街歩き・山歩き,城郭・史跡,長野

【長野市 2024.11.6】信濃・川中島の戦いは日本史上もっとも有名な合戦のひとつでしょう。この合戦の特徴は、あわせて5度の戦いを通してじつに12年に及ぶこと、そのなかで第4次合戦といわれる1561年におこなわれた八幡原の戦いのみが大規模な合戦であり、他の4つは小競り合いに終始するかあるいは睨みあって対陣を続けたにすぎないことです。発端は、信濃の地を領有する村上義清にたいして領地拡大をはかる武田信玄がじわじわと侵攻をすすめついに居城である葛尾城を落とします。ここにきて義清は自力では支えきれないと判断して越後の上杉謙信に助けを求めます。※武田信玄はこのころ晴信と称していますが、ここでは信玄でとおします。※上杉謙信もこのころは長尾景虎、その後なんどか改名するもののここでは上杉謙信でとおします。 なぜ大規模な合戦をさけて12年もの長期にわたったかと言えば、謙信にとっては村上義清から助勢の要請があっての、いわゆる義の戦いであり、自分の領土(越後)を侵されているのではないため武田軍を殲滅させる必要はなく追い返せば用は果たせると考えたのでしょう。信玄は武将としてデビューしたばかりのころに村上義清との戦で2連敗しますが、その後に合戦の前にはまず調略で相手の足元を崩してしまうことを得手としてからは連戦連勝。ところが川中島での相手は欲ではなく義のために、しかも地元ではなく他国から出張ってきた謙信ゆえ調略のやりようがない。かといって信玄としては強攻はしたくない。なぜなら信玄の領土である甲斐の国は山ばかりでもともと人がおおく住める土地ではありません。しぜん領民(人口)がすくないため一度の戦で大量の死傷者を出すと、たとえその戦には勝利したところで軍力をもとに戻すのに時間がかかる。それではなぜ第四次の合戦だけが大規模な激戦になったのか。この合戦のまえに謙信は関東管領に叙せられます。すなわち幕府から関東の統治を任せられたわけで義侠心のつよい謙信としては自分の力で関東地方の情勢を安定させようと決意します。その結果まずは関東全域を武力で制覇しようともくろむ北条氏の横暴に憤り、越後を発つと上野から武蔵へと破竹の勢いで進軍します。北条氏の支城を片っ端から落としてゆくその鬼神のごとき姿に諸国の武将たちもぞくぞくと従い、ついには北条氏の居城である相模の小田原城を10万もの大軍で囲むことになります。ここで北条氏がうった手は、見方によっては相模の後背に位置する甲斐国の武田信玄とむすび後方から牽制してもらうことでした。長期の対陣に倦みはじめていたことにくわえ、謙信が越後の龍なら甲斐の虎と怖れられる信玄が動き出したことで小田原城を囲んでいた関東諸国の軍勢は散り散りになってしまいます。所詮は烏合の衆にすぎなかったのでしょうが、謙信としては面目丸つぶれと感じたのでしょう。ここはいったん越後に帰りますが、すぐに軍勢をととのえて信濃・川中島へと進軍します。この第四次合戦だけは謙信にとって義の戦ではなく、信玄に対する意趣返しだったとみるべきでしょう。 キツツキ戦法はホントかウソか 八幡原の古戦場跡にあった案内板より抜粋 越後の春日山城を発った上杉軍は善光寺をへて妻女山(図の上中央)に陣取ります。一方の武田軍は、いったん茶臼山(図には入っていないさらに下方向)に陣取りますが、なぜか移動して海津城(図の左上)に全軍が入ります。 ※この図は右下が北になっており東西南北が正確にわかりません。 武田軍は海津城にて軍議をひらき通説では軍師の山本勘助の献策により、全軍を2つにわけて一隊は深夜闇にまぎれて妻女山にあがり奇襲を敢行、意表を突かれ逃避する(すなわち下山するしかない)上杉軍が平地に下りてきたところを別の一隊が強襲して壊滅する、という作戦をとります。