会津戦争の遺恨を語るまえに、二本松城で考えたこと

【福島県・二本松市 2025.5.22】
福島県のほぼ中央に位置する猪苗代湖からすこし北東寄りに二本松城はあります。
室町時代に奥州管領かんれいに任ぜられた畠山某がこの地に居を構えたのが始まりで、のちに地名が二本松、城主も二本松と改名します。ただし城は近年まで霞ヶ城と呼ばれていたようです。
霞が城の歴史をなぞれば、福島県下の多くの城がそうであるように伊達政宗の飛躍でいったんは伊達氏に支配され、その後はおもに豊臣氏と徳川氏の天下をかけた駆け引きと戦いの結果として蒲生氏、上杉氏、加藤氏と目まぐるしく城主がかわり、やっと江戸時代初期に丹羽氏が転封されて落ち着き城も大改修されます。いまのこる石垣などの遺構はすべて丹羽氏の時代のものです。

とは言え、二本松城が歴史に記録される最たる出来事といえば戊辰戦争の後半にあたる会津戦争、そのなかでも激戦のひとつとされる二本松の戦いでしょう。
頑強に抵抗する旧幕府軍の中心的存在である会津藩を掃討すべく、長州藩と薩摩藩を核とした新政府軍は奥州へと軍をすすめます。まず目標となったのが白河城(白河小峰城 / 福島県南部の白河市)の奪還。
新政府軍は新式の兵器で圧倒し奪還に成功します。軍事的にも地理的にも白河城の確保を重視する旧幕府軍はいくども(計7回?)攻撃をくりかえしますが、火力の差はいかんともしがたくことごとく失敗に終わります。

このころ白河城は二本松藩の管理するところとなっていたため、藩からは大半の(現役)兵士がこの白河城攻城戦に出払っていました。
くわえて多くの旧幕府軍が駐屯する白河・郡山方面と、この二本松との中間に位置する三春藩が(一説ではずいぶんと腹黒い手段で)新政府軍に寝返ったため、援軍を断たれることになります。
ひたひたと攻め寄せる新政府軍。それに対して城を守る二本松兵はといえば、正規の兵士が不在のため農民と老人をあつめ、それでも絶望的に兵力が不足するため14歳以上の少年まで駆り集めます(実際には12歳の少年兵もいた)

二本松城

整備された石垣と箕輪門
城の案内図 / 二本松市公式ウェブサイトより抜粋
箕輪門正面にたつ少年兵の像
これほど立派な装備を整えていたのかは疑問です
箕輪門

正規の兵士がいないまま、最新式の連発銃や大砲をたずさえる新政府軍にたいして鎧兜に槍刀、わずかに火縄銃を所持する程度の農民、老人、少年がたちむかって勝てるはずがありません。二本松城は多数の死傷者をだし1日で陥落します。
戦禍そのものも悲惨でした。しかし二本松の戦いにいたるまでの経緯をふり返ると、釈然としないものもあります。

なぜ戊辰戦争が(京都の)鳥羽伏見の戦いから遠く奥州会津での戦いへと飛び火したのか。
佐幕派の筆頭であった会津藩を朝敵として掃討しようとする新政府軍(なかでも長州藩)にたいして、奥州越の諸藩が勘弁してやってくれと嘆願します。
ここで新政府は強硬派を押しとどめながら様子見したものの、恭順すると宣誓しながら軍備を整える会津藩の動きに不信感をつのらせついに強硬派を押しとどめることができなくなった。江戸時代末期に京都守護職をつとめた会津藩からさんざん弾圧された長州藩が恨みを晴らすため暴走した。会津藩に京都守護の名目で雇われていた新選組が討幕軍(新政府軍)と徹底抗戦することをつよく主張した。
いろいろ説はありますが、新政府はこの奥州越からの嘆願を受理せず、長州藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治を指揮官として奥州への派兵をきめます。
それに対して奥州越もかさねての嘆願を考えるのではなく、ならば迎え撃とうと全藩で同盟をむすんで抗戦準備に入っているのですから、両者ともに何がなんでも平和裏に解決しようとは考えていなかったのかもしれません。

三の丸

箕輪門をふりかえる
箕輪門より先 / 帯曲輪に相当する場所
虎口
下に見える虎口から坂をのぼる

そもそもが新政府軍とともに戦おうという奥州越列藩同盟が一枚岩ではありませんでした。さきに書いたように三春藩は早々に降伏(寝返り?)し、松前藩も戦う前に内部分裂で瓦解してしまいます。
二本松藩としては同盟しともに新政府軍と戦うことで、かりに敗れて藩が崩壊し領民が塗炭の苦しみをなめることになるかもしれないと逡巡することはなかったのでしょうか。
二本松藩は会津藩と隣接しています。また地理的には会津藩救援に積極的な仙台藩や米沢藩に囲まれるような位置にあります。しかもほかの3藩がすべて数十万石の大藩であるのに対して二本松藩はかろうじて10万石。
これで同盟に加わることを否というなら、藩士も領民も全員そろって土地を捨てるしかありません。

