秀吉は力の差を見せつけるために石垣山城を築いた
【神奈川県・小田原市 2025.1.8】
1589年(天正17年)11月、豊臣秀吉は北条氏宛の宣戦布告状をおくる。
1590年(天正18年)2月、西国から下向する本隊16万、越後・信濃から南下する北国勢4万、瀬戸内・志摩から水軍2万がぞくぞくと出陣する。
3月、豊臣秀吉は北条氏討伐の勅命をうけ、万全の態勢で小田原へ向かう。
小田原征伐の名のもとに北条氏を屈服させるべく秀吉が出陣した時点で、この戦の趨勢は決まっていたようなものです。
襲来する22万の軍勢にたいして迎え撃つ北条軍は5万数千。その数の差だけではなくこの時点で秀吉は全国をほぼ平定し終えているため、征伐軍をかく乱するため蜂起する北条氏にとっては救いの神となるような勢力はどこにもいません。おまけに小田原征伐自体が勅命を受けたものとなっており、征伐軍は官軍であり正義のために悪を討つ聖戦に仕立てられています。
北条氏は小田原城のまわりに100もの支城を築き防備をかためますが、ぎゃくにこれが災いした感は否めません。守る軍勢はぜんぶで5万数千、主城(小田原城)に1、2万を割いたとすれば他の城には200人とかせいぜい500人程度しか回せません。
200人で守る城に2万人の大軍が攻め寄せたとして、しかも相手は官軍です、あっさり降伏するものが続出したとしても不思議ではありません。
秀吉は4月初めには早くも箱根山に本陣をしき、北条氏の菩提寺である早雲寺に本営をおきます。
早雲寺


どうやら秀吉は箱根山に布陣するとすぐに石垣山城の築城にかかったようです。
縄張は黒田官兵衛によると現地の案内板に書いてありました。
80日間で造り上げたと伝えられています。複数の記録があるそうなので80日間という日数は偽りではないはずです。ほぼ人力であることを考えると、信じがたいほどの早業です。
入城する





この石垣を見てまず思ったことは、横幅にくらべて不自然に高さが高い。
さらに正面は立派な石垣を組んであるが、側面の石垣は手抜きしたかのよう。
どこか不自然で、なんだか映画のセットを見ているような印象です。




二の丸

左の高台が本丸


城郭を歩きながら思いました。
敵(北条方)は小田原城に籠城しており攻め寄せてくることはあり得ない、周囲の敵もすべて掃討したので襲来するものはいない、それなのになぜこの城をこれほど堅固につくり上げる必要があったのでしょうか。
本丸



この城は北条氏のこもる小田原城を落とすまでの「仮の住まい」的なものであったはずですが、本格的に石垣が組まれています。
本丸から小田原城方面を見わたして気づいたことですが、小田原城を見わたせる側は逆にいうと小田原城から望見できる側ということになります。
どうやらこの城の石垣、いかに小田原城側から見えるかを意識して造ったもののようです。
そう考えると、なぜ「仮の住まい」に天守まで造ったのかも理解できます。
巨大な石垣、そびえる天守、その威容を示すためでしょう。
井戸曲輪


石垣山城はぞくに一夜城とも言われます。
築城中は木立にさえぎられて小田原城からは作業の様子がわからないよう隠しておき、完成してから木立をいっせいに伐採することで突如その威容をさらす、するとそれでなくても籠城に疲弊しつつある北条方は衝撃をうけて戦意を失う、という戦略上の演出です。
北条氏側にもそのような記録が残っているそうなので、秀吉特有の大ぼらではなく、たしかにそうだったのかもしれません。
もしそうでないにしても、籠城の身で攻め手がすぐそこの山上に大石垣を組み天守をあげた豪壮な城を築きつつあるのを毎日見守りつづければ精神的に追い詰められてゆくでしょう。
北条方は石垣山城の完成を見て降伏する決断を下しました。
包囲する22万の軍勢もさることながら、東日本では見ることもない総石垣の城をわずか80日間で築き上げた秀吉の力量に圧倒されたのでしょう。
【アクセス】小田原城から石垣山城へは徒歩1時間弱、帰りは下りのため40分
【満足度】★★★★☆