これは啄木鳥が樹木をくちばしで突いて虫を追い出す習性からキツツキ戦法と呼ばれますが、もちろん後世における命名です。ここで疑問があります。武田軍は(諸説ありますが)総勢2万、そのうちの1万2千が奇襲部隊で平地にのこる本隊が8千というのが通説ですが、これは不可解なことこの上もありません。まず闇にまぎれての奇襲に1万2千もの大軍が動けばその気配を消すことは不可能でしょうし、人がひとりか二人ずつしか登れない山道に1万2千の大人数がとりつけばどれほどの長蛇の列になることやら、効率の悪いこと甚だしい。さらに上杉軍の総勢(これも諸説ありますが)1万3千が逃れて下山すれば仮に1割の死傷者を出していたとしても1万以上の戦力は残っていることになり、それを迎え撃つ武田軍本隊が8千ではいかにも心もとないでしょう。ところで現実にはどうなったかというと謙信は裏の裏をいき、かがり火をのこして妻女山上にいると見せかけ別のルートをたどって下山、8千の軍勢で待ちかまえる武田軍本隊に1万3千の総力で襲いかかったということです。ではいかにして謙信が武田軍の策略を見破ったかというと、その日の夕方に海津城からあがる炊煙が通常より多いことから夜食の準備をしていると考え、そこから夜襲があると察知したというのです。そんなアホな。これではまるで仁徳天皇が炊煙のすくないことから民の生活の厳しさをしり徳政をしいたという故事を思いださせる戯言レベルです。 海津城(いまの松代城)から妻女山をのぞむ 武田信玄のもとで軍師をつとめたとされる山本勘助ですが、いぜんはその存在すら疑問視されていました。勘助が登場するのは江戸時代にかかれた軍記物「甲陽軍鑑」のみで、ほかの記録にその名が見当たらないだけでなく、いまにのこる信玄の数々の書状にも勘助のことはいちども書かれていません。 最近の研究で実存自体は証明されたようですが、ホントに軍師だったのか、どれほどの活躍をしたのかまではいまもわかりません。 妻女山から川中島一帯を見わたす海津城は右の樹木にさえぎられ見えない 一方の上杉謙信にも宇佐美定行という軍師がいたということになっています。しかしこの人物は実存はしたようですが、謙信の軍師として活躍したというのはほぼウソです。謙信は軍神・毘沙門天そのもの戦の天才で、軍師を必要としませんでした。 ではなぜ宇佐美定行と固有の名をもった人物が軍師として登場するのか、それについては後で述べます。 八幡原の戦いのホントとウソ 八幡原は史跡公園になっており、 公園内には八幡神社があります 八幡神社 さらに奥へ進むと、長野市立博物館がありますここに展示されている川中島合戦の資料はまるでダメ。 信玄と謙信の一騎打ちの像 小説や映画では、霧が晴れると武田軍の眼前にこつぜんと上杉の軍勢が姿を現すという劇的なシーンが描写されます。裏をかいたつもりがさらにその裏をかかれたのですから慌てふためくのは武田軍。上杉勢は怒涛の勢いで攻めかかり、幾重にもかさなる武田の陣を突き破りつつ、ついに謙信が信玄に討ちかかる瞬間がこの像です。 ここでも疑問があります。謙信は白頭巾をかぶっていますが、謙信が仏道に帰依して法号・謙信を名乗ったのはこの八幡原の戦いから9年後、剃髪して法体となるのはさらにその4年後ですからこのときに白頭巾をかぶっているのは道理があいません。 「甲陽軍鑑」など武田氏に好意的な軍記物には、信玄は慌てず、まさに山のごとく動かず軍配団扇ひとつで謙信の一太刀を受け止めたとなっています。これをもって信玄の豪胆を示すとともに、深読みすれば謙信の太刀さばきの未熟さを伝えたかったのでしょう。ところが紀州徳川家にのこる川中島の戦いをえがいた屏風絵には、川へと逃げる信玄を謙信が追いかけ一太刀浴びせようとする場面が描かれています。紀州徳川家は越後流軍学を取り入れており上杉氏に好意的に、逃げる信玄&追いかける謙信の構図をのこしたのでしょう。 