこした滑稽さにがぜん興味をひかれます。そもそも足利8代将軍・義政がなんともいい加減な男で、政務をこなすより花鳥風月を愛でている方が楽しいと将軍職を辞すべく後継者をもとめます。正室の日野富子は輿入れ以来それまで3人つづけて女児ばかり生んでいたためもう男児は生まれないと諦めたのか、僧籍に入っていた弟(のちの義視:よしみ)を拝み倒すようにかき口説いて還俗させ、証文までかいて次期将軍にしたてる準備をします。ところがその直後に、富子がこのタイミングで男児(のちの義尚:よしひさ)を出産します。この将軍家の家督争いが応仁の乱とよばれる騒乱の、そもそもの発端になります。 将軍の実子・義尚vs将軍の弟・義視、このように対立の構図がはっきりすればまだ救われたのでしょうが、これに当の将軍・義政が優柔不断で立ち位置がどっちつかずのため、まわりは振り回されます。さらに細川勝元vs山名宗全の主導権争い、有力守護の畠山氏、斯波氏それぞれの家督争い、大内家は貿易権益を拡大したいため、赤松氏はかつて山名氏にうばわれた領地を奪い返すため、各々の欲と欲が入り乱れ、必然のように武力衝突に繋がってゆきます。この応仁の乱がいかに入り乱れていたかを如実に示す例を挙げるなら、最初は細川勝元と山名宗全はともに義政と日野富子の実子・義尚を支持していたにもかかわらず、両者の駆け引きと反目から細川勝元は東軍の大将として義視を支援、山名宗全は西軍の大将として義尚を支援するようになります。ところがそこからさらに将軍・義政の優柔不断と弟・義視の気弱が混乱を混沌へと落としいれ、巡りめぐってというか、絡みにからんで、いつの間にか細川勝元は義視ではなく義尚を、山名宗全は義尚ではなく義視を支援という、これは「逆転」とよぶべきなのか、なんとも奇想天外な様相を呈してゆきます。 まずは山名宗全の墓 南禅寺山門... Read More | Share it now!
紅葉と北山杉と、京都の神護寺から朝日峯にのぼる
【京都市内 2023.11.8】京都には紅葉の名所がたくさんありますが、なぜ多いのか、理由はいくつか考えられます。●盆地のため秋も深まると朝夕の気温が急に下がり、日中との気温差が大きくなる。●街中を鴨川や桂川が流れ、また周囲を山に囲まれているため、山からの渓流が多く、結果的に美しく紅葉するための湿度が保たれる。●街中の場合、高層ビルがすくないため日陰ができにくく、樹木はつねに直射日光を浴びられる。そしてなによりも忘れてはならないのは、●京の都だったころには公家が暮らしており、むかしから花鳥風月を愛でる習慣があった。そこから紅葉をことのほか美しいものとして、モミジやカエデをすすんで植えた。しかもやみくもに植えたのではなく、造園の発想でより美しくみえるように配置も考えたものと思われます。(そう思える場所がたくさんあります) さて紅葉の季節になりました。今年最初の紅葉狩りは、京都市中心街から北西に位置する高雄、そこにある神護寺をたずね、朝日峯で登山を楽しみ、下山後は高山寺に寄りたいと思います。(訳あって高山寺参詣は中止しました、理由はブログの中で) 高雄、神護寺 周山街道から長い階段を下りて、高雄橋で清滝川をわたる あれ? まだ青葉?サイトで紅葉情報をしらべて「高雄・神護寺、見頃」となっていたのに、どういうことでしょう? 神護寺へはこの長い階段を登ります 楼門は立派だが、紅葉は? 神護寺伽藍 楼門... Read More | Share it now!
