毛利元就に惹かれて吉田郡山城へ
【広島県・安芸高田市 2024.9.3】
毛利元就というと、三本の矢(三矢の訓)が有名で、その逸話からいかにも名将のように認知されています。
そもそもこの逸話自体がのちの時代の創作です。さらに話のもとになる「個々の力を合わせれば何倍もの力になる」というのは、元就がみずからの手で中国10か国を支配したものの息子たちの器量ではこれ以上の勢力拡大は難しいと判断し、拡大拡張は考えずひたすらに今の領土を守ることに専念せよ、そのためには息子たち(兄弟)3人が力を合わせることがなによりも大切だ、と教えたことによります。
ではいかにして毛利元就が一代で中国地方を平定したかというと、これは謀略、謀略、謀略がすべてと言っても良いでしょう。毛利氏の地元では、ライバルの尼子経久こそ梟雄(きょうゆう:残忍で勇猛なひと)と記していますが、なにがなにが。
日本三大梟雄といえば、斎藤道三(美濃)、宇喜多直家(備前)、松永久秀(大和)が一般に挙げられますが、なぜ毛利元就が入ってこないのか不思議でなりません。単純に、上記の3人は謀略でもってのし上ったとはいえ一国の領主におさまったにすぎません。それにひきかえ元就は10か国です、単純に言えば10倍くらい残忍で勇猛だったということでしょう。
現実に元就はその生涯に、二百数十回の戦をしており、また暗殺謀殺の回数は数知れず、あるいは目障りな主筋を強引に出家させて武門から追い出したりもしています。
ところで、個人的にはさとり顔で三矢の訓をたれるような元就には興味はありません。
とんでもない梟雄であったことを知ってから俄然興味をひかれるようになりました。
鈴尾(福原)城跡
レンタカーを借りて広島市方面から安芸高田市に入ったところ、途中カーナビに「毛利元就生誕地」と表示が出ました。
主道路からはずれて近くまで寄ってみましたが、山上への登城口がわからないので探索はしていません。
そもそも自宅に帰って調べ直したところ、ここは「伝生誕地」であって、吉田郡山城で生まれて死んだと明記しているものもありました。
吉田郡山城
カーナビに誘導され、元就と毛利一族の墓にちかい駐車場に到着しさっそく散策を始めたのですが、考えてみると「墓」ですからここは元就らが没したあとにつくられたわけで、元就が生きていた当時には鳥居はもちろんこの道すらあったのか定かではありません。
そこで実際には、元就の墓➡本丸➡郡山公園と歩いたのですが、城の立地と構造をわかりやすく紹介するため歩いた順とは逆に記載します。
登城する
元就の墓から本丸への道はただの山道に過ぎませんでしたが、郡山公園から登る道はたしかに防御機能をそなえた登城道です。
山城ファンの方は絶対にこの道でアプローチしてください。
安芸高田の市名に聞き覚えがあると気になっていたのですが、7月におこなわれた東京都知事選で話題になった石丸氏が元はここの市長だったようです。
よくまあこれほど小さな町の首長から東京都知事に挑戦したものと関心し、同時にあれから2か月足らずでもうすっかり過去の人になってしまった世情のうつろいやすさにも感慨し、しばしこの風景を眺めていました。
主郭部
山城としては中国地方で有数の規模を誇るものだったそうですが – – –
主郭部周辺
毛利家の墓
城や山城を保存する上で、どこまで復元するかは重要な問題です。
ありもしなかった天守を模擬でつくり上げたり、現代の技術で整いすぎた石垣を再現したりすることは観光客誘致のためであって、保存という視点からは論外でしょう。
ここ吉田郡山城は、発掘したものをほぼ手つかずで現状のままに見せてくれようとしているのでしょうが、それが保存という意味でもっとも正しい方法であったとしても、文化遺産の保存という視点でみればどうなのでしょうか。
2時間ほどかけてじっくり見てまわった感想は、どのような工夫と作為でこの城が築かれたのかがまったくわからず、「かつてここに城がありました」と教えてもらっただけのようでした。
【アクセス】安芸高田市街地からすぐ
【満足度】★★★☆☆