出家後の木坐像 日野富子の木坐像は京都・宝鏡寺にあり季節限定で開催される人形展の折に一般公開されます。しかし写真撮影禁止のため、この画像は≪WIKIMEDIA... Read More | Share it now!
今年最後の見て歩きは、桶狭間の戦い
【愛知県・名古屋市~豊明市 2023.12.29】桶狭間の戦いは、兵力ではるかに劣る織田信長が今川軍に奇襲をかけ、義元の首を獲り勝利したことで大きく飛躍するきっかけとなったとしてあまりにも有名です。今日はその関係地を見て歩くにあたって、土地名をしっかり確認しながら予習をしておきたいと思います。 桶狭間古戦場公園にある案内図より抜粋 信長の父・信秀の時代から尾張で台頭してきた織田家と、駿河・遠江の守護である名門・今川氏はその領土をめぐって争いの絶えない関係でした。信秀が亡くなり織田家は信長が受け継ぎますが、そのとき弟とのあいだに家督争いがおきます。そのゴタゴタに乗じて今川氏はまず鳴海城(上の地図の左上)を調略により落とし、つづけざまに沓掛城、大高城を奪い取ります。こうして尾張をしだいに侵食しながらもそれ以上は積極的に侵攻しなかった今川義元ですが、北の武田氏、東の北条氏と縁戚関係をむすぶことで後顧の憂いをなくすと、ついに上洛を決断します。(この上洛は天下取りのための布石とする説と、単に領土を西へ拡大するためとの説があります。 大高城 JR大高駅をでると、やがて大高城の城山が見えます 登り口付近のこのあたりも曲輪跡 ここが主郭部分のようです 大規模な空堀 曲輪と曲輪を仕切る堀切跡? さて義元ですが、みずから駿河を発つまえに先鋒を先立たせ、本人は後からゆっくり進軍します。このあたりを見ると、やはり織田軍を侮っていたのかもしれません。尾張国に踏み入れるとまず沓掛城に入り、そのころ人質として臣下させていた松平元康(のちの徳川家康)に命じて、翌日向かう予定の大高城に兵糧を運ばせます。織田軍との戦より、明日の晩飯の中身の方が気になったのでしょうか。織田方ですが、大高城をうばわれた段階で逆に敵城となった城をかこむべく鷲津砦、丸根砦を築いて対抗しますが、この時は激戦のすえに両砦は落とされ松平元康は兵糧を大高城に搬入してその任を果します。 鷲津砦 いったん大高駅にもどり、駅のすぐ北にある鷲津砦へ ここが曲輪跡なのか、わかりません 石碑のたつこの場所は曲輪跡でしょう 丸根砦 鷲津砦から20分ほど歩くと丸根砦 これは堀の跡か、後世の道か? 石碑のたつこの平坦地はいかにも曲輪跡 丸根城から大高城を望む(中央の右側の丘陵) 信長は鷲津砦と丸根砦が敵に落とされたことを聞いてやにわに動き始めます。これが夜明けごろのことだったようで、「信長公記」によると敦盛を舞い、湯漬けを掻きこみ、単身馬にまたがり(5,6人の小姓がなんとか追いつけた)まず熱田神宮へむかい必勝祈願します。一方の今川義元は朝も遅めに沓掛城を発ち、よほどゆっくりだったのか進軍ルートで測っても10kmとはない桶狭間に昼頃到着、暑い時期だったので兵士たちも軍装をといて日陰にはいり昼食をとります。 桶狭間 大池の向こうが桶狭間とよばれる一帯 いまは坂沿いに住宅が立ち並ぶここが桶狭間山 信長ですが、熱田神宮をあとにすると鳴海城に相対する善照寺砦(中島砦とも)に入り、そこで軍勢がそろうのを待ちます。ちなみにこの時の信長の総軍勢は2千または3千。一方の今川軍は2万5千から4万との説があります。またここから先についても、信長は迂回して奇襲したとする説と、正攻法でまっしぐらに敵陣に突っ込んだとする説がありますが、ともかく信長は斥候(偵察)から今川軍が桶狭間で休息しているとの報を得ると、一駆けで桶狭間まで急進します。このとき信長にとっては幸運なことに目の前さえ見えないような豪雨があったというのは事実のようですが、その豪雨の中を織田軍が急襲したというのはウソです。目の前が見えないのは今川方も織田方も同じです。実際のところは、信長は敵軍のまじかで豪雨がおさまるのを待ち、視界が晴れるや軍装もといて昼飯を手に右往左往している今川勢に襲いかかります。 桶狭間古戦場公園の信長像(左)と義元像(右) 義元が討ち取られたと伝わる地 そこには義元の墓もある 沓掛城 予定にはなかったのですが、見て歩いているうちに沓掛城も訪ねてみたくなり、Google... Read More | Share it now!