余談ですが、「敵に塩をおくる」という慣用句、領土が海に面していない甲斐国の信玄が同盟して敵対する今川氏と北条氏から塩の流通をとめられ苦渋していたところ、日本海に面する越後の謙信が困っているものを援けるのが人たるものと敵対していながら塩を送った逸話からうまれたとされていますが、これはまっかなウソ。今川氏や北条氏に頼らなくても武田氏が信濃・美濃経由で京・大坂から塩を買い付けることは可能です。そもそも甲州金でつねに金庫がうるおっている武田氏を利にさとい商人が見捨てるはずがありません。 ホントかウソかわからないまま歴史に残った山本勘助 山本勘助の墓は八幡原から千曲川を渡った対岸にある 石田三成の家臣で関ケ原合戦で活躍した島左近について調べていたときは、資料になるものが少ないだけでなく興味をもって調べる人もすくないのか参考にする記述さえ容易に見あたりませんでした。ところが山本勘助については信用できる一次資料はないものの、後世の人の関心が満々で様々な見解が満ちあふれており、どれを信じていいのやら。一説では、山本勘助はやたらにカンだけはよくてすべてをカンに頼っていたので、ヤマカン(山勘)という言葉がうまれたなんていう、褒めてるのか貶しているのかわからない記述もありました。 山本勘助は隻眼で顔や身体にも多くの傷がありさらに足がわるくて歩行が乱れていたといいます。そのため先に長期逗留した駿河で今川氏に臣事しようとしたときにはその外見の悪さから断られたものの、つぎに向かった甲斐では信玄は部下から伝え聞いただけで100石で取り立てることをきめ、さらに本人と会って話をしてからは大いに気に入り即座に300石に加増したとか。これなどは今川家の見る目のなさを皮肉り、信玄の人を見る目の確かさを喧伝したものと思われます。 さて山本勘助に関してはなんとか実存したことが確認できるだけで軍師だったのか否かは不明、謙信の軍師とされる宇佐美定行については実存は確認できるものの軍師であったとは考えがたいということになります。ところが宇佐美定行の子孫と称する宇佐美定祐なる人物がたしかに存在し、紀州徳川家に臣事していたことが記録されています。この人物こそが越後流軍学を紀州徳川家につたえ軍学者として取り立てられた人です。ここからは想像ですが、宇佐美定祐は先祖の宇佐美定行を架空の謙信の軍師とし、その子孫であると自分にハクをつけて紀州徳川家に売りこんだのではないでしょうか。 川中島合戦の実態を揺るがす?ホントかウソか さいごに第四次川中島の戦いに関して最大の疑問を書いておきます。本来ならばこれをまず先に述べねばならないのですが、そうすると後の話の展開がむずかしくなるのであえて最後にしました。下の図を見てください。 雨宮渡にある案内図より抜粋 これは最初に掲載した川中島での両軍の陣の配置をもうすこし広範囲にえがき上を北にしたものです。あらためて陣取りの経緯をのべます。上杉謙信は右上の春日山(越後の居城)から進軍し善光寺にいったん入り、そのあと右下の黄色い山としてえがかれている妻女山に陣を敷きます。すぐ上すなわちすぐ北には信玄の支城である海津城があります。たしかに海津城を山上から監視するには好都合でしょうが、この位置はみづから自分の(越後への)退路を塞いだことになります。 つぎに信玄ですがいったん左やや上に緑色でえがかれた茶臼山に陣を敷きます。妻女山のすぐ北に海津城、北西の茶臼山山上に甲斐からきた本隊、完璧に上杉軍の退路を断ち、このまま布陣を続けただけでも上杉軍はやがて兵糧がつきて脱出のため無謀な突進をせざる得なくなります。 謙信としては自分からすすんで窮鼠となったようなものです。信玄にいたっては絶対有利なマウントポジションをとりながらゴングを聞き違えてコーナーへもどってしまったようなものです。軍神と称えられたふたりがそろいもそろってこのように稚拙な行動をとるものでしょうか。