点描 -上越から中越へ
【新潟県・十日町市、魚沼市など 2023.11.1~2】新潟県の旅後半は、上越市の高田を拠点に、十日町市、小千谷市、魚沼市、南魚沼市を借りた車で回りました。気が向いたところで車を止め、写真をとり、散策していたので、思い出にのこる写真をいくつかアップしてみます。 塩沢・牧之通り ここは古い街並みが残るというより 古い街並みを再現したものですが、 嫌味なくまとまっており、 たのしく散策して回りました。 稲穂、いうまでもなくコシヒカリでしょう 自家消費の米は、コシヒカリ一辺倒。以前は魚沼産のコシヒカリでしたが、昨今の物価高でそうも言っておられず、いまは近所のスーパーで新潟県産のコシヒカリが20%offになるときを狙って購入しています。塩沢の市街地からすこし離れただけで、このような田園風景が広がっていました。 赤城山西福寺 山門(赤門) 山門(白門) 開山堂(左)と本堂(右) 開山堂のみごとな彫刻 永林寺 永林寺 西福寺も永林寺も魚沼市にあります。そして両寺共に、幕末の名匠・石川雲蝶のすばらしい彫刻や絵画が残されています。撮影禁止なので、興味のある方はせめてサイトでご覧ください。 西福寺https://www.saifukuji-k.com/index.cgi 永林寺https://eirinji.jp/ 雨上がりの山沿いの道を走っていたとき、 ふと車から下りると、こんな光景が目のまえにありました 松代棚田群 星峠の棚田 南魚沼市から上越市高田に向かう際、十日町市の山中を抜けました。そのとき松代棚田群の真中を抜けることになり、なかでも最大規模の星峠の棚田に立ち寄りました。たどり着くまで、年とともに運転技術のおとろえた身には大変でしたが、その大変さを補って余りある風景に出合えました。 上越方向にひろがる夕焼け 運転技術がおとろえ、やたらに時間をかけて山中を走ったため、それが逆に幸いして西の空が見えるころには見事な夕焼け空になっていました。 【アクセス】十日町市(博物館、星峠の棚田)~南魚沼市(塩沢)~魚沼市(西福寺、永林寺)~小千谷市(小千谷織)レンタカーで回りました【入場料、拝観料】十日町市博物館:500円、西福寺:500円、永林寺:500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
軍神・上杉謙信を訪ねる春日山城
【新潟県・上越市 2023.10.31】「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。 林泉寺 春日山城から移築したとつたわる惣門 山門... Read More | Share it now!
東寺のすべて
【京都市 2023.10.12】今年は真言宗の立教開宗1200年にあたるそうで、京都の東寺において、すべての伽藍をひらいてすべての仏像、仏具を一度に見せてくれるという一大イベントがあります。タイトルはそのまんま「東寺のすべて」。(立教開宗とは、その宗派の教義ができ上がった時。具体的に言えば、開祖すなわち真言宗の場合なら空海上人が真言密教の教えをひろく説くようになった時を指します)期間は10月9日から31日までの、わずか3週間ほど。行き逃さないよう早めに行っておきます。 東寺とは DSC_0027南大門から金堂をのぞき見る 8世紀末、遷都にともない平安京の町づくりを始めるにあたって、その鎮護のため羅生門をはさんで東と西に、それぞれ東寺、西寺がつくられました。両寺は国の管理を受ける代わりに国から資金面での全面的な援助をうけられる官寺ですが、823年に当時の嵯峨天皇は、このうち東寺を空海上人に下賜し、そのためこの時から東寺は真言密教の根本道場となります。(西寺については、はっきりした記録が残っておらず、また羅生門とともに跡形もなく消滅しているため、ここでは触れません) 総合受付のある慶賀門(東門)に回る 根本道場(ねもとどうじょう)とはその宗派の総本山のことです。真言宗といえば、高野山の金剛峯寺が有名で、こちらも根本道場ですが、東寺真言宗と高野山真言宗の違いがあります。また空海上人が高野山を開山したのは816年ですから、金剛峯寺は山中に造ったことから考えても純粋に修験のため、そのあとで下賜された東寺は平安京にあり広報の意味があったのではないかと、自分なりに解釈しています。(あくまで個人的な解釈です) 「東寺のすべて」の広告 寺内にあった境内案内図より抜粋 境内伽藍を見てまわる 慶賀門を入ると、(この辺りはいつも拝観無料) 食堂(じきどう) 金堂... Read More | Share it now!
