お市の方の謎・お市は本当に美人だったのか
2023.10.28記
お市の方の像は福井市中心街・北ノ庄城址地に立っています。
この像の右には茶々、お初、お江の三姉妹像があり、その後ろには横向きに柴田勝家の座像があります。
まるで主役はお市のようで、ここは柴田神社の一角でもありますが、「美」を祈願する象徴 -ある意味では美の神 – のように幟(のぼり)がここにだけ立っていました。
画像は【aruku-187】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-187/
お市は本当に美人だったのか
織田信長の妹お市(市、於市、お市の方)は天下一の美人とまで伝えられてきました。
出所となるのは、『祖父物語』。そのなかにお市について「天下一の美人の聞こへあり」と書かれているのですが、この『祖父物語』そのものが江戸時代に聞覚えとして書き残されたもので、とうぜん生前のお市を見たものではありません。
ほかにも『渓心院文』というものがありますが、これはお市の次女・お初が成人してから嫁ぎ、夫に先立たれて出家し晩年常光院と号した時代に、本人ではなく世話をした同じ尼僧の渓心院が書き残したものです。渓心院はお市にあったこともなければ、これを書いた時にはお市の死後数十年経っており、その文中に「ことのほかお美しく、御年より御若に」とあたかも見てきたかのように書かれても、そのまま信じるわけにはいきません。
お市の肖像画が1枚残っています。
高野山の持明院に残る『浅井長政夫人像』がそれで、この画は長女の茶々が母の菩提を弔うため没後に依頼して描かせたものですが、この当時の肖像画をえがく際の習慣にしたがい、(当時の)美人のお手本通りに描かれたものであって、しかもいまの基準でいうと美人と言えるのかどうなのか微妙なところでしょう。
北ノ庄城址史料館に展示されていた『浅井長政夫人像』のコピーを写真撮影し、そこから一部切り取りました。
織田信長は妹想いだった
信長は徹底した合理主義で、しかも志(野望というべきか?)のためには非情に徹する人間だったかもしれません。しかし、同時に自分にたいして好意的な相手や、血を分けた肉親には意外に義理もあれば情もあるところを見せています。
信長が実弟の信行を死に至らしめて織田家を掌握したのはまぎれもない事実です。
ところが信行は一方的に、家督を継ぐことを亡父から認められている信長に対して反抗していました。信行は母・土田御前が兄・信長よりも自分を溺愛してくれることを良いことに、母の協力もあって家臣の大半を味方につけ信長を攻め殺そうとします。その戦では、信長直々の奮戦で信行側の惨敗に終わるのですが、土田御前のとりなしもあって信長は、頭を丸めて詫びを入れにきた弟を許します。じつはこのとき権六(のちの柴田勝家)も信行の先鋒として歯向かっており、頭を丸めるだけでなく切腹覚悟で同道していました。
これで一件落着かと思いきや、許しを得て生きながらえた信行はまたぞろ信長殺害を謀りはじめます。
このとき柴田勝家は、これ以上信行に臣従することはできないと考え、身をひるがえし信長に通じます。こうして信行の凝りもしない悪行を知った信長は、たとえ弟とはいえこれ以上生かしておくことはできないと決断します。
信長が実弟・信行を殺したのは、一度許したにもかかわらず二度まで信長の命を狙おうとしたからであり、また凡庸なだけでなく甘やかされて育った信行が家督をついでも織田家の隆盛はありえないことを分かっていたからです。
対照的に、最初は信長に敵対して先鋒として挑んできたものの、負けて許されると、つぎには信行に見切りをつけ信長の懐に飛び込んできた柴田勝家、その勝家は終生信長の重臣として重んじられます。
また信行を溺愛したものの本人が信長に刃を向けたわけではない母・土田御前、その土田御前も信長の居城で暮らし、孫の世話をし孫に見守られながら本能寺の変で落命する信長よりも長く生きたそうです。
年代で調べるかぎり、お市は那古野城でうまれ幼少期をおくり、信長が織田家の当主となってからは清洲城、つづいて小牧山城において信長のもとで成人したようです。
画像は、
清洲城【aruku-72】より https://yamasan-aruku.com/aruku-72/
小牧山城【aruku-71】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-71/
そのとき、お市は
お市は、自分が尾張一国の大名になった信長の妹である以上は、他国の大名家の男のもとへ嫁ぐことになる、いわゆる政略結婚をすることになるのはわかっていました。それを幸不幸の物差しで考えるつもりはありません。