いまにつたわる川中島の第四次の戦いがあまりにも劇的な展開をするだけに、調べるにしたがい、まるでつくられたように劇的すぎると思わざるえません。 この戦いにおける死者数は武田軍4000人超え上杉軍3000人超えと伝えているものもあれば、両軍とも戦争参加者の4割が死傷したとの記述もあります。どちらにしても両軍とも戦力を回復するのに多大な時間を要するはずの大ダメージですが、信玄も謙信もその年のうちに次の戦いのため出陣しています。あまりに奇妙です。【アクセス】車と徒歩【入場料】長野県立歴史館:300円【満足度】★★★☆☆ ... 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街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣

【京都府・木津川市 2024.11.19】大阪市内から真東にむかうと奈良市に到りますが、そこから北へ進路を変えるとじきに京都府にはいり木津川市があります。大阪からも奈良からも京都からも簡単にいける土地です。しずかな田園風景のなかに国宝や重文をあまた所蔵する社寺が散在していますが、平日ともなると観光客を見かけることもまれです。 その木津川市に三上山という里山があります。はっきりいうと登山愛好者にもあまり知られていない山です。山腹途中に国宝の五重塔をもつ海住山寺がありますが、登山者以外は気楽に歩いてゆける場所にはなく車が必須となるため平日は参詣者もほとんどいません。さて、今日は静かな見て歩きをたのしみに行きます。 JR棚倉駅から 「お茶の京都」の広告で全身装飾の列車でJR棚倉駅へ 駅前の湧出宮参道をぬける すぐに宅地はおわり山里をあるく 竹林のなかをすすむ 竹林を歩くことが30分以上もつづきます。京都の嵐山にある竹林のように手入れされたものではありませんが、さすがにこれだけ長距離にわたって竹林を歩いたのははじめての経験です。 登山 やっと登山気分になってきました... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・佐久市 2024.11.7】龍岡城は戦国時代の城ではありません。それどころか江戸時代も末、大政奉還が1867年ですからそのわずか3年前、三河奥殿藩主の松平乗謨(のりかた)が信濃田野口へ移転のさいに幕府の許可をえて新城の建築をはじめます。乗謨は西洋軍学をまなんでおり砲撃戦を想定して、ちょうどこの年に完成したばかりの函館五稜郭にならって星形要塞をつくります。これが龍岡五稜郭とよばれる日本にふたつしかない(ふたつだけあると言うべきか)陵堡式城郭です。 外周をあるく 切込接ぎで組まれた石垣 1864年に築城をはじめたものの時代は幕末にむかって激動のときをむかえ、松平乗謨も陸軍奉行として幕政に参与するなど時間的にも経済的にも余裕がなくなり、城は未完のまま明治維新をむかえることになります。たとえばこの写真に映っているあたりは石垣は出来上がっているものの堀がありません。 水堀にそって歩く... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・小諸市 2024.11.7】小諸城は以前からあった小城を武田信玄が奪い信濃地方進出の橋頭保とするため山本勘助に命じて縄張りをさせあらたに造り直したもの、と伝えられています。どうじに同じくらい多くの書籍やウェブサイトで山本勘助は小諸城の縄張りにまったく関わっていない、と書いています。両者ともに多数の意見があるので、真相はよくわかりません。わからないけれどわからんままに訪ねてみることにしました。 小諸城は穴の底にある 大手門... Read More | Share it now!

