街歩き・山歩き,山登り,大阪

【大阪府・箕面市 2025.10.28】大阪北部にある箕面滝は、紅葉の名所ということもあって年間200万人(2024年推定)もの観光客が訪れています。パソコンやスマホで滝の画像だけ見ると、「この滝だけで200万人?」と首を傾げるかもしれませんが、箕面滝の魅力を語るには、最寄りの箕面駅から滝まで3kmほどを歩く「滝道」とよばれる散策路の存在を抜きにはできません。箕面滝は車で訪れる方法もあります。その場合は滝のすこし高所にある駐車場に車をとめて坂道をあるいて下りてくることになります。他所様よそさまのやることにケチをつけるつもりはありませんが、これでは3㎞の滝道をあるいて訪れる人の半分どころか1割2割しか楽しめていないと、老婆心(いえいえ老爺心)ながらアドバイスせざる得ません。 それでは滝と滝道周辺は歩いて回るにどうなのか。滝道の途中で道を西に折れて... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・加西市 2025.10.25】羅漢像がびっしりならぶ、たとえば五百羅漢を見たいと思い、大阪周辺で探してみました。京都市の石峯寺と兵庫県加西市の羅漢寺がヒット。画像をじっくり見ていると、羅漢寺の羅漢像はどこかで見たような。そうです、なにやらイースター島のモアイ像を想わせる顔立ちのものが多数。気持ちは一気にこちらに傾きました。 羅漢とは阿羅漢のこと、仏教で最高の悟りをえた僧にあたえられる称号のようなものです。称号とはべつに単純にその境地に達した僧のことを「無学」と称します。「学がない」のではなく「すでに学ぶべきことがない」、なんと素晴らしい。ちなみに「無学」に達していない僧は「学ぶべきことがまだまだある」ということで「有学」。 ところで最高の悟りをえて学ぶことがすでにない、といえばそれこそ仏陀ではないかと思うのですが、仏陀は釈迦にのみ与えられる称号で、その弟子たちはみんな阿羅漢。それゆえ五百もの羅漢像がならんでも胡散臭くはないということになります。 酒見寺 部分的に雰囲気をのこした町並みをあるく大阪からだとJR加古川駅で北条鉄道に乗り換え、終点の北条町駅で下車 楼門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・大津市 2025.10.19】ウソかホントかわかりませんが、かつて滋賀県民が大阪や京都府民と喧嘩になったときに、「琵琶湖の水、止めたろか」と脅し文句だか捨て台詞だかをかましてきたとか。滋賀県といえば琵琶湖、その琵琶湖を水源として流れ出る瀬田川が宇治川となり、さらに淀川になって大阪湾に注ぎます。しかも琵琶湖へながれこむ川は100本以上あるものの、琵琶湖からながれでる川は瀬田川1本のみ。大阪も京都も水源として琵琶湖の水におおいに頼っているところがあり、そのため大阪・京都が国を動かして行おうとする瀬田川流域の治水事業には滋賀が反発、滋賀が独自の案をだすと大阪・京都が猛反発。なぜかというと、琵琶湖周辺で水不足のときには滋賀は水確保のため瀬田川から流出する水量を減らしたいが、そうなると下流域の大阪・京都は渇水状態になり、逆に雨が続くと琵琶湖の氾濫をおそれて滋賀は瀬田川から水を放出したいが、そうなると下流域は水浸しの危険に。奈良時代に行基上人が瀬田川の治水事業を行おうとしたときに地域住民の反対にあったというのですから遺恨の歴史はたしかに古い。江戸時代にも琵琶湖にかかわる治水事業は計画どおりに進まなかったようで、明治から昭和にかけて民衆の権利や自由の度合いが大きくなるにつれ、反対運動もおおっぴらに見られるようになります。おそらく当時の歴史をふりかえって、冒頭の「琵琶湖の水、止めたろか」の台詞が後付けでうまれたのではないでしょうか。