西大寺、建立は称徳天皇と道鏡、といえばあの下ネタか

【奈良市 2024.6.22】
西大寺は奈良市中心街より西に在り、文字どおり東大寺に対比するように建立された由緒ある寺です。創建当時はその広大な境内に多数の堂宇が建ちならぶ様も東大寺に匹敵するような巨刹で、南都七大寺のひとつに数えられています。
ところが東大寺が現在も(その境内が縮小されたとはいえ)大伽藍を誇っているのに対して、西大寺の衰退は著しく悲哀を感じるほどです。
じつはこの衰退には理由があります。

孝謙天皇は聖武天皇の娘ですが、ほかに妥当な皇位継承者としての男性がいなかったため聖武の没後46代天皇に即位します。母である光明皇后(藤原氏から聖武天皇のもとへ嫁いでいる)と、当時藤原四家にわかれた南家の嫡流・藤原仲麻呂の後見と助力がありましたが、どうやらこのころ孝謙天皇には政務に対する意欲は薄かったようで、実情は光明皇后の信任をえた藤原仲麻呂が実権を握ろうとしていたようです。
やがて光明皇后が病いで寝込むようになり、孝謙天皇は皇后の看病を理由に譲位の意向をもらします。では誰を皇太子に指名するか、ここで藤原仲麻呂が動きます。
孝徳天皇とははるか遠縁である、天武天皇の孫(舎人親王の七男)である大炊王(おおいおう)を担ぎ出してきて皇太子候補として強引に推挙します。その結果、孝徳天皇が譲位し、大炊王が淳仁天皇として47代天皇に即位します。
この大炊王ですが、藤原仲麻呂の邸宅で起居し、さらに仲麻呂の娘(亡くなった長男の嫁で未亡人との説も)を妻としているのですから、仲麻呂はこの日のために着々と準備をすすめていたということでしょう。
こうして藤原仲麻呂は淳仁天皇を立てながら完全に実権を掌握してゆきますが、ここで思わぬ「対抗勢力」が現れます。

孝謙天皇あらため上皇は、光明皇后が亡くなったことで気落ちしたのか床につくことが多くなっていました。ここで病気平癒のため祈祷だけでなく治療の知識も有する僧・道鏡が歴史の表舞台に出てきます。

西大寺は大和西大寺駅からすぐ(画像中央)
西大寺境内伽藍 / 入口横の案内図より抜粋

孝徳上皇・道鏡 vs 淳仁天皇・藤原仲麻呂の敵対構図ができあがった発端は、道鏡との親密な仲をたびたび諫めた淳仁天皇を、上皇が煩わしくおもい嫌悪したためとも言われています。
たしかに道鏡がどのような治療をしたのかわかりませんが、上皇はすっかり健康を取り戻し、そこから道鏡を寵愛するようになります。ここで二人のあいだに濃密な肉体関係がうまれ、淳仁天皇は宮中でも噂になるほどの醜聞を懸念して諫言したということのようです。
このとき道鏡60手前、上皇40半ば、濃密な肉体関係はありえないという年齢ではありませんが、上皇は更年期障害で気持ちが鬱屈していたところ、道鏡がよき話し相手になってくれたおかげで元気を取り戻した、と考えられなくもありません。

完全に回復した上皇は(ここでは間違いなく道鏡の支えがあったはずです)いったん譲位したにも関わらず政務に介入してきます。淳仁天皇が毅然としていれば問題ないのですが、なんといっても藤原仲麻呂本人が傀儡として担いだだけの天皇ですからまったく役に立ちません。
徐々に力をそぎ落とされてゆくことに焦りと怖れを抱いた仲麻呂は軍事力で対抗することを決意します。これが歴史に藤原仲麻呂の乱と記録されているものですが、この争乱は孝徳上皇が淳仁天皇の頭を押さえつけて自ら勅命を下すことにより、官軍として戦った吉備真備らの活躍もあって反乱側の敗北、仲麻呂は討死、淳仁天皇は淡路島へ流されます。

四王堂 / ここで拝観券をもとめる

争乱の平定を祈願して、孝徳上皇が「金光明経」にある国家守護の神・四天王像を建立することを誓願し、無事平定できたゆえその御礼に四天王像をつくり奉納したのがこの西大寺の起こりです。
※孝徳上皇の父である聖武天皇が仏教による国家鎮護のため全国に建立した国分寺は「金光明四天王護国之寺」が正式名称であり、このことからも西大寺が由緒正しい寺であることがわかります。

その四天王像が画像にある四王堂でみられます(残念ながら当時のものは消失し鎌倉時代に造られたものですが、じゅうぶん見応えはあります)