神社・仏閣,長野

【長野県・茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町 2024.11.4】諏訪大社は上社の前宮、本宮、そして下社の春宮、秋宮の4社からなりたっています。もともとは上諏訪神社、下諏訪神社というべつべつの神社だったものが明治時代に国の管理になってから統合され一つになったようです。またそれぞれに前宮・本宮、春宮・秋宮の2社があるのは伊勢神宮に外宮・内宮があるように、あるいは京都に上賀茂神社と下鴨神社があうようにそれぞれ関係した別々の神様を祀っているなどそれほど珍しいことではありません。いぜん出雲大社について書いた折に古事記にでてくる大国主命(オオクニヌシ)から天照大御神(アマテラス)への国譲りの話に触れましたが、諏訪大社の由緒はそこに密接に関係しています。アマテラスの使者として天上界(高天原)から地上界(葦原中国)へ降臨した武甕槌神(タケミカヅチ)は、オオクニヌシに対して現在貴方が治めている葦原中国はそもそもアマテラスの子孫が治めるべき土地ゆえ、いまここで譲りわたすようにと要請します。それに対してオオクニヌシが判断は息子にゆだねると返答したところ、息子のひとりは畏れ多いと恐縮してすぐにでも譲ることを約します。ところがもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタ)は剛力無双を誇示するように巨岩を軽々とかついで現れ、タケミカヅチに対して力勝負で決めようと不敵に挑戦します。ところが勝負はあっけなく、赤子の手をひねるように投げ飛ばされたタケミナカタは出雲から一目散に逃げだし、たどり着いた先は科野(信濃)の諏訪湖。ところがあっさり追いつかれ殺されそうになると葦原中国は差し上げますと命乞い。あげくに今後けっしてこの地(信濃諏訪)から外へは出ませんと誓います。 このタケミナカタが、上社本宮と下社春宮秋宮の主祭神です。(上社前宮の主祭神は妃の八坂刀売神ヤサカトメです)ここで腑に落ちないことに気づきます。なぜ平素はいばった乱暴者で負けたとなるとあまりにもカッコ悪いこのタケミナカタが祭神しかも主祭神なのでしょうか。しかも神格はといえば水神、風神でありさらに軍神でもあります。タケミカヅチが鹿嶋神社の軍神として祀られているのは上記の逸話からも納得できますが、タケミナカタが軍神として祀られることに諏訪の人たちは納得したのでしょうか。と、おもって調べてみると上のタケミナカタの話は(大和が編纂した)古事記に書かれているだけで、諏訪および信濃につたわる地方史には異なるニュアンスで書かれているようです。たとえば、オオクニヌシが信濃を平定するためにタケミナカタを派遣した、あるいは信濃で勢力を拡大するタケミナカタをアマテラスが討伐した等々。 上社前宮 大鳥居... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野市 2024.11.6】 武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。山本勘助についてはその実存さえ疑う意見もありますが、信玄が謙信との戦闘を有利に進めるためここに城を築いたことは事実で、もっともはげしい戦いとなる第四次川中島合戦では武田軍がいったんはこの城に入って戦端をひらく機会をうかがったと記録されています。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。しかし信濃の地というのは国衆とよばれる地元の小勢力が、武田氏や上杉氏ら戦国大名に従属しながらも自立して群雄割拠するところで、たいへん統治の難しい土地だったようです。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田昌幸の長男、信繁=幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 二ノ丸南門から入る 二ノ丸南門から本丸入口・太鼓門をのぞむ 現地の案内板から抜粋 二ノ丸南門からつづく土塁 堀越しに太鼓門をみる 堀に隔てられた本丸全体を西側から そして東側から見る 二ノ丸 二ノ丸 二ノ丸の外周をまもる巨大な土塁 土塁上から二ノ丸、本丸の石垣をみる その北側(土塁の外側) 徳川家康と、豊臣家の永続をねがう石田三成との間で風雲急をつげついに大合戦(関ケ原合戦)が始まろうとしたとき、真田家では父子3人のあいだで家族会議がもたれます。徳川につくか豊臣(石田)につくか。