昭和の高度成長時代になり、さすがに治水とて一地域の問題ではなく全国規模で考える必要に迫られたのでしょう、滋賀県と下流域の府県の合意のもと、総事業費1.9兆円の琵琶湖総合開発事業が国の承認をえて行われたようです。 琵琶湖へ水が流れ込む JR大津駅で下車して東へ歩きます途中に山から流れ出る水を 琵琶湖へ運ぶ水路がありました 2日前に湖西の北端にちかいマキノから、琵琶湖岸沿いに南へ近江高島まで20kmともう少し歩きました。その日は特別な目的地もなく、長めの散歩のつもりで左手に琵琶湖の風景を眺めながら歩いていましたが、休憩の際に湖畔のベンチでスマホを弄っていると、琵琶湖の水をめぐって滋賀県と下流域の京都や大阪がたびたび揉めたことがあるとの記事を見かけました。そのとき「琵琶湖の水、止めたろか」の文言も目にしたのであり、そこからにわかに琵琶湖の水利に興味を抱くことになりました。水利といっても飲料や農業のため利用されている水の実態は上辺を見ただけでわかるものでもないので、おもに水運として琵琶湖がどのような役割を担っていたのかを見てまわることにします。 膳所城 膳所城の遺構としてのこる石垣堀は元々は琵琶湖と通じていた 膳所(ぜぜ)とは、平安時代に琵琶湖で獲れた魚介類を天皇の食膳にとどける場所、そこからつけられた地名です。ここに関ケ原合戦で勝利した徳川家康が東海道の抑えとして城を築かせます、それが膳所城です。ところでわざわざ琵琶湖の湖岸に城を築いたのは、東海道の抑えだけでなく、琵琶湖の水運の抑えも企図してのことではないでしょうか。 本丸城門(再建、元のものは他所へ移築)この日は秋祭りで露天、そして多数の人出 現地にあった案内図よりこのとおり水城でした 櫓も橋も再建したものですが、往時の城のたたずまいはイメージできます 本丸跡地秋祭りでなければ閑散としているのでしょうか 本丸から船着き場へ下りる石段前方に見えるのは近江大橋 往時はこの石垣まで湖水が迫っていたのでしょう 膳所神社 膳所神社 ここも秋祭りで多くの人出。鳥居の奥の表門が膳所城の大手門を移築したものと伝わっています。 拝殿 主祭神は食物をつかさどる豊受比売命とようけひめのみこと。伊勢神宮の内宮にまつられる天照大御神の食事をつかさどっているとされ、外宮にまつられる豊受大御神と同じ神様です。 大津城 近江大橋西詰から琵琶湖をのぞむ 大津城、ではない。往時の水城・大津城をイメージして作った滋賀県立琵琶湖文化館 大津城跡の石碑下の図からもわかるように大津城も水城です 大津城の成り立ちは、秀吉が明智光秀の居城であった坂本城(やはり水城であったと伝わる)を廃城にしてここに新たな城を築いたものです。 関ヶ原の前夜、大津城主の京極高次は豊臣方であったにもかかわらず突如寝返りここに籠城します。大津は交通の要衝であり、しかも琵琶湖水運の拠点でもあり、西軍としてはなんとしても大津城を奪還せねばなりません。西軍1万5千の軍勢が包囲し、なかでも立花宗茂の活躍でなんとか降伏させるのですが、その落城の日が関ケ原合戦と同日で、この1万5千の軍勢、なかでも戦巧者の宗茂が合戦に間に合わなかったことも西軍敗北の原因のひとつとされています。 大津城の数少ない遺構である石垣の一部おそらく後から組み直したものでしょう、下手くそ 民家のフェンス越しに撮影させていただきましたこちらはいかにも往時のものらしい 織田信長の時代には、信長本人が琵琶湖東岸に安土城を築き、ちょうどその対岸に甥の津田信澄に大溝城を築かせ、大溝城の南に光秀が坂本城、安土城の北に秀吉が長浜城といったぐあいに、信頼できる甥と、重臣二人をあわせて琵琶湖を四方から囲むよう領土の統治をおこなっています。 豊臣秀吉の甥であり後に関白になる秀次の居城は、安土城からすこし南の近江八幡城。