しかしお市はもうすぐ二十歳になります。この時代の武家同士の結婚といえば、普通は15歳まで、遅くとも17,8歳までには嫁ぎ、早々に子をなしているものです。
お市は男たちだけでなく同性からも、自分の容姿を羨望の目で見られていることにもちろん気づいていました。それは少女のころからで、いまはどうかというと、男たちの視線には色情が見え隠れし、女たちの視線には嫉妬が潜んでいるのがわかります。
なかでも嫌悪するのは、あのサル藤吉郎(のちの秀吉)。貧相な容姿と御機嫌取りのための卑屈な言動だけでも不快この上ないのに、平伏しながらも物欲しそうに見上げるあの視線。
それに対して権六(のちの柴田勝家)の生真面目には笑ってしまう。性格は武骨で、鬼瓦のような顔だけれど、目が合ったりすると顔を伏せてしまい、よく見るとその顔が赤くなっている。ずいぶん年上のオジサンだけれど、カワイイ。
この権六、むかしは兄・信長に敵対していたらしい。ところが兄に負かされて詫びを入れて許されると、それからはバカがつくほど実直に兄に仕え、いまでは兄も信頼しきっているみたい。
そう兄は、自分にふさわしい相手を、嫁いだ私を大切にしてくれる相手を探してくれているに違いない。けっしてあのサル藤吉郎のような男ではなく、権六のように誠実で、しかももっと若くて、もうすこし見てくれもいい人を。
そして信長が天下布武をかかげ天下統一にむけて走り始めた、この岐阜城から嫁いだようです。
画像は【aruku-17】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-17/
浅井長政は面食いだった
浅井長政は偉丈夫なだけでなく、誠実な人だったと伝えられています。
その出所となる逸話があります。
浅井家は長政の祖父・亮政(すけまさ)の時代には主君であった京極氏を追いやり、北近江一帯に勢力を拡大します。ところが目立つ存在になったことから、その当時南近江を守護していた六角氏と対立することになります。
亮政のあとを継いだ長政の父・久政はよく言えば温厚な性格で、そのため武将として成り上がって行こうというような気概はなく、むしろ六角氏の威勢の下で安全に浅井家を生きながらえさせようと考えます。
それをみた六角家の当主・義賢(よしかた)は主従関係をはっきりさせるため、六角の家系ではなく、六角の家臣である平井定武の娘を長政の嫁とするよう半ば強要し、さらに長政には「義賢」の一字をあたえ、「賢政」と改名するよう半ば命じます。
父・久政は粛々として拝受しますが、長政と気骨のある浅井家面々の不満はおさまらず、まず弱腰主君である久政を隠居させます。
そして長政は嫁としていた平井定武の娘を離縁して実家に帰すのですが、長政は輿入れ以来この嫁にはいっさい手を触れていなかったそうで、生娘のまま実家に戻したとのこと。
こうして浅井長政に率いられた浅井家は六角家との戦いに突き進んでゆきます。
この逸話がもとになり勇敢なだけでなく、実直な長政像が語り継がれてきたのですが、近年になって最新の研究から意外な事実が浮かび上がってきました。
じつは平井定武の娘は長政のもとに輿入れしておらず、その婚姻の話がすすんでいる途上に織田家から美貌の妹・お市との、ミエミエの政略結婚の話が舞い込み、先の話はキャンセル、美貌のお市に突き進んだようです。
六角氏が日本史上はじめて本格的に石垣を組んで城づくりをしたと記録されている、観音寺城。
なおこの石垣は新幹線の車窓からも見える、はずです。
画像は【aruku-43】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-43/
そのとき、お市は
新婚当初は、戦国時代にもかかららず幸福といってもいい生活を送っていました。
毎夜甘い言葉をささやきながらやさしく抱擁してくれる夫・長政、これほど美しい女性は近江にはいないと目を細めて迎えてくれた舅・久政、そして子宝にも恵まれ – – – あの頃のまま兄・信長との同盟関係をまもっていれば。
新将軍・足利義昭をかつぎ上げ、天下統一(信長がいう天下布武)にむけてばく進をはじめた織田信長。その信長が、将軍に対して臣下の礼をとらない朝倉義景を討伐するため越前にむけ軍をすすめたのは、お市が浅井長政のもとに嫁いだ3年後のことでした。
同盟関係にある北近江の浅井領を通過し、日本海側の金ケ崎まで悠然と進軍をつづけた織田軍でしたが、通過したためその時点では背後にまわる形になった浅井軍がとつぜん裏切ります。結果として前に朝倉、後ろに浅井、まさに袋のねずみ状態におちいった織田軍。しかし朝倉・浅井連合の詰めの甘さもあって、信長ほか主だった武将はなんとか無事この窮地から脱出します。
