街歩き・山歩き,山登り,滋賀

【滋賀県・長浜市 2025.9.7】 今日歩きに行こうとしているのは、「山本山」という名の山です。大阪市内に居住する私のスマホで「山本山」と検索すると、「山本山 阪急うめだ本店」「山本山 阪神梅田本店」と出てきます。これは言うまでもなく、お茶やら海苔やらを製造販売するあの会社、その大阪での出店店舗になります。「山本山」、たしかに一風変わった山名です。「山本山 名の由来」で検索すると、(京都)宇治の山本村出身の山本〇〇さんが上京して、お茶などを扱う商売をはじめ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,三重

【三重県・名張市 2025.8.21】8月も下旬になったというのに相変わらず猛暑日がつづいており、山登りであれ寺社巡りであれ、この点天下を歩くと考えただけでうんざりしてしまいます。そこで思いついたのが、渓谷歩きというか滝めぐりというか。大阪市内から近鉄大阪線で東へすすみ奈良県を通り抜けるとすぐ、三重県の名張市にいたります。あらかじめ天気予報で確認したところ大阪市内と名張市のこの日の最高気温は同じ36度。午前10時に電車がついた赤目口駅の気温は33度。この条件下であれば、とうてい散策を楽しむ気にはなれません。 駅前でバスに乗り換え、山中へ走ること15分。終点の赤目滝入口バス停は赤目口駅と標高ではさほど変わりないので気温自体は下がっていないはずですが、まわりの圧倒的な緑の量の差でしょうか体感気温はかくじつに2、3度低いように感じます。 赤目四十八滝 ここが入口... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・西宮神社 2025.5.8】きょうは、招福の神であり商売の神様でもある、恵比須さまを祀るえびす宮の総本山、西宮神社に参詣します。そもそも恵比須とはどのような由緒をもつ神様なのか。いわゆる七福神のなかで、唯一日本古来の神様です。(他は大黒天、弁財天、毘沙門天がインド由来、布袋、寿老人、福禄寿が中国由来)日本古来の神様であるなら記紀(古事記と日本書記)に記述があるはずですが、たしかに日本書紀の国生みの話のなかで1つではなく数度にわけて書いてあります。それぞれ表現は違うのですが、すべてを総合すると、「伊弉諾尊いざなぎのみことと伊弉冉尊いざなみのみことが日の神と月の神を産んだあとに生まれたのは蛭子(ひるこ:蛭ひるのように手足のない子、あるいは不自由で3歳になっても脚が立たなかったとも)でした。そのためイザナギ、イザナミは古事記によると「出来がわるい」と葦の船にのせて海へ流してしまいます。なんとも残酷というか可哀そうな話なのですが、この流された蛭子の運命はこれで尽きたわけではありません。ここから先の話は、記紀をはなれます、出典はわかりません... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良市 2025.4.16】JR奈良駅から別名「万葉まほろば線」として親しまれている桜井線にのって南へ下ると、最初の駅が京終(きょうばて)です。意味は文字通り平城京の終わり(果て、端)を意味します。さらに南下すると、帯解(おびとけ)駅があり、石上神宮いそのかみじんぐうが近い天理駅、古代遺跡の代表である纒向まきむき遺跡がのこる巻向、大神おおみわ神社と三輪山が鎮座する三輪をへて桜井駅へ。このあたりは大和がまだ倭と記されていた時代にヤマトの中心であったと考えられている土地です。 「まほろば」とは古事記にも出てくる古語で、漢字で書くと「眞秀呂場」となり「素晴らしい処」を意味します。そもそもはヤマトタケルが詠んだ歌「倭は 国のまほろば 畳たたなづく 青垣 山籠ごもれる 倭し麗し」が由来となっているようです。 奈良観光というと、東大寺や春日大社をふくむ奈良公園周辺、法隆寺のある斑鳩、桜と紅葉がみごとな吉野、あとは薬師寺、飛鳥(明日香村)、橿原神宮といったところのようですが、この万葉まほろば線沿いにもなかなか見逃せない処(観光客がぐっと少ないという意味では穴場)があります。とはいっても、天理~巻向~三輪~桜井あたりは以前にあるいてブログにも書きました。そこで今日は、京終から天理までの途中に位置する帯解おびとけで下車して周辺を歩いてみることにします。 帯解寺 帯解寺・山門 帯解寺おびとけでらの名の由来を書いておきます。文徳もんとく天皇(1200年ほど前に即位した第55代天皇)と后の染殿皇后が子供ができないことを悩みこの寺で祈願したところ、男児・惟仁親王(のちの清和天皇)をさずかり無事に出産。天皇はおおいに喜び「腹帯がとけて安産できた」との意味で、「帯解寺」の名を下賜されたとのこと。 本堂、左後方に十三重石塔 以上が一般につたわる由来ですが、実際のところはずいぶんキナ臭い史実が残っています。染殿皇后の元の名は藤原明子。