中将姫の雲雀山から明恵上人の白上山へ
【和歌山県・有田市~湯浅町... Read More | Share it now!
観音寺城のどこが革新的なのだろうか
【滋賀県・近江八幡市 2023.12.21】観音寺城は佐々木六角氏によって造られた、通説では日本ではじめて本格的な石垣を組み入れた山城です。三好長慶が河内に築いた飯盛山城がさきに石垣を組み入れているとの説もありますが、その築城時期を比較する以前に、遺構としてのこる石垣群を見比べるならば、観音寺城を嚆矢とすべきと思ってしまいます。飯盛山城がのこる大阪府の住民でありながら地元びいきを抜きにして観音寺城に軍配を上げたくなるのですから、ここは「観音寺城こそ日本最初の石垣の城」ということにしてしまいましょう。 さてその観音寺城、歴史の上で2度の大きな戦いを経験しています。そしてそのたびに結構あっけなく開城(落城)しています。一度目は応仁の乱のさい、二度目は織田信長との戦いのさい。応仁の乱の時代には、観音寺城も巨大な要塞のようなもので石垣は取り入れていなかったでしょうから、いま見る姿は戦国時代の信長に攻城されたときのものと言えます。 繖山(観音寺山)に登る JR安土駅前の信長像、前方に繖山(きぬがさやま) 繖山登山口はたくさんありますが、そのひとつ 「石仏の道」を歩いています このあたりの岩石も石垣づくりに使われた? 繖山の山頂をのぞむ 山頂への最後の登りがきつい 手前から安土城跡、西の湖、後方に琵琶湖と比良山系 山頂からの眺望はよくありません 観音寺城・本丸跡 観音正寺にあった観音寺城縄張図より この地図でいうと、地図内には入りきらない上方(「近江風土記の丘へ」の文字の上)あたりに山頂があります。その山頂から下って、まず本丸から見て回ります。 本丸へつづく大階段 観音寺城のすぐ近くに織田信長が築いた安土城があります。(山頂につく直前に眼下を見わたした画像の、一番手前に安土城跡があります)信長は当然この観音寺城を目的は何であれ自分の目で見たはずです。安土城の顕著な特徴のひとつである石の大階段、どうやら信長はこの観音寺城の大階段を見て「めっちゃええやんか、こいつはもろとけ」と言って、安土城に採用したに違いありません。ただし信長が大阪弁を使うはずはないので、そこは尾張言葉かなにかで。 本丸 本丸にのこる石垣 虎口... Read More | Share it now!
