応仁の乱の謎・日野富子をどこまで弁護できるか

日野富子の木坐像は京都・宝鏡寺にあり季節限定で開催される人形展の折に一般公開されます。
しかし写真撮影禁止のため、この画像は≪WIKIMEDIA COMMONS≫より拝借しました。

日野富子を弁護する

室町時代、8代足利将軍義政の正室・日野富子は北条政子とならび悪女の代表のように評されてきました。
わが子を将軍職につかせるためさまざまな画策をしそれが応仁の乱勃発の原因になった、世の中の窮状をよそに将軍の妻であり母であることを利用して巨大な財をなした、等々。
しかし調べれば調べるほど、悪女のイメージはひとつずつ払拭されてゆき、むしろ聡明で意志が強く毅然として生きた女性の姿がしだいに鮮明になってきました。

もうずいぶん前になりますが、学生時代に発生学という分野を学びました。これが(個人的には)じつに煩雑で大の苦手な授業だったのですが、まなぶ過程でひとつ強烈なショックをうけた事柄があります。
チンパンジーが進化してヒト(人間)になるというのは周知のことですが、詳細に述べるなら、「チンパンジーが進化してヒトになり、ヒトのオスとメスに分かれる」のではなく、「チンパンジーが進化してヒトのオスになり、ヒトのオスがもうひとつ進化してヒトのメスになる」のです。
すなわち発生学的に見た場合、人間の男よりも人間の女のほうがより進化した、より高等な生き物ということになります。
思えば、このときから女性に対する劣等感がめばえ、女尊男卑の思考にとりつかれたようです。

女尊男卑の視点で、日野富子について見直してみます。
まず気づいたこと、この日野富子を稀代の悪女とする資料はおおかた後世に書かれたもので、書き手はすべて男です。男尊女卑の思考でガチガチのオヤジというのは、優秀な女性をみるとあれこれ難癖をつけたがるものです。
そもそもが、日野富子については男尊女卑の視点で貶められ伝えられてきたのであれば、ここで女尊男卑の視点にかえて富子を弁護してみようではないですか。

宝鏡寺

宝鏡寺は光源天皇の皇女が開山していらい歴代の皇女が禅尼として住持をつとめる、いわゆる宮門跡でした。
日野富子はのちに出家し、妙善院の法名をえてこの北にあった大慈院にはいりますが、その大慈院がいまはこの宝鏡寺と一緒になって受け継がれたため、富子の像がその菩提とともに祀られています。

画像は【aruku-199】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-199/

日野勝光(兄)、重子(姑であり大叔母)、今参局(義政の乳母、愛人?)

日野家は藤原北家の嫡流にあたる公家で、代々天皇家に仕えていました。
室町時代になってからは、つぎつぎと足利将軍家と縁戚関係をむすび朝廷だけでなく、幕府内でも絶大な権力をもちはじめます。3代将軍義満には日野業子(正室、のちに死去)と康子(継室 / 業子の姪)、4代将軍義持には栄子(正室 / 康子の妹)、5代は早世、6代将軍義教には宗子(正室 / 栄子の姪、のちに離別)と重子(側室 / 宗子の妹)、7代は早世、そして8代将軍義政に富子が嫁いでいます。義政は義教の五男であり重子が母親、富子にとっては重子は大叔母(祖父の妹)といういかにも複雑な関係です。

将軍家に嫁いだ日野家の女にとって何よりも重要な役目は、跡継ぎを産むこと、これに尽きるといっても過言ではありません。跡継ぎを産めないのであれば、たとえ正室であっても将軍家にとっては男児を産んだ妾女よりも重きをなしません。
富子が輿入れしたのは16歳のとき、そして将軍・義政は19歳。若い夫婦にはすぐにでも子ができるものと周りからは期待されますが、なかなか富子は懐妊しません。どうやら義政は、富子との閨房での睦事をあまり求めなかったようなのです。

花の御所があったことをしめす石碑
発掘調査でみつかった花の御所の遺構

当時の御所は、緑濃い樹木と美しい草花におおわれた広大なもので「花の御所」と呼ばれていました。塀ひとつへだてた外の世間では、町は荒廃し道端には数多の行き倒れた人々がうずくまり倒れ伏しているにもかかわらず、塀のうちでは美酒美食で毎夜のように宴が開かれていました。
その花の御所もいまは相国寺近くの小寺に、その近辺にあったことを示す質素な石碑がたつだけです。
また近くの同志社大学の校内になりますが、わずかに当時の遺構をみるスペースが設けられています。

