山登り,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市内 2023.11.8】京都には紅葉の名所がたくさんありますが、なぜ多いのか、理由はいくつか考えられます。●盆地のため秋も深まると朝夕の気温が急に下がり、日中との気温差が大きくなる。●街中を鴨川や桂川が流れ、また周囲を山に囲まれているため、山からの渓流が多く、結果的に美しく紅葉するための湿度が保たれる。●街中の場合、高層ビルがすくないため日陰ができにくく、樹木はつねに直射日光を浴びられる。そしてなによりも忘れてはならないのは、●京の都だったころには公家が暮らしており、むかしから花鳥風月を愛でる習慣があった。そこから紅葉をことのほか美しいものとして、モミジやカエデをすすんで植えた。しかもやみくもに植えたのではなく、造園の発想でより美しくみえるように配置も考えたものと思われます。(そう思える場所がたくさんあります) さて紅葉の季節になりました。今年最初の紅葉狩りは、京都市中心街から北西に位置する高雄、そこにある神護寺をたずね、朝日峯で登山を楽しみ、下山後は高山寺に寄りたいと思います。(訳あって高山寺参詣は中止しました、理由はブログの中で) 高雄、神護寺 周山街道から長い階段を下りて、高雄橋で清滝川をわたる あれ? まだ青葉?サイトで紅葉情報をしらべて「高雄・神護寺、見頃」となっていたのに、どういうことでしょう? 神護寺へはこの長い階段を登ります 楼門は立派だが、紅葉は? 神護寺伽藍 楼門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,新潟

【新潟県・十日町市、魚沼市など 2023.11.1~2】新潟県の旅後半は、上越市の高田を拠点に、十日町市、小千谷市、魚沼市、南魚沼市を借りた車で回りました。気が向いたところで車を止め、写真をとり、散策していたので、思い出にのこる写真をいくつかアップしてみます。 塩沢・牧之通り ここは古い街並みが残るというより 古い街並みを再現したものですが、 嫌味なくまとまっており、 たのしく散策して回りました。 稲穂、いうまでもなくコシヒカリでしょう 自家消費の米は、コシヒカリ一辺倒。以前は魚沼産のコシヒカリでしたが、昨今の物価高でそうも言っておられず、いまは近所のスーパーで新潟県産のコシヒカリが20%offになるときを狙って購入しています。塩沢の市街地からすこし離れただけで、このような田園風景が広がっていました。 赤城山西福寺 山門(赤門) 山門(白門) 開山堂(左)と本堂(右) 開山堂のみごとな彫刻 永林寺 永林寺 西福寺も永林寺も魚沼市にあります。そして両寺共に、幕末の名匠・石川雲蝶のすばらしい彫刻や絵画が残されています。撮影禁止なので、興味のある方はせめてサイトでご覧ください。 西福寺https://www.saifukuji-k.com/index.cgi 永林寺https://eirinji.jp/ 雨上がりの山沿いの道を走っていたとき、 ふと車から下りると、こんな光景が目のまえにありました 松代棚田群 星峠の棚田 南魚沼市から上越市高田に向かう際、十日町市の山中を抜けました。そのとき松代棚田群の真中を抜けることになり、なかでも最大規模の星峠の棚田に立ち寄りました。たどり着くまで、年とともに運転技術のおとろえた身には大変でしたが、その大変さを補って余りある風景に出合えました。 上越方向にひろがる夕焼け 運転技術がおとろえ、やたらに時間をかけて山中を走ったため、それが逆に幸いして西の空が見えるころには見事な夕焼け空になっていました。 【アクセス】十日町市(博物館、星峠の棚田)~南魚沼市(塩沢)~魚沼市(西福寺、永林寺)~小千谷市(小千谷織)レンタカーで回りました【入場料、拝観料】十日町市博物館:500円、西福寺:500円、永林寺:500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,新潟