小早川家の水軍城を竹原・忠海にたずねる
【広島県・竹原市 2023.12.14】乃美宗勝(浦宗勝とも)はもとは小早川家の本家である沼田小早川家の重臣の家系に生まれました。分家の竹原小早川に毛利家から養子入りした男児(のちの小早川隆景)が本家も併呑した両小早川家の当主になると、水軍をひきいる武将としてそこで重用されます。隆景の初陣のさいには勇猛果敢に敵勢を蹴散らして隆景に初戦の勝利をもたらし、毛利元就にとっての大戦である厳島の戦いでは村上水軍を味方に引き入れ、ここでも元就に毛利家躍進のための勝利をもたらします。その後も小早川水軍の主力として九州攻めのさいには大友軍と戦い数々の戦功をあげ、さらには織田信長が石山本願寺を囲んでいたときは、500隻ともいわれる船をひきいて木津川にむかい、待ち受ける織田方の水軍船を木っ端みじんに粉砕し、悠々石山本願寺に武器、兵糧をおさめます。最後まで武人として戦いの日々をおくりますが、最後は豊臣秀吉の天下になってのち、その秀吉の命で朝鮮出兵に隆景が出陣するのに付き従い、そこで病におかされ66歳の生涯を終えます。その乃美宗勝の居城・賀儀城(かぎじょう、鍵城とも)が、広島県竹原市の忠海といわれる地に残っています。 忠海 JR忠海駅から徒歩10分で浦床神社 浦床神社 前方に見える丘陵が賀儀城 天気がさえないのが残念です。写真で見てきた記憶では青空の下の海はエメラルドグリーンで、鳥居と合わせて絶景ポイントのはずだったのですが。 賀儀城へ 砂浜をあるいて賀儀城へ ほぼ岩の塊 船留め 登城するまえに周囲を回ってみます 城跡は公園になっているようで、ここが公園入口 公園入口はさけて、ここから上がります 城の遺構 山上というより岩上(?)に向かう この石垣と石段はいつの時代のものか不明 堀切の跡と思われます 曲輪跡 左は土塁跡ですが、右の石列は? この石列もいつの時代のものなのか? なんだこれは? 昭和か平成の作? 本丸に相当する曲輪跡... Read More | Share it now!
小早川隆景が統治の要として築いた三原城
【広島県・三原市 2023.12.14】秀吉が天下人となってから指名した五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景の五人です。毛利輝元はもちろんのこと、小早川隆景も毛利家の重臣であり輝元の叔父です。そうしてみると、秀吉みずからのこの人選はなんだかイビツに思えてきます。そもそもの発端は、秀吉が毛利氏に属する清水宗治がまもる備中高松城を水攻めにした際、その最中に秀吉の主君である織田信長が本能寺で討たれますが、そのとき秀吉と毛利軍の頭をつとめる小早川隆景のあいだで急転直下和睦がむすばれ、清水宗治はみずから切腹、こうして秀吉はメンツをつぶされることもなく、さらに毛利家に追撃されることもなく疾風迅雷の勢いで畿内へとって返し(中国大返し)、鎧袖一触のもとに逆臣・明智光秀を討ち取ってしまいます(山崎の戦い)。そこから秀吉は一気に天下人へと駆け上がるのですが、このあたりの経緯があまりにも出来過ぎており、筋書きがあったのではないか、さらに突っ込んで言えば秀吉と隆景とのあいだに密約があったのではないかとさえ考えてしまいます。秀吉が天下統一に邁進するとともに、毛利家そのなかでも小早川隆景にたいする秀吉からの優遇は誰の目からもあきらかです。四国平定がすむと伊予一国をあたえ、九州平定を終えると筑前、筑後、さらに肥前の一部のあわせて37万石を加増しようとします。 三原城 三原城の天守台へ上がるには、駅の構内を抜ける 駅の建物から出ると、まずこの石垣が目にとび込みます 天守台の前方まで歩いてふり返ると、後方に駅のホームが 三原城は港湾に接してもいれば、海水を引きこんだ水路で周囲をかこみ、平城とも海城ともいえる、しかもずいぶんと大きな巨城だったようです。そのため終戦後市街地の整備をする際にも、三原城の遺構をすべて残すとなると市街地化の整備が進まず、かと言って歴史保存のためにいくらかは残さねばならず、結果として天守台だけをのこし、さらにその天守台も一部は駅のホームの下にのこる、という大胆な案を採用したようです。 街中にあった当時の三原城の縄張と、現在を重ねた図 そこでこのような不思議な光景が出現します... Read More | Share it now!
