宇佐神宮の謎・ご神託事件を勝手に推理する
【大分県宇佐市 2026.1.19】
平城京に都が移されてから半世紀、諸国にそれぞれ僧尼二つの国分寺が建立され、東大寺の大仏が開眼し、唐から来日した鑑真が唐招提寺を創建して戒律をつたえ、奈良仏教が国と強固に結びつこうとしているとき、宇佐八幡宮ご神託事件がおこります。
称徳天皇(孝謙天皇と同じ)に寵愛された怪僧(とつたわる)道鏡を、皇位につかせると天下泰平になると宇佐八幡宮(宇佐神宮)にてご神託があったとの上奏があり、そこに端を発する一連の事件をいいます。
まず道鏡が権力をにぎるまでの経緯から。
聖武天皇の譲位にともない男子がいなかったことからその娘の阿倍内親王が孝謙天皇として即位します。
女性天皇ということで心許なかったのか、母であり聖武天皇の后である光明皇后(この時点で皇太后)が後見します。
この光明皇太后ですが、藤原不比等の娘。藤原不比等は藤原氏の祖・藤原鎌足(もと中臣鎌足)の息子であり、藤原氏を繁栄させるためにこの世に生まれ出てきたかのような人物ですから、光明皇太后の脳裡にどのような朝廷の将来図があったかは容易に想像できます。
案の上というか光明皇太后の甥である藤原仲麻呂が朝廷内で台頭してきます。
当初は孝謙天皇との仲は良好で互いに協力し合っていたようです。
どちらが先かはわかりませんが、孝謙天皇は母である光明皇太后の健康が芳しくないこともあって退位の意向を示します。一方の藤原仲麻呂は自分の娘を皇太子候補となる大炊王と婚姻させて関係を強化し孝謙天皇が譲位した後にそなえます。(娘ではなく、早逝した長男の嫁すなわち後家との説もあります)
さて大炊王は践祚し淳仁天皇として即位しますが、これが完全な操り人形、実権は仲麻呂が握ります。
そのころ孝謙天皇(この時点で上皇)は光明皇太后の崩御ののち魂が抜けたかのように病に伏していました。
そこに登場するのが病気平癒を祈祷するため参内した道鏡。
このとき、ふたりが親密になりすぎて濃密な肉体関係をもち、(さまざまな醜聞をへて江戸時代の川柳では「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」と揶揄されることになるのですが)、これ以後孝謙上皇はすっかり元気を取り戻したようです。
私的には、孝謙上皇がいまでいう更年期障害で鬱々とした日々を送っているときに道鏡がよき話し相手になったのではないかと考えていますが、どちらにしろ孝謙上皇が元気になったのは事実です。
さて孝謙上皇が健康を取りもどして外界をよく見れば、淳仁天皇はお飾りに過ぎず藤原仲麻呂が朝廷を取り仕切っているさまに切歯し、反対に仲麻呂としては孝謙上皇が一僧にすぎない道鏡を過度に重んじることに扼腕し。
事態は急速に険悪化し、ついに仲麻呂は軍事力をもって上皇と道鏡を排斥しようと行動を起こします、これが俗にいう藤原仲麻呂の乱ですが、最終的には仲麻呂政権下で冷や飯を喰わされていた吉備真備の活躍もあって、仲麻呂は斬殺され淳仁天皇は廃位のうえ淡路島に追放されます。
こうして対抗勢力を駆逐した孝謙上皇は重祚(いったん退位した天皇がふたたび皇位につく)して称徳天皇となります。天皇の寵愛を一身にうける道鏡の栄達は雲上人の域を越え、太政大臣禅師さらに法王と、昇り詰めるのではなく道鏡のために特別につくられた地位に栄進してゆきます。
宇佐神宮
神橋~大鳥居~菱形池

