富士山,静岡

【静岡県・富士市~富士宮市~静岡市 2025.12.8~10】富士山は不二山と書かれることがありました。この世にふたつとない山と言いたかったのでしょう。ところで古事記にも日本書紀にも富士山についての記述がないという事実はけっこう有名なようで、ネットにも豆知識のようなものからウンチクを傾けたものまで種々のブログなど書き込みがあります。アマゾンで見かけましたが、記紀に富士山のことが書かれていないという事実を謎として、一冊の本まで書かれているようです。(まだ読んでいません) ところが記紀の編纂時期と前後して詠まれた歌をあつめた万葉集には富士山を詠んだ歌がいくつか収められています。我妹子わぎもこ(愛しい娘)に、逢ふよしをなみ、駿河なる富士の高嶺の、燃えつつかあらむ【作者不明】この歌は恋歌ですが、第一に富士山が当時は噴火していたことを記しています。さらにその富士山を恋心のたとえに使っていますが、世俗的なものではなく崇高なものと見立てているようです。 天地あめつちの... Read More | Share it now!

城郭・史跡,静岡

【静岡県・掛川市 2025.12.12】高天神城といえば、武田勝頼を思い浮かべます。さほど戦国時代の歴史に興味のない方からすると、そいつぁだれだ?となるのかもしれませんが、誰もが知っている武田信玄の跡取りです。信玄の四男とされています。信玄と正室とのあいだに生まれ最初から後継者とされていた嫡男・義信は謀反の疑いで切腹(幽閉されて病死との説がいまでは有力)、次男は盲目のため出家、三男は夭折。ということで四男の勝頼が後継者に指名されます。 たんに武田家の後継者であればメデタシメデタシだったのでしょうが、だれの跡を継ぐかといえば先任者はあの傑物にして英雄の信玄。これは重荷でしょう。しかも勝頼の母は、武田家の同盟者である諏訪氏の娘。諏訪氏は諏訪神社上社の神職を世襲する名族ではありますが、武田家の本拠が甲斐国であるのにたいして諏訪は信濃国の一地方。諏訪神社といわれても見たこともないし、家中ではそいつぁだれだ?の受け止め方だったのではないでしょうか。 勝頼は信玄に従って戦をかさね武功をあげますが、つねに力が入り過ぎた戦ぶりでした。本人が凡庸でしかも謙虚な性格であれば、信玄のもとにそろう名将ぞろいの重臣たちに支えられて武田家を(そこそこに)維持してゆくこともできたのでしょうが、勝頼は凡庸ではなかった。凡庸ではなかったからこそ父・信玄を越えたいと渇望したのでしょう。 高天神城 現地にあった案内図より抜粋山頂の石垣は昭和初期に造った模擬天守が焼失した残骸(この図は北が下になっています) カーナビに目的地として「〇〇城」と入力して検索した際、それが山城だと「該当なし」で非協力的な対応をされることが多いのですが、今回借りた車のカーナビは新しいのか古いのか知りませんが、「高天神城」と入力一発で目的地表示をしてくれました。ただし到着したのはなぜか搦手口(裏口)、どうせなら大手口(表口)から登城したかったのですが、まあ良しとします。 高天神城の歴史はといえば、今川氏の勢力下で維持されていたものの武田氏と徳川氏が(一時的に)同盟して今川を滅ぼした段階で徳川の支配下にはいります。さらに武田と徳川が同盟を破棄して争うようになると、信玄が2万とも3万ともつたわる大軍勢で包囲しますがなんとか持ちこたえます。ところがその3年後、この年は信玄の没した翌年になりますが、勝頼がやはり2万の軍勢をひきいて強襲し降伏させます。この戦勝によって勝頼の名は全国に知れわたります。理由は信玄でさえ落とせなかった城を跡継ぎ息子が落とした。このとき勝頼は父・信玄を越えたと勘違いしたのかもしれません。 搦手口から二の丸へ 搦手門跡から整備された道を上がるネットで調べたところ大手口からの登城道も同じように整備されていました 三日月井戸(右)... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,静岡