【新潟県・上越市 2023.10.31】「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。 林泉寺 春日山城から移築したとつたわる惣門 山門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都市 2023.10.12】今年は真言宗の立教開宗1200年にあたるそうで、京都の東寺において、すべての伽藍をひらいてすべての仏像、仏具を一度に見せてくれるという一大イベントがあります。タイトルはそのまんま「東寺のすべて」。(立教開宗とは、その宗派の教義ができ上がった時。具体的に言えば、開祖すなわち真言宗の場合なら空海上人が真言密教の教えをひろく説くようになった時を指します)期間は10月9日から31日までの、わずか3週間ほど。行き逃さないよう早めに行っておきます。 東寺とは DSC_0027南大門から金堂をのぞき見る 8世紀末、遷都にともない平安京の町づくりを始めるにあたって、その鎮護のため羅生門をはさんで東と西に、それぞれ東寺、西寺がつくられました。両寺は国の管理を受ける代わりに国から資金面での全面的な援助をうけられる官寺ですが、823年に当時の嵯峨天皇は、このうち東寺を空海上人に下賜し、そのためこの時から東寺は真言密教の根本道場となります。(西寺については、はっきりした記録が残っておらず、また羅生門とともに跡形もなく消滅しているため、ここでは触れません) 総合受付のある慶賀門(東門)に回る 根本道場(ねもとどうじょう)とはその宗派の総本山のことです。真言宗といえば、高野山の金剛峯寺が有名で、こちらも根本道場ですが、東寺真言宗と高野山真言宗の違いがあります。また空海上人が高野山を開山したのは816年ですから、金剛峯寺は山中に造ったことから考えても純粋に修験のため、そのあとで下賜された東寺は平安京にあり広報の意味があったのではないかと、自分なりに解釈しています。(あくまで個人的な解釈です) 「東寺のすべて」の広告 寺内にあった境内案内図より抜粋 境内伽藍を見てまわる 慶賀門を入ると、(この辺りはいつも拝観無料) 食堂(じきどう) 金堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・御所市 2023.9.25】「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、今年は彼岸を過ぎてもまだ十分に暑い! たしか昨日も日本のどこかで猛暑日のところがあったはずで、そこまでは行かないにしても、今日も大阪、奈良、京都あたりは最高気温が堂々と32度とか33度と言っています。過去何度もこの時期になると、奈良の古道街道をあるいて彼岸花をみてきましたが、こんなに気温が高かったのは記憶にありません。それでも深緑の中、あるいは黄色く実った稲穂と彼岸花の真紅が共演する光景は、一年のうち極々限られた時期にしか見られない眼福とも呼べるもので、暑いのは覚悟のうえで出掛けてみることにしました。 JR御所駅から葛城古道へ 葛城古道は、葛城山から金剛山にかけて東側の山麓を南北に、古寺古社をむすびながらつづく旧道です。下に御所市(ごせし)のHPから借用してきた地図を添付しましたが、この地図は横向きに置かれたもので、右が北になります。今回は地図の右下にあるJR御所駅からスタートし、途中で葛城古道に合流、左へ(すなわち南へ)と歩を進めました。 御所市の公式HPにある市内観光・散策用マップより抜粋 葛城山に登る際はいつも右折しますが、今日は直進... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良市・2023.9.12】東大寺は若草山麓にあった金鐘寺が起源で、この金鐘寺は奈良時代に国分寺・国分尼寺建立の詔が出されると、大和国の国分寺のポジションを与えられます。