鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城
【山梨県・大月市 2024.12.12】
小山田信茂は武田二十四将に数えられるだけでなく武田家とは縁戚関係もあった譜代の家臣です。
年齢的には主君の信玄が京で覇を唱えるための西上を目指すころがもっとも働き盛りで、浜松城で待ち受ける家康と徳川軍を打ちのめす三方ヶ原の戦いでは先鋒をまかされ戦勝後にはその武功を一番と評価されています。
信玄の没後には西上はとりやめたものの後継の勝頼が怒涛の勢いで周辺国に侵攻し領土を拡大してゆきます。
ところが対織田・徳川連合軍との長篠の戦いで重臣らの諫言に耳を貸さず強攻したことから惨敗、これがきっかけとなって武田氏は衰退の一途をたどることになるのですが、なぜ急速に衰退したかというと、落ち目の主君に従っていても将来に利するものがないと家臣らが見切りをつけ離反していったことが最大の理由です。
信玄の娘を正室として武田氏の親族衆となっていた木曾義昌、武田の姓をつかうことを許されていた一門衆の穴山信君(武田信君)らがつぎつぎに背き、見る影もなく弱体化した武田氏を壊滅させるべく織田・徳川・北条の同盟軍が甲州を圧迫してきます。
このとき外様ながらもいまだ武田家につき従っていた真田昌幸(幸村の父さん)が自身の居城のひとつ岩櫃城へ退去することを勧めます。ところが小山田信茂が自分の領地にある岩殿山の山上にある詰城がさらに難攻不落であることを理由につよく誘ったため、勝頼としては外様の真田よりも譜代の小山田の勧誘に従う気になったのでしょう、未完成の新府城を捨て岩殿城へと向かいます。
岩殿山


ところが小山田信茂は急に態度を豹変させ、岩殿城へむかう勝頼一行の進路をふさぎ一説では鉄砲まで打ちかけて追い払ってしまいます。その後の信茂の行動から察すると、どうやら岩殿城へと勧誘したときからすでに裏切ることを企図していたと思われます。
行き場をうしなった勝頼一行(この時点で妻や子供をふくめても40人程度)は彷徨うように西へともどり天目山にいたり、そこで織田軍の滝川勢に取り囲まれ近習が防戦して時間稼ぎをしている間に勝頼と妻子は自害して果て、ここに武田氏は滅亡します。
登城ではなく登山する










小山田信茂があらかじめ勝頼を裏切ることを考えていたと思われる証があります。
信茂はみずからの手で主君を討つことはなかったものの、信茂に裏切られ絶望のまま彷徨う勝頼一行が天目山で討ち果たされた報をえるとさっそく諏訪に陣する織田信忠のもとへ駆け参じます。労をねぎらわれたうえ恩賞、さらには家臣に取り立てられると期待してのことだったようです。
ところが父信長以上に卑劣な裏切りをきらう信忠は言語道断とばかりにひっ捕らえ本人だけでなく妻子までも処刑してしまいます。
こうして主家の武田氏が滅亡して半月足らずのうちに小山田氏も消滅してゆきます。
岩殿城





岩殿城は小山田氏の居城だったとの説もありますが、住居スペースがあまりにも少ないことからやはり詰城(籠城などにつかう最後の防御拠点)と考えるべきでしょう。
画像の右方向へ進んでみます。







小山田信茂の裏切りが卑劣であったことは弁解しようがありません。
しかし木曽義昌の織田氏への内応も、穴山信君の離反も、要は主君に対する裏切です。
結果は木曽義昌は信長から黄金を褒美として与えられさらに領土を安堵のうえ信濃にあらたに知行を与えられます。また穴山信君もあらたに知行を与えられ徳川氏の与力となっており、両者のその後の処遇と小山田信茂が家族ともども処刑されたことには大きな差があります。
鉄道唱歌をご存じでしょうか、JRの前身である国鉄の各駅をとり上げながら近郊の風物詩をおり込んで歌にした、明治時代に作詞作曲されたものですが、♪汽笛一声新橋を♪ではじまる曲と言えば思いいたる方も多いかもしれません。この新橋を歌ったものが最初の1番になります。
この鉄道唱歌のなかで中央線の15番は、♪川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し♪
奸党とは悪党のこと、言わずと知れた小山田信茂を指しています。
なにか小山田信茂に関して擁護でもしている記事はないかと探してはみたのですが、鉄道唱歌にまで悪党と歌われているのでは弁護のしようもありません。
【アクセス】JR大月駅~岩殿山畑倉登山口~岩殿山~岩殿城~往路をもどる / 2時間20分、12000歩
【満足度】★★★★☆