最上部の「現在地」から神橋をわたり表参道を進みます




宇佐神宮の由緒に触れておきます。
飛鳥時代のまえ「古墳時代」としか呼びようのなかった6世紀中ごろのこと、宇佐の菱形池のほとりに八幡神が降り立ち、その地に神を祀るための社が建てられます。
記紀(古事記と日本書紀)によると、4世紀から5世紀ごろ三韓征伐をおこなった神功皇后が帰途に筑豊あたりで男児を出産します。この男児がのちに応神天皇として国を大いに発展させるのですが、生誕地が近いこともあってか八幡神は応神天皇の神霊であるとされ、八幡神を祀る社は応神天皇を主祭神とする宇佐神宮へと昇格します。(神社が神全般を祀るのにたいして神宮は天皇や皇族の祖先をまつるため格上とされる )
時はうつって奈良時代。
聖武天皇(称徳天皇の父)が東大寺大仏建立の詔を下した際あまりの難事業に逡巡する人たちが多く、天皇自身も躊躇しかけたときがありました。
そのとき宇佐神宮からご神託がもたらされます、八幡神が八百万の神とともにかならず大仏造立を成功させると。これを聞いた天皇はあらためて決意を強くしたといいます。さらに大仏が建立されると宇佐神宮では八幡神を神輿にのせて(この場面の記述は、八幡神がみずから神輿にのって、となっています)、聖武(この時点では上皇)、光明皇太后、孝謙天皇(のちの称徳天皇)が列席する中で東大寺大仏に礼拝します。
ここに神が仏に礼拝し、神が仏(仏教)を守護するという姿が衆目にふれることになります。
これこそが神仏習合の嚆矢であり、宇佐神宮が神仏習合発祥の地といわれる所以です。
春宮~祓い所~若宮

春宮は皇太子のこと。応神天皇の皇太子でありながら夭折した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が祀られている


先ずは上宮へ向かいます


若宮は皇族の皇太子以外の皇子のこと
ここには応神天皇の皇子、皇女らが祀られています
まず以下の文を読んでください。
奈良時代に大和朝廷は律令制による中央集権的な国家統治をめざしていました。
ところが南九州で独自の文化をもち生活する隼人はその下に組みこまれることに強硬に抵抗します。
そこで朝廷側は武運の神として名高い宇佐神宮の八幡神を神輿にのせて討伐に向かいます。
こうして隼人を征伐し南九州の地を治めることに成功するのですが、八幡神は戦において多数の殺生をしたことを悔い、仏に救いを求めます。
これが一般に伝わる八幡神と仏との最初の接触の場面で、ここから神仏習合がはじまったとされています。
ずいぶん奇妙な話です。
そもそも最強の武神として崇敬された八幡神が、国内統治のために抵抗勢力を征伐し殺生したことを悔いるという行があまりにも不自然でしょう。
胡散臭いの類語をしらべると、「あやしい」「いかがわしい」「うろんな」「うそくさい」「いぶかしい」等々がつぎつぎに出てきますが、それらを全部あつめて団子にしたくらい胡散臭い話ではありませんか。
これほど胡散臭い話を、誰がなぜつくったのか?
それではそろそろ宇佐八幡宮ご神託事件に話をすすめます。
上宮



上宮(じょうぐう)には主祭神として応神天皇=八幡神と、この地をもともと守護していた地主神である比売大神、さらに応神天皇の母である神功皇后の3柱が祀られています。
正確には神護景雲3年(769年)、大宰主神(当時九州全域の行政を担う大宰府で神事を統括する神祇官)である習宣阿曾麻呂が、「道鏡を皇位につかせたならば国家が安泰する」と宇佐の八幡大神よりお告げが下されたと朝廷に奏上します。
このころ朝廷では独身の称徳天皇に子がいないことから皇太子すら決められない状況でした。
このご神託をうけて、道鏡はよろこび自負したと伝えられています。
いっぽう称徳天皇はご神託の真偽を確かめるため、側近の尼僧の弟にあたる和気清麻呂を宇佐八幡宮へと遣わします。
清麻呂は出発にさいして、道鏡から吉報(さきのご神託が正しく道鏡の天皇即位をうながす)を持ち帰ったならば大臣の官位をあたえると甘言されたと伝えられています。
さて清麻呂が宇佐八幡宮に参拝し、あらためてご神託を仰いだところ、「我が国は開闢以来君臣定まれり。臣を以て君と為す、未だこれあらず。天つ日嗣には必ず皇諸を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」
(我が国は国がはじまって以来、天皇と臣下との区別は定まっている。臣下のものが天皇になったことは今までに一度もない。皇位にはかならず皇族を立てよ。道に背くものはすみやかに排除すべし)
この新たなご神託を聞いたときの道鏡の反応については、激怒したとあるだけで詳細はわかりません。
いっぽう称徳天皇は怒るだけでなく清麻呂の官位を剝奪し、ご丁寧にも(?)別部 穢麻呂と改名させて大隅国に配流します。
その後がどうなるのか興味のあるところなのですが、事件の翌年に称徳天皇が崩御してしまいます(※江戸川柳の崩御ではなく正真正銘の崩御です)これを機に後ろ盾をうしなった道鏡の権勢は凋落し、下野薬師寺の別当として左遷されます。
そもそも誰が道鏡を皇位につかせよという人騒がせなご神託を持ち出したのか。
つらつら思いを巡らしながら以下の4パターンを考えました。
➀道鏡本人単独
➁道鏡・称徳天皇共謀
➂道鏡を皇位につかせることで何らかの利をえる後援会
➃何とかして道鏡を排除したい抵抗勢力
下宮

