戦艦大和のふるさと呉をたずねる
【広島県・呉市 2024.9.2】
戦艦大和は連合艦隊の旗艦となるべく昭和16年(1941)12月16日竣工。
その8日前の12月8日に真珠湾攻撃をおこない太平洋戦争が始まっているので、これは大和が就役できる日をまって開戦したと見るべきでしょう。
それほどの期待のなかで生まれた超弩級戦艦の大和でしたが、欧米ではそのころ航空機による戦闘が主流となっており、大和が主戦で活躍することはほとんどありませんでした。
世界最大を誇る46インチ砲にしても、戦場ではその巨大な砲身が火を噴くことさえほとんどなかったと記録にはあります。(すくなくともこの46インチ砲による戦果は、大本営発表を除いてはまったく記録されていません)
その後はただ動かすだけでもオイルを大量に喰うからか、あるいは巨体ゆえに目立って標的にされやすいからか、国内のドックや戦場海域の港湾で停泊していることが多く、大和ホテルと揶揄されたりもします。
大和の最期は、沖縄への海上特攻(天号作戦)のため出撃し、沖縄のはるか手前の鹿児島坊岬沖で米軍の空母から出撃した戦闘機の猛攻にあい撃沈します。
一言でいえば、まったく役立たずの無用の長物であったわけですが、数々の批判や中傷を浴びせられながらそれにかかわらず多くのファンがいまもいることは事実です。
それではなぜ大和は無用の長物であったにもかかわらずこれほど人気があるのでしょうか。
大和ミュージアム
大和ミュージアムの展示品でまず目を奪われるのは、1/10の大きさでつくられた戦艦大和の模型です。
大和ミュージアムの正式名称は、呉市海事歴史科学館。
それゆえ戦艦大和のことだけでなく、呉造船所の成り立ちから戦艦の製造工程、技術の紹介、さらには敗戦後の呉の街の復興の様子なども教えてくれます。
歴史の見える丘へ
戦艦大和の最期の海上特攻の際には片道燃料だけで出撃したというのが通説になっていますが、これは誤りです。
たしかにそのころ(戦争末期)には国内のオイルの貯蔵が底を尽きかけており、しかも特攻ゆえ戻ってくる可能性もほぼないので軍首脳部は片道燃料だけと指示したようです。
しかし現場の人たちはその命令に従うことを良しとせず、タンクの底にのこるオイルをさらって集め、計算上は往復できるだけの燃料をつんで送り出しています。
大和は当時の技術の粋をあつめた、いうなれば戦艦建造の集大成のような存在でした。その大和をむざむざ海の藻屑にしてしまうことは、現場の人たちにとっては耐え難いことだったのではないでしょうか。
残念ながら大和は鹿児島沖で撃沈されます。しかし敗戦後、のこされた設計図や生き残った技師の証言からその技術が受け継がれ、戦後復興だけでなく技術大国として日本が躍進する上でおおいに貢献することになります。
戦艦大和のマンホール蓋
呉市には戦艦大和をデザインしたマンホールが12種あります。設置場所の紹介とともに、全12種を掲載します。
①は大和ミュージアムの入口前の歩道上ですぐに見つかります。
②はわかり難いのですが、①のある歩道を東に向かって歩くと宝橋に達します。その橋の手前の、進行方向に向かって右側の草地のなかに埋もれています。
③~⑩の8枚は、呉市立美術館の南をとおる美術館通り沿いに、西(坂下)から東(坂上)にむかって、この番号順に並んでいます。
⑪⑫は、美術館通りから北東へ2kmほど離れた小丘上にある長迫小学校、その正門付近にふたつ隣接してあります。
【アクセス】JR呉駅から徒歩圏内
【入場料】大和ミュージアム:500円
【満足度】★★★★☆