このときどちらが勝者になっても真田家が生き残れるよう父子でふたつに分かれたとされていますが、もうすこし事情があります。長男信之は家康から高く評価されており、家康自身が重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女としたうえで正室に娶らせていました。一方の次男信繁(幸村は後世につけられた名で、本人は名乗っていません)の正室は大谷吉継の娘・竹林院。これだけなら長男は徳川へ、次男は豊臣へと容易に察しがつきます。それではなぜ父昌幸は次男とともに豊臣に従ったのでしょうか。 本丸 太鼓門から本丸へ 本丸に入ってすぐ太鼓門を真横から見る 本丸をまもる石垣 天守台 天守台上より本丸を見下ろす 天守台より西側を見る後方の山が第四次川中島合戦のさい謙信が布陣した妻女山 ここからは個人的な想像です。真田昌幸はその武略の才だけでいえば信玄や謙信に劣らなかったと思います。しかし昌幸は天下どころか信濃を支配することすら望まず、出身地の村とその周辺の数郡を安定して占有することに専心します。自分には軍才はあっても自力で大大名になるほどの大器ではないと悟っていたのでしょうか。同時に並外れた軍才をもつゆえに、このたびの合戦では徳川が勝利することも見通していたかもしれません。兄の信之は文武に優れているだけでなく性格も実直で、いわゆる出来のよい優等生タイプです。きっと信之が(勝利するであろう)徳川についておけば、その家臣となって末永く真田家を残してくれると計算したことでしょう。都合のよいことに信之は徳川家と縁戚関係を結んでいるのですから、おまえだけは徳川につけと言われて嫌というはずがありません。 これで真田家の存続は保証されたようなものです。真田家の当主として生き残るために武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と主君をつぎつぎに変え、表裏比興(ひょうりひきょう)のものとそしられながら生き抜いてきました。いまこそ誰のためでもなく強いて言えば自分自身の冥途の土産がわりに、一世一代の大戦をやってやろうではないか、そのためには(勝利するであろう)徳川に一泡吹かせてやろうか、そんなことをおもい不敵な笑みを浮かべたに違いありません。 北不明門 北不明門を抜けて 本丸から出るとはじめに歩いた二ノ丸へ戻れます 徳川家康は関東から上方(関ヶ原)にむかうに際して従える10万の軍勢を二手にわけ、元豊臣方の武将たちはまとめて東海道を西進させ、徳川本隊は嫡男の秀忠の指揮のもと中山道を西へと行軍します。ところが中山道の途上では上田城にたてこもる真田昌幸・信繁父子が待ちかまえていました。秀忠と徳川本隊3万7千、たいする真田勢わずか3千。ところが昌幸の巧妙な戦略と信繁の果敢な挑発に翻弄され、徳川の大軍勢は事もあろうに関ヶ原合戦に遅参するという大失態をおかしてしまいます。 長国寺 松代城近くにある真田(信之)家菩提寺・長国寺 一方の信之ですが、冒頭でも書いたように関ヶ原合戦ののち加増転封されて松代城へ入城。その後は明治維新まで10代にわたって領主として存続し、さらに維新後も華族に叙せられ名門真田家として生きつづけます。 【料金】松代城城郭、長国寺境内のみは無料【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野市、千曲市 2024.11.6】日本で最初に本格的な石垣を用いた城は、六角氏が近江の地につくらせた観音寺城といわれています。その築城時期は14~15世紀。ところが推定11~12世紀に技術の上ではずいぶん初歩的ではあるものの、単なる石積みではなく十分に石垣とよべる築造をなした山城が信濃で複数つくられており、しかもずいぶん良好な状態で残っていることをネットの情報で知りました。※ところが、さらに調べるうちにわかったことは、石垣は築城後数百年もたってから改築の際につくられようです。残念。 霞城 最初に訪ねるのは長野市松代町にのこる霞城、当時このあたりに勢力をもっていた大室氏の居城として造られたもののようです。 「永福寺」を目印に集落の奥まで入る ここに到るまでの道は幅狭でコンパクトカーでなければ入れません。また画像の右側は駐車スペースですが前日の雨でぬかるみひどい状態でした。 石塔のたつ道を登りはじめると、 すぐに岩が迫ってきます 山に岩が多いというより、山全体が岩という印象 堀切が残っていました 石垣 2段構えの石垣が見てきました 主郭部分全体を巻くように石垣がつづく ごぼう積みの石垣... Read More | Share it now!