このころ10代藩主・丹羽長国は病に伏しており本人が二本松城に留まるとつよく望むものの家臣らがなだめすかして米沢へ避難させることになります。
これがアダとなりました。かたちとして領主が米沢藩に人質として押さえられているのと同じことになり、同盟を抜けることもみずから降伏することもできなくなってしまいます。
二本松城の戦いにおいては、降伏することは許されず、数少ない指揮を執るもの(武士)は生き恥を晒せないとさっさと自決してしまい、指揮官を失った農民兵、老兵らはやみくもに突撃して死んでゆきます。
少年兵たちも同様でした。10代半ばほどの少年たちが系統立てて戦うことなどできるはずもなく、会津の白虎隊は自決で果てましたが、これは形のちがう自決というべきでしょう。

三ノ丸から樹林下へはいる
一帯は公園として整備されている
土塁と堀切跡
城内路跡

会津には長州にたいする遺恨が根強くのこっていると聞きます。
長州藩兵は会津藩内へ押し寄せると略奪、強姦など乱暴狼藉を好き放題にやり、さらには会津藩士だけでなく領民の死体も埋葬することを許さなかったといわれています。
新政府の打ち出した命により、会津藩は領地をすべて没収され藩士は奥州の僻地へ追いやられ、なかでも青森県下北半島の斗南に移されたものは筆舌につくしがたい苦難を背負うことになります。

長州を糾弾する意見も数多あれば、長州を擁護する(結果として会津を誹謗する)意見もあります。
会津は戦争をつづける軍資金を確保するため蝦夷地(北海道)をプロイセンに売り渡そうとしていた、その暴挙を阻止するため新政府軍は会津掃討を急ぎ、かつ徹底した。
会津の藩主・松平容保かたもりは藩財政が困窮しているにもかかわらず自らすすんで京都守護職をうけ、領民にさらなる重税を課していたため新政府軍が会津に攻め込んだ際には領民はこぞって大喜びした。
会津藩士が奥州の各地へ飛ばされるに際して、上に書いたように藩士は領民から徹底的に憎まれていたためその報復をおそれて会津から遠い地へみずから向かった。

どの意見が正しく、どの意見が正しくない、あるいは捏造されているか、そういったことはわかりません。本やウェブサイトに書かれていたことを抜き書きしたのみです。

本丸

本丸の石垣が見えてきました
この石垣ははっきり再建となっているので、
見る影もないほどに崩壊していたのでしょう。
本丸曲輪
石垣の上から下界を見わたす

会津戦争に関する記事の読者コメントなどを読んでいると、長州を責めるのも会津を誹るのも、おもに郷土史家とか歴史研究家と呼ばれる人たち、あるいは地元の政治にかかわっている人たちが中心で、一般の人たちは歴史愛好家もふくめて、それほどつよく一方に偏った意見をもっているようには見受けられませんでした。

ところで。
二本松藩の藩主・丹羽長国は二本松城落城後に新政府軍から引退を命じられますが、藩の領土は半減されるものの5万石が残されます。また謹慎処分もわずか1年で解かれ、そののち子息の死去にともないふたたび家長となり子爵に叙されています。
会津藩の藩主・松平容保はというと、会津城陥落後は江戸に身柄を拘束されますが、家老の某氏が全責任を負って切腹、容保本人は子に家督を譲って引退、その子は斗南の知事となって赴任、容保は神社の宮司などの職をあたえられ明治26年没。丹羽長国と同様に子爵に叙されています。

釈然としないのは。
多くの藩士が死傷し、さらに多くの藩民が堪えがたきを耐えて生きた(あるいは死んだ)にもかかわらず、藩主がこれほどの厚遇でよいのか、なぜ子爵に叙されるのか。
さらに解せないのは、長州が、会津が、と厳しく糾弾したり擁護したりするジャーナリストとか先生とよばれる人たちが、私が目を通したかぎりではだれも藩主の処遇に異議を申し立てていないこと。
これも郷土愛のたまもの、なのでしょうか。

本丸の石垣をべつの角度からみる
搦手門へ
搦手門
補修されていない石垣
いかにも山城の風情

この日は朝から天気が悪く、強い雨に車のワイパーをハイスピードで動かしつつ向かったですが、到着すると同時に雨が上がり、散策しているうちに薄日が差すまでに回復しました。
雨に濡れた新緑がことのほか美しく、城郭の散策をいっそう楽しいものにしてくれました。

【アクセス】車にて
【満足度】★★★★☆