【和歌山県・新宮市~田辺市~那智勝浦町 2025.6.19】熊野三山に興味を持ちはじめたのは、日本サッカー協会のシンボルでもある八咫烏ヤタガラスが熊野三山の神使しんしであることを知ったのがきっかけです。よりにもよって、なぜ不吉とされるカラスが神の使いになったのか。熊野三山とは新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の那智勝浦大社をあわせてそう呼びます。それぞれは20~30km離れており、むかし熊野詣といえば、伊勢神宮からだと伊勢路をあるき、高野山からだと小辺路こへちをすすみ、あるいは大坂(大阪)からなら紀伊路につづいていまの田辺から山中に入って中辺路なかへちをたどり、あるいは田辺から海岸沿いをつたう大辺路おおへち、また吉野からはもっぱら修験者が行脚する難路である大峯奥駈道おおみねおくがけみちがあり、彼らは熊野の地に着けばこれら三社(三山)を順にめぐりました。社と社をむすぶ道をふくめ、これらすべての道を総称して熊野古道と呼びます。また2004年(平成16年)には、伊勢神宮をのぞく上記のすべてをあわせて「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。※伊勢神宮だけが含まれなかったのには理由があり、伊勢神宮は古来より20年ごとに社殿をあたらしく建て替えて祭神に遷宮していただく神事があり、その「建て替え」という行事が「過去からのこる遺産を守り後世につたえる」という世界遺産の理念にそぐわないということのようです。 それぞれの祭神について触れておきましょう。熊野本宮大社の主祭神は元々は家都御子大神けつみみこのおおかみ、のちに素戔嗚尊スサノオノミコトと同一神とされ、さらに神仏習合の時代には阿弥陀如来を本地仏ほんじぶつとします。熊野本宮大社は地勢的にももっとも山中深くに鎮座し、本来は熊野座神社くまのにますじんじゃと呼ばれたことからも熊野三山のなかで中心的存在であることがわかります。熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神くまのはやたまおおかみ、伊弉諾尊イザナギノミコトを同一神としています。そして本地仏は薬師如来。さいごに那智勝浦大社については、熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみが主祭神であり、伊弉冉尊イザナミノミコトが同一神、本地仏は千手観音とされています。 もっとも知りたいのは本来の神様である、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神の三神についてですが、ほとんど手掛かりがありません。本地仏については神仏習合という一時期の、すなわち時限的な教えからの産物にすぎません。しかも神仏習合の考え方は仏優位で、神は仏や菩薩の化身であるとする本地垂迹説ほんちすいじゃくせつにもとづいているので神についてアプローチするには足枷にすらなります。そうなると、ヒントは記紀(古事記と日本書紀)に記されたスサノオ、イザナギ、イザナミから探っていくしかありません。 神倉神社 天照大御神アマテラスオオミカミから5代後の子孫とされる磐余彦尊イワレヒコノミコト(のちの神武天皇)は東征にさいして高千穂から瀬戸内海を東進し、紀伊半島をまわっていったん熊野に上陸します。そのとき登ったとされるのがいまの新宮市の中心にある神倉山。そこから見わたす深山幽谷の景観に進むべき道もわからず躊躇するイワレヒコでしたが、高倉下タカクラジなるアマテラスの使者から神剣を授かり、そしてアマテラスが遣わしたカラスの導きで紀伊の山中をわけ進み大和の地にたどり着くことになります。これは古事記と日本書紀に同じような内容で記されていることですが、熊野信仰では熊野の三神すなわち家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神がはじめて降臨した地とされています。神倉神社はいまは熊野速玉大社の摂社とされていますが、その熊野速玉大社のHPをみると、記紀にある記述にはまったく触れていません。 この鳥居をくぐって、 538段の急峻な石段をあがると、 朱い玉垣にかこまれた拝所に着きます 天ノ磐盾あまのいわたてとよばれる崖上にあり、御神体のゴトビキ岩が鎮座しています イザナギとイザナミは国産み、神産みの神であり、また夫婦神でもあります。二柱の神は力を合わせてまず淡路島を生み出し、つづいて四国、九州などいずれ日本国となる島々を生み、さらに山の神や海の神など三十五柱の神々を産み出しますが、イザナミがさいごに火の神を産み出した時には、女陰を火の神の火焔で焼かれ亡くなってしまいます。(柱:神様の数え方。御神木にみられるように神は木に宿るとの信仰から「木の主」と書いて一柱ひとはしら、二柱ふたはしらとかぞえました)イザナギは最愛の妻イザナミを失った悲しみに耐えきれず、黄泉よみの国まで訪ねてゆきます。自分に会うためここまで訪ねてきてくれた夫の思いに心を動かされ、イザナミは黄泉の国をつかさどる神に地上の国へもどしてもらえないか相談すると告げます。