城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・中津川市 2025.11.5】恵那市の岩村城から25kmほど北、中津川市の苗木城に移動しました。岩村城を居城にしていた遠山氏がさらに北へと侵攻する足掛かりとして築いたのがこの苗木城、それゆえ岩村城を本城とするとその支城ということになります。 歴史的にいえば、織田氏と武田氏の勢力争いの渦中に容赦なく放り込まれたような存在で、信長vs信玄から世代が変わってそれぞれの嫡男である信忠vs勝頼により獲った取られたと、目まぐるしく立ち位置がかわるのですが、その争乱については岩村城のブログで(その一部を)詳しく書いているのでここでは省きます。 今回ここ苗木城で注目したいのは、山城とはいえその山が岩山ゆえに、自然の岩を取り入れながら人の手による石積と合体して特異な石垣となっていること。岩を足場に支柱をたてその上に建物をすえる懸造かけづくりが築城に取り入れられていること。とくに後者は、ウェブの画像で見るかぎりにおいてもずいぶん珍しい城郭建築で、たいへん楽しみではあります。 登城口から足軽長屋 現地で入手した案内図より抜粋 左下の駐車場よりスタートし、足軽長屋から➀大矢倉、➁千石井戸、➂武器蔵をへて➃天守展望台へ向かいます。 なおこの案内図は部分的にずいぶんデフォルメされており、とくに中核となる天守周辺は大いに誇張されているため、現実に歩くのとは異なります。 足軽長屋から天守(展望台)をのぞむ手前の平坦地は二の丸 石垣に囲まれた道をすすむ 大矢倉 風吹門跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・恵那市 2025.11.5】今日これから訪ねるのは、岐阜県・恵那市の岩村城です。前回の妻木城のブログでも書きましたが、このあたり一帯はともに平安時代に始祖をもつ名門の土岐氏と遠山氏がしのぎを削っていた土地で、岩村城は遠山氏宗家の居城でした。鎌倉幕府がたおれ南北朝時代になると、土岐氏が足利尊氏のもとで勲功をあげ美濃の守護となり、この時点で遠山氏は土岐氏の後塵を拝することになります。さらに室町時代になると土岐氏が美濃全体の守護職であるのに対して遠山氏は美濃の一部地域の地頭職にすぎず、遠山氏は土岐氏に従属する立場になります。 時は移って下剋上に象徴される戦国時代。土岐氏の家臣であった斎藤道三が主君を追い出して美濃一国の主君になります。ところがその道三を嫡男の義龍が敗死させ、さらにその義龍が病死し浮足立っているところを織田信長が攻め立てて斎藤氏を壊滅させます。こうして美濃一国は西から織田氏(信長)、東から武田氏(信玄)が餓狼のごとく領土拡大をねらう草刈場と化してゆきます。このような状況下では、弱小の武家はより強い方に臣下の礼をとって家の存続をはかる以外に生き残る道はありません。ところがこのときの遠山家当主であり岩村城主である遠山景任かげとうは、巧妙なのか細心なのか、それとも単に行き当たりばったりなのか、武田に臣従しながら織田にも誼よしみを通じ、信長からその信長の叔母にあたる「おつやの方」を正妻としてもらい受けます。ここからドラマが始まります。 藤坂~初門~一之門 登城口にあった案内板より抜粋 ➀の現在地より番号にしたがって登城します。後に掲載する画像にはわかりやすいように案内図にある番号を記すようにします。 ➃藤坂 この石畳道は原型をとどめていなかったため昭和の末に修復復元したようです。この水路が当時からあったのかは不明 ➄初門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・土岐市 2025.11.4】今回は岐阜県の東南部を回るつもりで大阪から(交通費節約のため)新快速と普通電車を乗り継いでまずは岐阜市へ、そこからはレンタカーを借りて一路東へ、向かうのは土岐市、恵那市、中津川市。このあたりは室町から戦国時代にはともに名門の土岐市と遠山氏がしのぎを削っていた土地です。 明智光秀が本能寺で信長を討つに先立って、愛宕百韻あたごひゃくいんの発句として「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだことは有名ですが、(このさいホントかウソかは別にして)ときは時と土岐を掛け、あめは雨と天を掛け、「時は今、土岐氏の出である自分=光秀が天下を治めるべき雨降る五月になった」と信長を討つ決意を表明したと言われています。 もし光秀が「とき」に時と土岐の意味をかさねているのであれば、たしかに明智一族は土岐氏の系譜です。名字が変わっているので宗家ではなく庶流ということになります。妻木城はその明智氏の始祖あたりの明智某がつくったとされています。ではなぜ妻木つまぎ城と呼ばれるかというと、明智氏の庶流に妻木氏がおり、明智某はここから25kmほど北西にある明智城を居城としたため、この城は妻木某に譲ったということです。まずはその妻木城を訪ねてみます。 ※明智光秀は明智城で生まれ育ったとされていますが、彼の前半生をあきらかにする資料は存在せず、「伝」の域をでません。そんなとこからも「ときは今... Read More | Share it now!