大和国の国分寺であることは、すなわち全国の国分寺を代表する総本山的な地位も与えられたのでしょう。寺名も金光明寺(金光明四天王護国之寺)と寺名を変えます。やがて聖武天皇は大仏建立の詔を発します。金光明寺の本尊として大仏の建立をはじめたのか、大仏建立が先でその地が金光明寺に隣接していたのかは不明ですが、大仏建立の過程でもともとあった金光明寺の名は消え、東大寺の名がこのころから記録されています。奈良仏教のなかで二大勢力といえば、法相宗と華厳宗ですが、興福寺が法相宗の総本山であるのに対して、東大寺は華厳宗の総本山とされました。仏教勢力はかつての支配者にとっては目の上のコブ。白河天皇が「鴨川の流れと、サイコロの目と、山法師=比叡山の仏徒は思いのままに扱えない」と嘆いたという逸話は有名ですが、奈良の東大寺(興福寺も)の仏徒もなかなか厄介な強者だったようです。平安時代末期に権力を握った平清盛は、堪忍袋の緒がきれたのか自分の五男・重衡に軍勢をあたえ東大寺(と興福寺)を壊滅させます。奈良時代に建立した際にはその伽藍のあまりの規模に建設費がかさみ国の財政を疲弊させるほどであったにもかかわらず、それでも朝廷主導でさっそく再建がはじめられます。これほどの寺は日本の国にとって、焼失しましたではすまされないものだったのでしょう、大仏は平安時代が終わる直前に、大仏殿など諸堂は鎌倉時代初期に再建されます。そして次に消失するのは戦国時代の真っ只中、松永久秀vs三好三人衆&筒井順慶連合の戦いにおいてであり、今日はこの戦いのことをもっと知りたくて、朝早くから出向いてきた次第です。 南大門から中門へ 奈良といえば鹿ですが、参道にもいるいる 南大門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,奈良

【大阪府・八尾市~奈良県・平群町、王寺町 2023.8.26】生駒山系は大阪府の東端を、奈良県との境界をなすように北から南へ伸びています。山系の中程には、古くは楠木正成が軍事拠点として利用し、のちに三好長慶が本格的に築城した飯盛山城があります。生駒山系の南の端にあるのが高安山で、ここにはずっと時代をさかのぼり、大和朝廷が都を守るためにその山上に築いた高安城がありました。さらに高安山から東へ、すなわち奈良側へ山中をすすむと信貴山に達します。この信貴山には、三好家の祐筆(書記のような役)をつとめながら権勢を拡大し、ついには三好家(主君)に取って代わった松永久秀が築いた名城・信貴山城がありました。 今日は大阪側から高安山にのぼり、高安城、信貴山城と探索して、奈良県の王寺町に下山しようと思います。 まずは高安山へ 近鉄信貴山口駅からスタートします 高安山(中央奥)へ、民家がたつ生活道路をあるく 20分ほどあるくと山道が始まります 信貴山口駅は大阪の中心地から生駒山へ向かった場合の終点になりますが、同時に高安山の山頂まであがるケーブルカーの麓駅でもあります。すなわちいま歩いている道は、ケーブルの軌道の横を並行していることになります。 竹林の下、岩が露出する道をすすむ 樹林の隙間から大阪湾まで見える 高安山の山容が垣間見える 開運橋の下に出合う 上がって開運橋を渡る 左の小高いところが高安山の山頂(何もない) 高安城址 信貴山に向かって東へすすみます 高安城倉庫址 奥へ奥へと倉庫址がつづく この高安城ですが、居住していた跡も、防御のための堀や土塁もみつかっていません。戦うための設備ではなく、いざという時のために、この山上の倉庫群に塩や食料を保管していたようです。 信貴山城址 さらに東、信貴山へ向かうと、 やがて信貴山城・松永屋敷跡が道横に見えます 下に降りて屋敷跡の曲輪(右上)を見上げる 堀切で曲輪を分割して屋敷を建てていたことがわかる 現地にあった案内板より 現地にあった信貴山城の見取り図をみると、松永久秀がいかにも細心な、むしろ臆病なのかと思えるほど巧妙に曲輪(くるわ)配置を考えていることがわかります。実際、信長が嫡男(跡取り息子)の信忠に命じて錚々たる勇将、智将とともに攻め立てさせますが、難攻不落。