秀次が聚楽第に移ってからは、石田三成がさらに少し南の佐和山城。徳川家康の場合も、徳川四天王のひとり井伊直政が佐和山城からさらに湖岸沿いに彦根城を築いています。こうしてみてくると、水運が物流の大動脈であった時代には、京の都に近いこともあって琵琶湖を抑えることは全国平定のためには必須だったのでしょう。 琵琶湖疏水 時代は明治へと飛びます。琵琶湖から取水してそれを京都までながすため、この疏水(人口の水路)がつくられました。利用目的は、飲用、農業用水、工業用水、さらに蹴上(現・京都市東山区)に発電所がつくられそこで本格的な水力発電もおこなわれました。そして水運も。 琵琶湖からつづく水路 大津閘門(おおつこうもん)ここで水位を調整して船を山側に送る 閘門を裏側からみる 水路は山に吸い込まれ、そして京都へ Oh!... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,滋賀

【滋賀県・高島市 2025.10.17】滋賀県は琵琶湖を中心にして、西側を湖西、そこから時計回りに湖北、湖東、湖南とよびます。4地域それぞれに山登りの対象となる山があり、個人的には湖西の山々が一番のお気に入りです。一口に湖西といっても南の端に比叡山、そこから北へ上がると比良山系、さらに高島山系とつづき福井県との県境に接します。今日はその福井県との県境上にある三国山にのぼり赤坂山へと縦走する、つもりだったのですが。 最寄りのJRマキノ駅までの車中でずっと悩んでいました。持病の鼻と喉のアレルギーがここのところずいぶん悪くて、咳とクシャミだけならまだしも、喉と鼻がつまって呼吸がしづらい。予定のコースは通常でも6時間ほどの歩きとなるため2つのピークを登攀して日が暮れるまでに下山して戻れるのか?鍛錬だの修行だのという年齢でもないし、ここは思い切って中止にしよう。とはいえ今日の天気は快晴。このまま帰るのはあまりにももったいない。もったいないと言えば電車賃も大阪から片道で1980円、往復だと3960円... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,京都

【京都府・亀岡市 2025.10.13】まず亀岡市の所在について、関西在住以外の方にはピンとこないかもしれませんので述べておきます。亀岡市は京都市の西隣にあります。紅葉時期の京都観光でひときわ人気の保津峡下りはこの亀岡市からスタートして京都市の嵐山がゴールとなります。歴史好きの方に対してなら、明智光秀が居城とし織田信長を討つため本能寺にむけて出発した丹波亀山城のあるところといえば、より興味を持っていただけるでしょうか。明智光秀とその軍勢が本能寺へひたひたと進んだのは旧山陰道ですが、その北側の山系の尾根をむすぶように通じる間道があります。距離的には長くはありません。亀岡市の東寄り(馬堀)から京都市の西寄り(桂)まで11kmほど。この道を「唐櫃越えからとごえ」と呼びます。 唐櫃とは、唐からつたわった脚のついた櫃ひつのことです。話は歴史をずっとさかのぼりますが、西暦4世紀ごろ朝鮮半島(三韓)を征伐したとされる神功じんぐう皇后が帰国したさいに、武器や武具とともに黄金の鶏を唐櫃にいれて埋めたとの伝承があります。ではこの地がその唐櫃が埋められた地なのかというと、そうではありません。唐櫃という地名は西日本に何ヶ所かあります。そのなかで兵庫県の六甲山の山中にも唐櫃という地名があり、そこを通る道を唐櫃道とよびます。その六甲山の唐櫃道を越える(より険しい道の意か?)ゆえに「唐櫃越え」と名づけられたのだとか... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,香川

