宇喜多直家の木座像 宇喜多直家の銅像やブロンズ像はどこにもありません。讃えるような人物ではないと評価され造られなかったものと思われます。この木座像は岡山市の中心街にある光珍寺に納められていたものですが、戦時下の空襲で寺の堂宇とともに焼失してしまいました。 画像は、wikimedia... Read More | Share it now!
逢坂の関から音羽山へ、たまには和歌に親しみながら
【滋賀県・大津市 2026.3.24】逢坂の地名は全国にいくつもあります。いまでは「おうさか」と呼ばれていますが、古代には人と人がその坂で出会うことから「あふさか」だったと言われています。百人一首、と書きかけたところでついでに言っておきます。小倉おぐら百人一首は、鎌倉時代に藤原定家が京都嵐山の後背に位置し保津峡を北に見る小倉山の山荘で、そもそもが天皇の勅命で編纂された数々の勅撰和歌集(古今和歌集など)から厳選して、百人の各一首をまとめたものです。(ちなみに小倉餡おぐらあんは、この小倉山で栽培された小豆からつくった餡ゆえに命名されたそうです。) 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂あふさかの関」これは百人一首10番、作者は蝉丸。「ああこれが、京から出てゆく人も帰ってくる人も、知っている人も知らない人も、出合いまた別れる、逢坂の関なのか」蝉丸は盲目の琵琶法師だったそうですから、私にはなぜ逢坂での人の往来を見たかのように認識できたのかという疑問が出てくるのですが、逢坂の関はすでに歌枕になっており、逢坂の関とくればこんな情景と定義づけられていたと理解すべきなのでしょう。またこの歌は視覚的に人の往来を詠んだだけでなく、人には出会いもあれば別れもある、人と人が出会えば必ず別れもあると、平家物語でいう「祇園精舎の鐘の声... Read More | Share it now!
白旗城址をめざして白旗山をのぼる
【兵庫県・赤穂郡上郡町 2026.3.9】白旗城は兵庫県西部の岡山県との県境に近い、公共交通機関で行けはするものの大変不便な地にあります。大阪からゆく場合、時間を金で買う余裕のある方なら新幹線を使うのでしょうが、時間を差し出して金を節約する私でしたら大阪からJRの新快速で姫路まで行き、そこで普通電車に乗り換えて上郡駅へ。上郡駅から6kmあるいて登山口へ。あるいは上郡駅で智頭急行線にのりかえて2駅北の河野原円心駅へ、そこから2km歩いてもどり登山口へゆく手もあります。どちらにしても片道3時間半ほどはかかります。 白幡城の歴史について話しておきます。せめてその歴史でも知らないと、日本百名城にも続日本百名城にも選定されていない、しかもそんな不便なところにある城をわざわざ訪ねてゆく気にならないでしょう。築城主は赤松則村(円心)といわれており、これは確かなようです。築城時期は南北朝時代に後醍醐天皇の挙兵に応じるかたちで築城したというもの。あるいは後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従い、尊氏がいったんは敗れて九州へ落ちのびるさいに敵軍を押しとどめる盾になるよう築いたとの説があります。どちらにしても赤松氏がこのあたり一帯の守護大名になるまえのことです。 足利尊氏が九州へと逃れたさいに、追撃しようとする新田義貞の軍勢を赤松軍がこの白旗城でくい止めた、それがために時間稼ぎのできた尊氏は態勢をととのえ直して東上し、一気呵成に新田軍を蹴散らし楠木正成を自刃に追い込み、のちに北朝とよばれる自軍を勝利に導いたとされています。さて播州の城に詳しい方はこれを聞いて、あれ???と思われるはずです。ここよりもう少し西いまの相生市に感状山城がありますが、ここにつたわる歴史がなんとこれと酷似しているどころか、まったく同じ。しかも盾になって新田軍をくい止めてくれた赤松則村の功績に感謝して足利尊氏が感状をおくったことから感状山と呼ばれるようになったという逸話まであり、どちらが本物かと問われると、コチラよりもアチラの方がなんだか分がいい。そんなこんなの事情で白旗城には積極的に出向く気持ちになれずにいたのですが、このたび宇喜多直家(秀家の親父)について足跡をたどるため岡山県の備前市、赤磐市、岡山市などを回るべく計画を立てるなかで、姫路でレンタカーを借りれば「ついで」に回れると思いいたった次第なのです。なお先に言ってしまうことになりますが、当の白旗城は歴史の真相は置いといても十分に楽しめる、まして「ついで」に訪れるどころか本命として訪ねても弩級のインパクトをうける城跡でした。 登城がそのまま登山 奥に見える山が白旗山、一番高い峰が櫛端丸跡 白旗山は標高440ⅿの低山ですが、上郡町の公式サイトではその登山について以下のように注意をしています。 ・道が狭くなっている・角のとがった石が散乱している・落ち葉で道が隠れており、すべりやすくなっているさまざまな危険がありますので、注意して登りましょう。 登城(登山)口にあった案内図 はじめの内こそ穏やかな道を歩きますが、 道はしだいに険しくなってきます そのうえ荒れています 城の遺構と思われる石積みを発見 散乱する岩と石... Read More | Share it now!
小野小町は乞食老婆となって野垂れ死んだ?