さてイザナギですが、自分がもどるまで決してここを動かず待っているようイザナミから忠告されたにもかかわらず、その後の様子が気になりだすと居ても立っても居られなくなり、つい闇に光をかざして探したところ、イザナミは腐敗し全身に蛆うじがわいた醜い姿をしているではないですか。イザナギは恐怖にひきつり、イザナミは自分の醜い姿をみられたことを恥じ、イザナギは一目散に逃げ、それを見たイザナミは羞恥が恨怒へとかわりあとを追いかけます。 最後はイザナギは逃げ切るのですが、黄泉の国からの急峻な坂道に大きな岩をおいてふさぎ、岩越しにイザナミに離婚を言い渡します。(アマテラスの岩戸の話もそうですが、ここでも大きな岩(石)が話の中に登場することには注目すべきです)ところで余談ですが---離婚を宣告されたイザナミは怒りにまかせて「あなたが離婚するというなら私は地上のあなたの国の人間を、一日に千人殺すことにしましょう」と叫びます。するとイザナギは「おまえがそんなことをするなら私は一日に千五百人の人間を生ませることにしよう」と叫び返します。こうして地上の国では一日に千人が死ぬかわりに千五百人が生まれることになるのですが--記紀が書かれた時代の人たちは、よもや日本に人口減少の時代が訪れるとは夢想だにしなかったのでしょう。あくまで余談ですが。 熊野速玉大社 神橋をわたり参道へ 神門(左)、手水舎 神門撮影時には気づかなかったのですが、注連縄のあたりが奇妙です。おそらく一時的にレンズが曇ったのでしょうが、霊気?があったとすればそれはそれですごい。 左奥手前が拝殿、その奥から結宮、速玉宮、横長は上三殿、さらに八社殿。結宮には熊野夫須美大神(イザナミ)、速玉宮には熊野速玉大神(イザナギ)、上三殿左には家都御子大神(スサノオ)が祀られ、今ではどこへ参詣してもすべての神をお参りできる、なんとも便利なシステムになっているようです。 地上の国へもどったイザナギは、黄泉の国の穢けがれをおとすため身体を水で清めます。これが禊みそぎです。まず脱ぎ捨てた服から十二柱の神々があらわれ、川に身を入れて身体をあらったときにも洗い落とされた穢れからは災いの神々がうまれ、さらにこの災いを直そうと新たな神々があらわれ、といった具合に「穢れを落とすための禊」の過程でたくさんの神が生み出されます。そして最後に左の眼を洗った時にあらわれたのがアマテラスであり、右の眼を洗った時にあらわれたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのがスサノオということです。 熊野本宮大社 熊野三山に関する知識を得るため資料を読んでいる分には、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神とあわせてスサノオ、イザナギ、イザナミの名がしばしば登場します。ところが熊野三山(三社)独自のサイトをみると、熊野オリジナルの3神にくわえてさらにマイナーな神様や氏族の名が登場するばかりで記紀に登場する神々はすっかり影を潜めています。本地仏については、明治維新とともに神仏分離令が施行されたため、今ではせいぜい探せばその残滓が認められるぐらいのものです。 平安時代から室町時代にかけては、熊野に詣でることが大流行しました。信仰とか宗教において「大流行」という言葉を使うと身も蓋もないと言われそうですが、どうやら当時の権力者のなかに「熊野詣」を(今でいうところの商品化して)売りに売ろうと意図した人がいたのではないでしょうか。「家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神」これら熊野土着の信仰だけでは盛り上がりません。「スサノオ、イザナギ、イザナミ」ここで土着信仰に神道が加わります。「阿弥陀如来、薬師如来、千手観音」さらに神仏習合により仏教が合わさることで「熊野だけの信仰」が、「熊野信仰」として日本中に流布されます。さらに修験道がくわわり、修験者が修行のために熊野古道をあるくことで、(修験者にそのような企図があるなしは別にして)けっして楽ではない熊野詣がそのまま神や仏への帰依につながると口から口へ言い伝えられるようになります。 表鳥居... Read More | Share it now!
よくぞ遺してくれたと感謝感謝の新宮城
【和歌山県・新宮市 2025.6.18】新宮城にはそもそもそれほど期待していたわけではなく、熊野三山を探索するさいの拠点として新宮へ赴くため、そのついでに訪ねてみようぐらいの感覚で捉えていました。大阪から奈良の橿原まで電車で行き、そこで車をレンタル、方々回りながら夕刻新宮着。夕食の店をさがして車を流したものの、地元の住民相手の割烹とかラーメン屋ぐらいしか見当たらず、遅くなる一方なので目についたモスバーガーへ。さてホテルにチェックインして今日一日を振りかえったところ、(けっしてモスバーガーを誹謗する気はありません)ほかに店が見つからず夕食にハンバーガーを食べざるえなかった街で感銘をうけるような城に出合えるというイメージがどうしてもわきません。そんな思いで就寝し翌朝一番に、ここでもこれから回る熊野三山の前座程度の感覚でたずねた新宮城だったのですが、これがじつに良かった! 新宮城 新宮市観光局のパンフレットより抜粋🅿に車をとめました。/... Read More | Share it now!
