歴史本でちょくちょく登場する足利学校を訪ねた

【栃木県・足利市 2024.5.21】
室町から戦国時代を掘りさげた歴史書や歴史小説を読んでいると、下野国(しもつけのくに)にあった足利学校のことがちょくちょく登場します。
当時の最高学府だったそうですが、小説だけでなく歴史書でさえ話を面白くするためか軍師を育成する学校として描かれ、なかでも出自のはっきりしない山本勘助がここで学び、武田信玄に軍師として仕えたと設定するものもあります。しかし史実としてわかっている範囲では、山本勘助は浪人ののち(足利学校にはまったく縁がない)武田家に仕え、武勇はすぐれており手柄もたて侍大将のひとりに取り立てられたようですが、軍略をたてて信玄に具申するほどの人物だったのかとなると疑問です。むしろ緻密とは反対に勘(かん)にたよって一か八かの行動をとるところがあり、そこから山本勘助➡山勘(やまかん)という言葉がうまれたとする説もあります。

足利学校の創設は鎌倉時代と言われていますが、その存在が世間に知られるようになったのは1430年ごろ関東管領・上杉憲実(のりざね)が足利の地に腰をすえ復興に尽力したことによります。それゆえ足利学校の名は足利氏がつくった学校ではなく、足利氏発祥の地にあった学校ゆえといえます。
※上杉憲実の5代ほど前の上杉某の娘が足利家に嫁ぎ足利尊氏の母となっており、その尊氏は上杉憲実のちょうど1世前を生きていました。
※のちに上杉と姓をあらため関東管領職につく長尾景虎(のちの上杉謙信)は憲実のちょうど1世紀あとを生きています。

足利学校

入徳門の奥にある学校門
学校門から入ると杏壇門
杏壇門から孔子廟をみる / 江戸時代の建物

憲実は儒教のつよい影響をうけていたため、この足利学校では儒学を学ぶことを基本にします。そのための孔子廟です。
また易学やのちには兵学、薬学なども教えるようになります。
その易学ですが、戦国時代前期くらいまで武将は出陣にさいして良い日和を易者に占ってもらうのが常でした。そこから易学だけでなく兵学も学んだ足利学校出のものを各国の武将が身近に抱えたことから、軍師の養成所と解釈されるようになったのでしょう。

方丈、庫裡(奥)
庫裡
学生の寮
室内の様子
方丈に上がり庭越しに孔子廟をみる

ここ足利学校の孔子廟や門は江戸時代に創建されたもの、方丈や庫裡、寮など自由に見学できる建物は中世風に昭和から平成にかけて復元したものです。

足利氏館

堀越しに足利学校を見ながら歩くと、
すぐにべつの堀越しに足利氏館が見えてくる
太鼓橋と南の楼門(山門)

平安時代末期に清和源氏の流れをくむ源義康がこの地に定住し、足利の姓を称したのが足利氏の始まりとされています。
その義康がここに堀で囲まれた方形の居館をかまえたのが、いまにつたわる足利氏館です。

太鼓橋から

その後、2代目が敷地内に大日如来をまつる持仏堂をたて、さらに3代目が伽藍を整備して氏寺としたため、いまでは敷地内はそっくり鑁阿寺(ばんなじ)の境内になっています。

本堂へ
経堂
多宝塔
鐘楼
足利尊氏像

足利氏館(跡)は、堀と土塁を残すのみですが、鎌倉時代の武士の居館の姿をいまに伝える貴重な遺構として、日本百名城に選定されています。
貴重な遺構であることは認めるにしても、なぜそれが日本百名城になるのかは疑問です。

ところで足利氏館のむかいのビジネスホテルに宿泊していたのですが、そのホテルの裏側に駐車場があり、毎朝晩レンタカーを出し入れするため、道路わきにぽつんと立つこの像をいつも横目に見ていました。
これこそ足利尊氏の像だったのですが、場所は住宅地のなか、公園とよべるようなものはなく狭い空き地の一角、しかもその空き地の脇は住民のゴミ置き場で、ある朝には早朝からカラスにつつきまわされ像の足元まで袋から引き出された生ごみが散乱していました。
どうみても足利尊氏はご当地のヒーローとは思えません。
(この続きは新田氏の金山城のブログへ)

【アクセス】JR足利駅から徒歩10分~20分
【入場料】足利学校:480円、足利氏館(鑁阿寺):無料
【満足度】★★★☆☆