画像は【aruku-199】より https://yamasan-aruku.com/aruku-199/



ここでまず3名に登場してもらいます。
日野勝光は富子の兄であり、日野家すなわち自分が幕府内で大きな権力を握りつづけるためには何がなんでも日野家の出である富子に跡継ぎとなる男児を産んでもらわねばなりません。しかも義政は富子を正室として迎えるまでに早々と複数の愛人(婚姻関係はないので妾女)をそばに置いています。愛人のひとりでも男児を産み手練手管で跡継ぎにするよう将軍を籠絡した場合、愛人は妾女から側室にあがって正式に将軍家の一員となり、やがては将軍の母となります。
それは勝光が近い将来お払い箱になることを意味します。

重子は日野家の出なのでもちろん日野家の趨勢に無関心ではありませんが、すでに実子・義政が将軍となり、その次の将軍は孫の世代の話です。
また重子は7代将軍となった長男・義勝を溺愛しており、早々に義勝が次期将軍となるよう自ら働きかけ、逆に義政に対しては当時の慣習どおり未練なく仏門に入れています。義政も母が自分のことをむしろ疎んじていることを敏感に察しており、勝光が早世したため還俗して8代将軍となってからも実母にはつねに距離をおいていました。そうなると重子としてはいっそう早世した義勝のことを思うようになり、さてどれほど日野家の危機を目の前のこととして意識していたのか。

今参局(いままいりのつぼね)の「今参」ですが、本来は「いま参りました」がもとになる御所や大名家に仕えはじめた新米のことを意味します。しかし今参局は新米ではなく大ベテランです。
将軍・義政の乳母ということになので、富子が輿入れした時点ですでに義政のもとで19年間仕えていることになり、年齢はそのころ40歳になったぐらいで大年増に属します。
小説だけでなく解説書もふくめて多くの書籍が、今参局は乳母でありながら義政の初体験の相手をし、さらに性技を教え、そして妖艶な色香をたたえたいまも愛人関係をつづけていると書いています。確かなことはわかりませんが、そうであった方が事件によりリアリティーが加味されるので、今参局は将軍の乳母として権力をもつだけでなく愛人として義政を操っていたということにしておきましょう。

富子20歳のとき、ついに男児を出産します。ところが丸1日経たないうちに、その赤子は死んでしまいます。むかしは乳幼児の死亡率は非常にたかく(明治時代初期の乳児死亡率は25%、江戸時代には年間死亡者数の75%が5歳未満の乳幼児だったと記録があるそうです)、富子だけが不運に見舞われたというわけではありません。
ところがここで聞き捨てならない噂が流れはじめます。
富子が懐妊したことに嫉妬した今参局が夜ごと呪いをかけ、ついには胎児を祟り殺した。噂はやがて、今参局から頼まれたという呪詛かけの女が証人として引きだされて事実となり、今参局本人から事情を聞くことなく密室の中で誰かと誰かが審判して真実となります。
これは反逆罪にあたるのでしょうか、今参局は琵琶湖にうかぶ沖島に配流されることになるのですが、身の潔白を命に代えて訴えるためか沖島にたどりつく前に割腹自殺してしまいます。

さて、のちの世になると、話は一点に集約されます、日野富子は悲しみと怒りから妄執にとりつかれ今参局に濡れ衣をきせ、ついでに目障りな妾女たちもまとめて追放してしまった。
ここで、異議あり。
富子にとって子供が産まれてすぐに亡くなったことは確かに痛手だったでしょう。しかし当時は赤子が無事に生れ育つことはむしろまれで、それがために子供をスペアとして5人6人、大名家や将軍家であれば15人20人と産み溜めするぐらいで、最初の子が亡くなっただけでそこまで暴走するとは考えられません。しかも富子はこのとき20歳、まだまだ子供は産めるし、本人もその自覚はあったはずです。
さて、この事件、あきらかに主犯は日野勝光です。他人(将軍)の権威を笠に着て権勢をふるう、発生学的にはチンパンジーから進化途上にあるヒトのオス(人間の男)にはよくあるタイプであり、こういう手合いはいまの地位を守ることに汲々として、なにか不都合が生じると過剰反応してしまい犯罪行為すらたやすく犯してしまいます。
重子は従犯といったところでしょうか、おそらくは日野家のためにと勝光から諭され時に脅され、ついには協力したのでしょう。情状酌量の余地はありますが、無実というわけにはいきません。
今参局については、呪詛を行ったのか冤罪なのか証拠不十分で不問とします。
さて、富子ですが、罪に問われるようなことはなにもないではありませんか。

足利義政(夫、将軍)、足利義視(義弟)

義政がみずから設計した東山慈照寺(銀閣寺)