このあたりはたいへん良い雰囲気でした

ここから引き返します

下宮に祀られている神は、応神天皇、比売大神、神功皇后の3柱。
上宮の祭神とまったく同じです。
なにが違うのかというと上宮はそもそも国家のため朝廷のために建てたもの(それゆえ勅使門しかない)、下宮は庶民のために建てたもの。
世が世なら私なんぞはとうてい上宮には参拝できなかったということです。
➀道鏡本人単独
➁道鏡・称徳天皇共謀
➂道鏡を皇位につかせることで何らかの利をえる後援会
➃何とかして道鏡を排除したい抵抗勢力
まず➂は可能性がきわめて低いでしょう。成功すればなんらかの利が得られるとしても失敗したときに失うものがあまりにも大きい。下手をすると死罪、すくなくとも遠国への追放は免れません。
①が通説として信じられてきたもので、それゆえ道鏡は日本三悪人のひとりとされてきました。しかし私的には①は否定します、その理由を述べるまえに➁を検討します。
➁の道鏡・称徳天皇共謀ですが、もしそうであるならご神託をうけたうえで確認のためあらためて和気清麻呂を宇佐八幡宮に赴かせたのはなぜなのか。共謀しているのであれば称徳天皇がそのご神託を受け入れれば誰憚ることなく道鏡を皇位につかせられます。
もうひとつ腑に落ちないのは称徳天皇のあとをつぐ皇太子不在が問題になっているときに、なぜ一回り以上も年長の道鏡に白羽の矢を立てるのか。
こう考えてみると称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとしていたとは思えません。
それでは正反対のご神託をもちかえった和気清麻呂に激怒し、穢麻呂と貶めてまで遠国へ追放したのはなぜか。
そこで思い出すべきは清麻呂がうけたというご神託の「天つ日嗣には必ず皇諸を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」- この部分です。
「皇位にはかならず皇族を立てよ」- 皇位を道鏡に譲る気のなかった称徳天皇としてはこれだけですめば良かった。ところが「道に背くものはすみやかに排除すべし」- 寵愛する道鏡を排除せよとは、てめえ何言うてんねん、と激怒したのでしょう。
現実にこのあとも、道鏡は皇位にはつかなかったものの称徳天皇が没するまで法王の地位にとどまり天皇のそばに寄り添いつづけました。
さてそうなると首謀者は➃ということになります。その理由を説明すれば①でないことも自ずとわかります。
道鏡が称徳天皇の没後に左遷された下野薬師寺ですが、たしかに下野はいまの栃木県ですから当時としては遠国です。しかし下野薬師寺はずいぶん由緒ある格式の高い寺院です。
鑑真が苦難のすえ来日したのは、日本の僧に戒律をさずけ正式な僧侶にさせるためです。
鑑真和上は戒律をさずけるための戒壇をまず東大寺にもうけ(のちに唐招提寺を建立してそこに移す)、それだけでは足りないので奈良の戒壇を中央戒壇とし、東戒壇を下野薬師寺に、西戒壇を大宰府の観世音寺にもうけます。
左遷されたとはいえ、道鏡が赴いたのはその下野薬師寺の別当(長官のようなもの)です。
もし道鏡がみずからウソのご神託を奏上させ皇位を簒奪しようとしたのであれば、これほどの厚遇ともいえる左遷はありえないでしょう。それゆえ①は考えられません。
同時に、➃の抵抗勢力としては道鏡が首謀者でないことがわかっているからこそ死罪とか遠島への追放のような重罪には処さなかったのでしょう。称徳天皇の崩御により道鏡の権勢は失われたことだし、あとは遠国である下野にでも飛ばして人目のつかないところで隠棲してくれとでも考えたのではないでしょうか。
それでは最後に、➃の抵抗勢力の顔ぶれと、その面々が宇佐八幡宮ご神託事件を捏造してまで道鏡を葬ろうとした理由を(勝手に)推理してみたいと思います。
弥勒寺跡