毛利家の智将・小早川隆景が築いた新高山城
【広島県・三原市 2023.12.14】戦国時代に西国の雄と名をはせた毛利家、その基礎を築いた毛利元就が、長男・隆元、次男・元春、三男・隆景の三兄弟に一本ずつの矢を持たせ、一本の矢ならたやすく折れるが、3本まとまると折れにくいと諭し、そこから3人が力をあわせて毛利家をまもってゆくよう訓(おし)えたのが、有名な「三矢の訓:みつやのおしえ」です。三兄弟はその後、隆元は嫡男ゆえ家督をつぎ(41歳で急逝したため嫡男の輝元が跡を継ぐ)、元春は母方の実家である吉川(きっかわ)家に養子入りします。三男の隆景ですが、当時いまの三原市に隣接する竹原市一帯に地盤をもっていた、竹原小早川家の当主・小早川興景が急死、実子がいなかったため、興景の妻が元就の兄の娘(すなわち隆景の従姉妹)という縁もあって、そこに養子入り、やがて元服して自身が当主となります。ここまでは生臭くもキナ臭くもないのですが、そのあとはさずが謀略の毛利の真髄を見せてくれます。小早川家でも三原に地盤をもつ本家の沼田(ぬた)小早川家の当主・小早川繁平は生まれながらに病弱であったためそこにつけこみ、毛利元就は無理やり繁平を出家させ、さらに繁平の妹を隆景の嫁にすることで、沼田小早川家を乗っ取り、竹田小早川家と併合してしまいます。もともと沼田小早川家が本城としていたのが高山城であり、その西側に向かい合うようにそびえる山に両小早川家の当主となった隆景があらたに築いたのが新高山城です。(『三矢の訓』の逸話が後世の創作であることは今ではよく知られていますが、元就が三兄弟に協力して毛利家を守ってゆくよう訓えたのは事実で、その時の状況をこの逸話ほど鮮やかに描写しているものはないので、今もかわらず引用されているようです) 新高山城へ 新高山城と高山城をのぞむ はじめに、この城をみた後からたずねた隆景の菩提寺である米山寺へと登る道から、新高山城(左の山)と高山城(右の山)を望見し撮影した写真を掲載します。ふたつの山の間には河が流れており、これは沼田川(ぬたがわ)とよばれています。沼田小早川というぐらいですから昔からの呼び名なのでしょう。 新高山城のある山を麓からのぞむと、ずいぶん険しい 標識や案内板は整えられています 新高山城 整備後の新高山城のイメージ図 山道を登ります... Read More | Share it now!
北条早雲は本名・伊勢宗瑞、備中国の高越城に生まれる
【岡山県・井原市 2023.12.13】戦国時代に関東の覇者として名を馳せたのは北条氏ですが、そもそもは新九郎なる素浪人が、あの手この手で小田原城を奪取し一代で相模国の領主になったのが始まりと伝えられてきました。ところがその後の調査研究で、この新九郎、浪人どころか、室町幕府将軍の執政を担当する名門・伊勢家の直系で、本人も応仁の乱ののち9代目将軍となる足利義尚の申次衆(将軍御所にて、将軍本人へ諸事を取り次ぐ役)として取り立てられていたようです。小田原城を奪取するのも、そもそもは相模国内での内紛が収まらないようなので手配してくるよう、将軍直々か管領か、ともかく幕府のトップから指名があり、幕府の仕事として赴いたようです。そこからは何があったのか、手練手管か権謀術数か、寝技裏技もつかって城ひとつを奪取してしまい、ついには相模国の領主におさまります。本人のために弁護しておきますと、領主となってからは、他国が常識的に六公四民、よくて五公五民で年貢を徴収していたのにたいして、なんと四公六民という民が暮らしよいよう配慮した税制にあらためたため、自国では百姓は歓喜し、近隣国からは相模国に併呑されることを期待されるほどの人気ぶりだったようです。ところで新九郎はその後出家して宗瑞と名乗りますが、苗字はずっと伊勢のまま。北条と名乗るのは息子の氏綱の代からで、また戒名が早雲庵宗瑞だったことから、後々に北条早雲として伝えられてきたようです。※北条早雲の出自や生誕地については異説があります。 さて今日は、その北条早雲が生まれたとされる備中(岡山県西部)、後月郡荏原(しつきぐんえばら:いまの井原市江原)にある高越城を訪ねてみます。 高越城へ 荏原駅前にある早雲の像... Read More | Share it now!
