天下の堅城・小田原城は戦わずして落とされた
【神奈川県・小田原市 2025.1.8】
「小田原評定」とネットで調べると、AIが「会議や相談が長引いて結論が出ないことを意味する慣用句」と教えてくれます。さらに類義語として「押し問答」「水掛け論」といった負のイメージの言葉が紹介されます。
AIはしょせん人間が表示した情報を集積し分析するのですからAIの責任ではありませんが、この説明だか解釈だかは微妙に違うように感じます。
(鎌倉時代の執権をになった北条氏とは区別して小田原北条あるいは後北条といわれる)北条氏5代は、宗瑞(早雲)にはじまり、およそ100年にわたり氏綱、氏康、氏政、氏直と正統な後継者である嫡男がお家騒動もなく順当に家督をついでゆきます。
驚くべきは5代にわたって皆が非凡であること、しかも親(君主)が息子に幼少時から帝王学を説き、自分が君主として衰えの見えないうちから家督を譲って相談役に徹することを常としています。
二代目氏綱の代から北条氏の主城となる小田原城では、定期的におもだった家臣があつまり内政を中心に重要事項を合議により決定していました。この会合に出席するものを評定衆といい、小田原城で行われたゆえにこれが小田原評定です。
北条早雲とは伊勢新九郎のこと

小田原駅前にたつ像ですら北条早雲公と記していますが、本人が生前にそのように名乗った記録はありません。
室町幕府の政所執事をつとめる伊勢氏の出身で、本名は伊勢新九郎盛時が正しいのではないかとされています。
戒名が早雲庵宗瑞、この勇ましい馬上の姿はどう見ても出家者のそれではありません。
まして北条の姓はというと、氏綱の時代にれっきとした大名になり、西国の政所執事の姓では締まりが悪いので鎌倉時代に関東で覇権をにぎっていた北条氏の姓にあやかったものと考えられます。
新九郎は姉が駿河守護の今川義忠に嫁いでいたことからその今川家の家督争いに介入し、みごとに調停したことから名を上げます。
ふたたび争いが勃発したときにはあたえられた軍勢で反抗勢力を切り伏せ、その功で興国寺城をあたえられます。
このころまでは新九郎も幕府の家臣として幕府のために働いていたようですが、しだいに野心を抑えがたくなったのでしょう、将軍家の家督争いが起こると騒動の渦中にみずから兵をひきいて伊豆平定をなしとげ、ついに伊豆一帯の統治者におさまります。
ここから北条氏5代100年の歴史が始まります。
小田原城・早川口遺構

小田原城というと「総構え」。
小田原征伐と称し北条氏を屈服させるため豊臣秀吉が22万の軍勢をひきいて東進してきます。
そこで氏直は小田原評定をひらき、城だけでなく城下町もふくめた広大な土地を堀と土塁で囲うことで未曽有の防御を整えることを決めます。
小田原市のサイトによると、堀の幅は16m、深さ10m、内側には堀を掘ることで溜まる大量の土で土塁が盛られ、その総延長は9kmにも及んだということです。
まずは案内図の左下に見られる早川口遺構に寄ってみます。

ここには総構え時の虎口があったと思われる

馬出門、銅門、常盤木門
早川口から城郭の正面入り口にあたる馬出門橋まで1.2kmを歩きます。
ここではすべてを歩いて移動する方が、周囲9kmの総構えの巨大さが実感できます。






銅門は二ノ丸の表門


本丸と天守


この石垣は北条氏滅亡後江戸時代に組まれた

右手前に見える山上に秀吉が石垣山城を築いた
かつて小田原城は武田信玄に攻められたときも、上杉謙信に囲まれたさいも落ちることはありませんでした。
しかも総構えの規模と堅固さにおいてその時のものはいまより数段劣っています。
なぜ小田原城は秀吉に落とされたのか。
一番大きな違いは、関東東海周辺に同盟者として敵の背後から牽制してくれる味方がいるかいないか。
秀吉は小田原征伐の時点で全国をほぼ平定しており、北条氏に味方するか、そうでないまでも秀吉を敵と考え反抗する大名はほぼ皆無でした。

それは味方のなかにも劣勢を意識し、秀吉の軍勢に対抗することに消極的になるものがあらわれる負の連鎖につながります。
小田原城は総構えで堅固に守られていただけでなく、その周囲も山中城、韮山城、八王子城などを中心におよそ100にもおよぶ支城を張りめぐらしていました。そもそもが主城である小田原城に近づくことも困難であろうと評定衆は考えていたようです。
ところが1日2日で落ちる城はまだしも、戦わずして開城する城、みずから降伏して城をでて敵に与するものまで現れます。
北にのこる遺構








関東周辺の支城をことごとく落とし、秀吉率いる22万の軍勢が小田原城包囲のためぞくぞくと参集します。
支城をすべて失うだけでなく相模湾からの物資の補給の道も断たれ、いまだかつて見たこともないほどの大軍に囲繞され、沈鬱な空気のなかで重臣があつまって話し合いがおこなわれます。これは定例の評定(小田原評定)ではありません、いってみれば緊急会議です。
降伏もやむなしとするもの、城を枕に討死するまで戦うことを主張するもの、この正反対の主張で話し合いは長引きます。
なぜ長引いたかと言えば、根底には初代早雲から脈々とうけつがれた領民を思いやる心が、このときばかりは足枷なっていたのかもしれません。
早雲は自領の百姓に対しては「四公六民」、4割を年貢としておさめ6割を自分のものとさせる善政をしきます。そしてこの四公六民は北条氏5代にわたって守りつづけられます。
2代目の氏綱の代からは、「禄寿応穏」を家訓とし、禄(財)と寿(いのち)が応(まさ)に穏やかなように、すなわち自領の民が平穏に暮らせることを第一義とします。
これ以上戦さをつづければ死傷者だけでなく不幸になるものがふえるばかりゆえ早々に降伏しようとする意見、いやいや領土を奪われてしまえば秀吉は苛政で民を苦しめるに違いないと徹底抗戦を訴えるもの、いつまでも意見はまとまりません。
このとき決定をくだすのに長引いてしまったことが後世になって「小田原評定」と揶揄されることになります。
※小田原城からわずか1里たらずの笠懸山の山上尾根に、まるで小田原城下を睥睨するように石垣山城が築かれます。小田原側はその壮大な姿に圧倒されたのか、氏直が降伏して城を出たのは城の完成後まもなくのことでした。
このあと石垣山城を訪ねてみたいと思います。
【アクセス】JR小田原駅を起点に全体をざっと回るのに3時間
【入場料】天守閣:510 円、ほかにNINJYA館、SAMURAI館など有料施設あります。
【満足度】★★★★☆