乃木希典の謎・「坂の上の雲」で貶められているのか

学習院院長時代の乃木希典の胸像

京都の乃木神社は、明治天皇桃山御陵に対面するように、その麓に建てられています。
境内にある胸像は、日露戦争終結ののち明治天皇の御意で学習院院長をつとめたその当時の姿を遺しています。
乃木希典の性格として一般に知られているところは、「清廉潔白」「謹厳実直」となりますが、この像の表情にはどこか茶目っ気のある好々爺の印象が見られます。

乃木大将は愚将か

乃木大将が愚将ではなかったのかと評価を下げたのは、やはり司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」が発表されひろく読まれたのが大きな要因と言えます。
司馬氏といえば、広い意味での天才を描くのが好きなようで、坂本竜馬の活躍をえがいた「竜馬がゆく」、斎藤道三の成り上がる姿をえがいた「国盗り物語(前編)」などが有名ですが、「坂の上の雲」も主人公は陸軍と海軍でそれぞれ活躍する秋山兄弟であり各々タイプの違う天才として描かれています。
脇を固めるほかの軍関係者も、満洲軍総司令官・大山巌や同総参謀長・児玉源太郎らはもちろん、日露戦争当時の世界最強の爆発力をもつ下瀬火薬を発明した下瀬雅允もひとつの天才として描かれています。

それでは乃木希典はどうなのかというと、たしかに天才はおろか有能とさえ言っていませんが、はっきり愚将と評している、といえるのでしょうか。
「無能」とはっきり断定しているのは乃木の下で参謀長をつとめる伊地知幸介に対して。その評しかたはほとんど罵倒であり軍人としての能力にとどまらず人格までも否定しています。そして乃木については、これほど無能な参謀長が下についていたことこそが乃木の不幸であった、と断じています。

司馬氏はさきに乃木希典を主人公にした「殉死」を発表しています。おそらくは「坂の上の雲」を書くための準備の段階で諸資料をしらべるうちに、乃木の存在が意識の中でおおきな比重を占めるようになってきたのではないでしょうか。
仮説というよりも空想です、その時点での司馬氏の構想では「坂の上の雲」の主人公は乃木希典だったと考えてみます。
それではなぜ主役の座から下ろしたのか – – – 主役に面白みがなくて筆が進まない。
なぜ乃木希典には面白みがないのか – – – どこから見ても天才といえるものがない。

旅順で民家を買い上げ指令部として使っていた家

京都の乃木神社は、政財界をはじめ民間人有志の協力で創建されたそうです。
現在記念館として使われているこの建物も、一個人が旅順にのこっていたものを買い取り、解体移築したと説明がありました。

画像は、下記のブログより
https://yamasan-aruku.com/aruku-289/

乃木大将は愚将でなければ凡将か

乃木大将の軍才についていえば、とても非凡なものがあったとは言えません。
ところが軍才(軍事的才能)とは大将の下で作戦をたてる、先の例でいえば参謀長の伊地知あたりに求められるもので、その優劣だけで大将の評価を決め得るものではありません。
たとえば海軍の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎にしても、その参謀の秋山真之が(司馬氏が酷評するように)伊地知のごとく無能者であったとしたらずいぶん評価は変わっていたはずです。

日露戦争における旅順の位置づけは微妙です。
開戦前の計画によると陸軍は朝鮮半島から満洲平野のさらに奥ハルビンあたりまで侵攻し、同時に海岸部ではウラジオストックを征圧することで東部一帯を支配下におさめ、その段階で(戦争をつづける資金がないので)早々に講和にもちこんで戦勝国におさまるという目論見でした。
その流れの中で、旅順は朝鮮半島の付け根あたりに位置し、半島から満洲の奥へとすすむ陸軍にとっては無視するには通過したあと後方から攻められるのは厄介であり、とはいえわざわざ攻め落とすほどのものでもなく、ともかく通過後に後ろから攻めてこられないよう柵でもして最小限の人員をさいて防げばよい、くらいの考えでいました。

