北条氏の城特有の障子堀が見られる河村城
【神奈川県・足柄上郡山北町 2025.1.10】
二宮金次郎(のちの尊徳)はいまの小田原市栢山の生まれです。
金次郎の実家はそこそこの田畑を有し食べるには困らないレベルの農家でした。
いまの栢山もそうですが、当時(江戸時代末)の栢山村も富士山東麓を源とする酒匂川が村を北から南へ縦断するように流れており、金次郎の幼少時代に大規模な氾濫があり村の田畑はほぼ壊滅するほどの被害に見舞われます。
むかし小学校に必ずと言っていいほど設置されていた、書を読みながら薪を背負ってあるく二宮金次郎の像は極貧時代のこのころのものと思われます。
その金次郎は苦学と努力の末に今でいう農政家となり、地元の酒匂川の治水事業もふくめて国内の数々の村落を復興させます。
相模湾にそそぐ酒匂川の河口から上流へとさかのぼること20km、いまの足柄下郡山北町のやはり酒匂川沿いに河村城はあります。
じつは二宮金次郎は今回のブログの内容とはまったく関係がありません。河村城の地理的位置を説明するうえで印象にのこるものはないかと地図を見ているうちにめずらしい酒匂川の名が目にとまり、そこから金次郎にたどり着いたという次第です。
なお酒匂川は氾濫のさいの暴れぶりから川が逆流するという意味でむかしは逆川ともよばれていたそうです。
登城する

河村城は平安時代末期には前身である砦ていどのものが造られていたようです。
鎌倉時代にはもともとが平氏に味方していたため没落、室町時代は新田家にしたがい南朝に属したためふたたび没落、戦国時代に入ると早雲を祖とする後北条氏に侵略され、その後は相模、甲斐、駿河の国境にちかい要衝のため激しい争奪戦にさらされます。
いまのこる城址は、まずは武田軍の攻勢をふせぐため、つぎに秀吉の小田原征伐にそなえるため、改修に改修をかさねた結果にできあがったものと考えられます。






※障子堀については後ほどもっと明瞭なものが見られます


本城郭(本丸)、馬出郭





ここには当時も橋がかけられていたと説明板にありました。
もっと簡単で敵の来襲のさいにはすぐに落としてしまえるものだったのでしょうが、いまは公園になっている以上は安全のため立派な橋にせざる得ないでしょう。
橋本体を朱色に塗ったり橋脚を鉄製にしたりがないだけ好感はもてます。
連結する曲輪群



障子堀は北条氏の城にみられる特有の防御設備です。
堀切の底をさらに土壁をのこして区画をつくるように掘り、さらに細かく仕切ることで侵入した敵兵が横だけでなく縦にも動きづらくしています。
静岡県三島市の山中城にはじつに見事な障子堀が残っていますが、あまりにも整備されすぎており、しかもご丁寧にそこかしこに植木がならび、まったくの興ざめです。
ここの障子堀の土壁はずいぶん崩れ削られており、もうすこし隆起していたはずです。そのことを念頭にイメージしてみてください。


写真には映らないよう工夫していますが、大堀切の壁面を補強するため全面的にコンクリートで固めた残念な保存措置もあります。逆に馬出郭は樹林の中に埋もれまるで整備されていないといった矛盾するような箇所もあります。
そのためここ河村城の保存状況については賛否両論のようですが、個人的には楽しませてもらい小田原からわざわざ電車で訪れた価値はあったと思います。
ただし、城郭からすこし離れた場所に「富士山展望所」とわざわざ誘うポイントがありますが、わざわざ行ってみたところ「富士山のほんの一部が見える木立の切れ間」でした。
【アクセス】JR山北駅から登城口まで徒歩10分
【満足度】★★★★☆