【香川県・高松市、坂出市 2025.9.17】7世紀、朝鮮半島でおこなわれた白村江の戦いにいたるまでの経緯を述べておきます。そのころ中国大陸において隋のあとに興った唐は、朝鮮半島のなかで自国と国境を接する高句麗に対してたびたび侵攻をくり返していました。朝鮮半島の南端にある新羅は、唐からの直接の脅威はないものの隣国の百済とは敵対関係にあり、しかも高句麗が倒された時には、つぎは唐の進攻がわが身に及ぶことは明らか。そこでみずから唐にすり寄り、冊封国(宗主国=唐にたいして臣下の礼をとって朝貢国となり、攻撃を受けないだけでなく他国との争乱のさいには援軍を要請する)の位置におさまります。そして唐が高句麗を征圧するのと前後して、新羅は唐に対して百済征討を要請します。 そのころ日本(倭国)は百済と友好関係をむすんでいました。百済に危険が迫っていることを知った朝廷内では、救済のため海をわたって軍を派遣することも検討されますが、唐の戦力を怖れてのことか、あるいは侮っていたのか積極派の案は却下。そうこうしているうちに唐と新羅の連合軍は百済全土を蹂躙してしまいます。さすがに倭国の朝廷も目が覚めたようで、さっそく船をととのえて朝鮮半島にむかいます。これが白村江の戦いにいたるまでの推移です。さて白村江の戦いで、倭国と百済(の敗残兵)の連合軍は、唐に大敗、惨敗、完敗。這う這うの体で逃げかえります。こうして朝鮮半島では高句麗と百済が滅亡し、新羅は唐の冊封国となっており、いまでいう東アジアにおいて唐に相対するのは倭国のみとなっていました。 屋島城 冒頭「つかみ」の部分が一見ムダな記述のように思えるかもしれませんが、いかに当時の日本(倭国)が唐と新羅の進攻を怖れていたかが念頭にないと、対馬から畿内にかけていまにのこる古代山城の築城理由が実感として理解できないと思います。またこのとき日本(倭国)へと逃避した多くの百済の人々がそのまま定住し、朝鮮の文化や技術をつたえた歴史も認識しておく必要があります。いままでに訪ねた古代山城としては、奈良県の高安城➀(遺構はわずか)、岡山県・総社市の鬼ノ城きのじょう➁、福岡県・太宰府近郊にある大野城➀、基肄きい城➀ --それぞれブログはあります。今回は香川県の瀬戸内海を見下ろす位置にある屋島城➀、城山城➁をたずねます。※古代山城は厳密には、日本書紀に唐や新羅からの進攻を防衛するため築城したと記録ののこる朝鮮式山城➀と、記録がなく遺構の発見・発掘によって古代山城と認定した神籠石式山城こうごいししきやまじろ➁にわけられます。なお朝鮮式山城とよばれる理由ですが、日本に定住した百済人から伝えられた当時の朝鮮の技術により築城されたゆえです。 前方に見えるのが屋島の特異な山容 そもそも屋島は「島」ではありません。一部(北嶺)が瀬戸内海にむかって突き出してはいますが、南嶺からは地続きで、南から北の海へとのびる台地状の丘陵と思ってください。 現地にあった案内板より抜粋 今回歩くのは、城跡がのこる南嶺だけです。地図の右下の屋嶋城城門まで麓から登り、北へすすんで談古嶺、西へ進み南へくだり、屋島寺に寄ったのち地図上の南嶺を一周して城門までもどります。 そこそこ自分の足で上がる観光客もいるのか、登り道は丸太階段で整えられています。 防御のための竪堀が2列、いわゆる畝状竪堀跡 まもなく、とはいっても結構しんどい登りの後、城門にたどり着きます。 古代城ですから、言うまでもなく石垣は修復したもの 城門上から 城門を俯瞰する崩落を防ぐためでしょうが、修復のやり過ぎ 談古嶺から瀬戸内海を遠望する 談古嶺から西進しながら瀬戸内海へと突きだす北嶺をのぞむ 新屋島水族館あたりから北嶺をのぞむいかにもテーブルマウンテンの異名どおり 西尾根から南嶺の山頂あたりをのぞむ山頂ちかく中央の土色部分が城門 のちの城でいうところの、本丸跡いまは集いの広場と名づけられた公園? 