忠臣蔵の謎・赤穂浪士を忠臣蔵と讃えるべきか

2023.3.22 記

京都・山科の大石神社にある大石内蔵助の像

大石内蔵助はこの像のとおり、背が低くポッチャリ形で、少なくとも外見についてはテレビドラマに出てくるような、クールなナイスミドルとはまるでイメージが違ったようです。

画像は【aruku-118】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-118/

大石内蔵助

赤穂事件ではなく忠臣蔵でいえば、主役はほぼ大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)で決まりでしょう。その内蔵助ですが、忠臣蔵のなかで描かれる沈着冷静、知勇にすぐれ忠心にあつい姿とは、どうやらずいぶん違っていたようです。
5万石の赤穂藩の中で、1500石を授かる筆頭家老ですが、自分の才覚でその地位を得たのではなく、そういう家柄に生まれたというだけで、当時のあだ名は「昼行燈」、会議の席でも積極的に発言することも少なく、起きているのか寝ているのかもわからないようなことさえあったようです。
石高の多さだけでなく藩主の浅野家と縁戚関係もあるため、藩主も重用したというより無碍(むげ)にはできなかったのでしょう。

その内蔵助の人物像に関してもっとも注目すべきは、吉良邸討入一年前の京都における放蕩ぶりです。
藩主・浅野内匠頭の切腹につづき赤穂藩は取り潰しとなりますが、そこから赤穂浪士の面々が吉良邸に討ち入るまでには2年近い月日が流れています。
すぐにでも吉良上野介の首を取らんと逸る赤穂浪士の面々を、まだその時ではないと内蔵助がなだめて機をうかがっていたのは事実です。
幕府の赦しを得て浅野内匠頭の弟である浅野大学になんとか浅野家を維持させてもらえないかと方々に手をのばし嘆願を続けていたのも確かです。
しかし内蔵助は、赤穂藩取り潰しにともなう残務整理が終わると、親戚の縁をたよって山科に移り住みます。忠臣蔵ではここから司令塔として吉良邸討入の準備を念入りにすすめたとなっていますが、それはそれとして夜ごと京都の遊郭に繰り出しては放蕩のかぎりを尽くしていたようです。

この放蕩について、忠臣蔵では「敵の目をあざむくため」すなわち吉良への復讐など考えてもいないと見せかけるために敢えて遊び呆けるふりをしたとなっていますが、とんでもない。
大石内蔵助はめっぽう遊び好きで、とくに女遊びについては並外れており、「精力絶倫」とまで書き残されています。
遊ぶ金の出どころですが、さすがに藩の金に手をつけた事実はありません。
1500石の高禄を食んでいたのですから貯えもあったのでしょう。しかし内蔵助のもとに集まる赤穂浪士の面々からすると、浪人となって日々の生活にも困窮している自分たちが、吉良上野介の首を討つ前に餓死でもしかねない。そんな状況下で内蔵助の放蕩ぶりを見せられたのでは、怒るか怒る気もなくなったか。記録の上でもこの時期に同士の輪から抜けていったものは多数いました。

東京・両国にある吉良邸跡

当時の吉良邸は、敷地面積2,550坪、いま残る跡地の86倍の広さがあったそうです。
それだからこそ討入の際には、台所奥の納戸にかくれた吉良上野介を捜し出すのに一苦労したのでしょう。

画像は【aruku-113】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-113/


吉良上野介

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、4200石の旗本ですが(江戸時代には扶持1万石以上を大名、それ未満を旗本とよんでいました)、江戸幕府の儀式や儀礼をつかさどる高家という役職に先祖代々ついている名門に生まれ育った貴人です。
江戸幕府は年賀の度ごとに、朝廷に対して贈り物をしていましたが、これが朝廷にとっては年間収入の大きなウェイトをしめていました。
朝廷ではその献上に対して、使者を京都から江戸まで向かわせ礼を述べる儀式がありました。元禄年間1703年に、その朝廷からの使者を江戸城にて饗応する役を受けもたされたのが赤穂浅野家であり、浅野内匠頭みずから大役をつとめることになります。そして右も左もわからない浅野内匠頭に、イロハから教え指導するのが高家の役目であり、ここで吉良上野介が直接関わってくることになります。

吉良上野介は自分が旗本であるのに対して、年若の浅野が大名であることに嫉妬したとの説もありますが、それはちょっと考えられません。
吉良上野介は旗本とはいえ高家であり、しかも代々の筆頭高家で、家格でいえば雲の上にいるようなものです。しかも朝廷からの使者をむかえて饗応することも、吉良家が饗応役の大名を指導するのも毎年のことですから、このたび浅野内匠頭に対してだけコンプレックスを抱いたのでは奇異でさえあります。
また吉良上野介が指導することを笠に着て、内匠頭に執拗に賄賂を要求したとの説もありますが、これは根本的に間違えています。
教えられる大名側が教えてくれる高家に対して謝礼をわたすのは常識であって、むしろ内匠頭がその謝礼をケチったために吉良上野介が不快感をもったことはあるかもしれませんが、賄賂を要求するもしないも、この人間関係には賄賂というものが存在しえません。