前方に愛染堂、右が本堂、手前が護摩堂
東塔跡と本堂
本堂から東塔跡、鐘楼堂(右)をみる
本堂の装飾

孝謙上皇は淳仁天皇が淡路へ配流されてのち重祚(ちょうそ:退位した天皇がふたたび天皇になること)して称徳天皇となります。そして孝謙天皇の時代とは打って変わって政務に励みます。もっとも主とするのは「神仏頼み」で、みずから社寺をまわり、あらたに寺院をつくり、既存の寺院を拡張し、神社に神宮寺を建立してゆきますが、その傍らにはつねに道鏡の姿がありました。
その道鏡は仏教界の最高位である法王として君臨します。
称徳天皇の過度な仏教への傾倒と、道鏡のまれにみる出世とが相まってさまざまな憶測がうまれます。その憶測はやがて人の口に上ることとなり、人の口に上った話には尾ひれがつくのは今も昔も変わりません。道鏡と称徳天皇の愛欲の醜聞もそんなところから生まれたものではないでしょうか。

ふたりの愛欲については、たとえば平安時代初期に編纂された「続日本紀」には匂わせる程度に書かれているだけですが、その30年ほどのちに書かれた「日本霊異記」ではあけっぴろげに、さらに時がすすみ鎌倉時代の暴露本「古事談」では露骨に描かれ、そして江戸時代になると、以下のような川柳が残されます。
「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」
「道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)」
「道鏡は 坐ると膝が 三つあり」
わざわざ解説は加えません。意味が分からんという方は、「下ネタがらみの川柳」であることを意識してもういちど読み直してみてください。

南門へ
境内南側にならぶ石仏

称徳天皇との愛欲以外にも、道鏡が天皇になろうと企んだという醜聞もあります。
宇佐八幡宮ご神託事件といわれるもので、あまりに稚拙な話ゆえ詳細は省きますが、道鏡はそのころ法王であって、ある意味では天皇よりも高位にあると言えます。しかも称徳天皇は剃髪して仏門に入っておりその意味では法王・道鏡の弟子のようなものなので、称徳自身が道鏡に天皇位を譲ってもいいと思うことがあったとしても、道鏡が児戯のような拙い方法で天皇位に就こうとたくらむはずがありません。

そんな道鏡と称徳天皇の蜜月もやがて終焉をむかえます。称徳天皇が52歳で崩御、それと同時に道鏡の権勢は一気に失われます。

西大寺の奥の院には、叡尊上人の墓がある

西大寺は官寺(国によって管理運営される寺)ですが、称徳天皇が亡くなり道鏡の権勢も失われると忘れられた存在のようになり、しだいに衰退してゆきます。
鎌倉時代になってすっかり荒廃してしまった西大寺を叡尊上人がいったんは復興させますが、やがて乱世の時代となり、伽藍はつぎつぎと焼失してしまい、いま残っているものはすべて江戸時代以降に再建されたものです。

称徳天皇の崩御からまもなく、道鏡は法王から下ろされ下野(しもつけ)薬師寺の別当を任じられます。
下野薬師寺はいまでこそ再建された小さな本堂が残るのみですが、当時は出家者に戒律を授けて正式な僧侶となることを認める戒壇のもうけられた希少な寺で、奈良の東大寺、大宰府の観世音寺とともに天下の三戒壇ともよばれていた寺です。
違う説明のしかたをするなら、この授戒をおこなうため大和朝廷からの要請で来日し、最初に東大寺に戒壇を設けて授戒をおこなったのが鑑真和上です。そして東大寺(中央戒壇)の後に、日本の東と西でも授戒がおこなえるようにと下野薬師寺(東戒壇)、観世音寺(西戒壇)に戒壇を設けたということです。

もし本当に道鏡が肉体関係で称徳天皇を虜にしていたとか、天皇の地位を簒奪しようと謀っていたとかそんな事実があったとすれば、これほどの由緒正しく国にとって重要な寺の別当(寺における長官のような立場)に就かせることはあり得ないでしょう。
道鏡の功績すなわち日本の仏教界に残した偉業は認めるが、道鏡に関するいかがわしい噂とそれをネタに口うるさく非難する反道鏡派の人々に配慮して、どこぞ人目のつかないところで隠棲してくれ、くらいの処分だったのではないでしょうか。

【アクセス】近鉄大和西大寺駅から徒歩5分、奥の院へは本堂から徒歩10分
【拝観料】本堂、四天堂、愛染堂、3堂共通800円 (各堂とも仏像を間近で見られる)
【満足度】★★★☆☆