城郭・史跡,長野

【長野市・松代町 2022.10.13】武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。商人たちはこの松代に移住するよう呼びかけられますが、善光寺(松代から10kmほど北)から離れることを拒み、そのため松代は城下町として発展することはなかったそうです。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 三の丸、二の丸 三の丸から二の丸へ 二の丸から、石垣・土塁の向こうが三の丸 松代城は平城であり高低差なく、外周が三の丸、濠(外堀)と石垣を抜けるとその内側が二の丸、さらに濠(内堀)と石垣に隔てられて本丸という縄張りになっています。三の丸と二の丸をへだてる石垣は一部だけが残っており、濠は埋められて現存しません。ところで元は、二の丸から外堀をわたって三の丸に入ると、そこに武田氏独自の「三日月堀」があったそうです。三日月堀とはhttps://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2138601/ 太鼓門 内堀に囲まれた本丸 内堀と太鼓門 太鼓門 いまある建築物は平成の時代に再現されたものですが、当時の資料をしらべ出来るかぎり忠実に再現したものだそうです。 内堀と石垣 左が太鼓門、右が東不明門(跡) 東不明門跡 本丸北側 夕焼け 真田邸 真田邸 真田邸の塀がつづく 真田邸は信之の時代ではなく、真田家9代目ですから江戸時代末期に建てられたものですが、それでも松代城に関係する建物としては、唯一建てられた当時のまま残っている貴重な現存建築物だそうです。 【入場料】どこも時間が遅くて入れませんでしたが、松代城跡は無料、真田邸は400円となっています。【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・松本市 2022.10.11】松本城はもとは深志城とよばれる小規模の城郭でした。武田信玄に獲られ、織田信長の軍勢に侵攻されるなどの歴史をへて、石川数正・康長父子が豊臣秀吉の命により入城してから天守閣をつくり整備をすすめ、本格的な城に造りかえます。この石川数正(いしかわかずまさ)ですが、そもそもは徳川家康の片腕として徳川家の屋台骨を背負う重臣でした。ところがある時突然徳川家を裏切り、出奔して豊臣秀吉に臣従したと言われています。真相は定かではありませんが、どうやら秀吉の調略あるいは謀略により落とされたようです。ことの起こりは秀吉が天下統一にむけて勢力を拡大する中、徳川家が豊臣方との交渉役につけたのが重臣・石川数正ですが、秀吉は数正が上洛するたびに歓待します。そしてみずから歓待しながら、石川殿は秀吉のもとへ行くたびに歓待されている、どうやら寝返るつもりではないか、そのような不穏な噂を徳川領で意図的に流してゆきます。石川数正は家康が今川家に人質として預けられていた時にも付き従って苦労を共にしたほどの臣従関係にあり、寝返る意思はなかったのではないでしょうか。ところが不穏な噂が独り歩きし、しだいに居心地が悪くなってきます。どうやら家康自身は数正のことを信用しており不穏な噂も無視する姿勢だったようなのですが、数正としては周りから白い目で見られるのに耐えられなくなったところに、頃良しとみた秀吉から河内8万石でどうかと誘われ、寝返った(寝返えさせられた)のが真実ではかないかと思います。さて秀吉は関東の北条家を平らげると、その地に家康を移封します。言うまでもなく秀吉にとっては一番の脅威である徳川家を京・大阪からより遠い地へと追いやるのが目的でした。そしてその関東地方を信頼できる大名たちに取り囲ませるように領地をあたえて移り住まわせます。石川数正もその一人で、信濃国松本に10万石を与えられ、皮肉にも家康にたいする防御の駒としてこの地に移り住むことになります。なお松本城はわずか12だけのこる現存天守をもつ城のひとつで、国宝に指定されています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天守をのぞむ 入口に国宝とうたっています 濠越しに回りながら天守を望んでみます 乾小天守(左)、大天守(中央)、月見櫓(右) 左が乾小天守... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・上田市 2022.10.15】上田城ですが、もとは千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、尼ヶ淵城とも呼ばれていました。そもそもはこのあたり一帯を治める土豪が城館を築いていたものですが、真田氏が頭角をあらわすにしたがい、昌幸がこの地の優位さに目をつけ本格的に築城をはじめます。真田家は武田氏に臣従していましたが、その武田氏滅亡の後は主家を次々に替え、ついには徳川家康に従うことになります。ところがその徳川と対立して戦に及ぶのですが、大方の予想を裏切って、真田勢はみごとに徳川勢を撃退します。(第一次上田の戦い)その後豊臣家と徳川家の争いから関ヶ原の合戦がおこりますが、真田昌幸は家の存続をはかり、昌幸自身と次男の信繁(幸村)は豊臣方につき上田城をかため、長男の信之は徳川方について城をでます。上田城にこもる昌幸・信繁親子はよく戦い、江戸から関ヶ原へとむかう家康の嫡男・秀忠の3万8千ともいわれる大軍の侵攻を抑え、結果として秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わないという失態を犯すことになります。(第二次上田の戦い)しかし関ヶ原の合戦自体が西軍(豊臣方)の敗北に終わったため、昌幸・信繁親子は信之の働きもあって死罪は免れたものの高野山へ追放(のちに九度山で蟄居)、上田城は徹底的に破却され濠も埋められます。その後、その信之がこの地を安堵されますが、城が見る影もなく壊されているため本来の沼田城を居城としたまま治世をおこない、やがて松代へ加増転封となります。そして真田信之のあとに小諸から転封されてきた仙石氏によって上田城は、改修ではなく、あらたに造られることになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 南櫓、東虎口櫓門、北櫓 南櫓 南櫓と東虎口櫓門(本丸入口) 東虎口櫓門と北櫓 本丸入口になるのが東虎口櫓門。その左に南櫓、右に北櫓があります。 この上田城には天守がなかったとの見解が主流ですが、本丸には櫓7棟があり防備につとめていたそうです。 真田氏の上田城には天守閣はあったのかhttps://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/1779.html 櫓門にある巨岩・真田石 櫓門から 本丸 北櫓と櫓門(本丸内から) 櫓門を入ると正面に真田神社(櫓門上から) 真田神社・拝殿 賽銭箱にも六文銭 真田信繁(幸村)の像 地元の人が書いていました。この上田城は江戸時代に仙石氏が建てたものを基に再現を試みており、戦国時代の真田氏が築城したものとは関係ないので、これほどに「真田」「六文銭」を強調するのは、あまりにも商売っ気丸出しではないか。たしかに違和感はあります。この像にしても、父・昌幸のものならわかりますが、信繁(幸村)はこの上田城時代にはまだ青年で、それほどの活躍はしていません。 本丸跡 本丸からみた濠(内堀) 西櫓 西櫓 この西櫓が江戸時代からのこる唯一の建物 尼ヶ淵 ここは千曲川の支流としてあった尼ヶ淵の流れを要害としていた上田城の南側面で、通称「尼ヶ淵」とよばれています。 本丸土塁の隅落とし 土塁の隅落とし 内堀沿いに北東角までまわると、この城独特の「隅落とし」が見られます。神社や屋敷で北東の位置、すなわち鬼門の位置に厄除けのため隅切りをする例はよくありますが、ここでは本丸の土塁を大きく削って隅落としとしています。たいへん珍しい例です。 上田城縄張り図 上田の戦い合戦図 北国街道・柳町 上田城から徒歩10分ほどのところにある北国街道・柳町。北国街道はそもそも上杉謙信が軍用道路としてつくったものがその起源となり、江戸時代に整備されて宿場もつくられ、ここ柳町もそのときに発展したそうです。 【料金】上田城(櫓門と博物館セット)500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!