太子町にて雨中の御墓参り

【大阪府・南河内郡太子町 2023.6.14】
大阪府の南東寄り奈良県との県境に太子町はあります。過去の歴史から言うと、大和に属するといえなくもありませんが、難波(大阪)と大和(奈良)の綱引きあいで大阪に引き込まれたということでしょう。
太子町になにがあるかと言えば、飛鳥時代の皇族の陵墓が点在しています。もっとも著名なところでは聖徳太子。また皇族ではありませんが、遣隋使として活躍した小野妹子の御墓もあります。

午前中に二上山に登り、「ろくわたりの道」をあるいて太子町に到着しました。

竹内街道

下ってきた二上山も雨雲に覆われ
竹内街道と合流したころには雨滴が落ちてきた
竹内街道にのこる常夜燈

竹内街道は飛鳥と難波をむすぶ、国(当時は倭国)によってつくられた最初の道、すなわち正真正銘の国道1号線ということになります。
もちろん当時の面影はありませんが、全体に瓦屋根の家が中心で、田園地帯も随所にひろがり、のどかな散策を楽しめます。
もっとも今日は、これから雨が本降りになるとのことゆえ、いそいで御陵巡りに向かいます。

孝徳天皇陵

小高い丘の中腹にある孝徳天皇陵

孝徳天皇(36代天皇)は見方によっては可哀想な方です。
まず頭に置いていただきたいのは、聖徳太子をはじめその時代に生存した用明天皇(31代、太子の父)や推古天皇(33代、太子の叔母)、敏達天皇(30代、推古天皇の夫)は皆蘇我氏の系統に入ります。
聖徳太子の皇子で、推古天皇の次の天皇と目されていた山背大兄王が蘇我蝦夷・入鹿父子の策謀で天皇即位を妨害され、ついには自害しますが、これはまだ蘇我氏一族内での内紛でした。

雨は本降りになってきました

その後全盛をほこった蘇我氏(蝦夷、入鹿)を殺害し、政権を奪ったのが中大兄皇子とそれに協力する中臣鎌足です。この政権奪取は結局のところ鎌足が藤原姓を賜り、その後の藤原家の勃興隆盛に繋がるのですから、蘇我氏をつぶして藤原氏が取って代わるクーデターだったと言えます。

太子町はマンホールの蓋も一味違う

このとき天皇位についたのが、孝徳天皇です。孝徳天皇は蘇我氏の末裔で(敏達天皇の孫)、急激に蘇我氏主導から藤原氏主導へと移行することをカモフラージュするために形式的に天皇位につかされた感があります。
ですから大化の改新はこの孝徳天皇在位中に進むのですが、孝徳天皇の活躍としてはあまり印象がありません。
やがて孝徳天皇は病没し、斉明天皇(中大兄皇子の母)の時代をへて、中大兄皇子本人が即位し天智天皇となります。

小野妹子

利長神社
神社横の長い階段をのぼると、
小野妹子の墓がある

小野妹子をウェブで調べると、よく「男性」と注釈がついています。
間違いなく男性です。
聖徳太子が生存していた時代に遣隋使のなかでも筆頭書記官のような役で隋へ赴きます。蘇我氏の家系ではないかとの説もあるものの定かではないのですが、一般庶民がおいそれと官吏のトップに取り立てられる時代ではないので、なんらかの繋がりはあったのかもしれません。

ところでこの小野妹子の御墓のあるあたりはたいへん雰囲気の良いところでした。

推古天皇陵、用明天皇陵

雨は降りつづきます

推古天皇(聖徳太子の叔母)と用明天皇(太子の実父)については、いずれ聖徳太子とともに詳しく書くつもりですので、今回は説明を省きます。

また雨で足元がずぶぬれになってきたので、この先にある敏達天皇(推古天皇の夫)の御陵は、申し訳ないですがパスします。

山田高塚古墳(推古天皇陵)
推古天皇陵の礼拝所
春日向山古墳(用明天皇陵)
用明天皇陵の礼拝所

叡福寺と聖徳太子御廟

叡福寺・南大門 / 正面奥に聖徳太子御廟がみえる

そもそもは聖徳太子の御墓があり、その墓守のためにたてた堂が叡福寺の起源とされています。
その後は聖徳太子の廟をまもる寺として、太子信仰の広まりとともに参詣者が絶え間なく訪れたといいます。

金堂
金堂から多宝塔を見る
聖徳太子御廟
太子廟窟偈 / 太子の遺言が書いてあるとか
太子廟から寺の境内を見る

拝観しているうちに雨はやみました。
ここから2kmほど北に位置する近鉄上ノ太子駅まで歩いて帰路につきます。

上ノ太子駅前には、お約束のように聖徳太子像がありました。

【アクセス】(二上山)~竹内街道に合流~崇徳天皇陵~小野妹子の墓~推古天皇陵~用明天皇陵~叡福寺・聖徳太子御廟 10000歩
【満足度】★★★☆☆