浅井長政を追って横山城から姉川古戦場へ
【滋賀県・長浜市 2023.10.6】
先日訪ねたのは浅井長政の居城・小谷城と、その小谷城を落とすために信長方が陣を敷いた虎御前山城でした。
その織田信長vs浅井長政の戦いにいたるまでの経緯を簡単に書いておきます。
尾張と美濃二国の領主となった信長は、天下統一に向けて自国と京の都との往来を円滑にするため北近江の大名・浅井長政と同盟関係をむすび、さらに天下無双の美人といわれた実妹・お市を長政のもとへ嫁がせることで、その結びつきをさらに強化します。
信長は御輿(みこし)がわりに足利義昭を奉じて上洛し、15代将軍としてお披露目も行いますが、越前の大名である朝倉義景は素知らぬ顔で名代すらも送ってきません。これに怒った信長は、表向きは将軍にたいして無礼千万、本心は信長の指図に従わぬのならと、大軍をひきいて朝倉征伐に向かいます。
この戦、まちがいなく信長の圧勝のはずでしたが、なんと信長全軍が越前の入口、敦賀の金ケ崎城まで侵攻したとき、北近江に残っていた浅井長政が突如裏切り、あろうことか信長軍の背後から全軍で肉薄してきます。前には朝倉勢、後ろには浅井勢、信長人生最大ともいえる大ピンチ。ここは秀吉、光秀ら家臣と盟友・家康らの奮闘でなんとか脱出します。
なぜ長政が裏切ったかは諸説あり、長くなるのでここでは省きます。
信長は意外と情深いところもありますが、逆に裏切りには容赦がありません。とくに信頼していた義弟の長政の裏切りゆえに、怒り心頭に達した、怒髪天を衝く、切歯扼腕、だったようです。いったん領国にもどって体勢を立て直すとすぐさま浅井氏せん滅に向かいます。
この戦では、信長軍は小谷山に向かい合う虎御前山に陣を敷き、小谷山の南に位置し小谷城の前衛ともいえる横山城を囲んでここを窮地に陥れ、それを救うべく浅井軍が城を出てくるよう仕掛けます。
一方の浅井長政ですが、横山城を見殺しにしたのでは軍の士気にかかわります。越前の朝倉義景からの援軍の到着を待って城を出て平野部に全軍を展開させます。この戦いが、姉川の合戦です。
横山城址へ
北城
姉川の合戦では、信長方は家康軍の奮戦もあって勝つには勝ちますが、浅井長政の首を獲ることはできませんでした。
そこで信長は占領したこの横山城に秀吉(当時は木下秀吉)を入れ、京都と近江との物流を遮断することで浅井氏を経済的に圧迫すると同時に、この横山城が元々そうであったように、小谷城をまもる周囲の他の支城の城主たちをしだいに調略してゆき、いわば小谷城を丸裸にしてゆきます。
順が前後しますが、歩いている経路をわかりやすくするため、これから行く南城にあった案内板の縄張図をここで掲載します。
横山城は3方向の尾根に沿って城郭が伸びていたようで、いま現在は、図の下方向(西)から登ってきて北城の中心にいます。
これからいったん南城へむかい、北城へ戻ってから斜め右上(北東)へ伸びる尾根を下ります。
南城
北方向へ下る
北城本丸から登山口まで40分ほどの道程でした。その間の道そのものは危険もなく歩きやすいものでしたが、木と木、枝葉と枝葉の間に蜘蛛の巣が張られ、通る人もいないのか進めど進めど蜘蛛の巣だらけ。
ふつうに歩けば30分もかからなかったのでしょうが、木の枝を振り回し、身をかがめ、それでも見逃した蜘蛛の糸が顔や頭にまとわりつき、ときには蜘蛛が肩の上に留まっていてギョッといった具合で、ある意味で「超難路」でした。
姉川古戦場
国友鉄砲ミュージアムへ
国友(このあたりの地名)での火縄銃の生産が本格化するのは、信長が近江の地を占有してからで、その後秀吉、家康から大量の注文を受け国内でも有数の鉄砲生産地に成長します、
長浜駅へ
【アクセス】JR長浜駅 ➡ 湖国バス・石田バス停~日吉神社~横山城址~姉川古戦場~国友鉄砲ミュージアム~長浜駅、25000歩、所要:5時間
【料金】国友鉄砲ミュージアム:300円
【満足度】★★★☆☆