あのとき突然兄・信長に背いたのは、舅の考えにしたがったとか言うけれど、舅はすでに隠居の身。自分がお屋形なのに自分で決められないなんて。
あれは輿入れして三月目くらいの頃。
長政は私よりも前に六角家の家臣の娘と結婚したことがあったそうな。でもその結婚が押しつけられたもので納得がいかずその娘を離縁。ところがその娘には指一本触れていなかった。それぐらい誠実で生一本な男だと聞いていたのだけれど、舅がふと口をすべらせたところでは、六角の家臣の娘との婚姻の話がすすんでいる最中に、私との婚姻のはなしが織田からもちこまれ、長政は迷うことなく鞍替えしたとか。
なぜ六角のその娘ではなく、この私を選んだのか。舅が言うように、たとえ信長の妹はたいそう美人との噂をきいて選んだのであってもいい。でも本当のところは、六角か織田かの選択で、より強そうな織田を選んだということではないの。
なのになぜ、兄を裏切って朝倉なんかに媚を売ったのか。姉川の戦いでは、浅井軍は奮戦したものの、へっぴり腰の朝倉軍が早々に崩れて敗走、そのあおりを受けて浅井軍も総崩れ。
そのとき織田軍に抵抗しても勝ち目はないと悟って、早々に兄・信長に詫びを入れておけば、いまは柴田勝家と名乗っているらしいけど、あの権六が許されたように、きっと兄は許してくれたはず。
ところがその後も、覇気どころか戦意もない朝倉義景と組んで、右から左から兄に嫌がらせをするものだから、いまやこの小谷城は織田軍に攻囲され身動きできず、まわりの支城は攻略されてつぎつぎに寝返っている始末。
しかも憤懣やるかたないのは、あのサル藤吉郎(秀吉)がその攻囲軍の頭をつとめているとか。
秀吉が小谷城を攻囲するため陣を敷いた横山から、姉川の合戦跡地をのぞむ
画像は【aruku-183】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-183/
浅井軍がこもる小谷城のある小谷山。その小谷山を攻めるべく織田軍が陣を敷いた虎御前山。
ここで両軍はにらみ合いを続けます。
画像は【aruku-178】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-178/
柴田勝家は純情だった
本能寺の変で織田信長と長男の信忠が横死、備中から駆けもどった羽柴秀吉が一閃のもとに逆臣・明智光秀を討伐、そしてわずか2週間ほどのちに織田家の今後を決めるため徴集されたのが、舞台となった城の名から清須会議とよばれようになったものです。
この清洲会議、一般には秀吉の思惑通りにすすめられ、柴田勝家は貧乏くじを引かされたように解釈されていますが、それは正しいとは言えません。
まず織田家の当主を決めるにあたって、秀吉は信忠の嫡男であり信長の嫡孫にあたる三法師(のちの秀信)を推挙し、信長の三男・信孝を推す勝家を退けた、それがために秀吉は裏で工作をしたということになっています。ここで思い出さなければならないのは、本能寺の変の数年も前に信長は信忠に家督をゆずっています。すなわち信長が死んだ時点での織田家の当主は信忠であり、その信忠も亡くなったのであれば、その嫡男の三法師が跡継ぎとなるのは自然なことです。もちろん三法師は幼児ですから後見が必要で、その後見人についても信孝が責任をもって務めることを席上で確認しています。
領土の分配についても、この分配する領土はすべて明智光秀とその家臣たちの旧領ですから、明智光秀を討伐した戦功により比重が決まるものです。その意味では、光秀討伐には間に合わず何の戦功もない勝家は手ぶらで帰されたとしても不満は言えなかったのですが、このとき秀吉本人が山城、河内、丹波とすべて京都より西の領地をもらい受けることから、それまでの自領の北近江を気前よく譲ってくれました。
しかも北近江は勝家の自領である越前と地続きで、琵琶湖を船でわたるなら越前から京まで一直線となり、願ってもない、まさに棚からボタ餅だったはずです。
秀吉は、浅井長政の小谷城を陥落させた戦功により、信長から北近江の地をあたえられついに国持大名となりますが、小谷城は堅城ではあるものの山城で使い勝手がわるく、琵琶湖の岸にあたらしく城を築きます。
またこの地はもともと今浜と呼ばれていましたが、信長に対する御追従(おついちょう)で長の一文字をもらい、長浜と改めました。
画像は【aruku-33】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-33/
そのとき、お市は
そのころお市は清洲城で暮らしていました。
今日は、信長が光秀の手にかかって非業の死をとげてからまだ一月にもならないのに、表の広間では重臣があつまって織田家の今後のことを決めるため、ひざ詰め合って談合をしています。