父は藤原良房、皇族以外ではじめて摂政の位についた実力者(くせ者とも言える)です。 藤原良房の妹・順子は54代任明天皇に嫁ぎ道康親王を出産、これがのちの文徳天皇です。 本堂 文徳天皇は他の后がさきに産んだ第一皇子を寵愛していたものの、良房は娘である明子を入内させ惟仁親王を出産すると、天皇家に藤原家の血をさらに濃く注ぎ込むため強引に惟仁親王を立太子させます。※立太子とはつぎの皇位継承者として立てること。本来は天皇すなわち文徳天皇が決めるべきことをここでは岳父の良房がやってしまっている。 帯解寺の名の由来にケチをつけようというのではなく、歴史は裏があるから面白い、と思いませんか? 円照寺 帯解寺から円照寺へは徒歩20分 長い参道を歩いてゆくと、 やっと山門に着きます ところが未公開の拝観謝絶でした(笑) 山門手前から霊気漂うような石段が なんとか歩けるように整えた道をすすむと、 大師堂にたどり着きました... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・吉野町 2025.4.9】およそ15年ぶりに吉野の桜を見に行くことにしました。ベストの見頃は明後日か明々後日のようなのですが、明日から天気がくずれるとの予報のため、快晴予報の本日決行することにしました。なぜ「決行」などという大げさな言葉を使うかというと、桜が見頃時期の吉野はえぐいほどの人出で、たとえば関西登山のガイドブックには桜のシーズンは混みすぎるので避けた方がよいと注意書きがされるほどです。人出に関して、それほど多くないのではと楽観できる要因は今日が平日であること、とんでもなく多いのではないかと悲観するしかない要因は明日から天気が悪くなるため(私と同じように)今日しかチャンスはないと考える人が... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,福井,滋賀

【福井県・敦賀市刀根~滋賀県・長浜市余呉町 2025.4.7】<青春18きっぷ>をつかって新大阪駅から福井県の敦賀まで、乗り換えなしの新快速にのると2時間かからずに到着します。そこからコミュニティーバスで30分南へ戻ると、滋賀県との県境ちかくに玄蕃尾城があります。この城は織田信長が本能寺で謀殺されてのち重臣たちによる覇権争いの最終決戦となる賤ヶ岳の戦いのさいに、琵琶湖南岸に陣をしく羽柴秀吉方にたいして北岸に陣をしいた柴田勝家方の、その勝家の本陣がおかれた場所です。城の名の由来については複数のサイトで確認できましたが、たんに勝家の甥にあたる佐久間玄蕃盛政の名に由来するとだけ書いてあるもの、この城が賤ヶ岳の戦いにおける佐久間玄蕃盛政の陣城と(誤)認識されていたとするもの、また盛政がこのあたりに行軍のための尾根道をつくり、その道が「玄蕃の尾根道」と呼ばれたことからとするものなどがありました。ともかく玄蕃盛政がなんらかの形で関わっていることは確かですが、築城主と書いているサイトは見当たらないので誰がこの傑出した山城を縄張したのかは不明です。(柴田勝家の指示のもとにつくられたのは確かです) 刀根バス停から歩く 刀根バス停で下車、ほぼ車の姿のない車道をあるく まったく車の姿のない林道をあるく 山の北面には雪が残っていた 登山口には駐車場があった... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・桜井市 2025.3.31】神様について、少々ややこしいですが、ここは肝心なところなので詳しく書いておきます。日本の神話においては天照大御神あまてらすおおみかみが最高神ですが、アマテラスが神のくらす天上界の主宰神(その世界を統べる主たる神)であるのにたいして、人がすむ地上界で国づくりをおこなったのが大国主神おおくにぬしのかみであり、そのためオオクニヌシは地上界(葦原中国)の主宰神とされています。さてアマテラスの数代あとの孫のひとりが日本の初代天皇である神武天皇です。神武天皇は127歳まで生きたということになっているので、このあたりの記紀(古事記と日本書紀)の記述はずいぶん疑わしいのですが、日本人として実直に信じるならば、いまの天皇家はアマテラスの後裔ということであり、それゆえに現人神あらひとがみとされています。そのアマテラスの弟が須佐之男命すさのうのみことであり、オオクニヌシはスサノオの数代あとの孫とされています。すなわちオオクニヌシは天皇家とは直接血のつながりがありません。それどころか記紀を読んでいるとスサノオは暴れん坊であったとか、オオクニヌシは優しい性格ゆえに兄弟に虐められていたとか、なんだか神様でありながら人間くさく身近に感じられるところが多々あります。個人的な推論ですが、天上界の主宰神アマテラスを天皇家の始祖とすることで、地上界のオオクニヌシをはじめ各地で祀られる氏神や鎮守神らと区別して、あくまでアマテラスすなわち天皇家は手の届かないものとします。