ところが海軍の方では、日本から朝鮮への兵站輸送海路を確保するため旅順港に停泊するロシアの(旅順)艦隊をさきに殲滅しようとしたところ、その艦隊が余計な戦は無用とばかりに旅順港にひきこもったまま出てこない、誘い出そうにも挑発には乗らず攻めこもうにも旅順要塞にまもられた港には近づくこともできない。
このままでは兵站輸送回路の安全を見守るため身動きもできず軍艦の整備すらできない、さらにはバルチック艦隊が太平洋をまわって南から来襲すると、旅順港で十二分に休養をとった艦隊と示しあわせて挟み撃ちにされ、我が方の敗北は目に見えている。
ということで、旅順港へむけて背後の山上から砲弾を撃ち込んでその艦隊を殲滅するか、すくなくとも港から追い出してもらいたいとの要請が陸軍に届きます。

長府にあった乃木希典が少年時代を送った家(復元)

長州藩の支藩である長府藩の藩士を父として育った希典は、10歳からこの長府の家で生活しますが、16歳のときに吉田松陰にあこがれ武士ではなく学者になる意志をかためたことで父と対立し出奔します。
向かった先は萩にいる叔父の玉木文之進、松下村塾の創設者であり吉田松陰の師たる人です。
希典の過剰なまでの尊王思想はこの萩時代に熟成したものと考えられます。

乃木大将はなぜ名将になったのか

海軍の執拗なまでの要請についに陸軍も折れざるをえず、ここで旅順攻略のために第三軍があらたに編成されます。それを率いる司令官が乃木大将でした。
この人選について、「坂の上の雲」では薩長派閥両者の顔を立てるために(消去法で)決まったとされていますが、総司令官の大山巌が乃木の人格を買ってつよく推したとも言われています。
乃木大将がおこなった旅順攻略法はまず敵要塞にむかって砲弾をうちこみ、そのあと夥しい兵士が銃剣をかかえて強襲する、正攻法といえば正攻法でした。
第三軍はこの正攻法による攻撃を3度おこないついに攻略に成功します。

乃木にたいして批判的な意見は、同じ攻撃法をくり返し無駄に兵士を死傷させた、馬鹿の一つ覚えとの嘲罵さえあります。
それに対して、日本軍は砲弾が絶対的に不足しており他にやりようがなかったとするものや、のちの第一次世界大戦では敵要塞の攻略にはこの乃木大将のやり方が主流になったとする反論が多数あげられています。
また旅順攻略は海軍からの要請で唐突にきまったもので、なんの準備もなかったため旅順要塞がどれほど強固で強力なものかほとんど情報がなかった、というのは事実のようです。

乃木希典を評価するとき、批判的な意見はその武勲の乏しさを理由にしているようです。たしかに旅順をいつまでも落とせずに自軍の兵士をいたずらに死傷させていた頃は、軍上層部では乃木更迭論が出る、日本国内では乃木にたいする雑言の投書が多数、それだけでなく乃木の自宅にはしばしば投石もあったようです。

乃木大将が名将と評されるようになったのは、武勲とはほとんど関係なく、ひとえにその人格によるものでした。兵士の無駄死にと書きましたが、ほとんど絶望的な突撃強襲をなぜ兵士は厭わずつづけたのか。
乃木大将の下で死ぬのならば悔いはない、そう思いながらひたすら前へ進み散っていった兵士はたくさんいました。(死んでしまった兵士の真実の気持ちがなぜ今わかるのかと懐疑的な意見もありますが – – たしかに)
大山巌が乃木希典の人格を鑑みて旅順要塞攻略の司令官に推したというのが真実であれば、大山はすでに乃木が名将の器であると見ていたと言えます。
たとえ天才といわれる有能者よりも、君子といわれる有徳者の方がより敬慕されるのは今も昔もかわりません。

幸せに成り鯛 / 乃木神社境内にあるえびす神社

京都乃木神社境内には、「幸せになり鯛(たい)」、勝運をまねく「全てに勝ちま栗(くり)」など、乃木希典のイメージとはかけ離れたダジャレが見られます。
この乃木神社の創立に協力した人々のあいだでは乃木はけっこうダジャレが好きだっと伝わっていたとか、ありのままの乃木は清廉潔白すぎてあまりに面白みがないからと世話好きの関西人が妙味(?)を加えたとか、真相はわかりません。

乃木希典はなぜ軍神として祀り上げられたのか

東大阪市の小阪にある司馬遼太郎記念館は、信奉者レベルのファンでないかぎりは入館料の800円が見合ったものだとは感じられないかもしれません。 
猛暑の中をたずね、観るものもすくなく結果あまりに短い滞在時間に出口にむかうのを逡巡していたところ、係の人から映像上映が始まると声をかけられました。
観たのは「司馬遼太郎は語る-日本人とは何か」