足利義政は将軍としては愚物でしたが、東山慈照寺に代表される東山文化をつくりだした文化人としてみれば傑物といえます。

画像は【aruku-41】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-41/

富子は最初の男児を産んだ三年後にふたたび出産しますが、これは女児でした。
翌年つづけて懐妊しますが、このときも女児。
その翌年、富子が25歳の時に、28歳の義政は将軍職を退きたいと言いはじめます。理由は「めんどう」「わずらわしい」「たのしくない」。
義政としては日々歌を詠み、茶をたて、そしてなによりも大好きな作庭や書画に専心したいと、他人からすると世迷い言としか思えないような決意を述べます。

義政が将軍職を辞する(放擲する)ためには、跡をつぐ次の将軍候補をまず確保しなければなりません。富子にもあらたに抱えた妾女にも男児は生まれていません。
そこで義政が白羽の矢を立てたのが、義政と同じように出家し今は浄土寺の門跡として義尋(ぎじん)の法名をもつ弟でした。
義尋は最初のうちは将軍職などやりたくないと拒否します。それでも義政からくりかえし説得されるにしたがって将軍という地位に興味を抱きはじめますが、まだ25歳の正室・富子がいずれ男児を産んださいには自分が用なしになるのは目に見えているので断ります。すると義政は、もし将来男児が生まれた際には、その児はまちがいなく出家させると宣紙を書いてまで懇願します。
こうして義尋は還俗し、管領(かんれい:幕府の中で将軍を補佐して実質的に執事をとりしきる最高責任者)の細川勝元を後見人とし、仏門に入っていたためなされなかった元服を終え、朝廷にとり入って従四位下を叙位され、名も足利義視(よしみ)とあらため次期将軍になるべく着々と準備をすすめます。

ちょうどその時でした、世の中は得てして皮肉なもので富子が懐妊し今度はまことに元気な男児を出産します。
富子としては将軍の正室として男児を産んだのであり、その息子に将軍職をつがせるのは当然のことと考えます。そこで管領・細川勝元に匹敵しうる幕府内の実力者である山名宗全(持豊)を生まれてきた子(のちの足利義尚:よしひさ)の後見人とします。
この将軍家のなかでの対立が応仁の乱がおこるそもそもの発端と言われており、義視擁立で決まっていたものを富子が我が子可愛さにあとから横槍を入れてきたがために世が乱れてしまったということです。
ここで、異議あり。
富子はまだ25歳でありこれから先も子供(男児)を産むであろう可能性が十分あるにも関わらず、嫌がる弟をむりやり引っぱり込んだのは外ならぬ将軍・義政本人です。28歳にして隠居しようとすることも、その理由が風流の道に生きたいという浮世離れしたものであることも、軽薄の極みとしか言いようがありません。
すべての責任は義政にあります。なによりも罪なのは、富子が懐妊したのを知っていながら弟を将軍職につけるようあたふたと準備を進めたこと、それでいながら生まれてきた息子を出家させる約束には頬かむりしていること。
始めるときには最大限の熱をもって取り組むものの、想定外の事態が起きると途端に優柔不断になり、いつまでも対処しないがために最悪の事態におちいる、発生学的には進化途上にあるヒトのオスにはよくあるタイプであり、義政は富子の産んだ男児すなわち我が子がもちろん可愛いものの、弟には男児が生まれたら出家させると宣紙まで書いており、身動き取れない中で時がたてば富子か弟かどちらかが折れると考えていたのか、願っていたのか。
残念ながら双方折れることはなく、争いは予想外に早く大きく拡大してゆきます。
しかし双方折れないからと言って、富子にも義視にもまったく罪はありません。むしろふたりとも被害者と言っていいぐらいです。

等持院の庭には、義政お気に入りの茶室がある

龍安寺にほど近い等持院は足利家の菩提寺であり、歴代将軍の木像が祀られています。
室町時代あるいは足利幕府に興味をもって見学すれば、まことに感慨深いものがあります。

画像は【aruku-206】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-206/

細川勝元(管領)、山名宗全(四職)、大内政弘など多数(すべて守護)

足利将軍家の家督争いは応仁の乱の先駆けになったというだけで、実際に戦火を見ることになったのは、反目する細川氏と山名氏が各々相対する相手方の後見役となり、その家督争いに便乗してみずからの勢力拡大を図ったのが最大の原因です。
細川勝元と山名宗全ははじめから不仲だったのではなく、むしろ勝元が宗全の娘(養女)を正室にするなど友好関係を維持しようとしていました。ところが幕府内で突出した地位に安泰していたはずの細川氏でしたが、山名氏の勢力が急拡大することで危機感をいだきます。
まず最初はおなじ守護である斯波(しば)氏の家督争いへの介入です。現守護である斯波義兼を支持する宗全が自分の娘を嫁がせてまで後押ししているのを見て、勝元はいったん追放処分されていた斯波義敏に手を差しのべ将軍じきじきの口利きをたのんで義敏の復帰を実現させます。ここで宗全の娘婿である斯波義兼は守護職を失うことになります。