【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・三島市 2024.1.16】三島市の中心街から北東へ、ちょうど箱根に向かって国道1号線を登ってゆくと山中城跡があります。北条氏の始祖・早雲が韮山城を拠点に関東全域へと進出してゆく過程で、小田原城を落としますが、その小田原城を居城とするのは早雲の子である北条氏2代目氏綱の時代からとされています。北条氏は小田原城を改修し天下に聞こえた総構えの巨城へと変貌させる一方、その周囲には支城をつくり防御を鉄壁なものにしてゆきます。山中城は3代目氏康により造られた、小田原城から見て西の防御の要となる城で、東海道を箱根に向かって上がってきた敵軍を、まさに待ってましたとばかりに迎え撃つ絶好の地に造られました。(後北条氏が北条を名乗るのは2代目氏綱が壮年になってからで、元の性は伊勢。早雲については終生、伊勢宗瑞を名乗っていました) 山中城へ 国道1号線を走るバスの車窓から富士山を望む バスは三島スカイウォークの前を通ってゆく 山中城跡 バス停横にあった案内板より一部抜粋 三の丸堀の脇を進みます 田尻の池 箱井戸... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・沼津市 2024.1.16】駿河の興国寺城は、戦国時代には北条氏、今川氏、武田氏の勢力争いのいわば境界地にあたり、それぞれに奪い奪われを繰り返します。さらに信玄の今川氏討伐、信長の武田氏討伐、秀吉の北条氏討伐を経て豊臣氏の勢力下におかれ、その豊臣氏は家康に滅ぼされ最後には徳川氏が支配者になります。興国寺城の歴史を見ていると、戦国時代の大物がずらりと登場することになるのですが、源をたどれば北条氏の始祖・伊勢宗瑞(あるいは伊勢新九郎)のちに北条早雲とよばれる、これまた大物に行きつきます。宗瑞が京の都において幕府の仕事にかかわっていたころ、駿河の今川家では8代当主・義忠が戦死しますが、嫡男が幼少であったため家督争いがもち上がります。その義忠の正室が宗瑞の実姉であったことから、宗瑞は駿河に呼ばれ調停役を務めることになります。ここで二つの説があります。宗瑞の知略で相続争いは血を見ることなく無事に解決したというもの、そうではなく宗瑞はあくまで幕府の代表として赴いたため幕府の威光のまえに逆らうものがなく無事解決したというもの。どちらにしても宗瑞の計算された立ち回りがあったからこその無事解決であり、この時点ですでに宗瑞には一旗も二旗も上げる覚悟があったということではないでしょうか。たしかに宗瑞はこの上首尾の調停の功により富士下方12郷をあたえられ興国寺城の城主となります。(ちなみにこの当時、駿河の国は7郡59郷で成りたっていたようなので、宗瑞はその2割ほどをもらい受けたことになります。あきらかに幼い当主の後見人的な立場を得たものと考えられ、同時に大きな発言権と実行力を手にしたとも言えます) 興国寺城へ ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・焼津市~静岡市 2023.1.12】昨日は焼津海岸から静岡市との市境の大崩海岸まで歩きましたが、今日は山をつたって静岡市に入ります。山に入るにあたって、まず小山に築かれた花沢城址に寄り、むかしながらの家並みがのこる花沢の里を訪ねてみます。 花沢城址へ 焼津市街より山へと歩く 真ん中にみえる一番高い山が高草山で、その右側の少し低い山が花沢山です。右側を走っているのは新幹線の高架。ときどき横をすり抜けて行きますが、あまりに高速のため一瞬で姿が見えなくなります。 D途中から山へと道をまがると、ミカンの木が 花沢城址への向かう道から振り返ると、ミカンの木々が この道が花沢城址へつづきます 関西ではミカンと言えば和歌山ですが、静岡もミカンの産地でした。ミカンの木々には、まだいくつか実がぶら下がっています。ちなみに静岡産の「三ケ日みかん」をむかし取引先から頂いたことがありますが、とてもとても美味でした。 出丸 花沢城の出丸からは、下界の様子がよく見える しかし振り返ると、高草山からはこちらが丸見え 花沢城は今川義元の命により西の守りの要としてつくられた山城です。ところが義元が桶狭間の戦いで信長勢に討ち取られると、求心力を失った今川家の下からは家臣がつぎつぎに離散してゆきます。今川氏が守護する駿河、遠江の北に隣接する甲斐の国にはその当時武田信玄がいました。信玄が今川家のその衰えはじめた兆候を見逃すはずがありません。信玄は今川氏を平らげるべく侵攻を開始します。その最初の標的になったのがここ花沢城でした。花沢城側も果敢に抗戦したため激戦となりますが、やがて落城します。ここで気になるのは、その花沢城攻めのさいに武田信玄は向かいにある高草山に陣を敷き、花沢城を見下ろしながら戦ったと記録にあります。たしかに高草山に陣を敷いた方が有利です。ではなぜ今川家は武田軍侵攻にたいして高草山にあらかじめ砦をかまえなかったのか。それ以前に、なぜ最初からより高い高草山に城を築かなかったのか。その疑問に対する答えをさがしにこの城跡を訪ねたのですが、得られたものはなにもありません。要は今川氏側の無策であり、なぜ無策であったかといえば油断があったからで、なぜ油断があったかといえばみずからの出自と由緒に驕っていたから、とまで言うと言いすぎでしょうか。 曲輪跡 六の曲輪跡 一の曲輪と二の曲輪をしきる堀切跡 一の曲輪(本丸)跡 右の平たん部が一の曲輪、左奥が高草山 花沢の里 花沢の里は???-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,富士山,静岡

【静岡県・焼津市 2023.1.11】富士山のビューポイントをつないで、富士山の周りをぐるっと一周歩いてみたいと、かれこれ5年ほど前から考えていました。計画を実行するうえで一番の問題になったのは、「富士山が見える日」でなければ出かけても意味がないということです。大阪に住みながら富士山の映像や画像をくりかえし眺めていると、それらは当然晴れた日のうつくしい富士山の姿ばかりを見ることになり、なんとなく富士山の近くまで行けば、いつでも晴れわたった空のもとで富士山を見られるものと錯覚していました。調べるにしたがい「富士山が見える日」は「富士山が見えない日」よりもはるかに少ないことがわかりました。日中の時間内で富士山全体が見えるのは年間にすると20%に過ぎません。さらに大阪から行くとなると、日帰り旅行を繰り返していたのでは交通費がバカになりません。せめて一泊、できれば二泊、すなわち2日連続か3日連続で「富士山が見える日」が必要になってきます。大型連休は、宿泊費、交通費とも価格がはね上がるうえに、どこも大混雑で出かける気持ちになりません。では土日、あるいは土日祝はというと、「自分が出かけられる週末」に「富士山が見える日」がうまい具合に重なることはなかなかありませんでした。昨年秋に仕事を引退しました。いつでも「富士山の見える日」に自分のスケジュールを合わせられるようになりました。 焼津海岸 焼津港... Read More | Share it now!