【京都市 2026.3.5】小野小町は世界三大美人のひとりとされています。クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町。クレオパトラは紀元前の古代エジプトの人、楊貴妃は8世紀の中国(唐)の人、小野小町は9世紀の平安京の人。地理的にも時代的にもこれだけ見るだけで、なんだか怪しい説との見当はつくでしょう。 しかし小野小町が美しい女性であったことは、写真はもちろん当時の肖像画も残ってはいないものの、どうやら確かだったようです。多くの男性に言い寄られたという事実から美なのか艶なのか男が喜ぶような魅力があったことはわかるし、歌人としての優れた才能からその魅力が官能的なものではなく、おそらくは凛とした美しさだったと想像されたのではないでしょうか。 ところがその小野小町、没年齢がはっきりしていません。60代と伝えるものもあれば、70代、80代、90代、ついには100歳没説まであります。没年齢だけでなく、没地もはっきりしません。小野小町の墓でしらべると、東北から本州最西端の下関まで20ヶ所ほどの「候補地」が見つかります。 おそらくは後半生があまりにもはっきりしないため、ここから謎が謎をよんだのか創作が創作をまねいたのか、老いた小野小町は乞食然の落魄した姿で諸国を放浪しついには路傍で野垂れ死にした、さらにはその骸骨(頭蓋骨)の眼窩からススキが生えてきたといった怪談めいた話まで残されます。 補陀洛寺(小町寺) 一般道の歩道から いきなり急階段をのぼりますそれだけ境内が手狭ということでもあります 補陀洛寺の境内にたつ十三本檜1本の根元から13本の幹が出ているとのことですが、何度数え直しても10本しかありませんでした。これも怪奇のひとつ? 小野小町姿見の井戸 あなめのススキ眼窩からススキが生えて、穴目のススキ? 補陀洛寺は(このあたりの伝承では)小野小町の終焉の地とされています。堂内には「小野小町老衰像」(90歳ごろの像とか)が祀られているそうですが、拝観するには予約が必要です。わたしはサイトの画像で十分満足したので予約見学はしていません。 ところで乞食をしながら諸国を放浪したとか路傍で野垂れ死にしたと伝えるかと思えば、ここでは平安京はずれの寺で没したとか、それにもかかわらず頭蓋骨の眼窩からススキが生えるとか。どうやらこの話は、胡散臭い。 中央後方が小野小町供養塔左は深草少将通魂碑 深草少将は小野小町に熱心に愛の告白をします。ところが小野小町はそれを煩わしく思い、テキトーにあしらうために私のもとへ百夜通えばその愛に応えようと告げます。深草少将は九十九夜までは通い続けるのですが、いよいよ最後の日になって雪降る中で行き倒れになってしまいます。じつはこれ、能作者たちが創作した『百夜通いももやがよい』というつくり話で、実話ではありません。 補陀洛寺をあとにして 川沿いに岩倉へとあるく 次の目的地である随身院は電車を乗り継いで醍醐あたりまで行かねばなりません。せっかく叡山鉄道沿いのこの地を訪れながら、補陀洛寺ひとつで立ち去るのはなんとも物足りない。ということで、岩倉の一角にある圓通寺を訪ねるべく叡山鉄道沿いでもあり川沿いでもある道をのんびり歩くことにします。とは言いましたが、ここで圓通寺に話題が移ったのではテレビドラマを見ていたら途中でいきなり他の番宣が入るようなものでしょうから、圓通寺は後回しにしてブログは隨心院へとつづけます。 随身院 総門から 長屋門から庫裡をみる 庭園 期間限定の花の間きれいですが、ぜんぶ造花です 堂宇がならぶ境内への正門 このあたりに小野小町が晩年を過ごした居住家があったとつたわる 小野小町化粧井戸 路傍で野垂れ死にから、補陀洛寺では寺院が終焉の地となり、随身院では専用の井戸もある家で暮らす生活に昇格しています。なんじゃこりゃ、といったところでしょうか。随身院には「卒塔婆小町像」が祀られています。こちらは拝観料をはらって堂内にはいればいつでも拝観できます。(写真撮影は禁止) 能のなかに「卒塔婆小町」という物語があります。高野山の僧があるとき卒塔婆(墓石に後ろに立てる戒名などを書いた板)にすわる乞食老婆を見かけます。話をしたところずいぶん教養豊かで、その素性を問うて小野小町の成れの果てだとわかります。さらには過去の栄華を語るうちに、熱愛された深草少将に冷たくあたり深草が雪のなかで凍死したことを告白するうちに怨霊に取りつかれついには狂乱しはじめます。最期は怨霊から解放され悟りの世界へ向かうというストーリーですが、これは先に書いた『百夜通い』の続きであることは明白です。 小野小町の文塚 この文塚は、小野小町が男達からもらった恋文(ラブレター)を大切にとって置いたものを埋めたと伝わっています。自分に思いを寄せた男性たちの気持ちがこもった文を捨てたり焼いたりするのは罪だと感じて大切に残しておいたということです。 随身院につたわる小野小町の晩年の姿が真実であるのかどうかはわかりません。しかし能の題材につかわれ、墓の候補地が20ヶ所もある乞食老婆とする話の方がどう考えても不自然です。もしかすると、小野小町はクレオパトラや楊貴妃に劣らぬほどに美しく、それだけ羨望もされれば嫉妬もされたのかもしれません。 圓通寺 圓通寺近くの道端からみる比叡山 時間を巻き戻して、圓通寺へ向かう道にもどります。ここで比叡山の写真を掲載したのには理由があります。圓通寺の庭園は比叡山を借景にしています。それゆえ雲で山が見えないのでは訪ねてゆく意味がなくなります。 ここがもとの正門? 境内に入ります 枯山水庭園と比叡山堂内は一切撮禁止 【アクセス】叡山鉄道・市原駅~補陀洛寺~圓通寺~木野駅... Read More | Share it now!
播磨は低山アルプスの宝庫・今日は加西アルプスを歩く
【兵庫県・加西市 2026.3.1】低山 (ていざん)... Read More | Share it now!