やはりおなじ守護の畠山氏でも応仁の乱より10年ほど前に家督争いがありました。このときは細川勝元が畠山政長を支援したため、対抗する畠山義就は冷や飯を喰わされることになりますが、ここにきて政長を抱きこむ勝元にたいして、宗全は敵の敵は味方とばかりに義就支持を明確にします。

赤松氏もかつては播磨、備前、美作3国の守護でした。ところが足利6代将軍・義教の強権に反発して将軍を暗殺。そのため幕府軍の討伐を受けることになり、当時の当主らは自害または殺害されます。その幕府軍を率いていたのが山名宗全であったことから、赤松氏の守護する3国はすべて宗全のものになります。
京で騒乱の気配を感じとった赤松政則はさっそく細川勝元に近づき、宗全にうばわれた3国の守護に返り咲くことを画策します。

大内政弘もいまの山口県から九州北部などを管轄する守護で、兵力でいうと応仁の乱に加わった守護大名の中で最大勢力ともいえます。大内氏は地元の強みをいかし日明貿易で莫大な利益を上げていました。そもそもこの日明貿易は国と国との貿易であり、幕府は抽分銭という税金を一定額払わせる(要するに上前をはねる)ことで博多の有力者に運営を任せていました。
そこに幕府代表として現れたのが細川勝元、将軍の覚えめでたいだけに辣腕家でもありうるさ型でもあり、政弘としては自分の権益を守るためには勝元を失脚させるのが最善手です。ならばと、山名宗全に加担します。

上御霊神社

畠山政長が上御霊神社に陣をしき、畠山義就と山名宗全が攻めたことから、この地で応仁の乱がはじまります。

画像は【aruku-199】より
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このようにして各者が各様に欲の中にどっぷりつかってうごめいているのですから、からみ始めた糸はさらに絡むばかりで解決するための糸口すらみつかりません。応仁の乱が勃発して6年後に山名宗全、細川勝元が相次いで病死し、戦乱の火はいくらか衰えはしますが、その後もくすぶり燃え上がりを繰り返しながら最終的には11年間も続いたことになります。とくに京の町は灰燼と化してしまい、鴨川に積みあげられた餓死者の数だけでも8万人、全国での総死者数となると数えようもないほどでした。

この戦乱のただ中に、富子は両軍に対して金銭を貸しつけていました。しかも高利を取っていることから、富子は悪徳錬金術師と痛罵され、戦が長引いたのは一にも二にも富子が高利を稼ぐために戦の資金を貸したからだと批判されています。
ここで、異議あり。
富子が金を貸したのは事実ですが、両軍に、すなわち自分の味方に対してだけでなく敵軍にも貸していることに注目してください。あきらかにどちらかを勝たせようという意図はみえません。
応仁の乱とは明確な目標もなく、ましてや信念や志もなく、義戦でもなければ聖戦でもありません。それを象徴するような事例があります。

細川勝元はそもそもは足利義視の後見人であり、その義視を次の将軍に擁立するべく立ち上がったはずです。ところが現将軍の義政がしだいに実子・義尚への将軍継承に気持ちが傾きはじめていることを敏感に察し、義視の後見人であり続けることに不安を感じはじめます。そこで勝元みずから義視にふたたび出家するよう勧めて比叡山に向かわせたとも、義視自身が身の危険をかんじて伊勢だか伊賀だかに逃避したともいわれていますが、ともかく当の義視が居なくなってしまいます。
さて勝元ですが、節操がないというのか厚顔無恥というのか、義視が姿を消すやいなや義尚擁護にあっさり鞍替えします、もちろん意志や信念があってのことではなく、現将軍・義政への御追従にすぎません。
これだけでも驚きですが、この勝元の転向にたいして敵方の山名宗全は姿を消した義視を探し出し、その義視を擁護する立場に転向します。なぜ宗全は転向したのか。
勝元も義尚を擁護することになると、両者(両軍)ともおなじ義尚を支持することになり、戦をつづける大義名分がなくなり、手打ちをして終戦ということになります。勝ち負けが決まらぬまま終戦となった場合、「両者とも失うものがないように」手打ちするのが常とされていました。すなわち戦がはじまる前と同じ状態に戻すということです。
応仁の乱がはじまった当初は東軍(勝元方)が優勢でした。しかし大内政弘が大軍をひきいて参戦したことでその後は西軍(宗全方)優勢な状況がつづいていました。宗全としてはここで終戦になると、「勝利したときに得られるであろう権益」をみすみす手放すことになります。宗全には意志も信念も不要、ただ戦をつづける必要がありそのためには戦をつづける大義名分を失うわけにはいかなかった、そのため義尚から義視へ転向しました。
こうして応仁の乱が起こった原因とされる足利将軍の継承争いですが、それぞれが擁立しようとする候補がいつのまにか入れ替わってしまっているのです。

