新田義貞の金山城にて、なぜ足利尊氏は悪人とされたのか考える
【群馬県・太田市 2024.5.22】
足利氏と新田氏はともに後醍醐天皇の呼びかけに応じて北条執権打倒に尽力しますが、その後の分裂からもわかるようにもともと仲は良くなかったようです。
源頼朝がはじめて武家中心の国を打ち立てたのが鎌倉幕府ですが、その源氏は3代目・実朝が暗殺されることで直系が絶え、北条氏が執権という将軍補佐役ながら実質的に幕府を思うままにうごかしてゆきます。
いっぽう上野(こうずけ)の地で清和源氏の流れをくむ源義国がその土地にちなんで足利義国をなのりますが、嫡男・義重は近隣の新田荘へうつり新田義重と称し、足利家は次男の義康がつぎます。その理由ははっきりしませんが、どうやらこのころから新田氏と足利氏の不仲のもとがあったのではないでしょうか。
足利氏は血統の良さを前面に出して執権・北条氏や関東管領・上杉氏とも縁戚関係をむすぶことで地盤をかため相応の領地をもらいます。ところが新田氏は代々そういった政治的な工作が苦手なのか田舎土豪のまま、先祖は弟であった足利氏に水をあけられてゆきます。「水」でいうと、足利の地と新田の地のあいだに渡良瀬川がながれていますが、この渡良瀬川の水利をめぐって新田、足利のあいだでたびたび揉め事がおきるのですが、新田側が苦情を申し立てても、あきらかに両家の力の差で新田氏はいつも苦渋を強いられたようです。
ところで将軍の補佐役にすぎない北条氏がやりたい放題の幕府にたいして、武家も公家もそして朝廷も不平不満をもつのはとうぜんで、ついに後醍醐天皇が動きはじめます。
源義国の時代から200年、足利氏は足利高氏(のちの尊氏)、新田氏は新田義貞の時代です。
金山城・西矢倉台周辺
(新田)金山城跡は横にながく、じっくり見学するのであれば2時間は必要です。
左端の赤丸・現在地から出発します。
ところで金山城の築城には新田義貞は関係していないようで、発掘調査から戦国時代に造られたことがわかりました。
しかし、この城の存在が知られるまで関東地方には江戸時代以前に石垣をもちいた城は存在しないとされていました。その定説がみごと覆された画期的な発見だったようです。
ところで後醍醐天皇の呼びかけに応じて足利高氏、新田義貞ともに立ち上がり北条氏を追放します。(ほかにも河内の英雄・楠木正成らの活躍もありますが、ここでは省きます)
ところが後醍醐天皇による建武の新政がはじまると、しだいに内部分裂が生じてきます。
その原因の第一は、高氏が後醍醐天皇から直々に偏諱(へんき)をたまわり尊氏と改名までしたにもかかわらず、自分が幕府をひらく野望を抑えられず、反乱を起こしたとされています。
物見台周辺
後醍醐天皇にとって北条氏を倒しあらたな政治を始めること、すなわち建武の新政とは、天皇が中心になって国を動かす、すなわち武家政治から天皇親政への回帰が狙いでした。
要するに清和源氏の血をひく鎌倉幕府将軍家の正当な後継者を自負する足利尊氏にとっては、北条氏を倒すまで非力な朝廷にかわってその武力を利用されたにすぎません。
それは新田義貞とて同じです。
それではなぜ新田義貞は天皇中心の政治をすすめる、言い換えるなら武家を番犬ていどにしかみていない後醍醐天皇に最期まで従ったのでしょうか。
後醍醐天皇は歴代の天皇のなかでずば抜けた行動力をもった傑物です。同時に、残念ながらその行動の軽躁さにおいても図抜けています。
北条氏を倒すために武士が命を賭して戦ったのは、なにも後醍醐天皇のためではありません。報奨として領地をもらうためです。
ところが後醍醐天皇は北条氏から巻き上げた土地を、気前よくおもに自分のお気に入りにさっさと分け与えてしまったため、気がつけば途中で与える土地がなくなってしまいました。
足利尊氏も新田義貞も土地に関してはそこそこのものを与えられており不満はなかったはずです。
しかし半数以上の武家はほとんど、あるいはまったく何ももらっていません。
その武士たちは新田義貞ではなく、リーダーとしてよりふさわしい、言い換えれば自分たちの不満を代弁してくれるであろう足利尊氏を頼ることになります。