いつだれが石垣を組んだのか、疑問だらけの感状山城
【兵庫県・相生市 2023.12.10】兵庫県の瀬戸内海沿い、そのずっと西寄りに相生市はあります。むかしの言い方だと、播磨国の西寄りゆえ西播磨とよぶのでしょう。当時このあたり一帯は、名門村上源氏のながれをくむ武家・赤松氏が支配していました。感状山城はその赤松氏の主城のひとつと考えられています。もともとは地元で瓜生(うりゅう)との地名が残っているように、瓜生何某という土豪が築いた城もどきをもとに、大規模な城郭に修築したようです。鎌倉時代末期に足利尊氏が、後醍醐天皇から討伐の勅令をうけた新田義貞との戦いに敗れて敗走する際、当時の領主であり城主の赤松則祐が追走する新田の軍勢をこの城を拠点にして50日間足止めにし、おかげで足利尊氏は窮地を脱しただけでなく体勢を立て直してふたたび上洛することができたということです。その助太刀に対して赤松則祐が感状を授けられたことから「感状山城」とよばれるようになった、そこまでは史実として記録されています。ところがこの感状山城に関しては、そのあとのことがまったく記録されていません。たとえば感状山城には多くの石垣と石垣跡が残されていますが、赤松則祐が活躍した鎌倉時代末期には城を石垣で守るという発想すらありませんでした。それゆえ村上源氏がどれだけ名門であろうが、赤松則祐がこのとき城に石垣を組んでいたことはありえません。本格的に城に石垣が組まれるのは近江にのこる六角(佐々木)氏の観音寺城が最初と言われていますが、それとて築城当初から石垣があったとしても室町時代の中盤以降です。いったい誰が感状山城に石垣を組んだのか、そして何時どのような事情で廃城になったのか、ここは疑問だらけの城です。 感状山へ 瓜生東バス停より感状山をのぞむ バス停より直進ではなく、西(左)麓へ回り込む 羅漢の里入口にあった案内板... Read More | Share it now!
応仁の乱ゆかりの地を歩く VOL.2
【京都市内 2023.12.6】2週間前に、上御霊神社と西陣を中心に応仁の乱ゆかりの地を歩きましたが、今日はその続きということで、以下の予定で歩いてみます。1)華開院(日野富子の御墓がある、ただし未公開)2)等持院(足利家の菩提寺、開祖は足利尊氏)3)龍安寺(東軍の首領であった細川勝元により建立)4)船岡山城址(西軍の山名氏が急きょ築きたてこもった激戦地のひとつ)5)大報恩寺(応仁の乱の戦火からのがれ洛中で唯一のこった仏閣、堂内に刀槍による傷跡がのこる)なお歩いているうちに、寄り道することもあるかもしれませんが、それもまた楽しみのひとつと言うことで。 華開院から等持院 JR円町駅から徒歩5分ほどのところに華開院(けかいいん)はあります。御深草天皇の勅願で建立された皇室ゆかりの寺で、公家にまじって足利将軍家の、たとえば日野富子の墓もあるそうです。皇室ゆかりの寺となると非公開のところが間々あるのですが、ここも案の定「特別公開日なし」の非公開。それがわかっていたゆえか、門前に立って入れないことを確認しただけで納得してしまい、写真を撮るのをすっかり忘れていました。ゆえに写真はありません。 等持院... Read More | Share it now!