吉良家の領地は、三河吉良庄(現在の愛知県西尾市、三河湾に面するあたり)に領地をもっていましたが、そこでは善政を施していたようで、いまでも名君として偲ばれているそうです。
こういった点でも浅野内匠頭とはえらい違いです。なにしろ浅野家の取り潰しがきまった際には、赤穂の領民は小躍りして喜んだとの言い伝えもあります。

赤穂城

赤穂城は浅野家5万石からすると、ずいぶん大きく立派な城だったことがうかがえます。
この身に不相応な城を築くために領民から年貢や税を苛烈に取り立てていたことも、領民からの反感を買う一因になっていました。

江戸城・松の廊下跡地

江戸城自体が焼失しているので、もちろん松の廊下も残っていません。ここにあったと説明板がありますが、ほとんど立ち寄る人もなく、静かな一隅となっていました。

画像はともに【aruku-75】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-75/

浅野内匠頭

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、今でいうところの自律神経失調症に長年悩まされていたのではないでしょうか。
清廉潔癖ですがケチで自己チューで、それでなくても良いところが少ないのに、興奮しやすく突発的に激怒し、家臣からするとさぞかし仕えづらい殿だったことでしょう。

江戸城松の廊下で吉良上野介にたいして刃傷沙汰におよんだのは、お互いが言い争いになっての末ではなく、吉良が他の人と立ち話をしているところに後ろから突然斬りかかっています。
そもそも大名であれ旗本であれ武士が江戸城に上がる際には、打刀(長刀)は入口で預け、脇差のみ腰に下げることが許されていました。
脇差の所持を許されるのは武士であることの証明、すなわち武士としての威厳を保つためであって、その刀をぬいて振りまわす行為はみずから武士としての品位を穢し捨てることになります。
浅野内匠頭はそれをやったのですから、みずから武士の魂をすてたのであり、同時に赤穂浅野家5万石を放棄し、そこに仕える家臣だけでなく、そこに暮らす領民の生活までも顧みなかったことになります。

刃傷沙汰の状況ですが、吉良上野介の背中から切りつけ、驚いて振り返ったところを顔面に切りつけ額に傷を負わせています。
江戸時代の武士は二本差しが基本で、打刀(長刀)は振りぬいて斬るもの、脇差(短刀)は突いて刺すものと使い方が違い、武士として剣術を学んでいれば身についているはずです。
ところが内匠頭は脇差を2度ともに突くことなく振り回し、しかも腰が据わっていないため浅手を負わせたに過ぎません。この点からも、積もりにつもった恨みに耐えがたく行為に及んだのではなく、突発的な激情によるものと考えられます。

赤穂浪士が吉良上野介の首をとることに執着したのは、主君の内匠頭が即日切腹を言い渡されたのに対して(さらに後日赤穂藩取り潰し)、吉良上野介はなんらお咎めなしであったことに不満を爆発させたゆえとされています。
そこには江戸幕府がさだめる「喧嘩両成敗」の原則が無視されており、不公平極まりなしということなのでしょうが、これはとうてい喧嘩ではありません。
浅野内匠頭は2刀に及んだところで、まわりの人達に取り押さえられますが、その間吉良上野介は突然襲われたことにただ茫然自失し、自分の腰に下げた刀に手を触れることさえしていなかったと証言が残っています。
まるで通り魔に襲われたようなものでしょうから、これで両成敗になったら吉良家こそ怒りを爆発させることになったでしょう。

江戸城 / この広大な敷地に御殿があった


江戸城・平川門

江戸城北東にある平川門は不浄なもの、たとえば屎尿などを運び出すときに使われる門です。
殿中で刃傷沙汰をおこした浅野内匠頭もこの平川門から連れ出されました。
画像はともに【aruku-113】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-113/

徳川綱吉

徳川綱吉は徳川幕府5代目将軍ですが、お犬様で有名な「生類憐みの令」発起人といった方がわかりやすいでしょう。日本史の中でもこの法令はまれにみる悪評高いものですが、当の綱吉はそれほど暗愚でもなければ、ましてや狂人ではありません。
人々が争いをおこして無益な殺傷をつづける殺伐とした時代を憂い、未来永劫に平和な時代をむかえるには、まず食事において肉食をひかえる。つぎに生き物にたいして愛情をもつよう動物への虐待や殺傷を厳に戒める。
なぜそこでお犬様になったかというと、自分本人と、両腕と頼っていた2人の側近がそろって戌年生まれであったために、とりあえず犬はお犬様とおもって大切にしろとなったのでしょう。
ただ問題なのは、この人物は殿中での生活しか経験していないので、肉食禁止では民衆は力を出すための食べる楽しみを失うとか、犬が我がもの顔でうろつくため人々の生活に支障をきたしているとか、そういった世間の常識がまったくわかっていなかったことです。

