余呉湖を一周して賤ヶ岳に登る

【滋賀県・長浜市 2023.10.14】
織田信長の存命中に、秀吉がみずから天下を獲ろうと企んでいたか否かはわかりません。しかし本能寺の変で信長が謀殺され、その報をうけて明智光秀を討つべく備中高松城から京へ駆け戻る段階では、すでに光秀討伐後の先のことまで考えていたかも知れません。
いずれ遠からぬ将来、信長軍団のなかで家臣最高位にある柴田勝家とは、どのような形になるにせよ雌雄を決する時がくる。

それから1年と経たないうちに、両者はいまの滋賀県長浜市に琵琶湖を背にし余呉湖を腹にかかえるようにそびえる賤ヶ岳とその一帯を舞台に、まさに天下分け目の大戦をくり広げることになります。

余呉湖一周、ただし徒歩

JR余呉駅前にあった案内板より抜粋

今日の予定ですが、余呉駅から時計とは反対回りに余呉湖を一周し、最北部にある登山口から山に入り、中川清秀の陣跡などを見ながら賤ヶ岳山頂へ。
賤ヶ岳リフトに沿うように下り、国道8号線かその脇道をあるいて木ノ本駅へ戻ります。

秀吉の軍は余呉湖の周囲と南側に陣を敷きます。北の堂木山、神明山あたりが前衛。東の山沿いには高山右近、中川清秀。賤ヶ岳には桑山重晴。いまの木之本駅の辺りに秀吉の本陣、その前の山麓には弟の秀長。

柴田勝家の軍はさきに進軍してきますが、余呉湖のよほど手前(北)で軍をとめ陣を敷いていました。中谷山、別所山あたりに不破勝光、前田利家。行市山に佐久間盛政。地図上の街道をさらに北へ上ったところに柴田勝家の本陣がありました。

駅からのんびり農道を歩きます (10:34)

このように陣を敷いたものの、お互い先に仕掛けた方が不利になると判断し、そのまま膠着状態になります。
戦線が動き始めたのは、信長の三男で柴田勝家と手を結ぶ織田信孝が岐阜城から出陣したとの報をうけた秀吉が、この場を秀長にまかせ自分は美濃へ信孝との一戦にむかった時でした。

これほど湖岸寄りを歩くこともあります


柴田勝家の甥にあたる勇将の誉高い佐久間盛政(信長の重臣・佐久間信盛とはまったく無縁)は、秀吉の本隊が美濃へ向かったこと、余呉湖の東の尾根沿いにある高山右近と中川清秀の陣が他にくらべて防御が弱いとの情報を得ます。
勇将とはいえ若いだけに盛政は逸る気持ちを抑えられず、さっそく奇襲を実行します。夜のうちに行市山から山伝いに余呉湖畔の北に出てきます。
それがちょうどいま歩いている辺りです。

いまは余呉湖の西岸をあるいています / 右端の峰が賤ヶ岳

そして今まさに歩いているこのあたり、余呉湖の西岸をその数8000の軍勢が松明(たいまつ)を消し、賤ヶ岳の敵陣に気づかれぬよう、音も消してひそかに進みます。

西南岸から北方向をみる / 中央の山あたりに勝家本陣があった
右の峰が賤ヶ岳
賤ヶ岳への登山口 / ここはスルーします (11:43)

佐久間盛政はわざわざ余呉湖を一周することで秀吉軍の陣を避け、細心の注意を払いながら進軍したのはわかります。しかし秀吉方も物見を怠るはずがありません。
現地をあるいて思ったのは、これほど近くの山に陣を構えながら、夜中とはいえ、むしろ夜中ゆえに8000もの軍勢がうごく気配に誰も気づかなかったのは不可解です。

右の丘陵の、先の方に高山右近、上に中川清秀の陣

ひとつの仮説を立ててみました。
戦線の膠着をきらった秀吉が、(タイミングよく)この現場をはなれて美濃へ向かい、柴田勢がそれをチャンスと攻めてくるのを、わざと誘ったのではないのか。