むかしのインタビュー映像がながれ、なぜ歴史をあつかう文筆家になったのかの問いに司馬氏が答えます。
司馬氏は大阪外大在学中に学徒出陣で満洲へ出兵、帰国後栃木県で終戦を迎え九死に一生を得ます。その体験のうえで「いったいこの戦争は何だったんだろうか」と考えたとき、「日本はなんという愚かな戦争をしたのか、日本はどうしてこんな愚かな国になってしまったのか」という思いにとりつかれ、そこから歴史をたどってみることにした、ということです。
それゆえ終戦を迎えたのが22歳のときだったそうで、自分が書いてきた作品はいうなれば22歳のときの自分に対する手紙(報告)のようなものだ、というのです。

司馬遼太郎記念館は司馬氏の自宅の一角に建つ

画像は下記のブログより
https://yamasan-aruku.com/aruku-288/

自宅の書斎は当時のまま保存されている

中へは入れません。また外からでも見られるのはここだけです。

渡辺延志氏の著作「日清・日露戦史の真実 – 『坂の上の雲』と日本人の歴史観」には、日清戦争の公式に残っている戦史がいかに書き換えられたものであるかを、没になった元の決定稿の記載と比較しながら詳細に解説されています。
この著作がすぐれたものであることは否定しませんが、出版社の販促戦略ゆえか記述内容は大半が日清戦争に関することで、日露戦争と「坂の上の雲」に触れているところはわずかにすぎません。
それでも太平洋戦争における大本営発表の大ウソを知っている我々からすれば、日露戦争の公式にのこる戦史に改竄がないとは到底信じられません。

太平洋戦争中は天皇への忠誠をあらためて誓うため皇居にむかって深々と拝礼する宮城(宮中・皇居)遥拝が日常的に行われていました。戦艦大和の最期となった海上特攻では艦上でまず宮城遥拝をおこない、「特にゆるされ」故郷にむかって礼拝したあと自死を前提とした出撃にむかいました。
航空部隊による特別特攻隊においては、その作戦名は菊水。菊水は楠木正成の旗印、正成は後醍醐天皇にさいごまで忠誠をつくし刀折れ矢尽きて自刃する際に「七生報国」何度生まれ変わってでも国(天皇)のために戦うと誓います。
その楠木正成は生前に後醍醐天皇から直々に天皇家の「菊の御紋」を使うことを許されます。そのときあまりにも畏れ多いと恐懼し菊の下を水が流れる(あるいは水の流れに菊が浮かぶ)ものに変えてつかったと伝えられています。
それらを考慮すれば、「菊水作戦」の命名の意図は国のために死んでくれではなく「国のために謹んで死ね」ということなるのでしょうか。

記念館エントランス / 安藤忠雄氏デザイン

明治天皇を敬慕し、ついにはその大喪の儀を終えた夜、天皇の遺体が車で運ばれる号砲に合わせて自刃した乃木希典。
そのあまりにも劇的な死が国民に大きな驚きとして伝えられ、それが深い感動となって受け止められたとき、乃木希典は軍神に祀り上げられました。

司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」が戦争を賛美していると誤解されることを危惧し映像化されることを最後まで拒みつづけていました。
司馬氏にとっては乃木大将個人がどうこうよりも、ひとりの軍人がその死にざまから軍神に祀り上げられたこと、さらにその軍神を都合よく利用して国のために死ぬことが美徳であるかのように国民を洗脳してきたことに、抑えようのない怒りを覚えたのではないでしょうか。


さいごに司馬遼太郎氏に代わって、「坂の上の雲」のなかで無能な参謀長がついたことこそ乃木の不幸だったとした表現を借り、乃木大将に対してひとこと書き加えておきたいと思います。

軍神に祀り上げられそのことで多くの若者が忠義心をあおられ非業の死を遂げたのであれば、それこそが乃木希典の最大の不幸であった。

【2024.8.29 記】

明治天皇桃山御陵

明治天皇の桃山御陵は静謐で厳かな空気につつまれているだけでなく、ふり返ると大阪平野をみわたす絶景ポイントでもあります。
乃木神社とさらに伏見桃山城(秀吉の終の棲家、城郭は模擬ですが公園と思ってみる分には美しい)をセットにして散策すれば充実した半日旅行が楽しめる、かな。

画像は下記のブログより
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