武田の海津城は真田の松代城へと移りかわる
【長野市 2024.11.6】
武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。
山本勘助についてはその実存さえ疑う意見もありますが、信玄が謙信との戦闘を有利に進めるためここに城を築いたことは事実で、もっともはげしい戦いとなる第四次川中島合戦では武田軍がいったんはこの城に入って戦端をひらく機会をうかがったと記録されています。
武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。しかし信濃の地というのは国衆とよばれる地元の小勢力が、武田氏や上杉氏ら戦国大名に従属しながらも自立して群雄割拠するところで、たいへん統治の難しい土地だったようです。
豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田昌幸の長男、信繁=幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。
城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。
二ノ丸南門から入る
二ノ丸
徳川家康と、豊臣家の永続をねがう石田三成との間で風雲急をつげついに大合戦(関ケ原合戦)が始まろうとしたとき、真田家では父子3人のあいだで家族会議がもたれます。
徳川につくか豊臣(石田)につくか。
このときどちらが勝者になっても真田家が生き残れるよう父子でふたつに分かれたとされていますが、もうすこし事情があります。
長男信之は家康から高く評価されており、家康自身が重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女としたうえで正室に娶らせていました。一方の次男信繁(幸村は後世につけられた名で、本人は名乗っていません)の正室は大谷吉継の娘・竹林院。
これだけなら長男は徳川へ、次男は豊臣へと容易に察しがつきます。それではなぜ父昌幸は次男とともに豊臣に従ったのでしょうか。
本丸
ここからは個人的な想像です。
真田昌幸はその武略の才だけでいえば信玄や謙信に劣らなかったと思います。しかし昌幸は天下どころか信濃を支配することすら望まず、出身地の村とその周辺の数郡を安定して占有することに専心します。自分には軍才はあっても自力で大大名になるほどの大器ではないと悟っていたのでしょうか。
同時に並外れた軍才をもつゆえに、このたびの合戦では徳川が勝利することも見通していたかもしれません。
兄の信之は文武に優れているだけでなく性格も実直で、いわゆる出来のよい優等生タイプです。
きっと信之が(勝利するであろう)徳川についておけば、その家臣となって末永く真田家を残してくれると計算したことでしょう。都合のよいことに信之は徳川家と縁戚関係を結んでいるのですから、おまえだけは徳川につけと言われて嫌というはずがありません。
これで真田家の存続は保証されたようなものです。
真田家の当主として生き残るために武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と主君をつぎつぎに変え、表裏比興(ひょうりひきょう)のものとそしられながら生き抜いてきました。
いまこそ誰のためでもなく強いて言えば自分自身の冥途の土産がわりに、一世一代の大戦をやってやろうではないか、そのためには(勝利するであろう)徳川に一泡吹かせてやろうか、そんなことをおもい不敵な笑みを浮かべたに違いありません。
北不明門
徳川家康は関東から上方(関ヶ原)にむかうに際して従える10万の軍勢を二手にわけ、元豊臣方の武将たちはまとめて東海道を西進させ、徳川本隊は嫡男の秀忠の指揮のもと中山道を西へと行軍します。
ところが中山道の途上では上田城にたてこもる真田昌幸・信繁父子が待ちかまえていました。秀忠と徳川本隊3万7千、たいする真田勢わずか3千。ところが昌幸の巧妙な戦略と信繁の果敢な挑発に翻弄され、徳川の大軍勢は事もあろうに関ヶ原合戦に遅参するという大失態をおかしてしまいます。
長国寺
一方の信之ですが、冒頭でも書いたように関ヶ原合戦ののち加増転封されて松代城へ入城。その後は明治維新まで10代にわたって領主として存続し、さらに維新後も華族に叙せられ名門真田家として生きつづけます。
【料金】松代城城郭、長国寺境内のみは無料
【満足度】★★★★☆