九鬼海賊は船をつくり運送業をいとなみ食用油もつくった

【三重県・鳥羽市 2023.4.10】
九鬼嘉隆(くきよしたか)は、伊勢志摩を中心に活動する熊野海賊衆の一部である九鬼氏の11代目当主です。
ここでいう海賊衆とは強盗団としての海賊ではなく、自前の船で水先案内もすれば、物資も運び、要請があれば武器をもって戦の助太刀にもむかいます。すなわちガイドに、運送に、傭兵に、言うなれば船をもった便利屋です。そうでした、その船も自前でつくるので造船業もこなしています。
その九鬼氏のなかで、九鬼嘉隆が頭角をあらわしたのは織田信長の配下となり、長島一向一揆の鎮圧などに貢献したことによります。さらに摂津での石山本願寺との戦いでは、巨大な船体に鉄板をはって防御した安宅船をつくり、ろう城する摂津本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利水軍を完膚なきまでに殲滅し、これを機に本願寺側の抵抗は急速に衰えてゆきます。
本能寺の変で信長が横死してからは秀吉に仕えることになり、朝鮮出兵のさいには大型船をつくって水軍の総大将として出兵するなどの活躍をしています。なおこの時期に、南北朝時代からの遺構としてのこる城跡にあらたに鳥羽城の築城をおこなったようです。

豊臣家と徳川家の争乱のなかで九鬼氏も運命に翻弄されます。
関ヶ原の戦いにおいて嘉隆は九鬼家を存続させるため、家督をつがせた次男の守隆には東軍(徳川方)につかせ、隠居した自分は西軍(豊臣方)につきます。どちらが勝っても負けても、父か息子のどちらかは生き残れる策であり、これは信州の真田氏も同じことをしています。
もちろん勝ったのは東軍。嘉隆は自害しますが、嘉隆にしたがっていた末弟はのがれてのちに四日市に腰をすえ回船業をはじめます。さらに武士をすてて商売に精をだすのですが、当時四日市周辺に菜種が生えひろがっていることに着目し、油づくりをはじめます。
いま四日市に本社をかまえ、ひろくゴマ製品なかでもごま油を主に製造販売する老舗会社の九鬼産業は、そんなことで九鬼嘉隆をルーツにしているそうです。

鳥羽城・三の丸広場から

三の丸跡が現在の入口になります
現在の城跡の案内図 / 赤破線が当時の海との境目線
三の丸広場から石段を上がります
みごとな階段石垣が見えてきました
これが見たかった景色です、大満足
三の丸広場を見下ろす

城山公園(二の丸跡?)

二の丸跡?

案内板ではこの曲輪は城山公園となっていますが、三の丸から階段を上ってきて達し、さらに上ると本丸に到るわけですから、ここは間違いなく二の丸の跡だと思います。

びっくり! どうりで「公園」を強調したわけだ
二の丸の虎口ですが、この二の丸は「公園」なので勝手につくった造作だと思います

本丸へ

本丸へ向かいます
どの位置から見ても美しい階段石垣です

本丸

前方の石垣上が本丸
本丸をなす石垣は初歩的な野面積みですが、
一部に算木積みが採用されていたのは驚きです

石垣の組み方については下のサイトを参考にしてください。
https://shirobito.jp/article/554

さすがに本丸跡は広大です
本丸跡にのこる大井戸跡
発掘調査の成果について案内板が設置されていた
本丸から見わたす鳥羽の海

本丸を後にして

上がったのとは反対側から本丸を下ります
反対側からみた本丸を支える石垣
ここは三の丸広場からは裏側になります
この石垣も見逃さないように

【アクセス】近鉄中之郷駅から徒歩5分、鳥羽駅から徒歩10分 / 中之郷駅からあるいた場合トンネルをぬけると三の丸広場が現れます。そして目の前の階段を上るにしたがい正面の階段石垣の全貌が見えてきます。感動はヒトシオです。
【満足度】★★★★☆