神仏習合の時代にはここに壮大な寺院があった
日本には古来から日々の生活の中で人は自然を畏れ自然に感謝する、自然崇拝の(思想というよりも)習慣がありました。当初は気持ちのままに太陽や雨に手を合わせていたのでしょうが、やがて巨岩や巨木あるいは山そのものに祈りを捧げるようになります。教えられたのではなく、本能のうちにそこに未知の力を感じたのでしょう。
その未知の力を神の降臨ととらえ神への畏怖と感謝を体系化したものが(初期の)神道です。
一方の仏教は6世紀に渡来したもので、そもそもは学問です。その学問を苦学しておさめる、あるいは修行して会得することが僧侶のつとめでした。
(原始仏教ともいいますが)釈迦の説いた教えでは、煩悩から解脱した(解放された)ときに人は悟りの境地(涅槃)に達することができるとされています。
奈良仏教(飛鳥時代から奈良時代の仏教)は小乗仏教です。寸暇を惜しんで苦学し苦行したもののみが悟りの境地に達することができると教えていました。
これでは日々田畑を耕したり漁をしたり子供を育てたりしている民衆には縁すらありません。
このままではどれだけ寺院を建立したところで僧侶を育てたところで、仏教がひろまるには限界があります。
仏教を国教にしたい仏教関係者と、仏教信仰で人々のこころをひとつにまとめ中央集権をより強固なものにしたい朝廷とが考えたことは、神と仏を一緒くたにしてしまい同じように拝ませようという奇策でした。
これが神仏習合の発端です。(わたしの勝手な考えです)
それでは神仏習合はどのように成立してゆくのか。
神も苦しみをかかえており仏の教えで救いをえて仏になる、これを神身離脱といいますが、隼人征伐で殺生をしたことを悔いる八幡神が仏に救いを求めるという話はまさにこの好例です。
やがて仏が人々を救うために神の姿になってこの世にあらわれる、と考えられるようになります。仏が真の姿(本地)、神は仮の姿(垂迹)とするため本地垂迹説と呼ばれています。
神仏習合が、神にたいして仏が優位とする考えであることはあきらかです。
当時も神事にかかわる人たちのなかに、この考えにはげしく反発する人たちはいました。
しかし仏優位の神仏習合の考えを広めようとする人たちの後背には、法王として宗教界に君臨する道鏡がいます。
どうすれば対抗できるか。
神事にかかわる人たちにとってはご神託を捏造するのはお手のもの、だったかもしれません。
言うまでもなく、神事にかかわる人たち(しかも一部)だけで朝廷までも動かすことはできません。
では朝廷内に利害の一致する人たちがいたらどうでしょうか。
第48代称徳天皇の崩御により、第40代天武天皇からつづいた奈良仏教を庇護する天武系の血脈が途絶えました。
第49代光仁天皇は天智系の天皇であり、その第一皇子であった第50代桓武天皇は巨大化した奈良仏教(仏寺)の影響から逃れるように平安京へ遷都します。
さいごに和気清麻呂のことにも触れておきます。
称徳天皇が崩御し道鏡が左遷されるとさっそく中央へ呼び戻され、おもに河川工事などに非凡を見せ、桓武天皇のもと平城遷都にも尽力します。
そしていまは宇佐神宮の末社である護皇神社に、神として祀られています。
呉橋

勅使道と宇佐神宮境内をむすんでいた
【アクセス】レンタカーにて / JR宇佐駅から4km
【料金】拝観料無料(宝物館は有料)、駐車場1日500円
【満足度】★★★★☆