ここから足利尊氏vs新田義貞の構図が出来上がってくるのですが、これだけでは両者が干戈を交える理由としては弱すぎると思います。
大手虎口周辺
本丸周辺
後醍醐天皇は傑物ですが、仁徳といった美点はまるで持ちあわせていなかったようです。
北条氏を倒すために足利氏と新田氏をうまく使ったと考えてみます。
ところがいざ北条氏がいなくなると、足利氏と新田氏の力が目立ちはじめ、後醍醐天皇にとっては目障りになってきます。そこで足利尊氏と新田義貞を仲違いさせ、争わせ、うまいこと両者共倒れになってくれれば – – – 歴史を歪曲するつもりはありません、しかしこういう考え方もあるということです。
最後になぜ足利尊氏は悪役で、新田義貞は正義の人と後世に伝えられたのかを考えてみます。
天皇家でも跡継ぎ争いはたびたび起きていました。もっとも象徴的なのが後嵯峨天皇のあと持明院統(のちの北朝)と大覚寺統(のちの南朝)に分裂し、ついには幕府の仲介もあって即位した天皇は10年を区切りに譲位して相手方の皇太子に天皇位をゆずることで、両統から交互に天皇が践祚(せんそ)することになります。
こうしてしばらくは平安を保っていたのですが、後嵯峨天皇の8代後の、大覚寺統である後醍醐天皇が譲位することを拒み、それどころか自分の息子すなわち同じ大覚寺統の皇子を皇太子に任命します。要するに今後持明院統に天皇位をわたすことはなく、ずっと大覚寺統で独占するという宣言です。
そもそも南北朝時代の争乱はすべて、この後醍醐天皇の我欲によって始まっています。
後醍醐天皇にしたがった新田義貞と、武家の多くがしたがう足利尊氏が争うことになるのですが、後醍醐天皇はいまだ譲位しておらず形式的には現天皇のままです。すなわち後醍醐天皇側が官軍ということになり、尊氏にしたがう武士は官軍に弓を引くことになりどうしても腰が引けてしまいます。
そこで尊氏は持明院統からあらためて光厳天皇をたてます。自分たちの軍こそ官軍であると名乗りをあげるためです。これが北朝のはじまりであり、それに対して後醍醐天皇派は南朝と呼ばれるようになります。
(持明院統は北の京都におり、後醍醐天皇はこのとき南の吉野にいたのが北朝南朝のいわれです)
これだけみると尊氏のしたことはアクロバチックな、人をたぶらかす行為のようにも思えますが、ただしく歴史を見れば後醍醐天皇こそが取り決めを無視して天皇位に居座っているのですから、この時点では北朝こそ正統と考えるべきでしょう。
江戸時代初期までは北朝こそ正統な天皇の系譜と考えられていました。それゆえ現在の天皇家はこの北朝の系統です。ところが江戸時代末期には南朝こそ正統な系譜であるととなえる声が徐々に大きくなってゆきます。
発端は家康の孫にあたる徳川光圀が編纂した「大日本史」のなかで南朝正統論が唱えられていること。のちに吉田松陰はこの大日本史や水戸学に大きな影響を受け、また西郷隆盛など多数の尊王攘夷の志士が光圀が建立したと伝わる楠木正成の墓碑に参詣しています。
(その墓碑のあったいまの神戸の地に明治5年に楠木正成を祭神としてまつる湊川神社が建てられることになります)
明治の時代になると、それまでいわれた北朝正統論はすっかり影をひそめ、南朝正統論が主流というよりも確固とした正論となります。
おそらく天皇家は困惑したはずです。それ以上に尊王思想で明治維新をなしとげた明治政府のなかにはいままで担いできた北朝天皇家が正統でないなら、という矛盾に頭を抱えた人たちもいたことでしょう。
しかし日本人というのはこういう時に柔軟なのか、優柔不断の極みなのか、まあまあまあまあと言ってるうちに、天皇の系譜は北朝が正統、歴史の認識としては南朝が正統、ということでなんとなく落ち着いたようです。
さて話が長くなりました。
要するに、南朝こそが正統と歴史認識がかわったがために、南朝のために戦った新田義貞や楠木正成は忠臣で正義の人であり、結果として北朝をおこして騒乱を拡大した足利尊氏は悪役になってしまったということです。
【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★★☆