歴史に翻弄されつづけた名城・備中松山城

【岡山県・高梁市 2023.10.10】
そもそも臥牛山の4つの峰のなかで、大松山にその後の城の原形となる砦ごときものが築かれたのが1240年のこと。東(都)と西(西国)、北(山陰)と南(山陽)をむすぶ交通の要衝であったため獲ったり取られたりで次々に城主が代わり、そのたびに城郭は拡張されてゆきます。
戦国時代、三村元親により初歩的とはいえ石垣を積み上げた、大城郭に仕上がったようです。
元親は、その父・家親が勢力を拡大して行く途上で、宇喜多直家(秀家の父)に毒殺される過去があり、宇喜多憎しの一念で毛利氏の支援を受けながら勢力を回復し、備中松山城も奪還します。
ところがそののち毛利氏が、上方に魔王のごとくあらわれた織田信長の西下の防波堤の意味もあって宇喜多直家と同盟を結ぶと、激怒した元親は織田信長とむすび、結果として毛利氏と敵対することになります。
この決断は時期尚早だったようです。信長はまだ西国侵攻をはじめたばかりで備中まで援軍をおくる予定も余裕もなく、元親は孤立無援のまま、毛利氏の名将・小早川隆景に攻められ(さしもの隆景にも備中松山城は容易には落とせず、支城を落として包囲し周囲から孤立させ)、元親は自害します。
こうして備中松山城は毛利氏のものになるのですが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると毛利氏も減封、江戸幕府の管轄となり、一時期城番をおいたあと、池田長幸が6万3千石で入城します。ところが2代目の長常は嫡男(跡取りの男子)がないまま亡くなったため、幕府が定めた法により家そのものが廃絶、城を明け渡すことになります。

臥牛山へ

武家屋敷ものこる石火矢町の通り (10:30)
前方には臥牛山
登城口 / 石垣はどこまで当時のものか不明
登城口傍にあった案内板より抜粋

臥牛山をのぼる

石垣が残っているので当時から使われていた道でしょう
この石段も昔からあるものではないでしょうか
大石内蔵助の腰掛石

なぜここで忠臣蔵で知られる赤穂藩士の大石内蔵助が出てくるのか – – – 話を冒頭の備中松山城がたどった歴史に戻します。

改易された池田家にかわって水谷勝隆が入城します。この水谷家が藩主をつとめる時代に天守の建造などいまにのこる城郭が完成されたようなのですが、その水谷家も3代目が亡くなったあと嫡子がおらず、なんとここでも家の廃絶、城の明け渡しと歴史を繰り返します。

登城途中にあった案内板より抜粋

城の明け渡しといっても、必ずしも穏便にすむとはかぎりません。
明けわたす側からすると、明日から収入だけでなく住む家すら無くなるわけですから、ひと悶着あることは当然予想されます。そのひと悶着が戦闘にまで発展しないよう、宥めすかししながらなんとか無事に城から出て行ってもらうよう努める、なんとも割の合わない役回りがあります。
この水谷家が備中松山城から穏便に退去するよう務めた(務めさせられた)のが赤穂家で、そのさい家老のトップである大石内蔵助が乗り込んできたという次第です。
ここまでは記録にものこる事実ですが、内蔵助が登城するさい、どっこいしょとこの岩に腰かけて一息ついたというのは、さてどこまで事実なのやら。

備中松山城

この石垣の上が中太鼓櫓跡 (11:14)
広い曲輪があり先の方に櫓跡
ずいぶん上がってきました / 高梁市街を見渡す
前方の視界がさっと開け、石垣群が眼前に / ここは絶妙
小松山に造られた備中松山城の縄張図 / 案内板より抜粋
大手門跡を上がります
大手門をあがって振り返ると、この石垣群

自然の岩肌も利用した、この石垣群の姿には圧倒されます。
城好きの方はぜひ一度訪ねてみてください、そして自分の目でごらんください。

大手門からつづく土塀 / 右は三の丸
腰曲輪の石垣を巻くように上がって二の丸へ

二ノ丸、本丸、天守

二の丸から本丸に復元した対の櫓、現存する天守をのぞむ
もうすこし近づいてみます (11:34)
天守は2層2階と小さいが凝った造り

この天守は、全国に現存するわずか12棟の天守のひとつで、山城としてのこる唯一のものです。

ところで備中松山城が翻弄される歴史はつづきます。
明治の世になって廃城令が公布され、この城も払い下げられます。大抵の場合は更地にして公園にしたり、役所や学校など公共の建物が建てられるのですが、山上のあまりにも不便な場所にあったがため、そのまま放置されることになります。

天守2階には神棚があり、
1階には囲炉裏があります / 囲炉裏のある城は全国唯一
天守石垣より、本丸曲輪を見下す

この廃城を再生したのは、高梁中学校に赴任してきた一教師(信野友春氏)。60年の間に朽ち果てた城を最初は息子と友人、さらに生徒や地域住民の協力をえて、ついに市からの資金も得て復興させます。

二重櫓

本丸から二の丸へ下り、
石垣下を歩きます
すると、天守の後ろに二重櫓があります (11:57)

実際の行動としては、天守の裏に回るだけのことなのですが、大半の観光客は天守を見たら満足して引き返しているようです。
せめてこの二重櫓が見えるところまでは来てください。
ちなみにこの二重櫓も遺存する建物です。

奥へ進んでみる

垣間見える向かいの山の頂に、展望所がある

向かいの山にある展望所から、この備中松山城を遠望するのが一興だそうです。
まだ時間はあるし、途中にも石垣や大池、曲輪跡など見どころがあるので行ってみます。

ところで備中高松城にはその後も受難がつづきます。今回の難敵は、猿。
信野氏がはじめてこの城の朽ち果てた姿を見た時にも、天守など建物は猿の棲みかとなっていたそうですが、その後も文化遺産であろうがやりたい放題の猿には悩まされたようです。
いまは、なんらかの対策を講じているのか、【猿に注意】の看板こそ見かけましたが、猿は最後まで一匹も見ませんでした。

二重櫓後方につづく道をくだると、大規模な堀がある
石垣や土塁がのこる / 相畑城戸跡?
堀と土塁、曲輪跡
天神の丸跡
石垣修理のため、掘り出した石を整理していた
大池 / 馬に水を飲ませたり、洗い場として利用 (12:19)

橋をわたって向かいの山へ

ながい吊り橋をわたります
橋からの眺めはこんな感じです
高梁市街と、右寄り山上に小さく備中松山城が見える (12:33)

ここからの眺めはあまり大したものではありませんでした。
じつはここからの眺めが有名になったのは、雲海が出たときに、城だけがぽっかり浮かび上がり、たいそう幻惑的な風景になるそうで、晴れた日中ではこれぐらいで良しとしましょう。

【アクセス】JR備中高梁駅~石火矢町~登城口~中太鼓櫓跡~備中松山城(小松山)~天神の丸跡~大池~吊り橋~雲海展望所~(同じ道を戻る)~備中高梁駅、 19000歩、所要:4時間
【入場料】本丸と天守:500円
【満足度】★★★★★