天王山で山崎城を探索し、光明寺で紅葉狩り

【京都市・大山崎町~長岡京市 2024.11.28】
天王山には過去2度登ったことがあります。
山頂には秀吉が天王山の戦いで明智軍を撃破してのち本城とするためにつくらせた山崎城がありました。秀吉は主君であった信長の先見の明に触発されたのか、天下を治めるためには摂津の地に海に面して城を構えることが最良と考えていたようで、いずれは大坂城をつくることになります。
その前段階でつくらせたのがこの山崎城ということになります。

信長が徹底して一向宗の総本山である摂津の石山本願寺をつぶそうとしたのは、その地にみずから城をかまえる構想があったからで、信長の第一の子分であった秀吉には継承するという意図もあったかもしれません。それゆえ山崎城はあくまで「仮の本城」「暫時の本城」であったはずです。
ところが山崎城を巨城と表現している記述をしばしば見かけます。仮の、あるいは暫時の本城が巨城であるはずがありません。
これは確認しておく必要があると、あらためて天王山に登ることにしました。

天王山をのぼる

JR線の踏切越しに天王山を見る

一般にば天下分け目の戦いと言えば天王山の戦いのように伝えられていますが、実際には天王山において干戈を交えたことはなく、その山麓の東側、淀川沿いの平地で戦いはおこなわれました。
それゆえいまでは土地の名前から山崎の戦いと改められつつあります。

宝積寺の山門を入り
三重塔を横に見て
本殿横の山道を登ります
なかなかワイルドな登山道です
秀吉の活躍を描いた屏風絵風の陶板画

天王山へはいくつかの登山道がありますが、この道は「秀吉の道」と名づけらています。
道沿いには、秀吉が中国大返しで畿内へ駆けもどり明智光秀を討伐して天下取りの足がかりをつくる活躍を、陶板画を順に並べることで解説しています。
内容は思いっきり秀吉びいきです。

展望所から合戦のあった一帯を見わたせる
合戦時の両軍の配陣
十七烈士の墓
幕末の禁門の変でやぶれて自刃した尊王攘夷派の墓
途中にある三社宮
酒解神社は産土神・牛頭天王を祀る
天王山の山名はこの牛頭天王に由来
ここからもう少し山道をのぼると山頂

山崎城

本丸にあたる曲輪、奥が天守台相当部か?
一段高く、天守台跡と思われる
天守台跡から下の曲輪をみる
天守台にのこる石垣跡
本丸下にある二ノ丸相当の曲輪
井戸は二ノ丸に続く小ぶりの曲輪にある
曲輪の外周にのこる土塁

山崎城に関してのこっており見られるのはこれだけです。
秀吉はこの城をつくっても腰を落ち着けることなく早々に大坂城を築かせていることから考えてもやはり一時的な本城であり、ここに時間と金をかけて巨城をかまえる必然性がありません。
「居城」を「巨城」と誤植したのではないかとさえ疑ってしまいます。

山崎城が巨城でなかったことは確認できましたが、これだけで下山して帰宅したのではあまりに物足りません。そこで小倉神社のある東方面へとくだり長岡京まであるいて紅葉の名所でもある光明寺を訪ねてみることにしました。

小倉神社にむかって下山

下山とはいっても山中をいったん西へ
それから東へと旋回するように歩きます
やがて遊歩道のような道を下ってゆきます
小倉神社
秀吉が合戦に先立ち戦勝祈願をしたとか、ホンマか?

光明寺

光明寺は昨年夏にたずねて、モミジの青葉が濃密に繁茂して木陰をつくるたいへん雰囲気のよい御寺と記憶していたので今回紅葉狩りのために再訪しました。
さきに結果からいいますと、青葉が3割、見頃が4割、変色または枯葉が3割、色づきが遅れているのではなくあまりに長びいた残暑のために紅葉も乱れてしまったということでしょう。
それでも人出は前回の100倍ほど。
※写真撮影についていえば、どこを撮ってもきれいといえるものではなく、部分部分で切り取るように撮影しました。またきれいな写真が撮れそうなところには必ず人がわんさかいて紅葉を撮ったのか人を撮ったのかわからない写真になりがちです。

総門
総門からつづく参道
参道
参道
観音堂で特別公開されていた秘仏
写真撮影可とけっこう大きな字で書かれていました
御影堂 /光明寺は西山浄土宗の総本山
御影堂から阿弥陀堂への渡り廊下
御影堂から阿弥陀堂
渡り廊下を歩きながら
釈迦堂へとくだる
わざとらしいなあ、と思いながらも1枚
勅使門
(前は人垣のため下部を切った)
出口へむかうモミジの参道
この参道がいちばん色づきが良かった
(ここも人が多いので見上げる写真ばかり)

【アクセス】阪急・大山崎駅~宝積寺~秀吉の道~山崎城址~小倉神社~光明寺~阪急・長岡天神駅 / 22000歩、5時間
【入場料】光明寺(秋の特別拝観):1000円
【満足度】★★★☆☆