彼岸花の咲き乱れる葛城古道をあるく
【奈良県・御所市 2023.9.25】「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、今年は彼岸を過ぎてもまだ十分に暑い! たしか昨日も日本のどこかで猛暑日のところがあったはずで、そこまでは行かないにしても、今日も大阪、奈良、京都あたりは最高気温が堂々と32度とか33度と言っています。過去何度もこの時期になると、奈良の古道街道をあるいて彼岸花をみてきましたが、こんなに気温が高かったのは記憶にありません。それでも深緑の中、あるいは黄色く実った稲穂と彼岸花の真紅が共演する光景は、一年のうち極々限られた時期にしか見られない眼福とも呼べるもので、暑いのは覚悟のうえで出掛けてみることにしました。 JR御所駅から葛城古道へ 葛城古道は、葛城山から金剛山にかけて東側の山麓を南北に、古寺古社をむすびながらつづく旧道です。下に御所市(ごせし)のHPから借用してきた地図を添付しましたが、この地図は横向きに置かれたもので、右が北になります。今回は地図の右下にあるJR御所駅からスタートし、途中で葛城古道に合流、左へ(すなわち南へ)と歩を進めました。 御所市の公式HPにある市内観光・散策用マップより抜粋 葛城山に登る際はいつも右折しますが、今日は直進... Read More | Share it now!
二度まで戦火で焼失した東大寺はそれでも甦った
【奈良市・2023.9.12】東大寺は若草山麓にあった金鐘寺が起源で、この金鐘寺は奈良時代に国分寺・国分尼寺建立の詔が出されると、大和国の国分寺のポジションを与えられます。大和国の国分寺であることは、すなわち全国の国分寺を代表する総本山的な地位も与えられたのでしょう。寺名も金光明寺(金光明四天王護国之寺)と寺名を変えます。やがて聖武天皇は大仏建立の詔を発します。金光明寺の本尊として大仏の建立をはじめたのか、大仏建立が先でその地が金光明寺に隣接していたのかは不明ですが、大仏建立の過程でもともとあった金光明寺の名は消え、東大寺の名がこのころから記録されています。奈良仏教のなかで二大勢力といえば、法相宗と華厳宗ですが、興福寺が法相宗の総本山であるのに対して、東大寺は華厳宗の総本山とされました。仏教勢力はかつての支配者にとっては目の上のコブ。白河天皇が「鴨川の流れと、サイコロの目と、山法師=比叡山の仏徒は思いのままに扱えない」と嘆いたという逸話は有名ですが、奈良の東大寺(興福寺も)の仏徒もなかなか厄介な強者だったようです。平安時代末期に権力を握った平清盛は、堪忍袋の緒がきれたのか自分の五男・重衡に軍勢をあたえ東大寺(と興福寺)を壊滅させます。奈良時代に建立した際にはその伽藍のあまりの規模に建設費がかさみ国の財政を疲弊させるほどであったにもかかわらず、それでも朝廷主導でさっそく再建がはじめられます。これほどの寺は日本の国にとって、焼失しましたではすまされないものだったのでしょう、大仏は平安時代が終わる直前に、大仏殿など諸堂は鎌倉時代初期に再建されます。そして次に消失するのは戦国時代の真っ只中、松永久秀vs三好三人衆&筒井順慶連合の戦いにおいてであり、今日はこの戦いのことをもっと知りたくて、朝早くから出向いてきた次第です。 南大門から中門へ 奈良といえば鹿ですが、参道にもいるいる 南大門... Read More | Share it now!