屋島寺 見てまわった感想は、なんと言えば良いのでしょうか。ここは山城を探索にくるのではなく、瀬戸内海の眺望を楽しみながらの山歩きを目的に訪ねることを断然おすすめします。 城山城 上から読んでも下から読んでも「しろやましろ」ではなく、「きやまじょう」と読みます。兵庫県たつの市にも漢字で書くとおなじ城山城があり、こちらは「きのやまじょう」と読ませています。読み方はどうあれどちらも神籠石式山城であり、「城山城」という安易なネーミングを重複して使っていることからも推測できるように、古代山城はずいぶんたくさん造られたようです。 車道脇に城跡へあがる山道がありました ホロソ石... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,滋賀

【滋賀県・長浜市 2025.9.7】 今日歩きに行こうとしているのは、「山本山」という名の山です。大阪市内に居住する私のスマホで「山本山」と検索すると、「山本山 阪急うめだ本店」「山本山 阪神梅田本店」と出てきます。これは言うまでもなく、お茶やら海苔やらを製造販売するあの会社、その大阪での出店店舗になります。「山本山」、たしかに一風変わった山名です。「山本山 名の由来」で検索すると、(京都)宇治の山本村出身の山本〇〇さんが上京して、お茶などを扱う商売をはじめ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,三重

【三重県・名張市 2025.8.21】8月も下旬になったというのに相変わらず猛暑日がつづいており、山登りであれ寺社巡りであれ、この点天下を歩くと考えただけでうんざりしてしまいます。そこで思いついたのが、渓谷歩きというか滝めぐりというか。大阪市内から近鉄大阪線で東へすすみ奈良県を通り抜けるとすぐ、三重県の名張市にいたります。あらかじめ天気予報で確認したところ大阪市内と名張市のこの日の最高気温は同じ36度。午前10時に電車がついた赤目口駅の気温は33度。この条件下であれば、とうてい散策を楽しむ気にはなれません。 駅前でバスに乗り換え、山中へ走ること15分。終点の赤目滝入口バス停は赤目口駅と標高ではさほど変わりないので気温自体は下がっていないはずですが、まわりの圧倒的な緑の量の差でしょうか体感気温はかくじつに2、3度低いように感じます。 赤目四十八滝 ここが入口... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・西宮神社 2025.5.8】きょうは、招福の神であり商売の神様でもある、恵比須さまを祀るえびす宮の総本山、西宮神社に参詣します。そもそも恵比須とはどのような由緒をもつ神様なのか。いわゆる七福神のなかで、唯一日本古来の神様です。(他は大黒天、弁財天、毘沙門天がインド由来、布袋、寿老人、福禄寿が中国由来)日本古来の神様であるなら記紀(古事記と日本書記)に記述があるはずですが、たしかに日本書紀の国生みの話のなかで1つではなく数度にわけて書いてあります。それぞれ表現は違うのですが、すべてを総合すると、「伊弉諾尊いざなぎのみことと伊弉冉尊いざなみのみことが日の神と月の神を産んだあとに生まれたのは蛭子(ひるこ:蛭ひるのように手足のない子、あるいは不自由で3歳になっても脚が立たなかったとも)でした。そのためイザナギ、イザナミは古事記によると「出来がわるい」と葦の船にのせて海へ流してしまいます。なんとも残酷というか可哀そうな話なのですが、この流された蛭子の運命はこれで尽きたわけではありません。ここから先の話は、記紀をはなれます、出典はわかりません... Read More | Share it now!