左に、中川清秀の陣へ直接のぼる登山口があります

中川清秀と高山右近の陣がある余呉湖東側の山に佐久間盛政が突っ込んだというのも、よくよく合戦図をみると異様です。
なぜと云って、ここは秀吉軍勢の真っ只中。北も東も南も敵陣、開いているのは西の余呉湖の湖面のみ、です。

ところで佐久間盛政はまず中川清秀の陣を襲撃したとされているので、この辺りから急坂をのぼり攻め入ったのでしょうか。

賤ヶ岳にむかって登る

北端までもどり、登山を開始 (12:29)
まず高山右近の陣跡
さらに山を上がります

盛政の軍勢は夜明けとともに中川勢に襲い掛かりますが、中川清秀も猛将として知られた強者ゆえわずか1000の寡兵ながら果敢に防戦します。
しかし高山右近勢がろくに戦うこともなく早々に敗走したため、ついには力尽き全滅。中川清秀も戦死します。

陣跡につくられた中川清秀の墓
一部とはいえ、土塁、その外側には犬走が残っている

さらに賤ヶ岳にむかって登る

このあたりは山道ではなく、遊歩道のよう

木の根元から高さ2mくらいまでビニール紐を巻いているのをときどき見かけますが、これはクマ対策。
クマが樹皮をはがして樹液をなめ、そのため最終的には木が枯れてしまうため、このようにピカピカひかるビニール紐を巻いておくと嫌がって避けるそうです。

それではクマ除けにビニール紐を身体に巻いて山登りをしたらいいのではないのかとも思うのですが、他の登山者に出会ったときに恥ずかしいので実行したことはありません。

猿ケ馬場 / 駆け戻った秀吉はここで陣頭指揮した (13:25)

勝利に酔った盛政は、勢いついでに賤ヶ岳の陣も奪ってやろうと目論みます。

ところがこの時すでに、柴田軍が奇襲をかけてきたとの知らせをうけた秀吉は、美濃方面へはわずかな抑えの兵を置き、自分自身は急転して賤ヶ岳をめざしていました。記録によると大垣から50kmの道程を5時間で駆け戻ったとか。
帰りの道沿いに兵糧、松明などを手配したゆえできたことですが、そのあまりの用意の良さに、あらかじめ秀吉が仕組んでいたのではないかと疑ってしまいます。

賤ヶ岳へは最後に山道らしい山道を登ります
余呉湖が見えました

賤ヶ岳山頂

賤ヶ岳山頂も陣跡が残っている (14:05)
山頂から余呉湖と周辺の山々をのぞむ
疲れた武人は柴田勝家の像 / 左下の町は木之本

秀吉が予測をはるかに上回るスピードで帰陣したどころか、山上に駆け上り間髪を入れず襲い掛かったため、佐久間盛政の全軍が敗走します。
いったん全軍の潰走がはじまると、いかに勇将であろうともう止めることはできません。
しかもここで前田利家の謀反。盛政の軍に襲い掛かることこそなかったものの、逃げてくる盛政勢にいきなり背をむけて山を下りてゆきます。

琵琶湖に突き刺さるように尾根がのびる山本山

賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉は、休むことなく越前まで勝家を追撃し、ついに勝家は北ノ庄城で自害して果てます。

これで秀吉は天下人への道に、王手をうったことになりました。

下山

リフト乗り場から山頂へのぼる道
こうして見ると、琵琶湖はほんとうに広い
九十九折の急坂を一気に下ります (14:35)

山を下りてから木之本駅までの3kmほどは結構長く感じました。リフト山麓駅からバス便があるようです。

【アクセス】JR余呉駅~(余呉湖を時計回りと反対方向に一周)~北の登山口~中川清秀の墓~猿ヶ馬場~賤ヶ岳山頂~リフト山頂駅~リフト山麓駅~JR木之本駅 / 23000歩 / 所要:5時間
【満足度】★★★★☆