金が尽きれば戦をやめるかといえば、この戦が欲と欲のぶつかり合いである以上、金がなくなれば敵の領地から略奪してでも続けるでしょう。
富子は金を貸した相手からはその手にする武器を担保にとっていました。金が返せず武器を押収されるまでもなく、みずからの武器を担保に入れてまで戦をつづけるアホ臭さには、さずがに発生学的には進化途上にあるヒトのオスでも矛盾を感じるものがいたのではないでしょうか。

この近所に山名宗全の邸宅があったことから西軍(宗全を頭とした軍)はこのあたり一帯に陣をしき、そのため西陣の名が残りました

画像は【aruku-199】より
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義尚(息子、9代将軍)

義尚(よしひさ)の性向はあきらかに父・義政似だったようです。すなわち将軍には適していない。
聡明で、学問をよくし、とくに和歌に長じていたといいます。しかし気に入らないことがあると突発的に髻(もとどり:頭の上にたばねた髪の束)をみずから切って反抗していたようです(髻を切るのは出家することを意味します)
この父にしてこの子あり、と思わせる事件があります。
父・義政は相も変わらず風流の世界でうつつを抜かしていましたが、同時に酒色におぼれることも日常で、このころは若くうつくしい公家の娘を寵愛していました。ところがつい最近日野勝光(富子の兄)の娘を正室として迎えたばかりの義尚はその実父の愛人に執心し、ついには寝取ってしまいます。
もちろん義政は怒り、富子は叱責するのですが、義尚はこのときも髻を切って家出してしまいます。(もちろん出家するはずはなく、しばらくすると戻ってきます)
これだけでも富子にとっては情けなくもあり忌まわしい事件だったことでしょうが、続きがあります。意趣返しかどうかはわかりませんが、今度は父・義政が息子の別の愛人に手を出すという事件がつづきます。
この父子はただ好色なだけでなく、節操がないという点でも共通しているのでしょう、ほかにも義政は細川勝元の妻と、義尚は山名氏の娘と、等々数え上げたらキリがないほど醜聞が出てきます。

このころ富子は京への入り口7か所に関所を設け関銭(通行税にあたる)を徴収したり、米相場に投資したり、京の金をすべて集めているのかと皮肉られるほどの財をなし、守銭奴と侮蔑されます。
これらの批判に対しても反論はあります。
富子はそうして貯めた金で、応仁の乱で被災した内裏(皇居)を建て直したり、住むところも失った公家に住居の世話をしたり、ほかにも長引く戦に金銭的にも疲弊した守護に金をわたして帰国させたり。
義政が将軍であるがゆえに得られる幕府の金を東山慈照寺(銀閣寺)建立や書画の蒐集につぎ込むのに対して、富子は自分の力で稼いだ金のうち(どれだけを自分の見栄と欲のために費やしたかはわかりませんが)すくなくとも相当の額を幕府の力を取り戻すため、世を平穏に戻すために使っています。

それにしても、これ以上富子の弁護をつづけるのには疲れました。富子にたいして疲れたのではなく、富子がどれほど情けない思いをしながらアホな男どもに相対し続けたのかを思うとき、きっと富子が感じたであろう徒労感がどっと全身にのしかかってきます。
私利私欲におぼれ煩悩のかたまりとなって応仁の乱にかかわった男たちは、「チンパンジーから進化途上にあるヒトのオス」ではなく、「チンパンジーから退化途上にあるヒトのオス」だったのではないでしょうか。

【2023.12.29 記】

鈎の陣跡

足利義尚は応仁の乱終結後もドサクサにまぎれて好き放題をつづける六角氏を成敗するため出陣し、いまの滋賀県栗東市にある鈎(まがり)に滞陣中、25歳の若さで亡くなります。
死因は過度な飲酒と淫行によって体を壊したあげく脳溢血で倒れたと伝えられています。

画像は【aruku-212】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-212/

日野富子

Posted by 山さん