女が口出しできないことゆえ、書見などしてみたものの話し合いの結果が気になって、なにを読んでいるのか頭に入ってこない。娘たちはどうしているのだろうかと侍女に声をかけようとしたところ、その侍女から甥の信孝がお話ししたいことがあって訪ねてきた、と。
信孝から聞かされた話し合いの結果には、思わず祝着至極と声をあげかけたくらい。
信忠のむすこの三法師が後継者になるのは理にかなったこと。そして後見役が信孝に決まったのも最善ではないかしら。長男の信忠、次男の信雄が、兄・信長がもっとも愛した側室・生駒の方を母にもつのに対して、信孝は家柄もはっきりしない妾同然の女のもとに生まれた子。そのぶん生まれた時から偏見の目で見られ、本人はそのことに反発していつも肩ひじ張って生きてきたようだけれど、性格は本当にやさしい子。三法師の兄代わりになって、しっかり支えてくれるはず。
領土の配分でも、なんとあの強欲なサル秀吉が、浅井家を滅ぼして、その褒美に兄・信長からもらった北近江の地をあっさり勝家にゆずったとか。いったいどういう風の吹き回しなのか知らないけれど、私たちが暮らした北近江の地がサル秀吉の足で踏みにじられるかと思うとあの後ずっと夜も眠れないほどだった、でも勝家の手に渡ったときいてそれはそれは安堵したわ。
でも一番、というより本当に気絶するほど驚いたのは、勝家のもとに嫁いでもらえないかと相談されたとき。
なんでも、話し合いの席で、お市の方にはこれからどこで暮らしていただこうかという話になったとき、勝家が「ワシのところで 」と蚊の鳴くような声で言ったとか。きっと昔みたいに顔を真っ赤にしていたに違いない。そう思ったら、おかしくて思わず笑ってしまった。
そして泣いてしまった、嬉しくて。
その夜、お市は
臥所(ふしど)に入っても眠れない。昼間の信孝から聞いた話、勝家にとってあまりにもうまく運びすぎていないかしら。なぜサル秀吉が、そこまで譲歩する必要があるのか。
浅井の小谷城から脱出したさい、迎えに来たのはサル秀吉。およそ10年ぶりに私を見たときのあの目。好色なのは昔とまったく変わってなかった、いや昔よりも傲慢さが加わっていた。一言でいえば、「いつか俺の女にしてやる」というような。
まず三法師を後継にしたのは、自然といえるけれど、三法師はなにもわかっていない。
信孝を後見人にしたことは、信孝は優しいけれど、サル秀吉からするとそのぶん扱いやすいかもしれない。
北近江の自領をあっさり譲ったのも、なにか企みがあるのではないか。
そしてこの私。サル秀吉の女になるぐらいなら死んだ方がいいけれど、でも一言も口をはさまず勝家の希望どおりにしたというのが引っかかる。
あのサル秀吉が、なにも謀(はかりごと)をしていないはずがない。
秀吉と勝家との最初で最後の一戦となる賤ヶ岳の戦い。余呉湖周辺の山々には秀吉の軍勢、その先の山々には勝家の軍勢が陣を敷きました。
画像は【aruku-186】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-186/
秀吉はなにをしたのか
幼児の三法師が当主であるかぎり、当主はお飾りとおなじで本人が意思を示すことはありません。
後見役の信孝は、三法師になにかあれば世が終わるとばかりに自国の岐阜城にかくまい、誰からの接触も断絶します。それに対して秀吉は、信孝が権力を自分で独占しようとたくらんでいると難癖をつけ討伐に向かいます。
北近江をゆずられた勝家はその地に甥の勝豊を配しますが、秀吉の言葉巧みな勧誘で寝返り、わずか半年ほどでその旧領は秀吉の手に戻ります。
なぜ秀吉は勝家にあっさり北近江を譲ったのか。いずれ勝家との最後の一戦に挑むさい、勝家の軍が越前にこもってしまうと、こちらから遠征しなければなりません。しかも越前は北国、冬は大雪におおわれるため長期間にわたって陣を置くことはできません。
ならば越前から畿内に通じる北近江をいったんは勝家にゆずり、そのうえであらためて奪還する。すると勝家としてはそのまま放置したのでは、領土を奪われながら動かぬと見くびられ、全軍の士気にさえ響きます。すなわち勝家は北近江を奪われたことで越前から動かざるえなくなります。
ではお市はなぜ勝家に。
お市のかたわらには、その美しさをまるごと受け継いだかのような娘がいました。
清洲会議のとき、茶々14歳。
当時武家の娘は普通15歳まで、遅くとも17,8歳までには嫁いでいました。
画像はともに【aruku-187】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-187/