中世と近世の築城術が混ざり合う、紀伊の赤木城
【三重県・熊野市 2025.6.17】熊野市は三重県のなかでずっと南に位置します。赤木城はその熊野市でもぐっと内陸寄り、奈良県との県境ちかくに在ります。大阪市内に在住の私は奈良県の橿原(神宮)まで電車でゆき、そこで車をレンタル、一路赤木城へと向かいました。吉野から熊野へと移動するにしたがい、関西にこれほど山深い土地が存在したのかと正直なところ驚き呆れながらのドライブを2時間余、やっとのことで到着しました。この赤木城、最寄りの鉄道駅は20kmはなれたJR阿田和駅、正午すぎと夕方発でちかくの赤木(集落)までゆく乗り合いバスらしきものがありますが、かえりのバス便は正午過ぎのバスが赤木についてすぐに折り返し、一方の夕方発のバスは翌朝折り返しとなるため、往復使うには不便すぎます。考えられる方法としては正午過ぎのバスで赤木へ向かい、城を見学ののち覚悟をきめて14時すぎから徒歩4時間?でJR阿田和駅へ。それだけの覚悟が決まらないので、レンタカーに頼った次第で、いままでに訪ねた城のなかでもアクセスの大変さでは特筆ものです。 赤木城 駐車場から城郭のある平山をのぞむ 左上の鍛治屋敷跡の左横が駐車場(城郭内にあった案内図より) 赤木城は、羽柴秀長(のちの豊臣秀長、秀吉の弟)が紀伊征伐につづいて近辺でおこる一揆をおさえるため藤堂高虎に命じてつくらせた平山城です。解説によれば中世の縄張りと近世の石垣や虎口づくりが併用された城とされています。藤堂高虎といえば、関西では伊賀上野城、津城、伊予では今治城、宇和島城などをつくり築城の名人と言われていますが、それはのちの話。秀長も秀吉も亡くなり、徳川家康に臣従してからその才能をいかんなく発揮するようになります。赤木城が中世と近世との過渡期をしめすようなと表記されるのは、ひとえに高虎自身が築城技術の過渡期にあったがゆえでしょう。 東郭から主郭へ 主郭へと上ります... Read More | Share it now!
米沢城は城主の知名度で人をよぶ
【山形県・米沢市 2025.5.24】2022年に放映された大河ドラマは「鎌倉殿の13人」でした。ここでいう13人とは、もともと2代将軍・源頼家と直接主従関係をむすんだ家臣、すなわち鎌倉幕府においての御家人にあたり、それらが13人おり全員の合議制でことを決めようとしたものでした。そのなかのひとり大江広元は公家出身で、源頼朝の時代にはその補佐役であり、幕府と朝廷のパイプ役であり、かつ他の御家人と頼朝との連絡係でもあり、将軍につぐナンバー2だったと言って過言ではありません。 その大江広元が米沢城とどのように関係してくるのか。「鎌倉殿の13人」をご覧になった方はご承知のように北条義時が御家人のなかのトップにたち権力をしだいに掌握してゆきます。やがて後鳥羽上皇が幕府への権力集中に不満を抱き周囲に鎌倉打倒を勅命することになります。これが承久の乱ですが、朝廷側はあっけなく敗北し、上皇は隠岐に流されます。史実によれば、大江広元は北条義時が台頭するのちも鎌倉幕府の政務に協力するだけでなく、承久の乱では公家出身であるにもかかわらず終始幕府方についていたようですが、嫡男の大江親広は朝廷方につき幕府軍との戦闘にも関わっていたようです。もうすこしで米沢城にたどり着きます。それがために親広は改易、次男の時広が惣領となります。さて時広ですが、幕府の中枢で活躍していたはずなのですが、いつのまにか出羽国に所領をあたえられ鎌倉からも京からも離されてしまいます。なんとなく左遷の空気がただよいます、やはり長男・親広の行動が問題になったのでしょうか。 時広が所領をえた地は長井郡(長井荘?)と呼ばれていたため本人も長井時広と改姓し、その地に拠点とする館を築きます、それが米沢城のはじまりと言われています。※ここまで話をひっぱりながら恐縮なのですが、長井時広の館が米沢城のはじまりというのも一つの説にすぎず確証はありません。 米沢城 本丸をまもる水堀 城内の案内図より 舞鶴橋(石橋)から本丸へ 舞鶴橋をわたる 上杉鷹山の像 舞鶴橋の手前に上杉鷹山ようざんの座像があり写真を撮るでもなくやり過ごしたところ、本丸に入ってすぐのところにふたたび立像がありました。よほど「売り」にしているのでしょう。 冒頭で大河ドラマを話題にあげたのは、じつは米沢城内でしきりに「上杉鷹山を大河ドラマに」と訴える幟が目についたがため... Read More | Share it now!