最後は、力攻めではなく松永方の家臣を寝返らせ、信長方の兵を城内へ隠密裏に侵入させることで落城させています。 左の大きな曲輪は立入屋敷跡 立入屋敷跡 雄嶽、雌嶽 空鉢御法堂より二上山、大和葛城山をのぞむ 雄嶽が信貴山の北峰であり山頂にあたります。信貴山の東懐(奈良側)には朝護孫子寺というたいへんユニークな御寺がありますが、その御堂のひとつです。 ところで信貴山城があった当時、この山頂には4層の天守が建てられていたそうです。これだけ見晴らしのよい山頂ですから物見目的の天守が必要なはずがありません。松永久秀は権力の象徴として、あえて天守を建てたのだと考えられます。そしてこの天守が、その後の城では定番となる「天守閣」のモデルになります。 山頂の御堂から本堂のある伽藍へくだる 正面の小高いところが雌嶽(南峰) 雌嶽入口にあった案内板より 朝護孫子寺伽藍まで下りてきました 朝護孫子寺から信貴山・雄嶽をふりかえる 朝護孫子寺は昨年秋にじっくり見てまわっているので今回は素通りします。たいへんユニークな御寺ですので、興味のある方は、https://yamasan-aruku.com/aruku-64/ 王寺へ もとケーブルカーの軌道があった坂道を下ります 平地に出ると、やがて大和川を渡ります 達磨寺 達磨寺 聖徳太子の愛犬・雪丸の像 聖徳太子が路傍に倒れた老人を助けたところ、その老人こそが達磨大師だったという逸話があります。その現場がここだったということで、ゆかりの寺が建立されています。境内には聖徳太子の愛犬・雪丸の像もあります。雪丸は人の話を理解できるだけでなく、御経も読めたとか... Read More | Share it now!

山登り,神社・仏閣,奈良

【奈良県・天理市 2023.8.19】今日は奈良県北中部にある龍王山を登りに行きます。この龍王山は... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・出石市 2023.7.24】 但馬国の守護はながらく山名氏が務めていました。織田信長の西国平定にともない、山名祐豊はその居城をいったん捨て退去しますが、すぐに今の出石町中心地にある有子山の山頂にあらたな城を築きます。さらに山麓に居館を築くのですが、信長の命をうけた秀吉(この当時は羽柴秀吉)の軍により攻め滅ぼされます。時がうつり秀吉の時代になると、その家臣である小出吉政が但馬藩主となって入城します。この小出吉政ですが、なかなか世渡りがうまく、関ケ原の戦いにおいては自身は西軍につく一方、弟・秀家は東軍について、戦況が東軍有利とみるや吉政は戦うのをひかえ、秀家は勇躍します。弟・秀家が東軍で働いただけでなく、兄・吉政が西軍で「働かなかった」功もくわえ、小出氏はその領地を安堵されます。吉政の子・吉英はこれも情勢をよむのに長けており、徳川家康にあえて恭順を示すため、有子山上の本体となる城郭を破却し、山麓の居館であった部分を拡張し、天守閣をもたない、いかにも平和な時代の居館然とした城を築きます。これがいまの出石城であり、山上にあったものがいまは有子山城址と呼ばれているものです。出石城の歴史においてはもうひとつ特筆しておくことがあります。小出氏はのちに世継ぎがいなかったために改易となりますが、そのあと仙石政明が信濃上田藩から転封されてあらたな城主となります。信濃上田城といえば、もとは真田家がきずいた名城ですが、いまは城について語るのではなく、信濃地方の名産である蕎麦について。仙石政明は信濃上田藩主時代に食した、その蕎麦の味を忘れがたかったのか、蕎麦職人まで連れて但馬に移り、この地でソバの栽培からはじめて、ついには蕎麦を特産品にまで育て上げます。それゆえ今回は出石城を訪ねるだけでなく、出石蕎麦も食べて、と企画しています。 出石城 出石城の内堀では出石焼の風鈴が奏でています 登城橋をわたり登城門へ 振り返る... Read More | Share it now!