綱吉の生母は桂昌院とよばれる女性です。
桂昌院はもとの名を玉といい町人の娘で、三代目将軍・徳川家光の側室・お万の方の部屋方として大奥で仕えていたところ、当の家光の目にとまり側室へと出世(?)します。
家光のあとには長男の家綱が4代目将軍に就きますが、その家綱は後継ぎを残さずに急逝してしまいます。
そこから状況が急転回し、家光の死後当時の習慣にしたがい髪を落として尼になっていた桂昌院に光があたり、家光との間に生まれていた男子が世継ぎに決まります。その男子こそが綱吉です。

桂昌院が女傑であったとか大奥から幕府を動かしていたとする説もありますが、むしろ凡庸な女性で、それだけに取巻きからおだてられ、都合よく利用されていたとみるべきです。
しかも息子の綱吉が強烈なマザコンで、愛する母・桂昌院が生きているうちに天皇から従一位の位階をあたえられるよう積極的に動きます。
朝廷では関白や太政大臣、あるいは武家では将軍職についたものに与えられるのが正一位で、それにつぐ従一位は女性に与えられるものとしては最高位のものです。
その従一位を下賜されるか否かというときに、浅野内匠頭が殿中で、しかも朝廷からの使者をもてなす日に刃傷事件を起こしたのですから綱吉が激怒したのは言うまでもありません。
評定もろくにせずに即日切腹という苛酷な命がくだされた裏には、このような事情もありました。

綱吉の母・桂昌院の発願で建立された護国寺

護国寺は、桂昌院が取巻きの坊主におねだりされ、さらに将軍・綱吉が桂昌院からおねだりされて建立した寺院です。
当時は5万坪の巨大な敷地に数多の堂塔が立ち並んでいました。しかも檀家をもたない幕府直管の寺院ゆえ、維持費はすべて幕府もち。
幕府に金がなくなれば、庶民から年貢や税で取り立てるのですから、庶民としては身分はお犬様より下で、あやしい坊主の甘言から巨刹をつくりツケは自分たちに回されるでは、怒りよりも恨みのほうが強かったことでしょう。
画像は【aruku-113】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-113/

近松門左衛門

いま赤穂浪士のことを忠臣蔵とよび、いかにもカッコ良く描かれているのは、江戸時代に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として人気を博した「仮名手本忠臣蔵」によります。
さらにたどって行くと、近松門左衛門が赤穂事件の4年後に人形浄瑠璃の台本として書いた「碁盤太平記」という作品が大元であることがわかります。
門左衛門はこの「碁盤太平記」を書いたころにはすでに超売れっ子でしたから、自分が取材に走り回るまでもなく、タニマチが情報をつぎつぎと運んできてくれたはずです。
門左衛門は赤穂事件の真相にはうすうす気づいていたでしょう。しかし自分が売れっ子作家でありつづけるためには、庶民が熱狂するものを書きつづけなければなりません。

熟考するまでもなく、赤穂浪士が秘かにとはいえ続々と江戸に集まってくれば、幕府の諜報網に引っかからないはずがありません。
さらに不自然なのは、吉良邸討ち入りに先立つこと1年前、赤穂浪士が吉良上野介に復讐せんと機をうかがっているとの噂がひろまっている只中に、吉良家の屋敷は江戸城にも近い治安のよい土地から隅田川をわたった辺鄙な本所(両国のあたり)へと、幕府直々の命により移転させられています。
まるで赤穂浪士が吉良上野介を討って本懐をとげられるようお膳立てをしているかのようではないですか。

このころの江戸幕府は、庶民からすると怨みの的でした。
そこに突発的におきた浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷事件。被害者は高家の貴人、いまで言えば上級国民であり、喧嘩両成敗のはずが高家の貴人だけはお咎め一切なしとなれば、(真相を知らない)庶民が赤穂側の肩をもつのも当然でしょう。
しかも赤穂藩は取り潰しになり、赤穂藩士はみな浪人となります。この時点では庶民よりも哀れな立場です。肩を持つ感情はやがて同情になり、ついには応援しはじめます。
そんな庶民感情を敏感に感じとった幕府の枢要が、庶民を納得させるよう、言い換えれば幕府に過激に反発しないよう、ちょっと工作をした – – – そこまで近松門左衛門が考えたか否かはわかりませんが、少なくとも門左衛門は赤穂事件の真相究明よりも、庶民を喜ばせるストーリー展開を考えることに熱中したはずです。

泉岳寺・浅野内匠頭の墓
泉岳寺・赤穂四十七士の墓

画像はともに【aruku-113】より
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雨読寸評

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忠臣蔵

Posted by 山さん