そのうえで地上界の神々は人がスガルも良しアガメルも良し、困ったときだけの神頼みもOK、しかも家内安全・商売繁盛・厄除け・交通安全・念願成就・病気平癒・恋愛・結婚・安産なんでもござれ、任せなさい、頼りなさい、ということになったのでしょう。ということは、オオクニヌシこそ我ら平民のたよれる神様の、さらにその親方ということになります。オオクニヌシが祀られている神地としては出雲大社がもっとも有名ですが、奈良県・桜井市の三輪山にも祀られています。むしろ三輪山に祀られたとする歴史の方が古く、山麓にある大神神社おおみわじんじゃは日本最古の神社と記録されています。ところが大神神社の主祭神はオオクニヌシ(大国主)ではなく、オオモノヌシ(大物主)です。じつはオオモノヌシはオオクニヌシの異名です。なぜ異名で呼ばれるか... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,山口

【山口県岩国市 2025.3.18】岩国城は吉川広家により江戸時代初期に築城された城です。吉川広家について書いておきます。戦国時代に中国地方の覇者となった毛利家の宗主・毛利元就は、長男が早世したためその嫡男・輝元に家を継がせ、次男・元春については地元の有力国人である吉川家に養子入りさせ、後にその家督を継承させます。(要は家督の乗っ取り)(三男・隆景は小早川家に養子入りして後に家督をつぎます)その元春のあとを継いだ次男(長男は戦死)が広家です。広家は秀吉にその武と智を認められ、豊臣姓を名乗ることを許されるほどに厚遇されますが、どうやら秀吉の一番の側近である石田三成を嫌悪していたようで、その嫌悪ゆえに関ヶ原の役では情勢を冷静に分析して東軍・家康に内通することを決めます。関ヶ原で天下をかけた合戦がおこなわれている最中に陣から動こうとしない吉川軍にたいして西軍から矢のような催促がなされますが、広家は「いま昼飯の弁当を食べている」といかにも人を喰ったような言い訳をして不動を決めこんだため、この逸話は「広家の空弁当」としていまに伝わっています。ところで広家としては関ヶ原で不戦をきめこむことで実質的に東軍に味方したわけで、家康から毛利家の全領土の安堵を約束してもらったつもりでいたのですが、そこは役者が数段上の家康のこと、あっさり約束は反故にされ毛利家は10ヶ国120万石の大大名から周防・長門2か国36万石へと大減封されてしまいます。ここからの広家の立場は微妙です。毛利家では白い目でみられ毛利領の東の端である岩国に追いやられ、江戸時代を通して岩国は藩とは認められず長州藩の家臣として冷遇されます。一方徳川家からは相応の待遇をもってむかえられ一国の領主であり大名として遇され岩国の地にあらたな城を築くことを認められます。そうして築かれたのが岩国城です。 錦帯橋の頭上にみえる岩国城 錦帯橋と山上に小さくみえる岩国城・天守 錦帯橋をわたったあたり一帯が居城であり、山上の城は詰城に相当します。※詰城とは戦時に最期にこもって拠点とする山城のこと ところで晴れ男を自認する私にとっては珍しい雨模様、旅先で雨に遭遇するのはいつ以来でしょうか。傘を携帯するなど考えてもいなかったので駅そばの店で折り畳み傘を買いました。 自動車も上がれる道を30分雨は上がりました 山城の入口にあった案内図より抜粋 石垣 二ノ丸と本丸をまもる石垣 本丸側から二ノ丸側をみる 出丸をまもる石垣 大手門へつづく 天守 天守はコンクリートで復元したものですさすが晴れ男、山城に到着したら青空 天守は下層より上層の方が大きい、唐風とか南蛮風とよばれる様式だそうです 天守からの眺望 拡大すると錦帯橋がはっきり見えている もともとの天守台跡 昭和の時代に天守を復元するに際して、山麓から天守がよく見えるように、また錦帯橋とセットにした図柄の見栄えも計算して、もとあった位置(この天守台の位置)から30メートル南寄りに築城したようです。 またこの天守台の石垣も掘り起こして組み立てなおした復元物です。 堀、北の丸 本丸を離れると石垣は崩れたまま 個人的には、一部はそのまま残すことを希望します 本丸との間を区切る巨大な堀案内図によると、ここは水堀だったようです 違う角度からみると、石積跡がありました 北の丸 大釣井(井戸)跡 錦帯橋の頭上に岩国城か、岩国城の眼下に錦帯橋か、どちらの眺めも素晴らしいものですが、城の天守を南に動かして再築した事実を考えれば、前者は観光用につくられたものと言えます。しかも私にとっては前者の眺めは雨のもと、後者は晴天のもととなれば、自ずと軍配は後者となります。岩国を訪れた際にはぜひ山上まで上がって錦帯橋をふくめた眼下の絶景をお楽しみください。(ロープウェイも運行しています) 【アクセス】錦帯橋を渡った地点から山城まで徒歩30分、下りは20分【料金】錦帯橋:往復310円、岩国城・天守入城料:270円【満足度】★★★★☆  ... Read More | Share it now!